「り、理事長室っスか?俺も?なんで?どうして?」
熱戦の雰囲気冷めやらぬ練習トラックを背に校舎に向けて歩きながら、後輩が男に問う。
「お前の見学許可の条件だったんだよ。校内見学ののち、理事長室に顔を出せって。お前同伴で。わざわざ理事長個人のハンコまで押してあったんだぞ」
「えぇ…なんか怖いんスけど。俺なんかマークされてるんスか?」
「お前じゃねえよ。俺だよ」
男は後輩に最近の理事長との経緯を説明する。
右腕を怪我したこと、治るかわからないこと、この学園には装蹄師が自分しかいないこと、別の人間を手配するのに自分が辞める必要があるのではないかと思い、退職願を出したことをかいつまんで話した。
「はー…先輩、辞表叩きつけてる状態なんすか…よくそんな状態で俺呼んでくれましたね」
「電話の時に目の前にいたエアグルーヴが手引きしてくれたからな。辞表はまぁ…それが生徒たちの役に立つならそうしてくれ、って感じだったんだけどな。ちょっと俺も短絡的だったわ」
「…というと?」
「まぁ、その話はたぶん、このあと理事長室ですることになるだろ」
二人は理事長室に向けて校舎内を歩く。
陽は既に傾いてきており、陽当たりの良い廊下はオレンジ色に染め上げられつつあった。
「ここだ」
後輩に理事長室を示す。
重厚な扉に閉ざされたそこは、この学園の背負うものの重さを感じさせる。
「…お前、失礼な態度取るなよ」
男は真剣な表情で後輩に釘を刺しながら、ドアをノックする。
「んなことするわけないじゃないっスか!あぁ緊張する…」
後輩は果たして、この錚々たる学園の理事長室にはどんな貫禄の人間がいるのか、と身を固くした。
中からどうぞ、という声とともにたづなさんがドアを開けてくれる。
男と後輩は理事長室に入室した。
夕陽に照らさられて外を眺める理事長はシルエットとなり神々しく見える。
後輩はその後光の差す眩しさに目を細めた。
理事長はゆっくりとこちらに振り向いた。
「歓迎!君が装蹄師くんの後輩か!」
後輩は振り向いた理事長の姿に、ごくりと唾をのみ込んだ。
イメージしていた理事長像とかけ離れた姿に混乱する。
隣を見れば男は恭しく頭を下げている。
後輩もあわててそれに追従した。
男は頭を下げたまま、理事長に言った。
「今回は見学許可、ありがとうございました。また、先日は私の自覚が足りず、誠に申し訳ありませんでした!」
理事長は一瞬、驚いたような顔をした後、満面の笑みでうんうん、と頷き、頭上の猫がひと鳴きした。
応接セットで理事長とたづなさん、装蹄師の男と後輩が向かい合って座る。
「今日の校内見学はいかがでしたか?」
たづなさんがいつもの微笑みとともに後輩に問うた。
「…今まではひとりのレースファンとして外から見ているだけでしたが…彼女たちの生身の姿を観て、やっぱり年頃の娘さんたちなんだな…と印象が変わりましたね」
後輩がいつもの口調を封印し、外向きのしっかりとした話し方で応じる。
そのやりとりを理事長はにこにこと眺めている。
「質問!装蹄師は学園の生徒たちとどのような関係だと君の目には映ったか、教えてほしいっ!」
理事長は閉じた扇子でびしっと音がするような動作を繰り出し、後輩を指す。
突然の理事長の振りに、後輩は面食らう。
この独特な話し方の幼女を理事長として崇めるこの空間に馴染めていない。
「どのような関係…ですか。憧れのセンセイ、って感じですかね…このヒトの一日占有権懸けてのレースであの出走者って、ちょっとオカシイっスよ」
後輩は情報量の多いこの空間に対応することに脳のリソースが割かれ、受け答えが素に戻ってしまっている。
しかし理事長はそれを意に介す様子はなく、後輩の答えを腕組をして聞き、満足そうに頷いた。
「慧眼!私も常々そう思っていた!裏を返せばそれは、装蹄師がそれだけの仕事をし、その存在を以て彼女たちに大きな影響を与えているということだ!」
装蹄師の男は小さくひとつ、ため息を吐く。
「…私が浅はかでした。私は自分の腕でできることだけを考えていましたが…自分がこの学園に居る意味を、改めて考えさせられました」
男は渋面を浮かべて、認めざるを得ないという風体だ。
「…ここ最近の装蹄師さんの活躍は、単に蹄鉄に関することだけではありません。彼女たちの安全性の向上について大きな貢献をいただいています。仮に装蹄師の業務が難しくなっても、引き続き貢献いただける業務はあるのではないかと思います」
たづなさんはあくまでにこやかに告げる。
男は照れたように頷き、理事長とたづなさんに後輩を示す。
「…安全へのこだわりは、コイツとコイツの脚が気づかせてくれたことです。今日、この学園に居る意味を気づかせてくれたのも、そうです」
男は一旦言葉を区切り、後輩の脚を見る。
「なんとか私も装蹄師の業務に復帰したいと思います。多少時間はかかるかもしれませんが。それだけでなく、今日気づかされたことを糧に、自分にできることをする覚悟です。理事長、たづなさんには色々ご心配をおかけして、本当にすいませんでした」
男は改めて二人に頭を下げた。
理事長とたづなさんはホッとしたように表情を緩めた。
「もうこれは、必要ないな?」
理事長はどこからともなく装蹄師の男の退職願を取り出すと、畳んだ扇子を鋭く振り、真っ二つに切り裂き、にこりと笑った。
理事長の頭上の猫がまた、一鳴きした。
後輩の男は茫然と、その一連のやりとりを見守っていた。
理事長室を後にし、沖野からメッセージが入っていた店に向かう。
「理事長、姿はあんなっスけど…見えてるモノが違うって感じっスね」
道すがら後輩が呟いた。
「この世界においては得難い人物だよ、間違いなく。自らが必要と信じるならば惜しみなく札束でヒトを殴ってでも本懐を遂げるって話だ。しかもポケットマネーで」
後輩が感嘆の声を漏らす。
「やはり情熱がないとやっていけない世界なんすねぇ…」
後輩は何かを感じ取り、考え込んだようだった。
食事会の会場はトレセン学園からほど近い商店街の中にある個人経営の飲み屋、その2階と指定されている。
「俺も行っていいんスか?」
後輩は男にお伺いを立てる。
「イイも何も今日のだいたいの流れ、お前のせいだろうがよ。今さら何遠慮してんだ」
男は当然のように答える。
「せっかくなんだからお前がいつもテレビで見てるスターウマ娘にお酌でもしてもらえや」
「えぇ…いいんスかねそんな贅沢…俺もう今日、刺激あり過ぎていっぱいいっぱいなんスけど…」
店に着くと、店員の案内に従い男と後輩は二階に上がり、引き戸を開ける。
「お、やっときたか。こっちだ」
会場の奥から沖野が声をかけてくる。
座敷の小規模な宴会場のようなそこには、スピカとリギル合わせて総勢20名に近いウマ娘たちが入り乱れて詰め込まれており、既にわいわいと会食というよりは何かの宴会のような勢いで食事が始まっていた。
「おっちゃーん!こっち肉4人前追加してー」
男の登場に気づいたゴールドシップがすかさずおかわりをぶち込んでくる。
「あ、こっちもお願いします―」
別卓ですでに腹を膨らませ始めているスペシャルウィークもそれに追随する。
「…こっちは8人前、追加だ」
ナリタブライアンが静かに、しかし強い意志を持って告げてくる。
「わかったわかった。好きなだけ食えー。ほかの追加注文はこのお姉さんに言うんだぞー」
男は苦笑いしながら応じ、案内してくれた店員に追加発注を繋ぎつつ、自らのウーロン茶と後輩のビールの発注もついでに行う。
ひしめくウマ娘たちの尻尾を踏まないように慎重に歩み、後輩とともに奥のおハナさんと沖野が構える卓にたどり着くだけで一苦労である。
「しかし2チーム合同だと、ぎっちぎちじゃねえか」
男は苦笑いで沖野に告げる。
「ここは安くてウマ娘も満足する量が出てくる最高の店なんだぜ。急に言ったのに場所あけてくれたんだから、ちったぁ感謝しろよ」
ほどなくして二人の飲み物が届けられた。
とりあえずお疲れさま、と4人は乾杯した。
おハナさんと沖野は頬が血色良くなっており、既にアルコールの影響を受けつつあるようだ。
「…理事長のほうはどうだったの?」
座るなり、おハナさんは切り口上だ。
「理事長はなんでもないよ。俺が悪かったんだ」
男は経緯を説明し、腕の診断が出たタイミングで退職願を出していたことを明かし、そのうえで謝罪してきたことを告げた。
「はぁぁぁぁ?そりゃああんたが悪いわ。今日の野良レース観てもわかるでしょう。どれだけの娘があんたを頼りにしてるか!」
ガンっと手荒くジョッキを置きながら、おハナさんが吼える。
「だから悪かったって…理事長にも頭下げて、その場で退職願を斬られたよ、扇子で」
「どおりでルドルフの様子がおかしいわけよ…あとでちゃんとフォローなさいな」
目の据わったおハナさんに、男は口答えせずに頷いた。
「しかし今日は面白いもん見られたな。後輩くんも運がいい」
沖野は雰囲気を変えようと、後輩に話を振る。
「ああいうのって珍しいんっスか?」
「野良レースなんて滅多なことじゃやらないさ。トレーナー同士で意図して特定の相手と並走トレーニングとかはたまにあるが」
沖野はおハナさんをチラ見しながら話す。
「…なによ、またウチの誰かとの並走トレーニング狙ってるわけ?」
あまりご機嫌麗しくないおハナさんは沖野に睨みを利かす。
「そりゃあ天下の東条トレーナーの愛バさんたちから学ばせていただきたいことはたっくさんありますよ。今日のルドルフの精密なレース運びも、マルゼンスキーさんの機を見るに敏な走りも、うちの連中じゃあなかなか…」
滔々とお世辞、というわけでもないのだがおハナさんを持ち上げて見せる沖野。
「…それを全部、奇抜な演出でブチ壊してくれたのはそっちの奇才、ゴールドシップじゃないの」
にやりと妖しい笑みを浮かべながらおハナさんが応じる。
「(ノ∀`)アチャー。やっぱり?この天才トレーナー沖野サマが手塩にかけた愛バ、ゴールドシップちゃんだから!あいつほんっとに天才でしょう?伊達にルービックキューブ捏ねてないんだよなぁ!いやぁ褒められちゃうと照れちゃうなぁ~」
沖野は見た目より酔いが回っていたらしく、得意げにゲラゲラと笑いだす。勝負の結果はともかく、痛快にやってみせたゴールドシップを本当に誇りに思っているのだろう。
おハナさんは一人愉快になっている沖野の様子にイラつき、酔いながら怒りに震えだす。今にも手にしているジョッキを投げつけんばかりだ。
「おーう!調子乗ってんなぁトレーナー!誰が天才トレーナーだってぇ?」
ゴールドシップは音もなく背後から沖野に忍び寄り、腕を首に絡ませる。
「あぁぅっ…ご、ゴルシ…や…やわらかい…締まってる…締まって…る…」
ほどなく沖野ががっくりとこと切れる。
「ったく…天才を自称するならゴルシちゃんの作戦くらいきちんと授けやがれってんだよな。だから今日も勝ちきれねーで惜敗しちまったんだよ!いっつも好きに走れとしか言わねーんだからよ!」
鮮やかに締め落とされた沖野は、敗戦の怒りが収まらぬといった様子のゴールドシップにより軽々と部屋の隅に運ばれ、壁にもたれさせられてそのまま放置された。
それからは沖野が排除されて出現した空間に、かわるがわるウマ娘たちが訪れた。
後輩はビールに次いで現れた、おハナさんの今日の気分でチョイスされたらしい日本酒の熱燗に付き合わされ、加減を知らぬウマ娘たちから次々と注がれてしまい次第に酔い加減が加速している。
「エ…エアグルーヴさん、恐縮です」
後輩は今、女帝が隣に座り、徳利に並々と大人のハイオクを注がれている。予想通りの得難い経験、光景であろう。
「先生は酒が飲めないという話だが、学生時代もそうだったのか?」
「…先輩はですねぇ…ほかの大学の自動車部との合同飲み会で上級生から無理やり飲まされて、コマ劇前の広場で校歌歌いながらゲロぶちまける芸が有名でした…」
注がれたハイオクを勢いよく飲み干した後輩がエアグルーヴの質問に見当違いの答えを出力している。
「おいお前…」
止めに入ろうとするが熱心に正座をして後輩の話を聞くエアグルーヴが健気で、男は介入を諦める。
卓の対面ではおハナさんとシンボリルドルフが深刻そうな表情でなにやら話し合っている。
「…今日の敗因は自らの精神的な部分をコントロールしきれず、ペースの誤差を補正しきれなかったことにあります…」
「それでも目標タイムとの誤差0.9秒は大したものよ」
「コンマ1秒を争う身としては、見過ごせない誤差です。百連成鋼、これからもご指導よろしくお願いします」
美しき哉師弟関係。
今日の敗戦がよほど堪えていると見えるルドルフは、耳を弱々しくヘタらせたまま、おハナさんに酌をしていた。
男はしばらく座敷の様子を眺めたあと、煙草を吸うために一階に降り店の外へ出た。
かちりと煙草に火をつけて、一息大きく吸い込む。陽が沈んで冷えてきた空気が心地よく、煙草の旨味を一層引き立てるように感じた。
今日一日を振り返ると、実にいろいろなことがあった。
久方ぶりの後輩との邂逅、ウマ娘たちとのやりとりから、それらの結晶のようなレース。
それらを通して自分の役割に気づかされた。
今まではそれに近いことを感じることはあっても、敢えて気が付かないフリをしていたが、ここまでありありと形にされてしまえば、認めざるを得ない。
その証拠に、肘にはさまざまな、落書きというにはしのびない彼女たちの不器用な思いが書きこまれている。
治さなければ。
治して彼女たちの期待に応えなければ。
男はそう、自らの気持ちを改めた。
「隣、いいですか?」
いつのまにかそばに来ていたサイレンススズカに声をかけられる。
「あぁ。満足するまで食べたのか?」
男は煙草をスズカの反対側に持ち替えた。
「はい。たくさんいただきました。スペちゃんたちはまだまだ食べられるみたいですけど…」
そう言ってスズカは微笑む。
「…今日は、不甲斐ない走りで申し訳ありませんでした。先生に作ってもらった蹄鉄、今、すごく馴染んでて…いつもの通りのレースなら、負ける気はしなかったんですが…」
スズカは少し沈んだ笑みで、話してくれる。
「今日のルールじゃスズカにはちょっと不利だったかもな。スペシャルウィークにマークされて、しんどかっただろうに」
「スペちゃん、最近どんどん速くなって…私も負けていられないなって、いつも思うんです」
胸に手を当て、真剣な表情で心情を吐露するように話す。
「だからこそ、先生に作ってもらった蹄鉄で、秋のレースをしっかり勝っていきたいんです…毎日王冠、観に来てくれますか?」
男はそうか細い声で話すスズカの、どこか心細そうな姿を横目に認めて、こくりと頷く。
スズカは男の頷きにほっとしたように表情を緩めた。