装蹄師の男は自分の暮らす部屋であるにもかかわらず、全くもって自らの居場所を失ってしまっている現状について考えていた。
現在のリビングには今夜もともと泊まる予定であった後輩、古くからの付き合いである樫本理子、妹分として可愛がってきたルナことシンボリルドルフ、そしてルドルフの良き相方であり、なにかと世話を焼いてもらっているエアグルーヴがいる。
男は所在なく窓辺に寄り、薄く開けた窓から煙草の煙を吐きだし続けていた。
それにしても異質な空間である。
樫本理子は無表情を貫いており、エアグルーヴもいつもどおりの怜悧な表情を崩さずにいるのは後輩や理子がいるからであろうか。
そして一人、どす黒いオーラを隠そうともせずに不機嫌に鎮座ましましているのは皇帝、シンボリルドルフだ。
とりあえず来るもの拒まずの姿勢で、いや正確には拒んだらもっとややこしいことになるぞという後輩の助言に素直に従い部屋にあげてみたはいいものの、室温が数度は下がったかというような雰囲気を作られてしまっては男としてもどのようにこの場を回すべきなのか、判断がつかなくなってしまっている。
遂には部屋の隅でコンパクトに立ったまま、煙草で脳を痺れさせるという無意味な行動に身をやつすしか思いつかなくなっていた。
「…そうそう、エアグルーヴさん、今日は段取りいただいてありがとうございました。おかげでしっかり観戦できたっス」
この沈黙に耐え兼ねたのか、最初に口を開いたのは後輩だった。
「大したことではない。あそこはいつも空いていて、持て余しているようだったからな。レースを楽しめたのならなによりだ」
エアグルーヴは今日の後輩の観戦にあたって、後輩の身体を慮ってスタンド上部の多目的優先席席を手配してくれていた。
「いや、ほんと助かったよ。なんせ今日はヒトが多かったからなぁ…さすがの注目株対決というべきか…」
男もエアグルーヴに感謝を述べる。
しかしそれに対するエアグルーヴの反応は冷淡といって差し支えないものだ。
「…それはいいんだが…先生、その…いいづらいんだが、この状況を説明してくれないか…」
おそらく決意が必要であったであろう言葉を、さしものエアグルーヴもやや言いづらそうに、それでもはっきりと述べてくれた。
その言葉をきっかけに男は思いなおし、腹を決める。
「…まずは理子向けに説明するぞ」
いいか理子、良く聞け、と男は樫本理子に向き直った。
シンボリルドルフ、普段はルナと呼んでいるが、装蹄師の修行中からの付き合いだ。俺の師匠格の老公と、彼女の実家が懇意だった関係で、彼女が幼名で呼ばれていた頃からお互いを知っている。
俺にとっては…そうだな、妹のような存在だ。今や偉大な皇帝として君臨しているが、俺は今でもそう思っている。
エアグルーヴはルナの右腕のような存在で、うちの理事長が関係者を集めての合同研究プロジェクトの話をブチ上げた、あれの前段からの付き合いだ。最初はとっつきづらくて衝突したこともあったが、打ち解けてみれば情が深くて良いヤツだ。今日の後輩のこともそうだが、何くれとなく面倒をみてくれているような関係だ。
もちろん学園で装蹄師をしている以上だれかを贔屓したりなんてことはしていないつもりだ。だがとにかくこの二人にはとにかく世話になってる。
俺が熱で倒れたときも看病に来てくれたり、普段でも俺の食生活を気にしてくれて、夕飯を共にすることもある。今の生活では、彼女たちに大いに助けられているよ。
職員と生徒という関係からは逸脱してる部分があるのかもしれないが、まぁ、俺の手が後ろに回るような関係ではないことは確かだ。
「…以上だが、何か質問は?」
樫本理子はふぅ、と息を吐いた。
「…貴方、相変わらずですね…まぁそれが良いところでもあり、悪いところでもあり、ですが…」
公私の境があいまいになってしまっていることを悪いと言われるのは致し方ないが、とりあえず、納得はしてもらえたらしい。
後輩は皇帝、女帝というスター二大巨頭からのあからさまな好意を寄せられてもなお、こう言ってのける装蹄師の男の鈍さと境遇に、羨望と呆れの相半ばする感情とともにあんぐりと口をあけて眺めていた。
思わぬ形で装蹄師の男の中の自分自身を聞くことになったウマ娘二人は、率直に嬉しくもあり、自らが望むポジションよりもう一歩二歩足りていない男の中での地位とのギャップに苦しさも覚えて、複雑な感情を抱いている。
にやけるべきか顔をしかめるべきかわからず、静かに身悶えていたが、尻尾と耳の落ち着かぬ様子は隠しきれていなかった。
「今、丁寧に解説してくれたお陰で、この間のリギルとスピカの謎のタイムレースの報告書、謎が解けた気がしますよ…」
そういうと樫本理子は薄く笑った。
そこまで調べられていたか、と今度は男が苦い顔をする番であった。
一息入れて男は気を取り直し、居ずまいを正した。
「次はルドルフ、エアグルーヴ、お前ら向けの説明をする」
さきほどまで身悶えていた娘たちはその一言で、正気に戻り、耳をピンと立てて一言も聞き漏らすまいと姿勢を改める。
いいかふたりとも、良く聞け。
半年ほど理子と一緒に生活してたってのはこのあいだ聞いて、知ってるな?
俺が大学を出て、一時期おかしくなっていたとき、フラフラしていた俺を拾って社会復帰まで支えてくれたのが理子だ。
あの時がなければ俺は今頃その辺のホームレスにでもなっていただろうから感謝している。大恩人だ。
それからな後輩、ついでに言っておくが理子がウマ娘の子供がいるとかいう噂。
あれは理子がウマ娘の子を事情があって引き取ったからだ。実子とかではないぞ。
理子のとこで俺が世話になっていた時に、俺もその子たちと一緒に住んでたわけだ。うん、もちろん可愛がっていたとも。
その後俺は回復していろいろあって師匠格の老公に拾われて今に至ってるわけだ。
「…ふう…こんなもんか?なにか質問は?」
二人は男のあまりにもあけすけな説明に呆気に取られている。
気になっていた子供の件は、事情を聞けばさらに気になるところもあったが、樫本理子の平然とした様子を見る限り、事実のようだった。
「あ、俺、質問いいスか?」
思わぬ方向から来た質問に、男は思わずお前向けの説明じゃねーよ、と苦笑いをする。
「いやいや、理子ちゃんに養われるようになった原因って俺っすよね?まぁ今更それをどうのこうの言っても仕方ないんでそれは置いとくとしてもっスね…」
男は敢えて触れなかったところを当人からあっさり看破され当惑するが、どうやら聞きたいことはそれではないらしいことに安堵する。今そこまで触れていたらややこしすぎるし、いまさら詮無きことでもある。
「…結局のところ、理子ちゃんと先輩って付き合ってたんスか?」
安堵から一転、とんでもない爆弾を放り込むものである。
後輩はたぶんそれが一番聞きたいところっスよね?とエアグルーヴにアイコンタクトを取る。これは今日の礼だ、と後輩は思いを込めた。
エアグルーヴは少し驚いたような表情をしながら、目を伏せて肯定の意を返した。
男は樫本理子と視線が合ってしまう。
「そういう関係ではなかったと思う」
「そういう関係ではなかったですね、残念ながら」
残念ながら?
残念ながらって言ったか今?
男は理子と被った回答の中に添加された差異にやや動揺する。
「…知っての通り、私は虚弱体質ですし、事情があったとはいえ突然幼子を抱えて生活を回すのに苦労していたんです。だから、生活のための人手があるのは私にとっても渡りに船だったんですよ」
樫本理子が当時の状況を補足した。
男は引っかかるものを感じながらもそれを何とか飲み込んだ。
「まぁ…そういうことだから、俺は未だに清い身体だ」
動揺が収まりきらぬ男は要らぬ情報まで加えてしまっていた。
「先輩…その情報は要らないっス…」
後輩の無慈悲な一言がやけに大きく感じられた。
男は斯くして部屋の主権を取り戻した。
ここまで人数が集まったのだ、ピザでも取ろうなどという気回しをし、注文したものの到着まではお茶などを振る舞い、場の空気感を和ませようとする努力を忘れなかった。
古来から、空腹と睡眠不足は人もウマ娘も同様に機嫌を悪くする。
男はそのような原則に基づき客人の腹を満たしつつ和やかな場を後輩の力を借りて創り出し、どうにか気持ちよく解散させることに成功したのだった。
「まぁ…悪くなかった始末のつけ方だと思うっスよ。ただ、理子ちゃんはともかくあの娘たちはもうちょっとなんとかしてあげないと…しかし先輩モテるっスね…」
生徒会コンビを寮へ帰し、樫本理子をクルマで家まで送り届けたのちに戻った部屋で後輩からそのような助言とも羨望ともつかない言葉を送られ、男は無意識に眉間に皺を寄せた。
「そうはいってもなぁ…」
どうすればいいのかわからない、という風体で応じる男は、その態度からしても間違いなく清い身体の持ち主であった。
エアグルーヴはシンボリルドルフと別れ自室に戻り、夜のルーティンをこなしてあとは眠るだけとなった時、部屋に備え付けの机に向けて書き物を始めた。
最初は明日作成しようと考えていたレスキューウマ娘の実施報告をまとめる要点をメモ書き程度に書いていた。
しかし次第に、エアグルーヴの頭の中は男の部屋で起こったことの反芻に占められていく。
あのような形で、男の心の中の自分を語られるのは初めての経験であり、恥ずかしさが先行したが、聞いてみれば概ね好意的な評価であったのは安堵した。
それに、シンボリルドルフとまとめた形ではあったが「彼女たちに大いに助けられている」という表現。
今現在の自分は尊敬するシンボリルドルフと同じ土俵に立てている、そう確認するに十分な言葉であった。
すくなくとも、後手に回っているわけではない。
それを確認できただけでも収穫といえた。
それにしても、と思考の角度を切り替え、スマホを手に取る。
ロックを解除して表示されたそれは、今日の毎日王冠のニュース、レース後のサイレンススズカのインタビュー部分であった。
[サイレンススズカ、特注蹄鉄で天皇賞へ視界良好!]
そう見出しに打たれた記事は、サイレンススズカの言葉を文字起こしする形でまとめられていた。
「…学園の装蹄師の先生が作ってくれたもので、これまでのものより安心して走れます」
胸の奥がずきりと痛む気がした。
自分が宝塚記念で勝利していれば、この言葉は自分が話せていたのではないか。
そう思うと、宝塚記念の敗戦がより重く感じられる。
しかし勝っていれば装蹄師の男のクルマに乗せられて帰京することもなかったことを考えれば、負けたことが悪いことばかりとも言えない、そう思いなおした。
そして一瞬置き、そのような考えを抱いた自分に愕然とする。
自分は今、何を考えたのだ。
負けてもいいことがあった、と思ってしまった自分に気づいたのだった。
勝利への貪欲さを否定するような考えであるといえる。
負けていい勝負なんてあるはずがない。
走るからには勝ちに行く。
それが競技者としてのあるべき姿のはずだ。
自らの緩みと断定した感情を抱えたまま、エアグルーヴは憤然とノートを閉じた。
シンボリルドルフは一人、寮の屋上で夜風に吹かれていた。
兄に対して抱えていた疑問が氷解し、すっきりとした気分であった。
それにしても、人の来歴とはいろいろあるものだ、と改めて思う。
ここに来る生徒たちも人それぞれ、様々な生い立ちがありこの学園に来ている。
これまでは生徒たちばかりに意識が向いていたが、身近な大人である兄ですら、あのように複雑なものを抱えて現在に至っていると聞くと、そればかりでは視野が足りないのでは、と思わざるを得なかった。
学園は生徒だけで成り立っているものではない。
ここで働く皆を含めて成り立っている場所なのだと考えれば、どれほどの複雑に人生が折り重なっている場所なのだろうと考えさせられる。
そして自分もその中の一人だ。
「全く、兄さんはいつも新鮮なものを与えてくれる…さすがは私のせんせい、だよ…」
シンボリルドルフは自分に改めて聞かせるように、独り言ちた。