装蹄師の男は後輩を伴って東京レース場に居た。
ここに来る道中、街中には今年最注目ウマ娘であるサイレンススズカが刷られた広告があちこちにあり、その期待度の高さがまざまざとうかがえる。
装蹄師の男はターフを駆けるサイレンススズカが一際大きく飾られているレース場入口の壁面広告の前で立ち止まる。
(こないだ、この子が俺の指握ってたんだよなぁ…)
握られていた指を反対側の手で無意識に握り、ぼうっと巨大なスズカの横顔を見つめる。
思えば初めてスズカとまともに話して以来、ずいぶんといろんなことが変わっていった。
自ら変えた部分もあれば、周りから変わっていった部分もある。
それでも漫然と、特に誰に使ってもらうあてもなく手慰みに蹄鉄を打っていた頃から比べると、隔世の感すらあるほどに、男の世界は広がった。
そういう意味では、彼女に感謝する立場であろう、と男は思う。
そしてそれはどのようなことがあったとしても、何らかの形でこれからも続いていくだろうし、その中での失敗や挫折もまた、あるだろう。
それでも装蹄師の男は、サイレンススズカという稀代のスターに連れられるように、今までとは違う景色を見ることになるのだろう。
今日のレースはまだ、彼女の夢の途中。
それは装蹄師の男にとっても同じで、未だ頂の見えない装蹄師の道の途中であった。
「…なに感傷に浸ってんスか、先輩」
急にスズカの横顔を見上げて立ち止まった装蹄師の男を、その眼差しから何かを察して我慢強く待ち続けた後輩だったが、いい加減たまりかねて声をかける。
その声で現実に引き戻された男は、少し儚げに笑うと再び後輩とともに歩き始めた。
今回の観戦場所は後輩自らが手配し、男を誘ってきた。てっきりまた手配を頼まれると思っていた男はそれを伝えられたとき、いささか拍子抜けしたものだ。
曰く、いつも男やエアグルーヴに気を遣ってもらって手回ししてもらうのは気が引ける、とのことである。
「まぁちょっと、親のツテってのもあるんスけどね」
そういうと後輩はスタンド上部席へのエレベーターへ装蹄師の男を誘導した。
「…俺、こんな身体になっちゃいましたけど、悪いことばかりでもなかったんスよね」
ぽつりと後輩が言った。
「なんだかんだで親には世話かけちゃいましたけど、親父は結果的に俺が実家に戻って家業を手伝うようになって、嬉しかったところもあるみたいで。親なりに先輩にも恩義を感じてるところがあるんスよ」
後輩の両親とは数度会っただけだが、事故後に退院するときに、男が直接謝罪する機会があった。
だがその時でも後輩の父親は、装蹄師の男を責めることはなく、ただじっと男の謝罪の言葉を聞いていた。
そして装蹄師の男が頭を下げると、ぽん、と男の肩を叩き、一言、
「いいんだ。君もつらかっただろう」
とだけ言われたことが印象に残っている。
「…親父もこの間の先輩の蹄鉄関連の記事を見たみたいで、あの時の青年が立派にやってるんだな、って嬉しそうだったっス」
そんな経緯があり、普段から親父さんの会社が得意先の接待用に抑えているというボックス席を今回は後輩に譲ってくれた、という経緯らしい。
今日の府中、それも全体を睥睨できるスタンド上部の個室ボックス席となればとんでもないプラチナチケットである。
それを譲ってくれたという好意は、後輩の父が抱いている装蹄師の男に対しての感情を誤解する余地はなかった。
「ならば今日のお礼に、親父さんになにか考えないとな」
「なら、先輩が作った蹄鉄の失敗作でももらえたら嬉しいっスね。きっと会社の応接にでも飾りますよ」
さすがに失敗作というわけにもいかないが、自らの手のモノであればなにかは算段できるだろう。
男はそう考えながら、はるか下にターフを眺める4人用のボックス席へ腰を降ろした。
◆
今日の天皇賞秋ではついにG1レースでレスキューウマ娘が走る予定になっていた。
そのために、樫本理子は現場を仕切るURAサイドの人間としてレースコントロールが行われる管制室にいる。
「…一応、伝えておくべきかしらね…」
朝の準備が行われていく中、片隅に与えられた管制席で段取りを確認しながら、樫本理子は頭の片隅であることについて考え続けていた。
今週、天皇賞秋に走らせるレスキューウマ娘についてひと悶着あった。
G1という大舞台において彼女たちを走らせるにあたり、相応の経験を積んだウマ娘であるべきではないか、という問いかけが競技長よりもたらされたのだ。
具体的には、G2、G3に関してはG3出走経験があればよしとするが、G1に関してはG1出走経験がある者を求める、ということであった。
急遽、レスキューとして走らせるウマ娘たちについて戦績を再度精査し、出走レースを組み替えて対応することとしたが、メインレースであるG1、天皇賞秋を走らせるレスキューウマ娘3名のうち、どうしても1名が実績を持つものがおらず、埋まらなかった。
困り果て、トレセン学園に相談したところ、それならば私が、ということでエアグルーヴが立候補してきた。
彼女はこの制度の原案を作った存在であり、実際に企画を形にしていくにあたりウマ娘たちの教育や運用についてまで関わっており、なにより昨年の天皇賞秋の勝利者である。
これ以上はないほどの適任であった。
そのような流れで彼女をレスキューとしてエントリーしたところ、今度は別のところから声があがる。
現役かつ前年の優勝者がレスキューを走ることで、観客のレースへの集中が削がれるのではないかという意見だ。
それはそれでもっともな指摘ではあった。
改めて今日の朝、エアグルーヴたちと打ち合わせをしたところ、それならばメンコで顔を隠せばよかろう、ということになった。
エアグルーヴ曰く、レスキューはあくまで黒子であるべき存在で、レースに集中してもらうことは悪いことではない、という。
エアグルーヴ自身のプライドが高いことは方々から聞いていたが、目的のためならば己の存在すら消すことを厭わない姿勢に、樫本理子は彼女への認識を新たにした。
そしてひとつ、樫本理子が気になったのは、エアグルーヴの想い人であろう装蹄師の男に彼女が出走するという事実を伝えるべきかどうか、だった。
樫本理子の見るところ、あの男は旧知であるシンボリルドルフのみならず、エアグルーヴとも相当に深い関係を築いている。なにせ、ほかならぬあの男自身が理子に対して関係を説明したのだ。
問題は男自身がそれを自覚していないところであり、それはとてつもなく罪深いことでもあると女性である樫本理子は判断していた。
当然、エアグルーヴにしてみれば今日、彼女が走ることを装蹄師の男に知って欲しい、見てほしいと思うだろう。
一方で、彼女自身が言っていたように今日の主役はレースを走るウマ娘であり、さらに言えば装蹄師の男が精魂を傾けた蹄鉄で走るサイレンススズカに注目が注がれるべきである、とも言えた。
第三者である自分が伝えることは余計なお節介であるとも言えるし、エアグルーヴ自身が望んだものでもないのであれば余計にそう思えた。
それでも、と彼女の感情の部分はなおも訴え続けた。
鈍感なことこの上ない男の内面に自らの居場所を作ることに苦労した経験者である樫本理子は、エアグルーヴにも同じ様子を見て取っていた。
ならば彼女のために私ができることは、と思わざるを得なかったのだ。
結局、樫本理子は自分らしくないとは思いながらも、レース管制室の片隅でスマホを取り出し、装蹄師の男あてに簡潔なメールを送信した。
◆
サイレンススズカは与えられた控室にひとりきりで居た。
勝負服はテーブルの上に用意されており、各部のチェックを終えた。
蹄鉄を確認も兼ねて締めなおすため、シューズを持ち上げて改めて各部をチェックする。
控室に冷たい金属音が響く。
緩みもなく、キズや歪みもない。
昨夜磨き抜いた蹄鉄は、鈍い輝きを放って彼女に存在を示していた。
そっと指で、なぞる。
装蹄師の男の節くれだった指が思い出された。
心身ともに、これまでで最も良い状態。
加えて、自分のために造られ、最も自分に合った蹄鉄。
どこにも不安はない。
しかし不安がないことが逆に不安を煽るという状態でもあった。
先頭の景色を譲る気はないが、もしその神聖な空間を侵されたら。
以前の自分であれば、そこに大きなプレッシャーを感じていただろう。
今はその気負いがなくなったわけではないが、以前に比べれば軽い。
ファンの期待は肌で感じられる。
メディアにしてもそう。
そしてそれは自分を支えてくれる、数多の存在だということを感じられるようになっていた。
そしてその感受性を自分に与えてくれた男の鍛えた得物が、自らの手にあった。
瞳を閉じ、シューズごとかき抱く。
金属のひんやりとした冷たさが存在を主張し、その主張が反対にスズカの心の中はじんわりと暖まるようであった。
控室のドアがノックされる。
瞑目してのトリップから瞬時に目を覚ましたサイレンススズカは、はい、と控えめな返事をした。
失礼する、と声がして開いて入室してきたのは、レスキューウマ娘のユニフォームを身に着けたエアグルーヴであった。
その姿を見て、サイレンススズカは瞳を見開いて驚きを隠せない。
「レース前に済まないな。今日の天皇賞、私がレスキューウマ娘として走ることになった。一応、話しておこうと思ったのだ」
エアグルーヴはそう、スズカに告げた。
「…勝負服ほどじゃないけど、その衣装もよく似合ってるわよ、エアグルーヴ。今年は貴方と走れないのが残念だと思っていたけれど…」
にこりと、エアグルーヴに微笑む。
「エアグルーヴが後ろにいてくれたら、私も安心して思いっきり走れるわね」
エアグルーヴはそのスズカの微笑みにほっとしたように、口元を緩める。
そしてふと視線を下におろしたエアグルーヴはスズカが左手で自らの脚を撫でていることに気が付いた。
「…スズカ…その、左足になにか不安でもあるのか?」
エアグルーヴに問われて、サイレンススズカは初めて自分が無意識に自らの左足を撫でていることに気づいた。
「いえ、何も…」
口を真一文字に結んだエアグルーヴは真剣な表情のまま、スズカを見つめている。
「ホントよ?エアグルーヴは心配性なんだから…」
そう言うとくすくすとスズカは笑った。
エアグルーヴはため息をつき、それならばいいのだが、と呟きつつ、自分が神経質になり過ぎているのかもしれない、とスズカの笑顔をみながら身体に入り過ぎた力をリラックスさせようとした。
◆
「おやおや、ここにいたのかい。探しても見つからないはずだよ」
装蹄師の男と後輩のコンビに後方から声をかえたのは、アグネスタキオンだった。
「あ、タキオンさんこんちわっす。見学のときはありがとうございました」
後輩がタキオンに挨拶する。
「いやいやこちらこそ。あのあと君が送ってくれた紅茶はとても気に入ったよ」
どうやら後輩はあれからタキオンに紅茶の贈り物でもしたらしい。さすが、こういうことには如才ない男である。
「なんだ?俺たちのこと探してたのか?」
「なんだとはご挨拶だねぇ。これだけ一緒に知恵を絞った仲間じゃないか。その帰結を仲間と一緒に見届けようと思うのは当然のことだとは思わないかね?」
アグネスタキオンはいつものねっとりとした言い回しで装蹄師の男に詰め寄る。ハイライトの無い昏い瞳は男を冷たく見据えていた。
婉曲に表現されてはいるが、要はなぜ自分も誘ってくれなかったのだ、と言いたいようだった。
「タキオンさん、どうぞここ座ってください」
後輩がタキオンに席を勧める。
「いいのかい?悪いねぇ助かるよ」
そう言ってタキオンはさらりと自らの居場所を確定させた。
男はなおも拗ねた表情をこちらに向けているアグネスタキオンの視線を流し、コース全体をぼんやりと見つめていた。
スタンドからの歓声が聞こえる。
メインレースはまだ先だが、今日のレースプログラムが走り始めたのだ。
「なぁ…タキオン」
装蹄師の男は、視線はコースに向けたまま、ぽつりと呟いた。
「なんだい?」
タキオンは男の横顔を見つめた。
無表情に遠くを眺めるその姿から、なにかをうかがい知ることはできない。
「…俺たちは精いっぱい、できることをやったよな?」
問いかける男の声に、アグネスタキオンはかすかに、縋るような響きを感じ取った。
「…精いっぱい、やったとも。不安なら、君の右腕に聞いてみるといい」
男はそれを聞いて、たまらず目を閉じた。
アグネスタキオンのその言葉は、どこか慰めるような響きが含まれていた。