トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課の下っ端研究員である男は、学園の敷地内片隅にある寮に暮らしている。
築年数は相当古い建物だが鉄筋コンクリート造りのしっかりとした建物で、内外装ともにこまめにメンテナンスされている為、言われなければそれほど古さは感じさせない。
駐車場も一室に1台分ついていて、寮費は光熱費込みで2万円でおつりがくる安さ。
大学の学費を半分ほどを返済が必要な奨学金で賄った彼にはこれ以上ない好待遇といえた。
しかもかれの自室は歴代喫煙者に割り当てられる部屋らしく、中は綺麗にリフォームされているものの、彼の室内での喫煙も咎められないという願ったり叶ったりの環境なのであった。
そしてその部屋で下っ端研究員の男は明日が休みなことを良いことに、静まり返った夜の伴として持ち帰ってきた資料をゆっくりと煙草を吸いながら眺めている。
このところのライフワークとなっているサイレンススズカ、シンボリルドルフ、アグネスタキオンの日記を見つけたことに端を発する当時の研究は、進捗に難渋する局面に陥っていた。
整理してみてわかったのは、やはり当時は良くも悪くもサイレンススズカの時代であったということだ。
現在でも、彼女の名前はトゥインクルシリーズにおいて伝説とともに燦然と名を遺している。
彼女の名声が高まったのは金鯱賞から続いた連勝と、頂点を極めんとする当時最強と謳われたメンバーがこぞって出走してきた毎日王冠での圧倒的な勝ちっぷりにある。
そして続く天皇賞秋での劇的な敗退。
これは当時、相当な衝撃をもたらしたらしく、メディアも相当騒いだことが伺える。
実はトップを快走中にに左足大腿骨に軽いヒビが入ってしまったらしく、それに気づいた彼女は後続も来ていたためにスピードを徐々に落としつつゴールまで運んだ、ということがのちに明らかになっている。
その後彼女は治療と休養を経て、翌年の宝塚記念から戦線に復帰した。
続く毎日王冠、天皇賞秋からのジャパンカップという前年に描いていたローテーション通りに出走し、そのすべてで完璧な勝利を掴んでみせ、彼女の名声を不動のものとした。
特に今でも語り継がれるのは、その年最後、そして国内最後の出走となったジャパンカップである。
前年に引き続き参戦したスペシャルウィークとのチームスピカ同門対決となったこのレースは、今でも伝説として語り継がれている。
下っ端研究員はノートを読み返し、煙草をひと吹かしする。
それにしても、である。
継続して残っている週刊誌、月刊誌を中心に読み込んで当時の世相をイメージしているのであるが、どうにも妙なのである。
金鯱賞からの連勝、そして天皇賞秋へと駆け抜けるサイレンススズカは、間違いなくスターであり、メディアの扱いもそうなっている。
そして敗退、故障という道を辿る彼女は悲劇のヒロインとして伝えられ、休養に入ってからは本人や周囲の意向もあってか動静を伝える情報はぱったりと途絶える。
それでも昨年の快進撃と圧倒的な強さを忘れられないファンからの投票が集まり、宝塚記念へと選出され、彼女はトゥインクルシリーズに復帰する。
しかし復帰した際のメディアでの取り上げられ方が不自然に少なく、穿った目で見ればまるでヒールのような扱いなのだ。
それは怪我の後、極端にメディアへの露出を嫌うようになった彼女の姿勢によるもの、という部分もあるだろう。
それでも、まるで求道者のようにストイックに走り続け、ついぞその年は一度も先頭を譲ることなくジャパンカップまでを駆け抜けた彼女は、ついぞこの年メディアの取材に公式の場面以外で応えることなく、アメリカへと戦場を移してしまったのだ。
まるで彗星のような存在だ、と下っ端研究員は思う。
そしてなにが彼女をそうさせたのか。
肝心の日記は毎日王冠の後あたりで途切れており、倉庫をいくら探しても続きは見つけられていない。
日記から得られた情報は、おそらく彼女はあの打ち棄てられた工房で造られた彼女専用のオリジナル蹄鉄を履いており、それで毎日王冠を勝ったこと、そしてレース後のインタビューでそのことを話したこと、まで。
心情も少なからず日記に綴られていたが、不鮮明でうまく読み砕くことができずにいた。
「…うーん…」
下っ端研究員は唸り、煙草を吹かす。
インプットは十分なはずなのに、何もアウトプットできないのは大抵、なにか見落としているからなのだ。
彼は自分自身にそう言い聞かせ、気分転換に散歩に出ることにした。
夜の学園は静かだ。
ゆっくりゆっくりと、これまでのインプットを検証しながら歩く。
トレセン学園は広大な敷地を持ち、散歩道には事欠かない。
気分を変えるために、下っ端研究員は舗装が整備された校舎方面ではなく、あえて裏の雑木林のような敷地を歩いていく。雑木林の中も舗装はされていないがある程度整備されており、ところどころに街灯もある。何も不自由はなかった。
考え事をしながら歩くうち、気が付くと下っ端研究員は、引き寄せられるように打ち棄てられた工房の前にいた。
なんとはなしに眺めるその工房に、微かな違和感を感じた。
(…明かりが…灯っている…?)
入口の引き戸のすりガラス、その奥に薄っすらと明かりが灯っているように見える。
周りを見回すが、特に反射しそうなものは見当たらない。
下っ端研究員は意を決してその引き戸に手をかけ、ゆっくりと開いた。
中を覗くと、奥の作業机のあたりに誰か座っており、すっと立ったウマ耳の片方がこちらを向く。
「…誰だ?」
聞き覚えのある声の誰何がある。
下っ端研究員は名を名乗った。
「…なんだ、貴様か…」
声の主はひょんなことから知己を得ていたエアグルーヴ理事長である。
「…見回りにしては、ラフな格好だな」
下っ端は明日が休みなのでちょっと夜の散歩を、と言葉少なに告げた。
エアグルーヴ理事長はこんな時間であるというのにスーツでビシッと決めており、作業机のあかりだけを灯して椅子にゆったり脚を組んで腰掛けていた。
がさり、と机の上の袋が音を立てる。
そこには理事長のイメージとは不釣り合いなコンビニの袋と、その中に入った発泡するアルコール飲料が3本ほどあった。
「…まぁ折角だ。少し付き合え」
理事長は下っ端に、対面にある錆びついたパイプ椅子を勧める。
今にも崩れそうなそれに腰をおろすのは勇気が要ったが、理事長自らハンカチで座面を拭いてくれたとあれば座らぬわけにもいかなかった。
下っ端の男が座ると、見た目に違わぬパイプ椅子はギシリと軋んだ。
エアグルーヴ理事長はほのかな灯りの中で、下っ端の男に袋の中から缶を一本差し出した。
うやうやしくそれを受け取ると、缶を開ける。
カシュっと気の抜ける音が開栓を告げた。
缶を軽くぶつけ、静かに乾杯の仕草を取った。
「難航しているようだな」
うっすらと浮かび上がる魅惑的な唇を潤すように一口飲んだあと、エアグルーヴ理事長は問いかけた。
「…サイレンススズカを軸に追っていたんですが、どうにもわからなくて」
下っ端研究員の男は素直に口にした。
「スズカか…彼女の当時の記録では捉えづらいだろう」
エアグルーヴ理事長はさりげなく、作業机の隅にあった灰皿を差し出してきた。
ありがたく煙草に火を点ける。
「なんというか…怪我をする前と後で、まるっきり別人になってしまったような印象ですね」
下っ端の男から見てエアグルーヴはあかりを背にしており、表情がうかがいづらい。
耳飾りの小さな蹄鉄が耳の動きに応じて時折、きらりと光を男にもたらしてくる。
「…その印象は間違っていない。なぜそうなったのか、あたりはついているのか?」
それがまだよくわからない、と正直に答える。
サイレンススズカが現役を引退してから、彼女の競走ウマ娘としての生涯をまとめた本は何冊も出版されていた。
手に入る範囲で数冊読んではみたが、研究員の男としてはどれもしっくりくる内容ではなかった。
それらの書籍には、サイレンススズカは初めから内向的で気難しく、ほとんどメディア対応をすることがなかった、とされていたからである。
「…理事長は、サイレンススズカさんとは友人関係でしたよね?」
探るような様子で研究員の男は問う。
エアグルーヴは耳をぴくり、とうごめかせた。
「あぁ…友人だ。戦友と言ってもいい」
エアグルーヴ理事長は消え入りそうな小さな声で、呟いた。
その力のない様子に下っ端研究員の男は二の句が継げず、煙草の煙だけが立ち昇っていく。
「…ひとつ、ヒントをやろう」
ごくり、と大きめの一口を飲み下し、エアグルーヴ理事長は告げた。
「トゥインクルシリーズのレギュレーションの変遷と、当時のURAのプレスリリースを調べてみろ。そこに手掛かりがある」
ヒントにしてはいやに具体的だな、と研究員の男は思ったが、言われてみれば盲点であった。
いつの時代でも一次資料は最も重視すべき情報ソースだ。
これまで世相を追うためにメディアが出していた二次資料を中心に当たっていたが、誰かを媒介した情報というのは媒介者の主観が少なからず入り込み、編集され、時にどうしたらそのようになるのか、という論調で世に出されることがある。
下っ端研究員の男は考えを巡らせ、ひとりでうんうんと頷いていた。
「そこを調べて、貴様なりの見方を私に提出しろ。出来次第では、次のヒントを与えてやる」
それだけ言うとエアグルーヴ理事長は缶の残りを飲み干し、立ち上がった。
「…たまには気楽に話すのも良いものだな。次に会う時を楽しみにしているぞ」
それだけ言うとエアグルーヴは袋に一本残ったアルコールを男に押し付け、優美な尻尾を上機嫌に揺らし、ヒールの踵の音を響かせながら工房から退出していった。
下っ端研究員の男は新たな煙草に火を点け、出されたヒントを解く手順をゆっくりと整理した。