後輩の男は、自らの会社が入るビルの屋上で煙草を燻らせている。
金曜の夜、既に社内に残っている人間もほとんどおらず、彼につけられている社用車の運転手兼ボディガードの若者も、帰してしまっている。
自身の席があるフロアにも喫煙ブースは設けられていたが、社内でそこそこの立場にある者が、金曜のこの時間に落ち着かぬ様子で煙草を吸い続けているというのも他の者に迷惑がかかる。
見栄を張るのも楽じゃないな、と肌寒さに震え出しそうになりながら、昏くなった空を眺めた。
会社が入るビルは昭和後期に建てられた自社物件ではあったが、周囲の再開発に取り残される形で埋もれてしまっており、屋上とはいえそう眺望は良くない。
建てられたばかりのころは線路を挟んで反対側にある丸の内界隈まで見通せたようだが、今ではせいぜいが数ブロック先の日本一地価が高い交差点のあたりの灯りが見える程度である。
すっかり冷たくなった夜風を感じながら、煙草を燻らせているのは、時間を潰しているためだ。
ある人物からの連絡を待っているからだった。
もう何本目かもわからない、次の煙草に火を点けようか迷って手持無沙汰な時間をしばし過ごした後、諦めて火を点けて一口吸い込んで吐きだすと、待っていた連絡が来たことをスマートフォンが振動して知らせた。
「遅くなりました。待たせてしまいましたね…」
URA本部の裏手に停めた後輩の男のクルマ、その助手席に乗り込んできたのは樫本理子だった。
「お疲れさんだねぇ、りこぴん。週末はゆっくり休めるの?」
後輩の男は樫本理子の虚弱といっていい体力を慮り、労う。
「…日曜はレース場に出ねばなりませんが、明日は一日休養に当てるつもりですよ」
後輩はそれを聞くと少しほっとしたように、息を吐いた。
「なら、すこーしドライブに付き合ってよ」
樫本理子を乗せたクルマは、右ウインカーを出してゆっくりと走り出した。
夜の都内を流しながら、後輩の男は樫本理子と話す。
クルマの中というのは不思議な空間だ。
面と向かっていると何を話したらよいかわからない相手であっても、車窓に向かい並んで座っていると、自然と会話が弾んだりすることがある。
後輩と樫本理子はそこまで気を遣う間柄ではなかったが、ここ最近起こったことを考えるならば、話題はあるが、お互いにどのように話したらいいか、距離感が掴みづらいところがあった。
心中に重たいものを抱えていた後輩は、今日は樫本理子と面と向かって話す勇気は持てず、仕事の後にドライブに付き合ってほしい、という口実で彼女を呼び出していた。
「いやぁ…仕事終わりに悪かったね。お腹空いてない?」
「昼食が遅かったので…大丈夫ですよ」
ちらりと助手席に座る樫本理子を見る。
無表情に車窓を眺める姿は、後輩の記憶にある大学時代の彼女と少しも変わりがなかった。
「今回のことさ…怒ってる?」
理子の表情からなにかを伺うことができなかったため、後輩は敢えて直球の質問を放つ。
「いえ、そんなことは。ただ、私が話したことがきっかけ…だったんでしょう?」
返してくる理子の言葉も直截的な表現だ。
後輩は否定せず、頷いた。
後輩の男は樫本理子から得た基本的な情報をもとに、自らの会社組織を使ってさらなる情報収集を実施、今回の動きをするための基礎的な環境を見出した。
そしてそこから、ぼんやりとしていた自らのイメージに具体性をつけ、URAの核である理事会へのアプローチ、トレセン学園とのバランス、世間への対処方針をつくりあげた。
それをもって、方針の定まらない理事会に先回りする形で装蹄所を新設するアイデアを要路にいるURAの人間たちに流し、実現性を探りつつ各所との調整項目、そのひとつひとつ物陰から意図する方向へ誘導するように支援して物事をコントロールしてきた。
しかし、すべてが意図通りに運んだわけではなかった。
その一番大きな部分が、学園の工房の廃止と装蹄師の男のURAからの退職を引き換えとせねばならなかったことだ。
後輩自身の計画では学園の工房の廃止は回避できなくとも、装蹄師の男の身分はURA所属のまま、装蹄所に異動する線で納めてもらう方向で調整していた。
しかし理事会はかたくなに装蹄師の男を排除することを要件から譲ろうとせず、結果的に妥協せざるを得なかった。
「理子ちゃんに縁切られても仕方ないようなことをした、とは思ってるんだよ、これでも」
トリッキーなことで悪名高い首都高速中央環状線を、それなりの速度で流しているにもかかわらず、樫本理子は全く恐怖を感じない。そのような運転技術をさりげなく発現させつつ、後輩は呟く。
「…あなたらしいというか…律儀ですね」
理子は言葉少なに答える。
結果的に今の形に収まったが、後輩の心の中には後悔という言葉では言い表せないものが鬱積していた。
あくまで結果論でしかないが、今回の結末を見るならば自分は装蹄師の男を売った、とも取れるからだ。
装蹄師の男本人からの感謝の念はひしひしと感じられた。形はどうであれ、彼の求めた彼女たちの為に蹄鉄を打ち続けたい、という要望は満たすことができていたからだ。
しかし彼と引き離されたあのウマ娘たちにしてみたらどうだろう。
呼び出された生徒会室で凄まれて委縮したわけではない。
だが、大人の論理に振り回された一番の被害者は、彼女たちではなかったか。
本来そこに居るべき庇護者から引き離された彼女たちの心細さはいかばかりか。
そこに疑問を持ってしまえば、この絵を描いた自分自身にも疑念をもたらす。
この画を描けたのは、尊敬している装蹄師の男の窮地を救いたい、という思いがあったことは間違いない。
しかし本当に自らを動かしたのは、URAに食い込むチャンスと見込んだ自分の我欲ではなかったか。
我欲があったからこそ、あのような絵図を描くことができ、それが資本の動員すら可能にした。
資本の論理、大人の政治を持ち込んだ結果を、幸せの総和を大きくすることなどという三文小説のような建前を付けて得意げになっていただけではなかったか。
後輩の心中にはそのような考えが澱のように溜まっていた。
「…あなたにできることをしたんでしょう、最大限」
樫本理子がそのような思考に囚われている後輩を察したのか、口を開く。
「…俺の力じゃないよ。カネの力、さ」
後輩は力なく呟く。
樫本理子は薄く、笑うような息遣いをした。
「随分と青臭いことを言うんですね。それも含めて、あなたの力でしょう」
僅かに、なにかを面白がるような声音で樫本理子は続ける。
「それに、見事でしたよ。突然現れたあなたの言う言葉にURAの上層部が続々と信頼を示し、あなたの提案を追認していく様は。まるで、魔法でも見せられているかのようでした」
後輩は苦笑する。
それを実現するための事前工作は、とても樫本理子の前で口にできるような内容ではなかった。
「まぁ…官僚上がりの年長者とコトを構えるともなれば、正面突破というわけにはね…いろいろと、手の込んだことをする羽目にはなったよ」
後輩の言葉の意図するところを樫本理子は理解し、心持ちは側溝の底を覗き込んだような気分になる。
「…で、さ。贖罪ってのとはまたちょっと違うけど…」
後輩の男は視線を前方に定めたまま、ドアポケットから書類を取り出して樫本理子に渡す。
「そんなことしていれば、まぁ…外に出たら良く燃えるような…いわゆる「薪」は、暖を取るのに困らないほどたくさん手に入るわけでね」
樫本理子は書類をめくる。
「あなた…これ…」
それは、後輩がURA上層部に対して施した裏工作の数々、それをまとめたものだった。
「俺、うちの業界でつけられてる綽名があってね…老舗の火付け師、って呼ばれてるんだ」
後輩は煙草に火をつけながら、自嘲気味に笑う。
「ごめんね、理子ちゃん。巻き込むつもりじゃなかったんだけど…。俺のできることはもう、このくらいしか思いつかなくて」
自嘲の笑みはいつしか、懺悔の表情となっていることに、樫本理子は気が付いた。
「…こんなものが世に出たら、あなただってタダじゃ済まないでしょう」
ざっと斜め読みをしただけでも、醜聞というくくりでも処理できるかどうか、というような内容が記されている。
「まぁ、それはね。でも、こちらは資本の論理が働く世界にいるもんで…まぁ、火傷くらいはするだろうけど、もみ消してみせるさ。でも…そっちの理事会は、どうかな?」
「…私に、URAを吹き飛ばしてみせろとでも言うつもりですか?」
後輩は笑いながら首を振る。
「そこまではさすがに。でも、組織の自浄作用ってものは機能するべきだとは思うんだよね。今、寂しい思いを抱えている彼女たちの未来のためにも」
薄く開けた窓に、後輩の吐きだす煙が吸いだされていく。
助手席の樫本理子はその煙の残り香を感じ、行方の知れぬかつての同居人のことを思う。
装蹄師の男の行き先は運転席に座る男に巧妙に隠されており、URAの内情に精通している樫本理子ですらアタリすらつけられていない。
全てを片付けても、彼が再び表舞台に立つことを望むかどうかはわからない。
彼を知る樫本理子が考えるに、おそらくそれは望まないだろう。
もとより名声には興味がなく、彼女たちを支えるために蹄鉄を打つこと以外にはおよそ人間としての欲を忘れてしまったようなひと。
樫本理子が装蹄師の男に抱く印象は、そのようなものだった。
「…この薪の使いどころは、任せてもらえるんです?」
「それはもちろん。一度に火をつけて盛大に燃やすも良し、一本一本じっくり使ってあちこちでボヤを起こすのも良し。任せるよ」
胃が痛むような気持ちで、樫本理子はため息をついた。
「大学で単位を落としそうになって泣きながら私に縋ってきていたあなたから、こんなお返しをいただくとは…人生はわからないものですね」
後輩はにやりとし、そして声を上げて笑い出した。
「本当に…その軽薄な笑い声は変わっていないのに…いや、変わっていないからこそ、ですね」
そうなのだ。彼に渡されたものは、彼が解き切れなかった複雑怪奇な数式、その残滓でもあるのだった。
車窓に流れる東京タワーを眺め、後輩の笑い声を聞きながら樫本理子は何かが足りない、と思った。
そうだ。
いつも一緒だった、装蹄師の男。
彼の声が足りないのだ。
そう気づいたが口には出さず、今日もどこかで鉄を打ち続けていたであろう装蹄師の男を思った。