残暑厳しい9月。
各チームが秋のレース戦線に向けて本格的に動き出す。
「シチー! アイネスに引き離されるな! お前の脚はそんなもんじゃないだろ!」
「分かってるってっ!」
「いくらシチーさんでも捕まらないのー!」
ダート坂で、アイネスフウジンと本番さながらのラストスパート特訓をするゴールドシチー。
来月の前半に京都大賞典を控え、トレーニングも気温が生ぬるく感じられるほどに苛烈さを増していた。
「カワカミはスタートが遅い! それじゃあ序盤からバ群にのまれるぞ! どこからでも絶好ポジションを取れるようにスタートを極めろ!」
「何度だってやりますわ! プリンセスは努力とど根性ですわよ!」
そしてカワカミプリンセスも来月にはトリプルティアラ路線最後のティアラ、秋華賞が控えており、ダブルティアラを狙いに行く。
彼女の後輩ダイワスカーレットが去年は秋華賞を獲った。
ウマ娘は学年関係なく、そのウマ娘にトレーナーが付き、4月からトゥインクルシリーズのキャリアがスタートする。
カワカミプリンセス自身、キャリアのスタートが遅くなって当初は焦りもあったが、今はそんなことを気にすることなく幸福を信頼して自信を高めていた。
―――
「休憩っ! パラソルに入って水分補給だ!」
午後14時になったところで、幸福は休憩を入れる。
この時間は一番気温が高いので、無理してトレーニングをするといくらウマ娘といえど体力の消耗が激しいのだ。
故に幸福はここからはこまめに小休憩時間を取り入れ、長時間のトレーニングを避ける。
「脚や体調に違和感があるやつは隠さず言えよー?」
幸福の声にみんなはしっかりと己の脚や体調に違和感がないことを確認し、それを各々確認し終えるとパラソルの下に腰を下ろした。
「くぁ〜、キツいなぁ」
「お疲れ、ゴールドシチー。ほら」
エアグルーヴがゴールドシチーに冷えたレモン水が入った紙コップを手渡す。
「ありがと。んくんく……はぁ〜、美味し〜いっ」
「渇いた体に染み渡るな」
エアグルーヴも隣に腰を下ろし、喉を潤しつつ、穏やかな表情を浮かべた。
「そだね。エアグルーヴはどう、調子のほどは?」
「まずまず、と言ったところだ。緩みも力みもしていない」
「そかそか。次はジャパンカップだったよね?」
「ああ」
「もう出走が決まってる子いる?」
「リギルからはブライアンとエルコンドルパサー。スピカからはトウカイテイオーとメジロマックイーンが出走するとは聞いているな。こちらも私とアマゾンが出走する」
「あれ、ヒシアマも? ヒシアマって今年もエリザベス女王杯出るとか言ってなかった?」
エリザベス女王杯とジャパンカップの間は短い。故にゴールドシチーはいくらヒシアマゾンでも短い期間でレースが続くことに懸念を抱いているのだ。
「そうなのだが、アマゾンは今年その二つを目標にしていて、これまでは小さなオープンレース等しか出ていなかったからな。やる気も体調も有り余ってるらしい」
「あ〜、なるほど。だからあんな元気なのかぁ」
ゴールドシチーがそう言って苦笑いする視線の先では、
「トレ公トレ公! 次は何やればいいんだ!?」
「待て待て。しっかり休憩しろって言ったばかりだろ」
「頼むよトレ公ぉ〜、アタシ走りたくて仕方ないんだよぉ〜」
「あ〜、ったく……なら流しで3000走ってこい。それ終わったら泣いても休憩だからな」
「やた! あんがとトレ公! 愛してるぅ!」
ヒシアマゾンが元気一杯に投げキッスして全速力でターフを駆けていく。
「……あいつ、流しでって言葉分かってねぇだろ」
幸福は呆れた様子でヒシアマゾンを見送るが、彼女の気持ちも理解するので、呼び止めることはしなかった。
「相変わらずだね、ヒシアマ」
「……ああ」
「愛してるとか言ってて嫉妬した?」
「いや、私もあんな風に言ってみたいと思ってな」
「言えばいいじゃん」
「出来たらこんなに苦労はしてない」
「まあ、確かにエアグルーヴのキャラじゃないよねー」
ケラケラと笑うゴールドシチーはエアグルーヴは恨めしそうに睨む。
ゴールドシチーやフジキセキ、ファインモーションたちから度重なる後押しを受けてきたエアグルーヴだが、未だにその想いを告げるところまでいっていない。
告げたい気持ちは強くても、どうしてもこういうことには二の足を踏んでしまうのが乙女グルーヴなのである。
「あのさ、そんなんで今世中に結ばれる気あるの?」
「それは無論だ……来世でだって結ばれてやる」
「いや意気込みはいいけどさ、今世中を考えてよ。結ばれないと来世でも無理じゃん」
「た、確かに……巡り会えたとしても、結ばれることは……」
「いやそこじゃなくてね……」
考えていることは乙女だが、ゴールドシチーが言いたいのはそうではない。
流石のゴールドシチーも思わず頭を抱える。
「もう占いとかなんでもいいから、口実作ってさっさと付き合え」
「……ああ」
ゴールドシチーの呆れきった嘆きにも近い言葉に、エアグルーヴは申し訳なく思った。
エアグルーヴの調子が下がった。
―――――――――
その次の日。エアグルーヴは昨日ゴールドシチーに言われたことが気に掛かり、精彩を欠いていた。
幸福と過ごしていても、どう思いを告げるかで話が噛み合わず、食事もあまり喉を通らない。
体調不良にならないように心掛けてはいるが、この調子が続くと流石にまずいとエアグルーヴも思っている。
しかし、
「あやつのことを考えるだけでずきゅんどきゅんして想いを告げるどころではないッ!」
どーきどきどきどきどきどきどきどきしてそれどころではなくなってしまう。
「ああ、私は女帝失格だ……好きの一言も言えないとは、情けない」
机に顔を突っ伏し、嘆く女帝。
そんな彼女を、
「……エアグルーヴ、苦労しているな」
「というか、とうとう私たちの前でも隠す気がなくなったな」
シンボリルドルフとナリタブライアンがただ見守っていた。
ナリタブライアンに至っては最初は面白がっているだけだが、
「こうも煮え切らないでいられると、流石に苛立ってくるな。漫画の友達ポジの気持ちが少し分かって来たぞ」
今は何とも言えない様子である。
「エアグルーヴ」
「はい、会長……」
「生徒会の仕事のことはもういい。ブライアンもいることだし、君は彼のところへ行くといい」
「しかし……」
「そんな状態ではとても君に仕事を任せられない。トレーナー君のところへ行かないにしても、もう休んでくれ」
「……申し訳、ありません」
「焦る気持ちも分かる。しかし焦ってもいいことはない。だから今日のところはゆっくりと過ごした方が君のためだ」
「分かりました。ではお言葉に甘えます」
そしてエアグルーヴはよろよろと生徒会室をあとにし、そんな彼女をシンボリルドルフは鼓舞するように見送った。
◇
「はぁ……何をしているのだ、私は……」
あれだけ幸福の前になると狼狽するというのに、結局足は幸福がいるトレーナー室に向いており、その前に立っている。
ぼやくエアグルーヴにトレーナー室のドアは何も返さない。
室内からは先程からキーボードを叩く音と幸福の落ち着いた息遣いが聞こえてくる。それだけでエアグルーヴの心は温かくなった。
「……よし」
決意し、トントントンとノックをするエアグルーヴ。
幸福からの返事が来てからドアを開けた。
「あれ、エアグルーヴじゃねぇか。もう生徒会の仕事終わったのか?」
「……実は少し調子が優れなくてな。早めに上がらせてもらったんだ」
「ああ、そんで寮に戻る前にここで一休みさせてくれってことか。今日はトレーニング休みだもんな」
「……ああ、構わないな?」
「勿論だ。何か飲むか? 他に必要な物とか」
「いや、構わなくていい。ソファーを借りるぞ」
そう言ってエアグルーヴはソファーに腰を下ろし、背もたれに身を預ける。
幸福に至ってはエアグルーヴにそれ以上何も言わず、己の仕事に戻った。
(何も訊かず、ただ甘やかしてくれる……本当に優しいやつだ)
天井を見つめながら、想い人に想いを馳せる。
カタカタとキーボードを打つ音だけが響き、エアグルーヴはただ幸福が傍にいてくれるというだけで先程までのもやもやが晴れていた。
(恋とは不思議なものだ。ただ相手を近くに感じているだけなのに、こんなにも安心するとは……)
ちらりと幸福の方を見れば、彼は真剣にパソコン画面を見つめて作業をこなす。それだけなのに、その姿すら輝いて見え、エアグルーヴの鼓動はとくんとくんと小さく甘い悲鳴をあげた。
(はぁぁぁ……好き。好き過ぎる)
再度天井を見上げ、自身の奥底から湧き上がる幸福への愛を滾らせるエアグルーヴ。
しかし彼女はそれをまだ口にすることは出来ない。
(トゥインクルシリーズを辞す時に告げるべきか。それともジャパンカップを制したあとに告げるべきか……それとも花が咲いた時に、さり気なくというのも……)
乙女心とはとても繊細で難しいものである。
「……ちょっと花摘んでくるわ」
「ああ」
「ついでに購買でコピー用紙買ってくるんだが、何かいるか?」
「……人参プリン」
「はいよ」
普段のエアグルーヴならこうしたおねだりはしないが、幸福の厚意を無下にすることも心苦しいので甘い物を頼んだ。
◇
幸福がトレーナー室を出て行って少しした頃、エアグルーヴは彼が使うデスクの椅子の背もたれに掛かっていたタオルが目に止まる。
(あれは……先日もあったな。あやつにしては珍しい。持って帰るのを忘れたのか? たわけめ)
親切心でエアグルーヴはそのタオルを畳んで、彼の仕事鞄の上に乗せておいてやろうとした。
しかし手にした瞬間にエアグルーヴの動きが止まる。
「…………ほぅ」
一晩放置されていたのもあり、タオルには彼の匂いが染み込み、それはエアグルーヴの鼻孔をこれでもかと蹂躙した。
30代男性が放つ雄臭さが、恋に悩める乙女に襲い掛かり、気が付けばエアグルーヴはそのタオルを顔に押し付けていた。
「すんすん……はぁ……あやつめ……ふーっ、ふーっ」
背徳感と高揚感が押し寄せる。何より好いた相手の無遠慮の香りが、無理矢理自分を襲ってくれているみたいで、エアグルーヴの表現はとろんと蕩けて、その瞳の奥にはハートマークが浮かび上がっていた。
「ダメだ……私は何を……いや、しかし、これは……」
抗えん!と自分に言い訳して、それを抱きしめたままソファーに寝転ぶ。
あられもなく制服のスカートがはだけて白い太腿が露わになるが、そんなことお構いなしに愛して止まない男の匂いを堪能した。
「…………いかん。これは私をダメにする」
元々エアグルーヴには匂いフェチの気はあったが、これでハッキリしてしまった様子。
(思えば、やつの匂いは最初から好ましいと感じた。最初は草花の香りがするからだと思っていたが、どうやら違ったようだ)
今になって匂いからして好みだったと分かったエアグルーヴは、どこか嬉しそうに口端を上げる。
自分がこんなにも最初から幸福のことを好きだったのか、と知れたことが嬉しくて堪らないのだ。
(落ち着く匂いだ……ああ、これが毎日嗅げたのなら、それだけでバ生バラ色ではないか。あのたわけめ)
するとそこで幸福の足音が聞こえてきて、エアグルーヴは我に返る。
こんな変態チックなところを見られでもしたら、想いを告げる前に破滅してしまう。
なのでエアグルーヴは急いで起き上がり、そのタオルを名残惜しく思いながらも幸福の鞄の上へ乗せた。
その後すぐにドアが開く。
「ただいま……って、俺の鞄のとこで何してんだ?」
「き、貴様がこのタオルを忘れていると思ってな。分かりやすいように鞄の上に乗せてやったのだ」
「あ〜……わざわざありがとな。というか、女の子に汚い物触らせてごめんな」
「気にするな。貴様以外のは触らん。考えただけで蕁麻疹が出る」
「そこまでかよ……まあありがとな。人参プリン買ってきたぞ。もう食うか?」
「……あーんを要求する」
「今日はとことん甘えグルーヴさんで」
「たまにはいいだろう、たわけ」
「弁当交換の時には大抵食べさせてやってる気がするんだが?」
「…………」
「はいはい、そう睨むなよ。ソファーに座って待っててくださいねぇ、女帝様」
「それでいいのだ、たわけ……♪」
その後、エアグルーヴは想いを告げることを忘れ、幸福から人参プリンを甲斐甲斐しく食べさせてもらうのだった。
おまけ
同時刻。幸福のトレーナー室のドア前。
「ほれ、あーん」
「あむ……うむ。購買の人参プリンは相変わらず懐かしい味だ」
「お母さんが良く買ってくれてたんだっけか? この人参プリン」
「ああ。お母様特製の人参プリンも美味だが、これはこれで思い出の味だ」
そう言うとエアグルーヴは「んぁ」と幸福に向かって口を開け、人参プリンを待つ。
彼女の姿はもはや餌を待つひな鳥であった。
そんな二人のやり取りを……
「……尊い……!」
たまたまお使いで幸福の元を訪れたアグネスデジタルが目撃し、その光景に釘付けになっていた。
アグネスデジタルも寮へ帰る前に購買に寄り、その際に購買のレジ員が幸福にお釣りを少なく渡してしまったことに気が付いてどうしようと悩んでいたのだ。
理由を訊けば、もう閉店間際でその人一人しかおらず、渡しに行くにも閉店準備をしないといけないのだとか。
なのでアグネスデジタルが「では私が行きましょうか?」とお手伝いを買って出たことで、今に至る。
「……何なのでしょうか、この尊み空間は……」
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ! 最期の最期までこの尊き光景を目に焼き付けてから昇天するのだ私!と自分を奮い立たせ、至高のグル×トレから目を離さない。
普段は凛々しい女帝が、心を許した相手にだけ甘えている。それが見れただけでもアグネスデジタルはお釣りを渡す手伝いを買って出て良かったと三女神に心から感謝した。
「…………ごふっ」
しかし現実は残酷で、限界が近付いて来るのが分かる。
口からはサラサラとした砂糖が吐かれ、体は砂糖まみれの廊下に沈んでいき、顔が次第に安らかになっていくのを感じた。
なのでアグネスデジタルは最後の力を振り絞り、砂糖まみれの廊下に―――
お釣りです
ありがたみ
―――と書き残して意識を手放した。
ドサッとした音に中の二人が気が付いて横たわるアグネスデジタルの亡骸を見つけると、幸福は握りしめられたお釣りを受け取りつつ、エアグルーヴに「迎え呼んでやってくれ」と頼む。
対してエアグルーヴは首まで真っ赤になりながら、栗東寮長フジキセキに応援を頼むのだった。
アグネスデジタルは死して尚、
「尊み……あーん……尊し……」
とうわ言と砂糖を吐いていたそうな。
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読んで頂き本当にありがとうございました!