「弟はさっきまで泣いてたんですけど、ちょうど寝ちゃったところです」
忍の力、忍の性、うちはの名、己の運命、弟の未来……。
何も知らない幼いイタチを前に、ナナはじっと畳を見つめていた。
“ここ”へ来て何度も心を揺さぶられたが、今ほどそれが強かったことは無い。
覚悟を決めてきたはずだったのに、まともに顔を上げることさえできなかった。
「もうすぐフガク隊長が来ますからね、もうちょっと待っててくださいな」
一族の女が、カカシとナナの前に茶を置いた。
「イタチ、このかわいいお嬢さんに棚にあるお菓子をあげなさい」
「はい、おばさん」
高い声、駆けて行く軽やかな足音。
それはすぐに戻って来て、ナナの目の前に小さな手の平が差し出される。
そこには美しい和菓子が乗っていた。
「はい、あげる」
かすかにはにかんだ声に、ナナは思わず顔を上げる。
漆黒の瞳は影を知らず、ただナナを映していた。
「イタチ……!」
彼の名を呼ぶ声が、喉を通りかけた。
その時に
「四代目の使いとは……わざわざすまなかったね、カカシ君」
部屋に男が入って来たおかげで、ナナはまだここに留まることを許される。
「四代目の使いできました。お子さんのご誕生、おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます」
横で、カカシが祝いの品を差し出しながら大人びた口調で祝いを述べると、男は手をついて答えた。
「お心遣い恐縮です。我が子ともども、ますます木ノ葉の繁栄に力を尽くす所存でございます」
ナナは火影の使者に対する答辞を述べるフガクを、じっと見た。
彼には幼い頃に和泉の里で会ったことがある。
イタチと、そしてサスケの父……、うちはフガクだった。
改めて見ると、二人とはあまり似ていない。
形式的な挨拶が交わされると、彼は自分を食い入るように見つめるナナに視線を移した。
「そのお嬢さんは、和泉成葉様の親類の方と聞いたが……」
ナナは逃れるようにカカシを見上げた。
フガクの視線より、きょとんとして自分を見つめるイタチの視線がむずがゆかった。
「ハイ……そうみたいです」
「では“和泉”の……?」
フガクは愛想よく笑った。
ナナも曖昧に笑みを返した。
ふと、この頃から“うちはと和泉の結びつき”を考えていたのだろうかと思ったが、それはあいにく知る由もなかった。
「うちの次男坊をぜひ見て行ってもらいたかったが……ちょうど寝ついてしまったところで……」
フガクが申し訳なさそうに言うと、イタチが無邪気に言った。
「猿みたいな顔をしてるんですよ!」
ナナは思わず笑った。
兄になった彼の、そんな自慢げな姿が可愛らしかった。
が、そんな息子の頭を笑いながらなでるフガクの姿は、ナナの胸に小さな痛みを起こした。
「御名前はもう決まったんですか?」
「ああ、ちょうど君たちがここを訪れた頃に決まったよ」
ナナはフガクの口からその名が発せられるのに身構えた。
だが、
「サスケっていうんだよ!」
二人にそれを告げたのは、イタチだった。
「いい名ですね」
「大きくなったら君の部下になるかもしれん、よろしく頼むよ」
フガクの何気ない言葉に、運命の悪戯がそうすることを知るナナは、気づかれぬように諦めのような微笑を漏らした。
もとの世界がひどく懐かしくなった。
膝の上で、手を強く握って堪えた。
と、
「そのコはなんていうんです?」
イタチが言った。
ナナが彼を見ると、彼は強く目を瞬いた。
「ホクトだよ」
「へぇ、ホクトか……」
カカシが答えると、イタチは笑った。
ナナは精一杯、胸に込み上げるものを押しとどめた。
ナナも今すぐ、イタチの名を呼びたかった。
「では、我々はこの辺で……また日を改めて、今度は四代目が直々にうかがうでしょう」
その気配を悟ったかのように、カカシはフガクに別れを告げた。
「今日はありがとう、四代目にくれぐれもよろしく伝えてくれ」
「わかりました」
短い訪問が終わろうとしていた。
ナナはカカシの隣でフガクに手をつき、頭を下げた。
そして、手を振るイタチを横目に立ち上がった。
屋敷にはまだ訪問者があり、その世話を焼いたり、祝いの宴の準備に追われる一族の人間たちが慌しく動いていた。
ナナは、供に居たのがカカシでよかったと思った。
彼に挨拶する者たちをなるべく視界に入れぬよう、彼の背だけを見上げて歩いた。
この幸福に満ちた一族が……あの幼い無垢な子によって滅ぼされることになろうとは……。
ナナ自身、まだその“事実”を信じてはいなかったが……、それでもやはり、心は痛かった。
だから、ようやく玄関の扉を開いて外に出たとき、産まれたばかりのサスケに会わなくてよかったと、そう思った。
思わず息をつく。
カカシが振り返って言った。
「行くよ、ホクト」
ナナは小さくうなずいた。
だが、
「待って!」
カカシに並ぼうと出した足が、背中にからかけられた幼い声によって押し留められる。
「待って、ホクト!」
庭から回ってきたのか、大人用の大きなサンダルをつっかけて現れたのはイタチだった。
ナナは喉の奥が引きつるのを感じた。
が、イタチはニコリと笑ってまっすぐナナに近づいた。
「これ、あげるよ」
差し出された小さな手には、摘みたてのクロユリが一厘、握られていた。
「今朝、初めて咲いたんだ」
花茎の先端に、暗紫色の釣鐘状の花が3つついていた。
「へえ……クロユリなんて珍しいね」
後ろでカカシが感心したように言うと、イタチは得意げに応えた。
「うん! 前にシスイが種を持って来て、今年初めて咲いたんだ!」
そしてナナに、それを突き出した。
クロユリ……。
北の地や高山に咲く花が、何故かうちはの庭で今朝、その花を開いた。
ナナはふと、和泉の山の岩間に咲いていた群れを思い出す。
花言葉は、『秘められた恋』と……、『呪い』。
「ホクトにあげるよ。サスケが産まれたキネンだから!」
ナナはクロユリの花びらと、イタチの瞳とを見比べた。
無邪気な瞳には、何の意図も無い。
だが、ナナは皮肉な運命を感じた。
それを精一杯押し殺し、ゆっくりと手を伸ばす。
肩と肘が錆付いたように、動かし辛かった。
指先が、冷たい茎とあたたかいイタチの手に触れた。
「キレイでしょ?」
イタチがはにかむ様に微笑んだ。
ナナはゆっくりとうなずいた。
三つの花が、鐘を鳴らすように揺れた。
その時、屋敷から、赤ん坊の泣き声があがった。
「あ、サスケだ……!」
イタチが嬉しそうに一度屋敷を振り返り、ナナに言った。
「サスケが起きたみたいだから行くね! バイバイ、ホクト」
弟の存在を心から喜ぶ兄……。
一体誰が、この兄弟に訪れる残酷な未来を予想できただろう……。
兄を憎む弟の紅い眼を、誰が想像できただろう……。
ナナは“現実”の残酷さを改めて思い知る。
そしてその“現実”を憎んだ。
今のこの幸福な一族が、何故滅びなければならないのか……。
怒りにも似た感情が心を溢れ出た時、
「イタチ……!!!」
ナナは弟へ向かって走り出そうとしたイタチの背に向かって、その名前を呼んでいた。
瞬間、イタチはナナを振り返った。
目が合うのと同時に、ナナの視界は白い霞に覆われていった。