ひと葉 ~弐の巻~   作:亜空@UZUHA

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夢のあと

 白くて温かい空間。

 ひどく懐かしい気がして、ナナは吐息をついた。

 

 自分が何処にいたのか、一瞬思い出せなかった。

 立っているという感覚が無く、空間を漂っているような身のあやふやさ。

 自分の肉体が存在するのかどうかも不確かなくらい、実体であるという感じが無かった。

 一度、二度と瞬きし、時空の旅をようやく思い出す。

 まるで今まで長い夢をみていたようだった。

 が、あれは現実に見て来たこと。

 その証拠に……、右手には黒い百合が一厘、しっかりと握られていた。

 

「おかえり……菜々葉……」

 

 深い紫の花が鐘を鳴らしたとき、目の前で声がした。

 

「……過去への旅は、どうだったの……?」

 

 声の主は姉だった。

 

「姉上……」

 

 その身体は霞がかかり、今にも消えてしまいそうだった。

 が、琴葉にこの状況に抗うという気配はなかった。

 諦めたような表情で、静かにナナを見つめていた。

 

「……どうして……」

 

 久しぶりに話したせいか、上手く声が出なかった。

 が、掠れた声で精一杯消えゆく姉の姿に想いを投げる。

 

「どうして、あそこに……私を……?」

 

 何故……あの時空に……?

 何故、あの人たちに逢わせたのか。

 幼い姿いっぱいに浮かべた疑問を、ようやく問いかける。

 

 琴葉は微笑した。

 それはナナが見た中で一番の、美しい笑みだった。

 その顔からは、姉の意図は読み取れなかった。

 和泉成葉、四代目火影……逢えるはずのない者たちに逢い、触れ合った意味。

 若き日のカカシと……そしてイタチに逢ったことの意味。

 それが、サスケが産まれたその日だったという意味。

 妹の辛苦に餓えていた姉が単純に思いついたのだとしたら、彼らに逢ったナナがまた、時の皮肉に苦しむことを意図したのかもしれない。

 だが、それだけではないような気がした。

 確かに心は大きく震えた。

 痛みが無かったといえば嘘になる。

 その痛みに揺り動かされ、『イタチ』の名が溢れ出たといっても相異ない。

 しかし、姉は穏やかに笑んでいる。

 それにナナの心の奥には、知らなかった温もりも産まれていた。

 成葉の言葉も、四代目の言葉も……痛みの奥にはちゃんと在った。

 だから……。

 

「どうして、私をあの日に飛ばしたの……?」

 

 もどかしさで、思わずイタチにもらった黒百合を両手に包んだ。

 琴葉はもう一度、クスリと笑った。

 ナナの知らない、たおやかな表情だった。

 そして琴葉は、ナナの胸の前で揺れた花を見て、静かに口を開いた。

 

「……イタチには……逢えたの……?」

 

 その声は、かすかだが切なげに震えていた。

 ナナは息を呑む。

 今にも霞に包まれそうな琴葉が、次に何を言うのか……予感で胸が苦しくなった。

 

「……“兄”になったイタチは……どんな子だったの?」

 

 姉の問いに悪意など無かった。

 ただ、ナナの応えに対する渇望が垣間見えた。

 ナナは唇を震わした。

 

「……どうして……私に聞くの……?」

 

 眉根が引きつった。

 首の辺りがひやりとした。

 姉の問いは矛盾していた。

 時空を越えることができるのはそもそもナナではなく、怨睨(オニ)と化し、禁忌の力を得た琴葉のはずだった。

 そのチカラを手にしてから何度もそうして旅してきたのだと、得意げに言っていたはずなのに。

 何故、今になってナナをそこへやり、ナナにそれを聞くのか……。

 

「姉上も……見て来たんでしょう……?」

 

 その問いの後、長い沈黙が流れた。

 ナナにとって、そこは居心地の悪い空間と化した。

 琴葉はただ、微笑をたたえたまま目を伏せていた。

 やがて、黒百合がナナの胸元で小さく揺れたとき、琴葉は何もかもを諦めたような口調で言った。

 

 

「……見られたかったのよ……イタチの時間だけは……」

 

 

 わずかに自嘲を含む大人びた声は、ナナを惨めな気持ちにした。

 

「イタチの時間だけは……()()()()()になっても行くことはできなかったの」

「……そんな……」

 

 それが……琴葉のその告白が何を意味するのか、不思議とナナにはわかってしまった。

 

「姉上……そんなに……イタチのことを……?」

 

 琴葉は視線を上げた。

 姉と妹……二人に初めて、同じ光が浮かんでいた。

 

「……自分でも……知らなかったのよ……そんなこと」

 

 ナナは奥歯をかみ締めた。

 死して魂になった姉。

 命と引き換えに手にしたチカラで、時空をも越える存在となったはずなのに……イタチの時空だけは行けなかったその理由。

 魂という、浮世離れした存在であるにもかかわらず、『イタチへの想い』だけがその存在を俗世で汚した。

 魂が“想い”を持った瞬間に、ただの塊になってしまった。

 だから……チカラを使うことなどできるはずもなかった。

 それ程に強い想いを、イタチに対して抱いていたというのか……。

 

「姉上っ……」

 

 ナナは言葉を詰まらせた。

 哀れみと、説明のつかない罪悪感が心に溢れた。

 が、琴葉は淡々と語った。

 

「あなたがイタチに去られた夜も、イタチに救われたことも……あなたを介してしか知ることはできなかった……」

 

 姉というより、ただの女として、琴葉は告白した。

 

「イタチが暁で何をしているのかも、木ノ葉を抜けた日にどうしていたのかも、産まれた時はどうだったのかも……何一つ、見られなかった」

「本当は……逢いに……行きたかったのに……?」

 

 弱々しく吐くのはナナの方だった。

 琴葉は素直に頷いた。まるでナナを慰めるようだった。

 

「自分を殺すための存在である“弟”が産まれた日……イタチはどうしていたの……?」

 

 そしてまた、ナナに問う。

 

「兄になったその日……イタチはどんなだったの……?」

 

 うちは一族の……そして兄弟の運命の日。

 サスケが産まれなければ、イタチは復讐者を産むことはなかった。

 兄と弟が在ったから、現在の悲劇が産まれた。

 そして琴葉とナナも……。

 出口のない迷路に閉じ込められたような感覚で、ナナは首を横に振った。

 白い靄が、ゆっくりと動いた。

 そのせいで、姉の姿がより白に包まれる。

 

「姉上……!!」

 

 ナナは思わず叫んだ。そして、駆け寄った。

 が、近づこうと思っても、少しも姉との距離は縮まらない。

 その空間に物理的距離は存在しなかった。

 

「……姉上……!!」

「教えて、菜々葉……」

 

 琴葉の口調は淡々としていたが、ナナにはその願いの強さが痛いほどわかってしまった。

 かといって姉の知りたいことを、単に伝えきれないことも知っていた。

 ナナは大きく息をついた。

 そして言った。

 

「イタチは……サスケが産まれたことを、心から……喜んでいた……」

 

 幼いイタチの、嬉々とした姿を思い出した。

 その姿はナナに痛みをもたらしたが、それでも嬉しかった。

 サスケの名を少し得意げに口にするイタチが、嬉しかった。

 たとえ今……()()()()()()()としても、嬉しさに心震えた。

 だから……。

 

「すごく……幸せそうだった……」

 

 そう告げた瞬間に、琴葉が満足げな笑みを返したとき、ナナの瞳からは雫が零れ落ちていた。

 姉も……同じ願いを持っていた。

 皮肉にも、この最期のときに初めて姉妹の心は繋がった。

 イタチに対する同じ想いを持っていた。

 ナナは強く目を閉じた。

 霞の中で、琴葉が『よかった』と呟いた。

 

「姉上……」

 

 再び目を開いたとき、ますます消え去りそうな琴葉に、ナナは言った。

 

「……ごめんなさい……」

「……ごめんね」

 

 互いに疲れきったような声色だった。

 

「姉上を苦しめたのは……間違いなく私だった……」

「私が愚かだっただけよ」

「……私はイタチに甘えて……被害者ぶっていただけ」

「被害者ぶっていたのは私……」

 

 が、琴葉は消えそうな姿と逆に、だんだんと声を強くした。

 

「私は結局、最初から最後まであなたに嫉妬し、八つ当たりしてた……」

 

 ナナはうつむいた。

 琴葉につけられた傷は、決して浅くはなかった。

 が、今さらそれを責める気力もなかった。

 影に呑まれたのは自身の弱さと感じていたから。

 

「あなたの清らかさは私のせいで穢れたわ……」

 

 琴葉の強い口ぶりに、ナナはフッと笑った。

 力を削がれるようだった。

 

「だから……私はそれで満足」

 

 容赦のない言葉に、ナナは小さく頷く。

 が、琴葉は言った。

 

「怨みなさい、憎みなさい……菜々葉」

「……え……?」

 

 琴葉は台詞とは裏腹に、清らな声でナナに言った。

 

「もがいていい、叫んでいい、愚かでもいい、もっと醜くてもいい……」

「姉上……?」

「それでも生きなさい……」

 

 思わず目を見開くと、姉はいよいよ霞に消えながら言った。

 

「穢れても、あなたは手折られず……、強くて美しい……」

「姉上!!」

「だから、生きて……」

 

 最期の言葉は、隠そうとしない嫉妬と、そして姉として妹を誇る笑みで贈られた。

 

「……さようなら……」

「待って……!!」

 

 琴葉がついに別れを告げたとき、ナナは黒い百合を突き出した。

 

「これを……!!」

 

 幼いイタチが摘んだ、うちはの庭に咲いたばかりの黒い百合。

 サスケが産まれた日に、初めて花開いたそれを、ナナは琴葉に贈った。

 

「イタチがくれたの……持って……行って……」

 

 掠れた声が、届いたかどうかわからない。

 その茎を、姉が手にしたかはわからない。

 

 が、クロユリは確かに、白い霞に吸い込まれて行った。

 

 

「さよなら……姉上……」

 

 

 ナナも別れを呟いた時、脱力感と供にナナの身体も霞みに包み込まれていった。

 

 


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