白くて温かい空間。
ひどく懐かしい気がして、ナナは吐息をついた。
自分が何処にいたのか、一瞬思い出せなかった。
立っているという感覚が無く、空間を漂っているような身のあやふやさ。
自分の肉体が存在するのかどうかも不確かなくらい、実体であるという感じが無かった。
一度、二度と瞬きし、時空の旅をようやく思い出す。
まるで今まで長い夢をみていたようだった。
が、あれは現実に見て来たこと。
その証拠に……、右手には黒い百合が一厘、しっかりと握られていた。
「おかえり……菜々葉……」
深い紫の花が鐘を鳴らしたとき、目の前で声がした。
「……過去への旅は、どうだったの……?」
声の主は姉だった。
「姉上……」
その身体は霞がかかり、今にも消えてしまいそうだった。
が、琴葉にこの状況に抗うという気配はなかった。
諦めたような表情で、静かにナナを見つめていた。
「……どうして……」
久しぶりに話したせいか、上手く声が出なかった。
が、掠れた声で精一杯消えゆく姉の姿に想いを投げる。
「どうして、あそこに……私を……?」
何故……あの時空に……?
何故、あの人たちに逢わせたのか。
幼い姿いっぱいに浮かべた疑問を、ようやく問いかける。
琴葉は微笑した。
それはナナが見た中で一番の、美しい笑みだった。
その顔からは、姉の意図は読み取れなかった。
和泉成葉、四代目火影……逢えるはずのない者たちに逢い、触れ合った意味。
若き日のカカシと……そしてイタチに逢ったことの意味。
それが、サスケが産まれたその日だったという意味。
妹の辛苦に餓えていた姉が単純に思いついたのだとしたら、彼らに逢ったナナがまた、時の皮肉に苦しむことを意図したのかもしれない。
だが、それだけではないような気がした。
確かに心は大きく震えた。
痛みが無かったといえば嘘になる。
その痛みに揺り動かされ、『イタチ』の名が溢れ出たといっても相異ない。
しかし、姉は穏やかに笑んでいる。
それにナナの心の奥には、知らなかった温もりも産まれていた。
成葉の言葉も、四代目の言葉も……痛みの奥にはちゃんと在った。
だから……。
「どうして、私をあの日に飛ばしたの……?」
もどかしさで、思わずイタチにもらった黒百合を両手に包んだ。
琴葉はもう一度、クスリと笑った。
ナナの知らない、たおやかな表情だった。
そして琴葉は、ナナの胸の前で揺れた花を見て、静かに口を開いた。
「……イタチには……逢えたの……?」
その声は、かすかだが切なげに震えていた。
ナナは息を呑む。
今にも霞に包まれそうな琴葉が、次に何を言うのか……予感で胸が苦しくなった。
「……“兄”になったイタチは……どんな子だったの?」
姉の問いに悪意など無かった。
ただ、ナナの応えに対する渇望が垣間見えた。
ナナは唇を震わした。
「……どうして……私に聞くの……?」
眉根が引きつった。
首の辺りがひやりとした。
姉の問いは矛盾していた。
時空を越えることができるのはそもそもナナではなく、
そのチカラを手にしてから何度もそうして旅してきたのだと、得意げに言っていたはずなのに。
何故、今になってナナをそこへやり、ナナにそれを聞くのか……。
「姉上も……見て来たんでしょう……?」
その問いの後、長い沈黙が流れた。
ナナにとって、そこは居心地の悪い空間と化した。
琴葉はただ、微笑をたたえたまま目を伏せていた。
やがて、黒百合がナナの胸元で小さく揺れたとき、琴葉は何もかもを諦めたような口調で言った。
「……見られたかったのよ……イタチの時間だけは……」
わずかに自嘲を含む大人びた声は、ナナを惨めな気持ちにした。
「イタチの時間だけは……
「……そんな……」
それが……琴葉のその告白が何を意味するのか、不思議とナナにはわかってしまった。
「姉上……そんなに……イタチのことを……?」
琴葉は視線を上げた。
姉と妹……二人に初めて、同じ光が浮かんでいた。
「……自分でも……知らなかったのよ……そんなこと」
ナナは奥歯をかみ締めた。
死して魂になった姉。
命と引き換えに手にしたチカラで、時空をも越える存在となったはずなのに……イタチの時空だけは行けなかったその理由。
魂という、浮世離れした存在であるにもかかわらず、『イタチへの想い』だけがその存在を俗世で汚した。
魂が“想い”を持った瞬間に、ただの塊になってしまった。
だから……チカラを使うことなどできるはずもなかった。
それ程に強い想いを、イタチに対して抱いていたというのか……。
「姉上っ……」
ナナは言葉を詰まらせた。
哀れみと、説明のつかない罪悪感が心に溢れた。
が、琴葉は淡々と語った。
「あなたがイタチに去られた夜も、イタチに救われたことも……あなたを介してしか知ることはできなかった……」
姉というより、ただの女として、琴葉は告白した。
「イタチが暁で何をしているのかも、木ノ葉を抜けた日にどうしていたのかも、産まれた時はどうだったのかも……何一つ、見られなかった」
「本当は……逢いに……行きたかったのに……?」
弱々しく吐くのはナナの方だった。
琴葉は素直に頷いた。まるでナナを慰めるようだった。
「自分を殺すための存在である“弟”が産まれた日……イタチはどうしていたの……?」
そしてまた、ナナに問う。
「兄になったその日……イタチはどんなだったの……?」
うちは一族の……そして兄弟の運命の日。
サスケが産まれなければ、イタチは復讐者を産むことはなかった。
兄と弟が在ったから、現在の悲劇が産まれた。
そして琴葉とナナも……。
出口のない迷路に閉じ込められたような感覚で、ナナは首を横に振った。
白い靄が、ゆっくりと動いた。
そのせいで、姉の姿がより白に包まれる。
「姉上……!!」
ナナは思わず叫んだ。そして、駆け寄った。
が、近づこうと思っても、少しも姉との距離は縮まらない。
その空間に物理的距離は存在しなかった。
「……姉上……!!」
「教えて、菜々葉……」
琴葉の口調は淡々としていたが、ナナにはその願いの強さが痛いほどわかってしまった。
かといって姉の知りたいことを、単に伝えきれないことも知っていた。
ナナは大きく息をついた。
そして言った。
「イタチは……サスケが産まれたことを、心から……喜んでいた……」
幼いイタチの、嬉々とした姿を思い出した。
その姿はナナに痛みをもたらしたが、それでも嬉しかった。
サスケの名を少し得意げに口にするイタチが、嬉しかった。
たとえ今……
だから……。
「すごく……幸せそうだった……」
そう告げた瞬間に、琴葉が満足げな笑みを返したとき、ナナの瞳からは雫が零れ落ちていた。
姉も……同じ願いを持っていた。
皮肉にも、この最期のときに初めて姉妹の心は繋がった。
イタチに対する同じ想いを持っていた。
ナナは強く目を閉じた。
霞の中で、琴葉が『よかった』と呟いた。
「姉上……」
再び目を開いたとき、ますます消え去りそうな琴葉に、ナナは言った。
「……ごめんなさい……」
「……ごめんね」
互いに疲れきったような声色だった。
「姉上を苦しめたのは……間違いなく私だった……」
「私が愚かだっただけよ」
「……私はイタチに甘えて……被害者ぶっていただけ」
「被害者ぶっていたのは私……」
が、琴葉は消えそうな姿と逆に、だんだんと声を強くした。
「私は結局、最初から最後まであなたに嫉妬し、八つ当たりしてた……」
ナナはうつむいた。
琴葉につけられた傷は、決して浅くはなかった。
が、今さらそれを責める気力もなかった。
影に呑まれたのは自身の弱さと感じていたから。
「あなたの清らかさは私のせいで穢れたわ……」
琴葉の強い口ぶりに、ナナはフッと笑った。
力を削がれるようだった。
「だから……私はそれで満足」
容赦のない言葉に、ナナは小さく頷く。
が、琴葉は言った。
「怨みなさい、憎みなさい……菜々葉」
「……え……?」
琴葉は台詞とは裏腹に、清らな声でナナに言った。
「もがいていい、叫んでいい、愚かでもいい、もっと醜くてもいい……」
「姉上……?」
「それでも生きなさい……」
思わず目を見開くと、姉はいよいよ霞に消えながら言った。
「穢れても、あなたは手折られず……、強くて美しい……」
「姉上!!」
「だから、生きて……」
最期の言葉は、隠そうとしない嫉妬と、そして姉として妹を誇る笑みで贈られた。
「……さようなら……」
「待って……!!」
琴葉がついに別れを告げたとき、ナナは黒い百合を突き出した。
「これを……!!」
幼いイタチが摘んだ、うちはの庭に咲いたばかりの黒い百合。
サスケが産まれた日に、初めて花開いたそれを、ナナは琴葉に贈った。
「イタチがくれたの……持って……行って……」
掠れた声が、届いたかどうかわからない。
その茎を、姉が手にしたかはわからない。
が、クロユリは確かに、白い霞に吸い込まれて行った。
「さよなら……姉上……」
ナナも別れを呟いた時、脱力感と供にナナの身体も霞みに包み込まれていった。