珍しく、夢はみなかった。やけに頭が冴えていた。
夢か現実か、もっと分かりづらい時空へ迷い込んでいたせいもある。
見慣れた病室の天井は、『現実』そのものだった。
「おはよ」
あたりまえのようにかけられた声も、ちゃんと知っている。
「おはよう、カカシ先生」
ただ、“さっき”会った彼よりずっと大人で、右目も穏やかで、馴染みの姿だった。
「大丈夫?」
そっと彼が額に触れた瞬間、ナナは思わず噴き出した。
「ん? どうしたの?」
安堵しつつも戸惑うカカシに、ナナはさらに声を出して笑った。
「なんでもない」
起き上るナナに手を貸しながらも、カカシはそれ以上何も聞かなかった。
話したいことと懐かしさを、ナナも飲み込んだ。
姉が与えたあの時空が、これから先また胸を締め付けても、それでも彼らに出会えてよかったと今は思うから……。
「ただいま、カカシ先生」
ナナは改めて彼に言う。
「うん。おかえり」
やっと安心したように、カカシは椅子に座りなおす。
窓からさす朝の光が、以前と変わらぬ銀髪にそそいでいた。
「みんなは?」
「大丈夫だよ。けっこうキツかったけどね、ナルトとシカマルの活躍で“暁”を二人やった」
“暁”の名が出ても、ナナは視線を落とさなかった。
ナナにはそれが“誰”か聞かずとも、『イタチではない』という確信があった。
だから、気になるのは“彼”のこと……。
「ナルトは……修行の成果を出せたんだ……」
「ああ、新技がきまったよ。まだまだだけどね……」
旅の記憶を伝えたい、彼のこと。
「ただ、その新技が危険の高いヤツで……」
「大丈夫なの?」
「使いすぎると腕が使い物にならなくなる」
ナナはここで視線を毛布に落とした。
が、カカシは続けた。
「ま、本人もわかってると思うけどね」
そう……ナルトはきっと、わかっていても正面から向かっていくのだろう。
もう二度と腕が上がらないとしても、忍の道を断たれると言われても、火影の夢が消えかけても……。
それでも、未来を信じてまっすぐに突き進む。
決して折られず、自分に負けず……。
ナナの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
そういう人に、会ったばかりだ。よく似たあの人に。
「ナナ……?」
黙りこんだナナにカカシが声をかけたとき、
「ナルトは今
無性に会いたくなってそう言った。
はやく、あの金髪と蒼い瞳に会いたかった。
会って伝えられるわけではないが、どうしても会いたかった。
「いや、自宅療養中だよ。けど、あとで火影様の集合がかかることになってるから会えるよ」
が、カカシのその言葉に、ナナは笑みを引っ込める。
カカシの物言いには、さりげなくひっかかるモノが隠されていた。
「集合……? あとで…………?」
大した言葉ではない。
が、やけに気にかかって聞き返す。
するとカカシは、苦笑しながら言った。
「火影様から聞かされる前に、お前にはオレから言っておこうと思ってネ」
やはり……。
軽い口調のどこかに、何かが隠されている。
ナナは軽く身構えた。
「大蛇丸が殺されたらしい」
カカシはもったいぶらず、あっさりと告げた。
「大蛇丸が……死んだ……?」
だが、次第に彼の右目は色を濃くする。
「ああ……」
あの醜い不死の追及者を、誰が殺したというのか。
疑問に思うのは当然だった。
が、カカシの答えを聞くまでもなく、ナナは真実に辿り着く。
「サスケ……が……?」
大蛇丸の居所を知っていて、彼ほどの忍を殺せる者といって、浮かぶ名は皮肉なことにそれしかなかった。
カカシはゆっくりとうなずく。
その肯定に、残念ながら喜びはしなかった。
確かに大蛇丸が死ねば、サスケが身体をのっとられることはなくなる。
その事態の回避には安堵した……が
「でも……」
彼との距離に、なんら変わりはない。
彼の『目的』は、ナナに傷として刻まれている。
「サスケは戻って来ないよ……」
その傷が痛むだけだ。
「……おそらくサスケは……うちはイタチを狙って行動を開始するだろう……」
同じ傷を持ったカカシが苦しげに言った時、“あの日”のうちはのけん騒が耳に鳴った。
一族の子の誕生を喜び、祝っていた彼ら……。
そして、誰より幸福そうだったイタチ……。
「オレたちは、『サスケ』だけじゃなく、そのサスケが狙う『イタチ』も追うことになる」
ナナをそこから引き戻すように、カカシは淡々と告げた。
「ヤマト率いる新カカシ班と、オレがキバたちを率いて2小隊で行くよ」
ナナは彼に応えるように視線を上げた。
「イタチを拘束するための、ベストメンバーだ」
そこにナナの名は連なってはいない。
“和泉”の名を持つナナは、未だ木ノ葉上層部による監視下にある。正規の隊に入る資格はなかった。
が、カカシの想いはわかった。
「イタチを知っている」と告げたときから、彼にはナナの過去を背負うはめにさせてしまったから。
「イタチは強いよ、先生」
だから、ナナは笑った。
「そうだネ」
カカシも諦めたように笑んだ。
それは続きをうながすでもなく、ましてイタチに関する情報を聞き出そうとするのでもなく、ただ知らされた事実に対する諦めのようだった。
なぜならそれは、どうしようもない『過去の事実』だったから。
今までそれを口にすることに対し、ナナは怯えていた。
一族から『禁句』だと釘をさされていたからなどではない。
その事実が、木ノ葉や火の国をも困惑させるからというわけでもない。
ただ、ナナにとって、サスケの前でその事実が禁忌であったから明かせなかった。
その怯え。
「先生」
ナナは今、それを振り払おうとした。
あの時空で出会った、清く美しい者たちに恥じないよう。
「私とイタチは、許婚だったの」
カカシは瞳の色をいっそう濃くした。
「木ノ葉や火の国の権力を握るため、うちはと和泉が極秘で結んだ『契約』だった」
ある程度の予想はしていたのだろう。
カカシの表情には変化がなかった。
ただ悲しげにナナを見守っている。
だからナナは、今まで口にできなかったことが嘘のように、淡々と語る。
「だから私は3つの頃からイタチを知っていた」
窓の外を2羽の小鳥が飛んで行った。
それを見送ってから、ナナは再び口を開く。
「ただ九尾を封印するために産み出され、そのための“道具”として育てられていた私にとって、イタチはたったひとつの“外の世界”だった」
誰にも語ったことのない記憶。
懐かしくも、どこか虚しい過去。
カカシは黙って聞いていた。
「私を怨まず、憎まず、恐れない……たったひとりの
偽りない言葉を彼に伝えて、改めて実感する。
「イタチは私の……」
伝えてどうなるともわからないが、ナナは言葉を押し出した。
「……私のすべてだった……」
カカシの右目に映る己が歪まずに在ったから、ナナはまた笑えた。
「だからね、死んで欲しくなんかないの」
今更……偽っても仕方ない。
カカシはこの心を責めたりするような師ではない。
それに甘えるつもりで、ナナは何重にも鍵をかけていた扉を開いた。
「私は、イタチが一族を殺したなんて信じない」
初めて口にする言葉も、何度もその扉の奥で叫んでいたから。
「ナルトを殺そうとしているなんて信じない」
愚かと思われようと、信じるイタチの姿もまた、そこに居続けたから。
「だってイタチは……私にすごく優しかったの」
それはただの過去じゃなく、想い出という淡いものでもなく、ナナにとっては未だ現実。
揺るがぬ事実。
「サスケの話も……たくさん聞いた」
忍の話も、木ノ葉の話も、イタチはナナのせがむままに語ってくれた。
イタチの語るサスケに、幼いナナは焦がれた。
“弟”の話をする“兄”の顔を、忘れるはずがない。
「だから……」
信じない。
これがナナ以外の全ての人間にとって“真実”だったとしても、絶対に信じない。
たとえそれが愚かな結果になろうとも、まして総意に背くことだとしても。
「ごめんなさい」
ありきたりの6文字を、ナナはカカシに言った。
許されるはずもないのにカカシに甘えた。
カカシは深く息をつき、目を伏せた。
ナナが開いた扉の奥を見せつけられ、それに肯定も否定もしなかった。
ただ、かすかに悔しそうな語気を含んだように、呟いた。
「なぜ……和泉は“うちは”と?」
ナナは膝の間で組まれた彼の両手を見た。
軽く握られたようで、そこには確かにやるせなさが滲んでいた。
「警務部を仕切っていたとはいえ、うちははすでに全盛期より衰退していた……。他にも和泉が手を組むべき一族はあったはずだ」
それが何なのか、ナナは知っていた。
なぜ……ナナとイタチが出会わなければならなかったのか。
ただの偶然か、いたずらに引き合う運命だったのか……。
それを思って、カカシは目を伏せている。
ナナはまた微笑した。
そして、答えた。
「“対極”だからだよ」
その短い言葉に、カカシは案の定顔を上げた。
「対極……?」
「和泉一族の人間には一切の幻術が効かないし、一族の特殊な陰陽術は写輪眼に破られる……」
一族固有にして最強の術が、唯一効かない相手……。
決して破られない高度な陰陽術を、うちはの眼は見切ることができる。
そして、決して解けない強力な幻術を、和泉の血は無効化する。
互いに相反する血族。
うちは一族に関する資料は、本家の蔵には無かった。
教えてくれる大人もいなかった。
ただ、乳母がぽろりと口を滑らせたことがある。
それに、イタチは真実を知っていたようだった。
「イタチがあんまり教えてくれなかったからよく知らないけど……」
ナナは彼の、額当てに隠された眼を見つめて言った。
「“万華鏡写輪眼”の前では、どんな高等陰陽術も効かないみたい」
それを使えるようになったというカカシ。
うちはの血を持たぬ彼が操る眼。
「だからこそお互い、対極の敵と手を組んで最大の弱点を無くし……里や国をとろうと企んだんだと思う」
カカシの眼は何を見切っただろう。
和泉とうちはの大人たちの腹黒さか……それとも、それに巻き込まれたイタチとナナの哀れさか。
いずれにしろ、この事実はうちはの木ノ葉へ対する造反だった。
そして、自ら俗世を離れ伝説の存在と化していたはずの和泉の蜂起、さらには木ノ葉への侵犯ともとれた。
片方が滅びた今、その事実は煙と消えた。
残った一方が、ただひたすらその過去を隠そうとしているだけ。
当人のナナも、堅く口止めされていた。
が、知っていて言わぬも木ノ葉からしてみれば罪……。
「今まで黙っていてごめんなさい」
が、カカシは穏やかな視線をよこした。
「お前は悪くないよ」
その言葉は、少し居心地が悪かった。
「私……今度こそ火影様に報告しようと思って……」
償うようにそう言う。
今更……ではあるが、『イタチを知っている』という事実だけでも、報告せねばならぬ現状になっている。
だが、
「いや」
やっとついた決意が、カカシにやんわりと包み込まれる。
「後でオレから五代目の耳に入れておくよ」
償うことなどできない、長い沈黙だったはずなのに、
「お前はもっと、自分の意志で動いてんだ、ナナ」
カカシはそれをまとめて拾い上げ、別のものを指さす。
「そのためにオレは、ここに来たんだからね」
彼が示した別の何か……それはナナにもわかっていた。
『自分の意志』……。わかっている。
あの時空で彼らと出会い、それは確かに固まった。
決して強くはないが、ようやく固まった。
「お前はもっと、お前の思うままに生きてごらん」
カカシの手が、ナナの頭に乗る。
何度も繰り返し与えられてきたそのぬくもりが、ナナの意志を後押しする。
「オレは……ナルトやサクラたちも、いつでもお前の“仲間”だよ」
わかっている。
「……うん……」
今度こそ……声に出す。
傷つけることを怖れていても、想いを裏切ることを学んだ。
独りの自分を遠くから見つめる、悲しい瞳を知った。
怯えはもう、消えたから……。
「ありがとう、先生」
ナナは師に、思い切り笑んだ。