それからすぐに背後でしたかすかな葉音。
身構えもせず、うちはイタチはゆっくりと、現れた人影を向いた。
懐かしい、木ノ葉の暗部装束。
小柄なその忍は身構えぬイタチに対し、同じように殺気のカケラも出さず、その面をとった。
瑠璃の蝶は、遠慮がちに消え去った。
二人はしばし、無防備に見つめ合った。
イタチは……意外にも暗部の装束を身につけて再び目の前に現れたナナの、腫れた瞼と白い頬に残る痕を見つめ……、ナナは……少しも変わらぬイタチの眼差しを受け止めた。
「……イタチ……」
先に口を開いたのはナナだった。
「約束……破ってごめんね……」
予想通り……イタチは静かにこう答えた。
「それでよかった……」
「でも……」
かすかにイタチが笑った気がした。
「私が……連れて行ってと願ったのに……」
「選べ」と言って去ったのはイタチだった。
だがあの朝、約束の場所にイタチが現れたのは間違いなく……。
そこに現れなかった自分に対して、何を思ったのかもわかってしまっていて。
「お前は来ないと思っていた」
大人びてそう言う彼に、ナナは手の面を握りなおす。
「でも……」
せめて、伝えなければならない言葉を言うべく、
「……連れて行ってほしいと思ったのは、本当だよ」
瞳を逸らさずにまっすぐ立つ。
「イタチは……」
縋りたかった。護られたかった。
誰にも言えない弱い言葉を、イタチにだけは吐けたから。
「ずっと、私のすべてだったから……」
そう想う心は、少しも変わらない。
『ずっと』、出会ったあの日からそうだった。
去られても、大罪を知らされても、冷たい紅の眼を向けられても……、それは少しも変わらぬ想い。
が、イタチは目を伏せ、呟くように言った。
「お前は……サスケの元へ行くと思っていたが……」
彼の眼には、やはり全てを見透かされていた。
だからこそ……彼は選ばせた。
「木ノ葉に戻るとは……お前らしいな……」
そして今、軟く笑む。
ズキリと心が軋んだ。
彼を大切に想う部分が、キシキシと鳴いている。
「イタチ……」
あの朝……。
彼の待つ川辺の少し上流に立ち、耐えた水の冷たさが甦る。
彼の元へ“去りたい”と願う心に流されぬよう……。
サスケに“逢いたい”という想いに流されぬよう……。
挫けそうな心を流してしまわぬように。
「あなたが『選べ』と言ってくれて……」
だが、今はちゃんと地に足をつけている。
「生き返った我愛羅も……」
だから、頼ることを教えてくれた彼に、
「ネジ君も……そう言ってくれて」
心の深淵に向き合うことを教えてくれた彼に、
「私は自分がどうしたいのか……初めて知った」
まっすぐに向き合う。
「私はサスケに逢いたかった」
イタチは黙って聞いていた。
その顔は、昔、幼い自分を見下ろしていた時と同じ。
「それがわかっても……、あなたの待つ場所へも、サスケの元へも“逃げずに”いられたから、私は木ノ葉の忍として生きることを決められた」
流されずに立っていられたから、“なりたい自分”を選ぶことが出来た。
哀れでも、醜くても。
強がりじゃなく、ただ一歩足を踏み出せた。
「……それでいい……」
イタチは穏やかに言った。
また、ナナの胸が鳴いた。
なりたかった自分を、イタチは誰より知っていた。
「それで……、今日はオレに何の用だ?」
サスケと違う、大人びた口調。
ほら……知っている……。
「オレを……殺しに来たのか?」
ナナはもう一度手にした面を握りなおし、言う。
「私……あの後、姉を殺したの」
「……そうか……」
最初にイタチに別れを告げられた満月の夜を思い出した。
「それで、決めたの……」
イタチを失望させぬよう、精一杯強がって、涙を押し込めたあの頃の自分がリンクする。
「私は、イタチとサスケの戦いを止める」
そして、ほんの少し前に、同じことをサスケに告げた涙まみれの自分も蘇る。
「それが……私の願い」
イタチは顔色を変えなかった。
「ずっと言えなかった、私の意志だから……!」
ナナの声は、二人の周囲の空気を切り裂くように、切なく響いた。
それでもイタチは、僅かにマントを揺らしただけで、黙ってナナを見つめていた。
「どうして……サスケを傷つけたの……?」
ナナは少し、顎を上げた。
「何で木ノ葉を抜けたの……?」
溢れ出す“問い”もまた、初めて口にするもの。
「ナルトを……九尾を狙うのはどうして……?」
今さらやっと口にする。
「一族を殺したのは……本当……?」
ずっと怖れていた言葉……。
イタチは初めて目を伏せた。
「お前は知らなくていいことだ」
「どうして?」
「……オレたちには関わるな」
彼の“今さら”な言葉に、ナナは思わず口の端を上げる。
「イタチが答えなくても……私はイタチを信じてる」
あたりまえのこと。
「信じてるけど……、本当にサスケを殺そうとするなら止める」
簡単なこと。
「私が信じるアナタを……殺そうとするサスケも止める」
ただ、ちょっと我が侭なだけだった。
木ノ葉の忍としても、サスケの仲間としても、口にできなかったというだけのこと。
これがいずみナナとしての言葉、意志、想いだった。
初めの誓いはただの強がりだった。
抜け忍としてイタチが現れるなら、木ノ葉の忍として戦う……と。
サスケの代わりにイタチを殺す……と。
自分と二人に誓ったのは、その想いを口にすることを怖れていたための、ただの強がり。
そして弱さだと気付いた。
「ナナ……」
やっと言い終えたナナを、まるでなだめるようにイタチは言った。
「また……強くなったな……」
また、あの頃のような眼差しをよこす。
「サスケと戦わないで」
だからナナも、あの頃のように強く立つ。
「……もう遅い……」
イタチが何と言おうとも。
「オレたちの……呪われた歯車は廻り始めてしまった」
「私がそれを止めるから」
揺るがず、逸らさず、怖れずに。目の前の忌わしい歯車を見定める。
「たとえ敵わなくても……」
チカラが足りなくても。
「二人にとって邪魔な存在だとしても」
『必要ない』と、知っても。
「私にとっては、何より大切な二人だから……!!」
イタチの眼に、一瞬だけ影が揺らいだ。
ナナは其れを見据えた。願いと想いを込めて。
「オレは一族を殺し、里を抜け、弟を復讐者にした男だ」
いくら冷えた言葉をぶつけられても、
「最初にお前が言ったように、オレはお前の敵だ」
目は逸らさなかった。
「“止めたい”のなら……、サスケと一緒にオレを殺せ」
その代わり、無理に笑ってみた。
「サスケにも言われた……」
イタチの眼が、また揺れた。
「イタチが大切なら、イタチの元に居ればいいって……」
全身に、嫌悪と悲壮、蔑みを持って拒絶したサスケの言葉を、かみ締めながら呟く。
「そして“止める”なら……一緒に殺してやるって……」
小さな苛立ちが、腹の底に湧いた。
それを抑える術も義理も、もうナナにはなく……。
「私が死んで二人が止まるなら……さっさと私を殺してよ」
強さと供に現れるそれを、ナナは隠しもせずにイタチに晒す。
「今さら『自分を殺せばいい』だなんて……」
鼻の奥がツンとした。
「……イタチがどれだけ優しいかを知ってる私に言わないでっ……!」
強がりな誓いを立てた後も、何度も何度も救ってくれた彼の想いを、優しさを、信じて疑わないから、
「私っ……」
感情をむき出しにしてでも、それに懸ける。
「イタチと戦う瞬間まで、サスケと一緒に居たかったの……!」
何も言わない、孤独なヒトに。
「そして“その時”が来たら、二人とも護りたかった……!!」
ひとつも打ち明けてくれないイタチに。
「叶わなくても、そうしたかった……!!」
深淵を覗かせてくれなくても、己のそれは曝け出す。
「だけどっ……アナタを殺すために生きるサスケにとって、アナタも護りたい私は必要なかった……」
傷も、想いも、苛立ちも……、全て知っている彼に、全てを伝える。
「……それでもっ……!!」
まるで魂をぶつけるように。祈りすら込めて。
「どんなに拒絶されても、私は……」
遠ざかるサスケの背に怯えても。
何も言わないイタチに怯えても。
「……二人を止めると誓ったから……」
まっすぐ……。
もう意志は曲げない。
「叶わなくても……」
最後にそう呟いた瞬間、冷えた涙の痕に、熱い雫が伝った。
それを……。
「ナナ……」
イタチの指先がすくった。
いつのまにか縮んだ距離。
ナナは面を手放し、彼のマントを握り締めた。
「戦わないでっ……サスケと……!」
懇願というより、威迫に近かった。
「戦わないでっ……!!」
イタチの眼に映る己の姿は、ひどく哀れな様だった。
が、まっすぐそれを睨みつけた。
醜くても、哀れでも、逃げることを辞めたかった。
「もう遅い……」
「わかってる……」
「サスケの憎悪は止まらない……オレはそれを受ける運命だ」
「それでも……!」
だから、今更なだめるイタチに向かって言う。
「それでも私が止める……!!」
イタチが……自分を傷つけまいとして、「関わるな」と言ったのは知っている。
いい加減、自分を気遣う彼に対する感情は、歯がゆさと苛立ちでしかない。
イタチはついに、諦めたように目を伏せた。
「どうしても……オレたちを止めたいというのなら……」
ナナは彼のマントを握りなおした。
「ここから西にある“うちは”のアジトで、オレはサスケを待つ」
そして彼の言葉を聞く。
「そこで決着をつける」
冷たい光にも目を逸らさない。
「お前の意志を……もう揺るがせられないのなら……」
「……行かないで……」
涙が流れても、
「其処に来ればいい……」
「……行かないでっ……!」
声が震えても……
「イタチっ……」
最後の願いを引きずり出す。
「お願い……!!」
イタチはまた、指をナナの頬に這わせた。
影が揺れた。
「……ナナ……」
そして、今までになく惨痛を露にし。
「お前には止められない……」
無情の言葉で斬りつけた。
「……だから……其処には来るな……」
二度と眼は合わさなかった。
「オレの……」
彼はナナの手をマントから引き剥がし、
「それがオレの願いだ……」
一歩、下がる。
「イタチ……」
また一歩。
開いていく距離には、もううんざりだった。
「私、今度はちゃんと行くから……!」
壊れそうな自身にもとどめを刺すように……。
「絶対に二人とも死なせないからっ!!」
ナナはそう叫んだ。
イタチは最後に、また漫ろ笑む。
そして、彼の姿は弾けるように形を変え、乱れ飛ぶ数十羽もの鴉となった。
「イタチ……」
やがて鴉たちは、ナナを残して全て飛び去った。
疲れ果てたように膝を付いたナナは、突如、クナイを地に突き立てた。
「くっ……!!!」
無力さ……歯がゆさ……悔しさ……もどかしさ……。
湧き上がるそれらにチカラを奪われぬよう、強く、刃を突き刺す。
ひとつ、雫が手甲に落ちた。
それを拒むよう、ナナはぎゅっと目を瞑る。
瞼の裏には、遠ざかる二人の背……。
「行かなくちゃ……」
振り切るように、声に出して言ってみた。
「止めなくちゃ……」
イタチの分身が消え去った所を見据え、右手でむき出しの左肩を掴む。
結局、消えなかったこのクセ。
「叶わなくてもっ……!」
ナナは痕が残るほど強く、かつてイタチのサラシが在ったそこを掴み、吐き出した。
そして再び、カカシから継いだ面を取り上げた。