すぐそばに居たはずのイタチが、向こうからこちらを見ている。
触れていたはずの手は、少しの温もりさえ残さず消えた。
胸を貫かれていた彼は、一滴の血も流してはいなかった。
そのことへの安堵より、何故か薄氷の上に立たされているような感覚が強かった。
ナナはその場に膝をついたまま、立ち上がることすらできずに居た。
「アンタの小芝居に付き合うのもここまでだ」
サスケが吐き捨てるように言って千鳥を収めた。
「サスケ……お前はまだ、オレと
同じ眼……つまりは万華鏡写輪眼のことだ。
イタチはそれを持ち、サスケは未だそれを持たない。
ナナは目の前のサスケの背を見上げた。
「なら、さっさと万華鏡写輪眼とやらでオレを殺してみろ!」
その背に虚勢は無かった。
「それとも、オレでは“己の器”とやらを量りかねるのか?」
声にたっぷりの皮肉すら浮かべていた。
イタチはため息をついた。
「かなりの自信があるようだな……」
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
二人はナナの存在など忘れたかのように互いに向き合った。
少しの沈黙の後、
「万華鏡写輪眼……この眼は特別なもの……」
イタチは話し始める。
「開眼した時から闇へと向かう」
それはその眼の持つ秘密。
「使えば使うほど、封印されていく……」
「どういうことだ……?」
低く問いかけるサスケの後ろで、ナナは口を引き結んだ。
『闇』『封印』、二つの嫌な単語が心を暗くする。
だがイタチは、事実をあっさりと告げた。
「万華鏡は、いずれ光を失う」
その台詞通り、心は真っ暗だった。
だが、サスケに喫驚は無かった。
「失明か……」
そればかりか、ナナを震駭させる台詞を放った。
「それが九尾をコントロールする力を得るための代償ということか……」
ナナは己の耳を疑った。
「え……?」
『九尾』『コントロール』……その二つの単語は、並べて聞くにはあまりにかけ離れる単語だった。
だが、ナナの驚愕は取り残される。
「フ……」
イタチは小さく笑み、ゆっくりとこちらへ向かう。
「“うちは”の集会場の石版を読めたようだな」
そしてサスケは彼をますます鋭く睨みあげる。
「その眼を最初に開眼したというマダラは一体何者なんだ?!」
イタチはまた一歩、サスケとナナに近づいた。
「オレの相棒であり、師であり、不滅の男……」
告げるイタチの眼は、まるで知らない色をしていた。
「怖い」……単純にそう思った。
足元の氷は今にも割れそうだった。
そして、身体を強張らせて身構えたナナの耳に、イタチは信じがたい事実を告げた。
「そして九尾を手懐けた最初の男だ」
「どういう……こと……?」
ナナは初めて口を挟んだ。
いや、勝手に唇がわなないた。
「九尾を……手懐けた……?」
サスケにだけ向いていたイタチの視線が、ようやくナナに移った。
その眼は、不吉な夜に浮かぶ紅い月のようだった。
「お前が“知らない”というのは不幸だな、和泉菜々葉」
まるで憐れむような声。初めての呼び方。
それらがイタチの口から発せられたことが信じられず、ナナは次に告げられる言葉を拒絶するように身を引いた。
だが、彼は言った。
「十六年前、木ノ葉を襲った九尾の事件は……」
薄く笑ってさえいた。
「マダラが起こしたものだ」
氷は音を立てて砕け散った。
驚く間もなかった。
沈む身体を支えるかのように、ナナは床に手をついた。
「う……そ……」
受け入れられるはずもなかった。
九尾を呼んだのが、うちはマダラ……。
木ノ葉を混乱に陥れ、多くの不幸を生み、四代目火影を死に追いやり、そしてナルトと自分に宿命を背負わせた……その人物が“うちはマダラ”だという。
「だっ……て……九尾は……」
声が喉の奥で掠れた。
「九尾は“天災”と言われてきたはずだ……!」
上手く話せないナナの代わりに、サスケが唸るように言った。
「木ノ葉も火の国も、他国も……そして和泉一族さえもそう思ってきただろうが、それは違う」
ナナの額にいつの間にか浮いていた嫌な汗が、前髪を伝い落ちた。
残酷なイタチの言葉は、呼吸すらも困難にした。
「九尾はマダラが呼び出した。それが事実だ」
疑念の欠片さえ持つことが許されぬイタチの声。
サスケは足を鳴らし、苛立ったように言った。
「うちはマダラとは、一体何者なんだ!?」
その声に縋るように、ナナは彼の背を見た。
そして捕らわれたかのように、その向こう側のイタチの眼に吸い寄せられる。
そこにはすでに、ナナなど映ってはいなかった。
「何も知らないお前に、“うちは”の歴史を話してやろう」
彼は再びナナの存在を忘れたかのように、サスケに言った。
息が苦しかった。
割れた氷の下は、冷たく暗い水だった。
まるで、そこで溺れてしまうようで……それでもナナはもがくことすらできずにいた。