「言ったはずだ」
先に立ち上がったのは、月読を破ったサスケだった。
「アンタがいくらその眼を使おうが、オレの憎しみで幻は現実になる……と」
ナナだけが、まだ幻と現実の挟間に漂っていた。
「幻が現実になる……か」
イタチも立ち上がり、フッと笑った。
彼には似合わぬ、毒を持った笑み。
「その台詞、そのまま返しておこう」
兄と弟は再び向き合った。
「さっきの月読で、己の眼が奪われるのを見ただろう……?」
まだ幻から抜け出せないナナは、イタチの言葉にサスケの鮮血を想起する。
もう二度と……幻であったとしても、二度と見たくはない光景のはずなのに、
「それを現実にしてやる」
言い放つイタチの言葉を、まだ信じられない自分に気づいている。
右眼を閉じ、印を結ぶイタチの行為を、まだ現実と思えない自分がいる。
だから、イタチが術を発動させる前にサスケが放った手裏剣が、イタチの足に突き刺さった時、ナナは歯を食いしばった。
初めて見るイタチの血の色。
気づいてしまった。
(私は……まだ……)
イタチを信じている。
あんな光景を見せられて、それを現実にしようとするイタチを見せられても、イタチをまだ信じている。
そして思い知らされる。
己にとって、イタチの真意はさっきの言葉などではなく、記憶の中にある温もり……。
どんなにイタチが冷たい眼でそれらを打ち捨てようと、この心はそう信じたままだと。
幻術だったなどと信じられるわけがない。
感じた自分を信じたかった。
たとえサスケが殺されようと、自分が殺されようと、永遠に過去の記憶に捕らわれたままなのだと。
また、ひとつ罪が重なった。
(ごめんね……)
この痛みは逃れようもない罪。
(ごめんね……サスケ……)
ここまで来ても、変えられない心。
(私は……)
初めから……サスケを愛する資格など無かった。
そんな現実に、今さら目が眩みそうだった。
それでも目を閉じることさえできなかった。
二人が屋根の上へと消えて行った。
が、目を伏せることもできない。
突き破られた屋根が瓦礫の雨を降らせたが、それを避ける力も無かった。
二人の火遁が、ぶつかり合った。
その下で、ナナはただ己の身を抱いた。
なんとちっぽけで愚かな存在だろう。
力など皆無。
止める力も、護る力も、ひと欠片だって持ってはいなかった。
決意こそが幻だった。
二人を止めるのだとようやく持てた決意だったはずが、その実、どちらを止めるべきかわからなかっただけ。
どちらを護ればいいのか、選べなかっただけ。
サスケの傍にいた赤い髪の少女の蔑みを思い出した。
自分はもう、サスケには必要の無い存在。
彼女の言うとおりだった。
むしろ、出会わなければ良かったのだ。
サスケにも、イタチにも。
彼らと想いを交わしても、結局、何もわからないままだった。
抗う手は空を掴んだ。
もう何もできない。何もわからない。
このままサスケと供に、信じたイタチに殺されるのか。
信じたイタチと供に、サスケに殺されるのか。
ただ、この惨めな生の終わりを考える。
それを求めて頭上を見上げる。
イタチの黒炎が、呪印を浮かばせたサスケに襲いかかった。
あれを護って、サスケと逝こうか……
天井に新たな傷ができ、黒炎から逃れたサスケが現れた。
そして、呪印の力をさらに濃くして火遁を放った。
火龍は屋根のイタチに襲いかかかった。
あれを護ってイタチと逝こうか……
ナナは静かに息をついた。
屋根はほとんど崩れ落ち、イタチの姿が見えていた。
右腕に傷を負い、右眼から血を流しているイタチ。
彼の向こうの空が、妖しげに鳴き始めていた。
それをぼんやりと見上げ、ナナはすぐそこにいるサスケに視線を戻す。
彼は疲れ切ったように膝をついた。
それでも、口の端を上げて切れ切れに言う。
「さすがのアンタも……さっきの
呪印が徐々に引いて行った。
ナナはもう一度イタチを見て、またサスケを見た。
「そろそろ決着をつけてやる……」
ゆっくりと立ち上がりながら、サスケは言った。
「オレの最後の術だ……」
最後……。
その言葉を、ナナは独り繰り返す。
「強がりはよせ……」
そして再びイタチを見上げる。
「さっきの大蛇丸流の変わり身の術……アレはそうとうな量のチャクラを使う」
イタチもまた、息を切らしながら言った。
「写輪眼はチャクラを見る眼だ。もうお前にチャクラが残っていないのは見えている」
嫌な風がナナの髪を揺らした。
「確かに、さっきの火遁で全て使い切ったからな……。オレにはもうチャクラが無い」
不吉な雲が立ち込めた。
「だが……」
ポツ……滴が空から落ちてきた。
「アンタを殺すために、オレが何もせずにここまで来たと思うか?」
空が、鳴いていた。
「一瞬だ」
ナナはサスケに視線を移した。
「この術は絶対にかわすことは出来ない」
時を急かすかのように、滴はすぐに雨へと変わった。
「現実を見せてやろう……」
サスケは憎しみの心だけで立っていた。
「アンタの死を……!」
彼に降り注ぐ雨も、その憎しみを冷ますことなどできなかった。
サスケはイタチを睨んでいた。深い憎しみを紅い眼に込めて。
ナナはじっとサスケを見つめた。彼の最後の術を待っていた。
が、サスケの視線が変わった。
イタチを通り越し、その向こうの空へ……。
イタチがそれに気づいて空を見上げた瞬間、眩い稲光が走った。
(雷……)
サスケの最後の術を待つだけと思った時、ナナの心は初めて鎮まった。
あの雲が、サスケが作り出したものだとわかった。
さっきの火遁を打ち上げたのはイタチが狙いだったのではなく、気流を発生させるため。
この雷雲を生み出すため。
それが理解できるほど、頭も冷静さを取り戻していた。
意外とあっけない『答え』だった。
波打つ心など捨ててしまえばよかったのだ。
愚かな生など、さっさと投げ出してしまえばよかった。
サスケの腕で、千鳥が鳴いた。
(アレが……最後の術……)
サスケの目的を知り、ナナは息をついた。安堵と諦めが入り混じっていた。
サスケの雷遁は雷雲の力を得て、その威力を何倍にもするだろう。
そして彼が言ったとおり、落ちる雷を避けるすべはない。
たとえイタチでも……。
周囲に雷鳴が轟いた。
サスケはそれに誘われるように、空に近いところへ登って行った。
サスケの姿が遠くなって、ナナはゆっくりと立ち上がった。
久しぶりに力を入れた足は、少しフラついた。
「見ろ、天から降る雷だ……。オレはこれをアンタへと導く……!」
サスケはイタチを見下ろして言った。
彼のマントが、ナナの肩からすべり落ちた。
「術の名は“
サスケの向こうで、時を待ちわびる稲妻が光る。
その光はまさに麒麟のごとくに形を変え、大気を震わす声で鳴いた。
ナナは背の刀を抜いた。
(カカシ先生……)
そして切っ先を見つめて呟く。
(こんな使い方しかできなくて、ごめんなさい……)
古びた柄を両手で握る。
(綱手様……)
刃に映る自分の顔は、情けないほど青ざめていた。
(これを託してくれたのに……ごめんなさい)
そこに雨が伝い、ナナの姿はさらに醜く歪んだ。
(サクラちゃん……ナルト……)
ナナは顔を上げた。
(ごめんね……)
雨が痛いくらいに強く当たった。
(姉上……)
イタチはサスケを見上げて立っていた。
(ごめんなさい……)
そこへ行く力は無かった。
(イタチ……)
ナナは空を見たまま跪いた。
(ごめんね)
そして、
「雷鳴と共に散れ……」
サスケの最後の言葉とともに、ナナは小さく笑んだ。
そして、サスケは千鳥が泣きわめく左腕を振り下ろした。
憎むべき兄の元へ。
麒麟は導かれるがまま、其処に落ちた。
(サスケ……)
ナナは目を閉じた。
手にした刃が受ける雷光。
それが罰となることへの安堵だった。
未練は無かった。
後悔は山ほどあった。
それでも、心は痛まなかった。
ただ、ひどく……疲れていた。