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「なるほど、そんなことが……」
時は戻って、二〇一八年六月某日。
咲来が高専を辞めた理由となった出来事を聞いた七海は、かろうじて声を絞り出した。
正直言ってしまえば、呪術界ではよくあるとは言えないが、それなりに起こりうることだった。七海自身、呪術界隈をしばらく離れていたため実際に対面したわけではないが、そういった話を何度か聞いている。
しかし、それでも、一人女の子が背負うには、あまりにも苦しすぎる過去だった。
特徴的な形の小さなサングラスの間の眉間に、自然と皺が寄る。ストレスを抱えがちでよく寄ってはいるが、その皺は一層濃い。
「……それで今は、高専に斡旋してもらって、この高校に通っているんです」
咲来は視線を落とし、震えた声で、説明を続ける。
呪術高専を辞めるにあたって、たった四か月の学生とはいえ、これまで苦しい世界で貢献してくれたということで、様々な便宜が図られた。その一つが、一般の高校への編入試験の斡旋だ。元々そこそこ勉強ができて、高専ではさらに東堂に教わった結果、彼女の学力はそれなりのものになっていた。高専の授業では普通なら一般の高校に後れを取るが、彼女は無事に合格し、この高校に通っている。
場所が神奈川なのは、編入試験を受けさせてくれる高校らが全て地元広島から遠く、それなら一番校風が大人しめということで選んだからだ。呪術高専東京校とも都道府県がお隣であるため、呪術界からのアフターケアも受けやすいのもメリットである。
今の咲来の立ち位置は、ほぼ一般人も同然だ。極端に言えば、呪術や呪霊の存在を知っている非術師とさほど変わらない。
高専を去った呪術師には、その呪力を活かして、補助監督や、外部から呪術現象を感知して連絡する「窓」の役割も宛がわれることもある。咲来もそのスカウトを受けたが、当時も、そして今も、あの出来事を思い出してしまって辛いので断って、一般人として生活することにしている。
「結局、自惚れていたんですよ」
眼鏡の奥の目線が、真下から、斜め下になる。その声には、多分に自嘲が含まれていた。
「自分だけが持っている特別な力。実際、そんな大したことないのに……」
何が「人を助けたい」だ。
呪術師になることを選んだ自分が、心底情けない。ただ幸運にも弱い呪霊にしか会っていなかっただけで、少し世界が広がれば、もう何にもできず、大事な親友と先輩を殺しかけてしまった。
順を追って話しているうちに、咲来の気分はすっかり沈んでしまっていた。七海としても、ここまでの話ならば、無理に話さなくても、と止めたかもしれない。
(少しお人よしすぎますね)
話したくないだろうに、彼が聞いたから無理をしてでも話した。呪術師らしからぬお人よしさだ。かつての同級生の顔を思わず脳裏に浮かべてしまいながら、七海は小さく顔をしかめた。人助けが理由で呪術師になり、挫折して去った。そんな過去が納得できてしまう性格だ。
「…………それで、あの林では何を?」
あいにくながら、気の利いた慰めの言葉は出てこない。沈黙も辛いだろうと思って、話を進める。
今の話を聞くに、咲来があの林にいるのは不自然だ。何せ、もう呪術には関わりたくないはずで、あんな呪霊が湧きやすい場所に、近づくわけがない。
「えっと、その……パトロール、みたいなもの、ですね」
咲来が言いにくそうに答える。
「あそこは、あんな状態だから前々から呪霊が出やすくて……といっても、二か月に一回あれば多い方で、出現するのも蠅頭程度なんですけれど。でも最近、ほんの少し、出る数が多くなっていたんです」
なんだそれは。
七海は理解できなかった。
呪術師としてのトラウマを抱えて去り、「窓」にすらならなかったのに、その身一つで、呪霊が出やすい場所を、呪霊を見つけるためにパトロールする。
自分もあまり人のことを言えないが、行動が矛盾している。
「その、あのう……変なのは分かっているんですけど、放っておけなくて……何かあったら、霞ちゃんたちや歌姫先生を通して連絡できれば大事にもなりませんし……」
彼女も、おかしい自覚はあるようだ。前髪とレンズの奥の目線が酷く泳いでいる。
「同級生や先生とは今も連絡を取り合っているのですか?」
「は、はい。あっちが忙しくてあれ以来会ってはいないんですけど、LINEとかで……」
答えが返ってきてから、七海は内心で渋い顔をする。
連絡を取り合っているか否かの確認は、職務上大事だ。場合によっては、歌姫たちにも聞いて彼女についてもろもろの確認が必要になるかもしれない。今も連絡を取り合っているならば、詳しいことが聞けるだろう。
一方で、今の質問は、七海の個人的な心情も混ざってしまっていた。
挫折して去っても、友好関係は続いたまま。酷い出来事に遭って去ってしまってはいるが、全く良い影響がないというわけではないようだ。
私情を挟みすぎてしまう。
自身も学生時代、様々な挫折を経験した。そして、「呪術師はクソ」と判断し、呪術師を辞めて一般大学へと進学し、一般企業に勤めていたこともある。経緯は違えど、咲来は、自分と重なって見えてしまう。
七海は小さく深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「なるほど、話は分かりました。ありがとうございます」
「は、はい、どうも……」
この話題を続けると、両方にとってよくなさそうだ。
とりあえず、疑問は解消した。
元呪術高専の生徒で、偶然あの高校に居て、七海が呪霊に襲われているのを見つけたから自分の術式で助けた。
これだけ分かれば十分だ。
「そ、そのう……」
そう判断したところで、咲来が言い出しにくそうに、まごまごとしている。顔の向きからして上目遣いになっていそうに見えるが、その目線は、少しだけ七海の顔からずれている。
「それで、七海さんは、なんでうちの高校に?」
咲来からすれば、七海もまた、不思議な存在だ。
呪術師が学校に来たとなれば、まず理由として思いつくのが、うぬぼれでもなんでもなく、自分の存在だ。何か自分がやらかしたか――身に覚えはある――過去の何かを聞きに来た可能性はある。
だが、今の七海の反応を見るに、自分について知らなかった。呪術師のミッションが情報不足なのはいつも通り――あのトンネルの出来事だってその一種だ――ではあるが、いくらなんでも、自分が目的なら、自分について知らないということはあるまい。
そうなると、何か呪術師が出るようなトラブルがあったのだろうか。とはいえ、休み時間などに善意で校内パトロールをしている中では、異常は見当たらない。呪霊の頻度がほんの少し増えたのも、季節柄やテスト前というのが関係しているとすれば自然であり、呪術師が出張るとは思えない。呪霊を疑うような事件すら、起きたというのは聞いたことが無かった。
それについては七海も同感だったようで、質問に驚くことはない。ただ、少しばかり黙り込んでいる。話すべきかどうか、考えているのだろう。
「……本来は機密ですが、元呪術師だというのなら、お伝えしてもいいでしょう」
呪術の話は一般人に対しては重要機密だ。だが呪術師間ならば、別に話しても問題ないこともある。
「私の今回の任務は、あの学校に置かれている呪物の確認です」
「じゅ!?」
咲来の口から素っ頓狂な声が漏れる。それは、二人以外客がいない喫茶店に、よく響いた。咲来は恥ずかしそうにしながら、即座に口を押える。大人しそうな子ではあるが、動きは意外とコミカルだ、と七海はどうでもよい印象を抱く。
「毒を以て毒を制す、という言葉をご存知ですか?」
「それは、まあ」
ことわざとしては有名だ。
「これは、呪術に関しても同じことが言えます」
「それも、えっと、はい……」
呪力の根源は、言ってしまえば負の感情だ。当然よくないものであり、それによって呪霊は生まれ、人に害をなす。
だがそんな呪霊を祓うのも、呪力を操る呪術師だ。毒を以て毒を制す、を体現していると言える。
咲来の返事はそれを念頭に置いたものであったが、七海が話そうとしているのは、別のことだ。
「呪物が放つ呪力は、呪霊を牽制することができます。学校のように、人々の感情が集まる、呪霊が発生しやすい場所には、発生を防ぐために、呪物をあえて置いておく場合があるのです」
「は、はあ……」
知らなかった。
思わず、唖然としてしまう。
まさか、呪術師から離れた先の一般の高校に、呪物が置かれていたなんて。一応目に呪力を籠めて校内パトロールは一通りしたはずだが、気づくことはなかった。
「当然、呪物そのものは厳重に封印し、生半可な呪術師では感知できない程度にしか呪力を放ちません。ですが呪力そのものである呪霊はそれを察知し、そこに近づくことを避けるのです」
理屈としては間違っていない、のだろう。
学校は呪霊が発生しやすく、それでいて一般人の子供たちが多く集まる場所だ。危険が発生する確率も、それが大人数に影響する確率も、隠ぺいのしにくさも、無視できないほど大きい。それを予防できる手段があるならば、人手不足も相まって、採用しない手はないだろう。
だがそれにしたって、呪物を置いておくというのは、危険が過ぎる。多分そうそう手出しできない場所に保管されているのだろうが、悪戯好きな生徒が触ったりしたら大惨事だろう。また、うっかり封印が解けようものなら、何があるか分からない。
手段としては有効だが、あまりにもリスクが高すぎる。
咲来は複雑な感情を抱いた。たった四か月しか呪術界にいなかったから、そんなことをしていたなんて知らなかった。
「あなたが通うあの高校は、呪物が置かれている施設の一つです。私は、それの状況を確認しに来ました」
「な、なるほど……な、なんかごめんなさい……」
その矢先に、呪霊と遭遇し、そして予想外の呪術師に会ってしまったわけだ。あの呪霊はサイズこそ大型だったが、咲来でも簡単に倒せたことから、そう強くない。七海も対処できただろう。あの出会いからすぐにここに来たため、咲来は余計なおせっかいで、仕事を邪魔してしまったらしい。
「いえ、それは構いません。それにもう、調査は完了したと言えます」
「へ?」
そんな咲来の心配は、杞憂だった。
「貴方の話と私の見た現場を総合すれば、大体の状況がわかりました。結論から言えば、対象呪物の封印は解けかけているようなので、一旦高専に持ち帰って封印しなおす必要があります」
「『見た現場』……?」
七海の話に、咲来は疑問を呈する。咲来の話から何かわかったというのも今一つピンとこないし、七海が現場を見たというのも分からなかった。
「貴方がパトロールしていた林の近くに百葉箱がありますよね?」
「は、はい……」
「あの百葉箱の中に、その呪物が封印されています」
咲来は言葉が出なかった。
まさかの、人の監視が行き届きにくい上に屋外だ。それも百葉箱となると、生徒が触ることもあるだろう。
学長室の隠し金庫とかそのレベルを想像していただけに、そのとんでもない隠し場所に驚愕するしかない。
「せ、セキュリティとかは大丈夫なんですか?」
「まず、呪力や呪術、呪霊の存在自体を一般人に知られるわけにはいけないことは知っていますよね?」
「……はい」
「では、一般人が圧倒的多数となる学校に、厳重に保管してあるものがあるとしましょう。だというのに、ほとんどの人間がその中身を知らないし、聞いても機密扱いとなる。そうだとしたら、はたしてどんなことになるでしょうか」
「…………なるほど」
秘密がここにありますと暴露しているようなものだし、気になって仕方のない人が出てきて手出しをする可能性もある。
それならば、なんの変哲もない百葉箱の中にでも隠しておく方が安全なのかもしれない。
「実はあの高校の学長は、呪術師ではないものの、一般人の協力者です。成宮さんを急に受け入れられたのも、そうした事情があるのでしょう」
思わぬところで関連性が生まれてきた。
呪物が保管してある学校。そこの学長ならば、確かに呪術の存在を知っていてもおかしくはない。だから、あんな時期に来た自分を受け入れることもできる。
自分の知らないところで、離れたはずなのに、呪術界が深いところまで入り込んできている。なまじ自分が「入り込んできている」恩恵を受けて任務をこなしていた過去もあるため、背筋に冷たいものが走った。
それと同時に、疑問も浮かんでくる。
あの林の傍にあった百葉箱に、呪霊を牽制するための呪物が安置されているとしたら。
「――じゃあ、なんでむしろ呪霊が増えているんですか……?」
咲来の――ぽろっとこぼした最近少し呪霊が増えているという――話が、ここに関わってきているのは分かった。だが、その筋が見えてこない。
その質問は分かり切っていたようで、七海はすぐに答えた。
「それを分かるためには、あの百葉箱に封印されている呪物について教える必要があります」
なるほど、一口に呪物と言っても、性質は様々だ。生まれる経緯からして、異常なものなのだから、一つとして同じものはないだろう。
ただ、あんな何の変哲もない学校の屋外に置かれているようなものだ。大したことない低級の呪物であることは確かである。大抵の呪物は危険極まりないから破壊されるが、破壊するにも値しないレベルで、それで利用法があるから置いてみた、というところだろう。
「あの呪物は、特級呪物≪獅子蟲≫です」
「…………はい?」
そんな油断をしていたから、想像のはるか上を行く答えが返ってきて、意識が飛びかけた。
たっぷり十数秒の沈黙を経て、咲来が呆けた声で聞き返す。
「特級呪物≪獅子蟲≫です」
聞き間違いではないらしい。
特級。
1級の上に位置する、楽巌寺学長曰く、尺度の斜め上に外れた存在。
現代の呪術師において特級術師はたった四人だけ。特級呪霊で存在が確認されているものは十数体で、そのどれもが、現代兵器が効くとした場合で例えるならば「絨毯爆撃でトントン」が「最低ライン」となる。
咲来の知る特級は、術師のみだ。
五条悟。歌姫が「バカ目隠し」と呼んでいる、最強の呪術師。
乙骨憂太。名前だけしか知らず会ったことないが、咲来の元同級生らしい高専生。あの例えようもなく強い東堂含む頼りになる先輩たち全員を交流会でボコボコにしたらしい。
九十九由基。これまたあの途方もなく強い東堂の師匠だと、勉強を教わっている時にぽろっと聞いたことがある。
夏油傑。元高専生の特級術師で、呪詛師に身を落とした。咲来が高専を去った約四か月後に、「百鬼夜行」と呼ばれる事件を起こして、討伐された。数多の呪霊を操り、その中には1級呪霊や特級呪霊が何体もいたという。
咲来が直接遭遇した中だと、最強は、間違いなく、彼女を退学へと追い込んだ、あのトンネルの呪霊だ。推定等級は1級。1級術師はそれを確実に祓えるレベルが目安とされ、特級はその遥か斜め上の存在と言うことになる。
そんな等級を与えられた呪物が――呪術から逃げた先の、なんの変哲もない学校に置かれていた。
思わず吐き気を覚えて、口元を抑える。
あのトンネルの光景が、ふとフラッシュバックしてきた。
それなりになじめた学校だ。友達もできた。
そんな彼女・彼らが、あのトンネル以上の呪いでなすすべもなく惨殺される想像。
――だがすぐに、咲来は注文していたオレンジジュースで口の中を湿らせ、吐き気ごと飲み込む。
あれ以来、こうしたフラッシュバックは起きていた。未だに辛いが、その対処には、悲しいことに徐々に慣れつつあった。
「……大丈夫ですか」
「へ、平気です。すみません」
七海には心配をかけてしまった。初対面から変わらず鉄面皮で平坦な声だが、なんとなく、本当に心配していることは分かる。まだ血の気が引いているのが自分でもわかるが、謝りながら、話の続きを促した。
「……安心してください。特級呪物と言っても、厳重に封印されています」
さっき緩みかけていると言っていたのは、あえて無視することにした。今ここにいるということは、緊急性が無いことは確かなのだから。
「特級呪物≪獅子蟲≫は、元々は江戸時代に生まれた特級呪霊でした。それが当時の術師によって祓われたものの、完全に祓いきることができず、呪物として残ってしまったものです」
そういえば真依が、咲来と霞を怖がらせてからかう目的で教えてくれたことがある。強力な呪霊は、無力化こそできても、完全に祓うことができず、いわば仮死状態で呪物として残り続けることがあるという。冗談だとは思ったが、本当の話だったようだ。怖がらせる目的でまさかの本当の話をしてきたのは実に趣味が悪いが、それはそれで彼女らしいだろう。
「≪獅子蟲≫そのものは、当初はさほど強力ではなかったそうです。しかし、別の呪霊にわざと取り込まれたうえでその体を乗っ取り、自身の力と合わせてより強大な呪霊へと成長していくことができる、厄介な性質を持っていた、と記録があります」
呪物もそうだが、呪霊もまた、千差万別だ。そんな性質を持っている呪霊も、いても不思議ではないだろう。
それと同時に、この話を聞いて、咲来は≪獅子蟲≫というネーミングに納得した。
その由来は間違いなく、「獅子身中の虫」だ。猛獣である獅子を食らうのは、外敵ではなく、その内側から湧いてくる虫である。本来は仏教界での例え話で、仏教に真に仇を成すのは、悪意のある仏教徒である、ということを示す。転じて現在では、組織内の裏切り者や厄介者を指すことわざにもなっている。
宗教とのかかわりが深い呪術界らしいネーミングだ。
「≪獅子蟲≫は現代で言うフェロモンに似た呪力を放ち、呪霊を引き寄せることができます。今回、逆に呪霊が増えてしまっているのは、封印がわずかに緩んでいて、本来の呪力が漏れてしまっているからでしょう」
ここまで聞けば、納得がいく。
学校と言う呪霊的危険地帯に、呪霊を牽制するための特級呪物を置いた。その呪物がたまたま、本来は呪霊を引き寄せる力を持つ≪獅子蟲≫だったので、わずかながらも呪霊が増えた。
呪霊を減らすためのものなのに、転じれば増やしてしまうもの。それを外部に置いておく采配に疑問がないではないが、とりあえず、現在の状況に納得がいったのは確かだ。
「幸い、あくまでわずかに緩んでいるだけに過ぎないため、仮に今の状態で呪霊に取り込まれたとしても、特に効果はありません。一度持ち帰り封印をかけなおせば、問題ないでしょう」
わずかに浮かびかけていた不安も、この説明で納得がいった。咲来はこれで何も気にせず、これまで通りの穏やかな日常を過ごせばよい。
「……それはよかったです」
いつのまにか夕方六時を超えている。三時過ぎに授業が終わって、紆余曲折あってここに来て、話をしていた。これぐらい時間がたっても不思議ではないが、なぜだか、やけに早く感じてしまった。
同じタイミングで時計を見ていた七海が、やや疲れたようにため息を吐く。この時間は、企業によりけりではあるがいわば「定時」だ。呪術師に労働時間制限などあって無きが如くだが、見た目に反して真面目そうな彼は、そういったところが多少なりとも気になるのかもしれない。仏頂面で今一つ人格がつかめずとっつきにくいが、そう考えると、少しだけ親近感が湧いてくる。
「七海さんは、このあと呪物を回収して戻る感じですか?」
「いえ、今はこんな時間ですからね。……もう夕刻で、そのあとは夜です」
なるほど。夕刻――逢魔が時。不思議と呪霊の活動が活発になり始める。夜は夜で、闇への根源的な観念が呪いへと転じてしまう、化け物たちの時間だ。そんな時間に呪物の移動をするのは危険だろう。
「ひとまず今日は近くのホテルに泊まり、明日の朝いちばんに回収して戻る予定です」
「そうですか」
七海の話は理路整然としていて、かつ端的に分かりやすく話す。それゆえに、一度話が終わってしまえば、気心の知れた仲以外では若干シャイな彼女は、話を続けることができず、やや気まずい沈黙が訪れた。
話は終わりだし、もう帰った方が良いだろうか。
咲来がそう考え始めたころ。
「……あの」
「は、はい!」
七海の方が、長い沈黙を破って、声をかけた。その声音は先ほどまでと大して変わらないが、不思議と幾分か言い出しにくそうに見える。
「…………呪術師を辞めて、どうですか?」
「え、えっと……」
まさかそれを蒸し返してくるとは思わなかった。咲来が驚いて固まっていると、七海もまた聞き方がまずかったかと顔を渋くして、訂正しようとする。だがそれを遮って、咲来は話し始めた。
「その、えーっと……少なくとも、呪術師をやっていたころに比べたら、安心して過ごせています。お友達も出来ましたし……」
「そうですか」
七海の感情は窺えない。ただ、それを聞いて、悪くは思っていない様子だ。
「霞ちゃんや歌姫先生とも連絡を取り合っていて、全く縁が切れたわけでもないですし、楽しくもやっています。確かに、あの時に比べて充実しているかと言うと、違いますけど……」
彼女の趣味は人助けだ。それを任務としてやり続けていた生活は、厳しくはあったが、充実はしていた。のこのこ自分から入っておいて、散々迷惑かけたあげく怖くなって逃げだしたことへの罪悪感もある。だからといって今の一般人生活が充実していないかと言うと、そうでもない。彼女は十分、満足している。少なくとも、もう一度呪術師に戻ることを、即断して拒否できるぐらいには。
それを聞いた七海は、たっぷり数秒、沈黙した。
「…………私も――」
短く話し始め、深く息を吸い込む。
そして、溜め込んだ息を吐き出すように、続ける。
「――私も、一度、呪術師を辞めています」
「え……」
そのカミングアウトに、少なからぬ衝撃を受けた。か細い声が漏れるだけで、それ以上の反応を返すことができない。そんな咲来が落ち着くのを待たず、七海は、まるで急ぐように、続きを話し出す。
「長くなるので話しませんが、私もかつて高専生でした。色々、色々あって、高専卒業後、一般大学へと入学し、民間企業に就職しました」
その声音は相変わらず平坦だが、わずかながらに震えている。咲来では想像もつかないようなことがあったのだろう。
「――呪術師はクソです」
吐き捨てるような言葉だった。一度呪術師を辞め、そして戻ってきた今、それでもなお、心の底からそう思っている。
「危険な任務に、経験の浅い学生を、まるで使い捨ての様に放り込む。ろくな情報もなく、人手不足だというのに、人が簡単に死んでいく。上層部はそれを放置して、権力と我欲にしか興味がない」
後半はさておき、前半は、咲来にも身に覚えがありすぎる。あの後で聞いた話からするに、しっかり情報を集めて早くに共有できていれば、防げたかもしれない事件だった。咲来は「しょうがないこと」と思ってその点に禍根は残していない。むしろ同時並行で必死に情報を集めてすぐに共有してくれたおかげで、歌姫たちが駆けつけるのが早かったと感謝しているぐらいだ。
だが彼は、そうは思っていない。
もしかしたら、咲来よりも辛いことがあったのかもしれない。
「それに嫌気がさして、呪術師を辞めました。一般大学を経て、入社したのは、それなりに有名な証券会社です」
「え、すごいですね!」
真剣な話なのだが、咲来は素で明るい声を出してしまう。呪術高専は四年制とは言え、一般的な高専よりもさらに学業においては遅れがちだ。そして、世間の常識と隔絶した世界である。ゆえに一般大学に入り卒業するのも難しいし、一般社会にも馴染みにくく就職が厳しいとも聞いている。だが彼は、証券会社に入社できたのだ。
咲来の乏しいイメージ――情報源は主にテレビドラマ――では、バリバリのエリートの集まりだ。
はた目には、大成功と言っても良い。
「……しかしそこもまた、酷いところでした。拝金主義で、金と成果が全て。そのためには他者を蹴落とし、客を詐欺まがいの手段で騙す。無理なノルマと業績に追われ、心身がすり減る日々でした」
思わず絶句する。明るい声で容易く「すごい」なんて言ったのを後悔した。
過重労働的な意味で使われることが多いが、その点もさることながら、犯罪まがいに手を染めている、いわば「ブラック企業」だったようだ。
「そこで思ったのです。サラリーマンもクソだと」
その声音に混ざる悪感情は、「呪術師はクソ」と言った時にも引けを取らない。咲来はその圧力に、すっかり飲まれていた。
「……それで、どうせ同じ『クソ』なら…………やりがいや人に必要とされる、呪術師を選んだのです」
ここで一旦、七海は呼吸を整える。その深呼吸は、カミングアウトし始めた時に比べ少しだけ覇気があり、明るく感じる。
「……きっかけは、そうですね。見かけた低級呪霊を、なんとなく気分が向いて祓ったことです。『ありがとう』……そんな当たり前の言葉が、嬉しかったのでしょうね」
「それって……」
咲来は、その先を口に出すのを憚った。
だが、間違いなく、七海も同じことを考えている。
「…………話したいのは、それだけです。適当に聞き流しておいてください」
少しバツが悪そうにそういうと、七海は立ち上がる。
もう話は終わりだと、その態度が示していた。
咲来は慌てて財布を取り出そうとする。だがそれを七海が制した。
「支払いは結構です。もう済ませてありますから」
「ええっ!? そんな、悪いですよ!」
「貴方は子供で、私は大人です。そもそもこちらの都合で付き合わせたのですから、こちらが支払うのは当然でしょう」
「は、はい……ありがとうございます……」
そうまで言われたら、何も言い返せない。
店を出て、咲来は家まで送ってもらう。その後七海が向かった先を見るに、町内にある場違いながらも少し高級なホテルへと行くつもりなのだろう。
「…………」
自室に戻り、部屋着に着替えると、ベッドに飛び込む。ふかふかの心地よい布団に身を預けながら、咲来はぼんやりと、先ほどの話を思い出した。
(……そっくりだ)
咲来と七海は、真逆の性質に見えて、よく似ている。
挫折を経験し、一度呪術師を辞めた。人を助けることにやりがいを感じている。
卒業したか否か、呪術師に戻ったか否か、意志の強さ、本人の強さ、性格。
大きく違う部分はいくらでもある。
だが、行動の本質的な観念が、一緒なのだ。
なんで、あんな話をしてくれたのか。
確信が持てる。彼もまた、シンパシーを感じたのだろう。単に似ている彼女に話を聞いてほしかった、というわけではない。何かしら、思うことがあったに違いない。
自分自身の話をして、呪術師に戻ることを促しているのだろうか。
それとも、自身と違って一般人としての生活に嫌気がさしていないなら、「クソ」である呪術師に戻らないほうが良いと示したのか。
はたまた、どちらを望んだわけでもなく、彼女の参考になるだろうと話したのか。
枕から顔を上げ、部屋にある洋服タンスの一つを、ぼんやりと眺める。
――それらのどれなのか、今の彼女には、分からなかった。
†††
余計なことを話してしまっただろうか。
お節介だっただろうか。
深夜。明朝に呪物を回収しなければいけないというのに、七海は、ちょっと上等なホテルの一室の一人がけソファーで、物思いにふけっていた。
彼女は、自分にそっくりだった。
だから、我慢できず、あんなことを話してしまった。
別に彼女からどう思われようと、もう会わないだろうから、そこは関係ない。ただ、彼女がこれで困ってしまうのは、少し心配だ。何かの参考になるかもしれないが、ならないかもしれない。もし後者なら、すぐにでも忘れてもらった方が有意義だろう。
『お待たせいたしました』
そんな彼の思考を、電話の向こうの声が遮る。穏やかで気弱そうで真面目そうな声音だ。
「ありがとうございます、伊地知さん」
通話の相手は伊地知。信頼できる補助監督だ。
『成宮咲来さんについての資料が見つかりました』
残業が心の底から嫌いな彼がこんな時間に電話しているのは、咲来について調べなければならなかったからだ。特級呪物を置いている学校に元呪術師がいるというのは、少し気になる。話した感じ悪意は感じられなかったが、あの話は全て嘘っぱちかもしれないし、呪物の封印が緩んでいるのも彼女の仕業かもしれない。ほんの少しでも不穏な可能性が残っていて、それを潰せるなら、しない手はないだろう。
『私もつい先日の事のように覚えています。真面目そうな良い子でしたね』
咲来の在学時、伊地知は一度会ったことがある。楽巌寺学長に極秘資料を届ける時、秘書的な役割として彼女が応対したのだ。
普段は、呪術師に珍しい常識人兼お金に困ってアルバイトがしたい霞がその役目を担っているのだが、その日は任務に出ていたので、頼まれた咲来が二つ返事で代行した。
その時のことを、彼はよく覚えていた。
その後伊地知は、在学時の咲来について、資料に基づいて話し続ける。咲来から聞いた話と相違はない。あの学校にいたのも、七海が咲来に説明した理由の通りだった。
『それで、次は転校後の様子ですね』
呪術師界は最重要機密だ。たった四か月いただけの子供は、秘密を洩らしかねない。ゆえに、彼女も当然承諾の上で、監視がついている。とはいえ、よほど呪術師界に仇成すことをしない限り、一切手出しはしないが。
『転校後は、大人しく健やかに過ごしていますね。呪力もコントロールして、目立ちすぎない程度にしか身体能力の補助に使っていません。とはいえ、油断することも多くて、注目はされていますね』
そこそこのレベルの私立高校に、一年生の九月に転校生。不自然極まりなく、当然目立つが、彼女の性格上そう目立つことはないし目立とうともしない。転校生属性を持ち、見た目・性格に似合わぬ中々の身体能力を見せたら、本人の努力もむなしく目立つのは当然だ。これは問題ない。
『部活動には所属せず、放課後は家に帰るか、友達と遊ぶかで、夜遊びもしていません。休日は時折、ボランティア活動にいそしんでいるようです』
「それは感心ですね」
人助けが好きと言うのは、本当らしい。こればかりは、自身以上だ。
『京都校の方たちとは今もよく連絡を取り合っていますね。今日起きたことは……まだ話していないようです。いちおう機密だと思って話していないのか、単に予定が合わなくて連絡が取れないだけなのかはわかりませんが』
「別に、話されてもそこは構いません」
だから、口止めはしなかった。呪物の管理は呪術師としてはメジャーな仕事だ。現代最強の呪術師である一つ上の先輩が今日担当しているようなレベルだと話は別だが。そういえば、まだ入学間もない教え子に任せるみたいなことを言っていたが、そちらが心配だ。
『それと……あんなことがあったというのに、校内や家周辺に呪霊が出没していないか、パトロールのようなこともしていますね』
これは伊地知も不思議がっている。七海も、いまいち理解できなかった。
『中には実際に遭遇し、自分で祓ったことも何回かあります。あと、同級生に憑りついていた低級呪霊をそれとなく祓ってあげたりもしていましたね。これも校内で少し話題になっているようです』
この点について、伊地知の声音は真剣みが増している。咲来のやっていることは間違いなく善意だろうが、少し危険だ。呪術のことが知られてしまう危険性がある。とはいえ、彼女の様子を見るに、これといって咎められたことはないようだ。一応気にしておこう、程度なのだろう。
それはそれとして、七海は、こんなところまでそっくりなのかと、顔には出ないが心の中で苦笑する。脳裏に、あのパン屋の女性の笑顔が浮かんできた。
『一応これに関して過去に話題にはなったのですが、対応としては、要監視かつ、緊急時は手出しすべし、ということになっています。彼女の術式は格下呪霊を確実に祓う上では狗巻君よりも強力ですからね。それに呪霊と相対するときは、常にスマートホンでいつでも庵さんや三輪さんにつなげられるように本人がしていますから』
自分が対応できる雑魚なら自分で。無理そうなら「窓」的な役割をする。なるほど、分を弁えてはいるようだ。それなら、ひとまず問題ないだろう。
『…………まとめると、おおむね問題なし。見返りを求めず、自分から進んで人助けをしている、とても良い子ですね』
伊地知の声が柔らかくなる。彼女の人柄に、心底感心しているのだろう。
「……ありがとうございます。では」
要件が終わり、二言三言話して、通話を切る。そのままスマートホンを充電器に差し込み、背もたれにぐったりと背中を預けた。
サングラスとネクタイを外し、上着は脱ぎ、首元を緩めている。だが、ワイシャツは来たままだし、ズボンも緩めていない。部屋についてから、ぼんやりとしてしまっていて、着替えるのがおっくうになっていたのだ。
伊地知の話を反芻する。
心配していたことはない。健やかに生活している。それどころか、出過ぎない範囲で、人助けも継続で来ているようだ。
――自分と違って、一般社会で、「クソ」と思うような経験をしていない。
喜ばしいことに彼女は、きっと、呪術師に戻ることはないだろう。一般人としての生活は、充実しているようだ。
そう、とても喜ばしい。心の底から思う。
未熟な子供が前線に出て傷つき、時には死ぬ。
そんな
素晴らしい人間性を持っている。彼女のような人は、これ以上、傷つかなくて良い。
ふと、二つの顔が浮かんだ。
とても強くて、真面目で、立派な志を持っていた先輩。そしてその性格ゆえに、呪詛師に身を落とした。
妹想いで穏やかな、お人よしの同級生。七海を生かすために、彼は自ら身を犠牲にして、死んだ。
「――縁起悪い」
小さく虚空に吐き捨てる。
咲来には、そのどちらにも、そして当然自分のようにも、なって欲しくない。
だいぶん明かりの消えた窓の外を見やる。住宅街から離れた山がちな土地の上に、大きな建物が見える。
咲来たちが通う、呪物が置いてあるあの高校だ。こうしてみると、なんだか印象が違う。
そんな景色をぼんやりと見ていると――
――――途端に、悍ましい気配が、一気に膨れ上がった。
「っ!?」
反射的に立ち上がり、得物を手に取り、スマートホンで各所に緊急連絡を取りながら部屋を飛び出す。
今の呪力は、生半可なものではない。
去年の十二月、百鬼夜行で戦った1級呪霊たちよりも、濃密でかつ膨大だ。
ホテルを出て、脳内に最短ルートを構築する。1級術師でありその中でも随一の肉体を持つ彼が全力で走れば、風のような速さだ。
彼が向かう先。鋭敏な呪力感性が感じ取った、あの膨大な悍ましい呪力の発生源。
――――つい先ほどまで見ていた、咲来たちが通う、あの高校だ。