夜明けと晴天   作:まみむ衛門

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9話・二人の共闘

「…………」

 

 深夜。

 

 いつもならとっくに夢の国に旅立っている頃だが、いつもの二つ結びのおさげを解いて下ろしている咲来は眠れず、ベッドの上で何度も寝返りを打っていた。

 

 光が目に悪いのを承知でスマートホンを弄ってみても、いまいち落ち着かず、すぐに置いて目をつむって眠ろうとするものの、また手持ち無沙汰になって弄りだす。

 

 理由は分かっている。

 

 衝撃的な出会いをした、呪術師・七海建人の存在だ。

 

 呪霊には無理にならない程度にうっすらと関わり続けていたし、高専で出会った親友たちとも連絡は取り合っている。呪術界との関わり完全に断絶したわけではない。

 

 だがそれでも、自分の目の前に呪術師が現れたということが、咲来の動揺を誘った。

 

「七海さんも、一度やめて、それで……」

 

 静まった部屋に、か細い独り言が空しく響く。

 

 彼は明日早朝にさっさと呪物を回収して去っていく。もう一生会うことはないだろうし、なんら気にする必要はない。極端なことを言えば、学校設備の修理に来た業者みたいなものなのだから。

 

 だが、それでも、妙に気になってしまう。

 

 咲来と同じように、一度やめた彼は、それでも呪術師として今は立派に活動している。

 

 自分が呪術界に戻りたいかと言うと、否だ。迷う気持ちはないでもないが、自分がいても足を引っ張るどころか仲間を傷つけてしまうことは実証済みだし、何よりも、もうあの恐ろしい思いはしたくなかった。七海と違って、今のところは、一般人生活も楽しめている。

 

 それはもちろん、こちらもきっと、彼の言うところの「クソ」なところもあるだろう。比較的充実しているであろう両親だってげっそりして帰ってくることはあるし、毎日嫌なニュースがテレビに流れていて心を波立たせる。当事者ではない彼女ですらそうなのだから、その当事者たちは、間違いなく「クソ」とでも思っているだろう。

 

 だがそれでも、呪術界に戻る気にはなれない。「クソ」とは思っていないが、自分のような弱者がいるには、あまりにも相応しくない世界なのだ。

 

 ちらり、と、部屋の一角にある、なんの変哲もない洋服タンスに視線をやる。

 

 そのタンスは、もう長いこと使っていない。なにせ、部屋に備え付けられている大きなクローゼットで十分だからだ。年相応の女の子らしくお洒落のために服や装飾品はそれなりに持ってはいるが、このクローゼットは十分すぎる容量がある。

 

 タンスから視線を逸らす。

 

 部屋に帰ってきてからずっと、意識的に見ないようにしていたのに、うっかり見てしまった。

 

「未練がましい、っていうのかな……」

 

 咲来自身、あまり人を悪く言うような言葉は使わないが、常識としては知っているし、高専生のころは霞以外漏れなく全員口が悪かったので、自然に覚えてしまった。今はあえて、思いつく中で一番適当な言葉を当てて、自嘲する。

 

 ――そうこうしているうちに、いよいよ許容できない時間になってきた。

 

 さすがにもう、寝なければならない。

 

 咲来はそう決心して、あえてスマートホンの電源を落として弄れないようにしようとする。

 

 その電源ボタンに手をかけた直後――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――ッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――禍々しい気配が、一気に膨れ上がった。

 

 電源ボタンに触れて押せないまま、固まってしまう。悲鳴を上げることすらできない。初夏とはいえ気温は高い。それでもクーラーは効かせている。それなのに、全身にドッと汗が噴き出してくる。

 

 今のは分かる。少し性質が違う気もするが、今まで散々、苦しめられてきたものだ。

 

「じゅ、呪力……」

 

 口の中が渇いて、まともに声を出すこともできない。喉風邪をひいた時でももっとはっきり喋れるだろうというぐらいのかすれた声で、その正体を口にする。

 

 震える指でカーテンを開け、窓の外をのぞく。

 

 都合がよいのか悪いのか、この部屋の窓は、その膨大な呪力の発生源の方向を向いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――咲来がいつも通っている、学校。

 

 

 

 

 

 

 

 山の上だからか住宅街から離れているし、当然咲来の家からもそこそこ時間がかかる場所に建っている。

 

 そんな距離ですら濃密に感じるほどの呪力が、そこから放たれている。

 

 七海から聞いた話を思い出す。

 

 特級呪物≪獅子蟲≫。特級呪霊を祓いきれず、呪物として無力化したもの。

 

 そんな最大級の危険物が、咲来の学校に置かれている。

 

 そしてその封印は――ほんのわずかに、緩んでいた。

 

 七海は、安全の範囲だと言っていた。

 

 だが、そう――呪術の世界で、予想外は付き物。

 

 咲来もたった四か月の間に散々、苦しめられてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脚が自然と、ドアへと向く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがすぐに、ぎゅっと瞼を閉じて、首を振った。

 

 自分が出る幕ではない。

 

 この距離でもこれほどの呪力を感じるのだ。特級呪物の暴走。4級術師で中退した自分の出る幕ではない。1級呪霊相手にすらあのザマだったのだから。

 

 それに七海は、いかにも強そうだった。

 

 朗らかで優しくてちょっとポンコツだが、刀を使うだけあって武道関連に知識がある親友・霞が言っていた。

 

 人の強さは、立ち居振る舞いで大体わかるものらしい。

 

 その観点で見てみると、高専のメンバーには大体当てはまった。

 

 先生たちや先輩たち、それにメカ丸は、具体的に説明できるわけでもないが、雰囲気が違った。霞や真依はだいぶ身近に見えたし、ついでに言うと圧倒的弱者であった自分は、ずいぶんと情けなく見えたものだ。

 

 そして七海は。

 

 高専の時の記憶が確かなら、歌姫や東堂すら比較にならないほどに見えた。

 

 きっと、1級術師だ。

 

 自分たちが叩きのめされ、そして心を折られた呪霊が1級。そんな呪霊を、安定して祓える、圧倒的強者。

 

 そんな七海が、対処してくれるだろう。

 

(だったら、そう……私が行っても、邪魔になるだけだから)

 

 ベッドに戻り、消そうとしていたスマートホンを操作する。

 

 咲来ができることは一つ。彼女が知る呪術関係者――連絡先を交換している歌姫に、連絡をすることだ。

 

 特級呪物が学校にあること。それが何やら暴走したらしきこと。すさまじい呪力を感じること。すぐさま応援が欲しいこと。

 

 若者らしい素早い手つきで、簡潔に要点だけをまとめてすぐに送信する。この連絡技術は、高専で身に着けたものだ。

 

 そして送信が終わってすぐ、ふと気になって、窓の外を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこには、とてつもない数の呪霊が、ひしめき合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひっ」

 

 小さく悲鳴が漏れる。空にも道路にも、おびただしい数の呪霊がいる。そしてその全員が、あの学校を目指していた。

 

 間違いない。≪獅子蟲≫が呼び寄せているのだ。

 

 これほどの数、見たことが無い。一体どこから湧いてきて、どこからまで集まってきているのか。

 

 昨年のクリスマスにやたらと街中の呪霊が増えて退治にてんてこ舞いになった時があったが、それとは比べ物にならない。

 

 嫌な想像がよぎる。

 

 校内で、七海が、数多の呪霊に囲まれて、惨殺される姿。

 

 ――あれだけの数、一人で対処できるわけがない。

 

 すくっ、と咲来は立ち上がり、真っすぐ洋服タンスの前に向かう。

 

 そしてそこで、立ち止まってしまう。

 

 

 

 取っ手に手を伸ばそうとする。

 

 そして、ひっこめる。

 

 

 

 そんな動作を、何回も繰り返した。

 

 だが――また瞼を強く閉じ、首を振り、両ほほを激しく叩く。

 

 そして、深呼吸をして――決心が鈍らないうちに、勢いよく洋服タンスを開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(――七海さんを、助けたい!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

†††

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成宮さん!?」

 

 急な爆発によって怯み止まってしまった巨人の呪霊を一撃で祓いながら、七海は大声を出す。

 

 消え去っていく巨人の向こう側。そこには、いてはいけない人物・成宮咲来がいた。

 

 その格好は、昼間と全然違う。

 

 前髪が目線を隠しがちなのは変わらないが、二つ結びのおさげで大人しそうな印象だった髪型は、運動しやすそうなポニーテールに。

 

 ややお洒落な制服や簡素な私服は、可愛らしくもシックな真っ黒いワンピース型の制服に。

 

 彼女から話を聞いていた七海は、すぐに理解した。

 

 これは、高専の制服で、かつ呪術師として在籍していたころの髪型だ。

 

「七海さん、大丈夫ですか!? すごい数の呪霊が!」

 

 咲来が駆け寄ってくる。その顔には、純粋に七海を心配する色が浮かんでいた。

 

 ――今の爆発は、彼女の術式≪爆散≫によるものだ。

 

「…………危ないところを助けて頂いたことは感謝します」

 

 間違いなく、死ぬところだった。たった今七海は、咲来に命を救われたのだ。

 

 しかし。

 

「ですが、もう帰ってください。ここは危険です。見ての通り、広範囲から大量の呪霊が集まってきています! 逆に、ここ以外には手出しされないでしょう!」

 

 彼女をこれ以上巻き込むわけにはいかない。

 

 特級呪物を置いておいたこと、封印がわずかに緩んでいたこと、それをさほど問題視しなかったこと。

 

 その全てが、呪術界の「大人たち」の責任だ。

 

 それによって生じたこの災禍に、いくら元高専生とはいえ、今は一般人の「子ども」を、巻き込むわけにはいかない。

 

「で、でも、あれだけの量、七海さん一人では危険です!」

 

 七海の語気は珍しく荒い。それに怯みながらも、咲来は逃げようとはしなかった。

 

「ここに来る間にもたくさん呪霊を見ました。通り道にいたのは全部祓いましたけど、そこ以外からはたくさん来るはずです!」

 

 そう言い争っている間に、次の集団が来た。

 

 七海は咲来を庇うように戦闘態勢に入る。

 

 

 

 

 だが、呪霊たちは近づく前に、全員が、爆発した。

 

 

 

 

「…………確かに、私は弱いです。強い呪霊を倒すことはできません」

 

 唖然とする七海の背中に、咲来が低い声で語り続ける。

 

 あくまでも彼女は、気弱は女の子だ。それは今この場でも、本質的には変わらない。

 

「ですが、低級呪霊の露払いぐらいなら、お手伝いできます」

 

 声から怯えは消えていない。わずかに震えている。この状況に恐怖しているのは明らかだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――私の≪爆散(じゅつしき)≫は、それが得意ですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、ただ弱弱しいだけではない。

 

 彼女は、誇り高い志を持った、一人の「呪術師」として、そこに立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

†††

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「次が来ますよ!」

 

「任せてください!」

 

 結局、背に腹は代えられないということで、咲来も加えた、長い長い防衛戦が再開した。

 

 幸い、咲来が道中の呪霊を全部祓ってきたからか、その方向からの呪霊は減っている。

 

 だがそれでも、次から次へと、波のように、おびただしい魑魅魍魎たちが、七海が持つ≪獅子蟲≫めがけて殺到していた。

 

「やらせない!」

 

 咲来が叫ぶと同時、呪霊たちが次々と爆ぜる。しかもその爆風が後方の呪霊たちを妨害し、速度を落とさせる。そのほんの一瞬のスキができれば、咲来の照準は合う。一瞬怯んだ呪霊たちも皆、ただの呪力となって爆発した。

 

 だが、そんなものをものともしない強力な呪霊が数体、突撃してくる。咲来の呪力では直接爆発させることはできない。

 

 しかし、こちらにとってはそれで充分。七海が身体能力を生かして突撃し、2級以上は固いであろう強者であるはずの呪霊たちが、次々と一撃で切り払われる。

 

(……明らかに楽になった)

 

 低級呪霊と言えど油断はできない。不意打ちを食らえばただでは済まないだろう。しかもあれだけの数がいるとなると、常に赤信号と言ってもよい。

 

 だが、咲来がそれら大量の低級呪霊を一瞬で祓ってくれるおかげで、七海は強い呪霊に集中できる。一人だった時に比べて、確実に安定感が増していた。

 

(それにしても、彼女は4級で中退したはずでは?)

 

 そして少しだけ、戦闘以外のことを考える余裕も生まれた。

 

 彼の見立てでは、咲来が≪爆散≫させた低級呪霊たちはほとんどが4・3級だ。しかし中には、準2級相当のものも混ざっていて、それでも彼女によって一瞬で体をただの呪力にされ祓われている。

 

 話によると、咲来の術式で呪霊を直接≪爆散≫させるには、呪力で明確に上回る必要があるとのことだ。身体は、ある意味で究極の結界だ。七海の≪十劃呪法≫のような例外を除いて、直接干渉する場合、ある程度呪力に差が無ければならない。彼女はその例に漏れないのだろう。

 

 だが、現に彼女は、3級どころか、準2級レベルまで、直接≪爆散≫させている。

 

 それに、彼女曰く、高専生だった当時は、一度に≪爆散≫できるのは一つまでで、かつ数秒間隔を置かないと連発できなかったはずだ。しかし今は、ほぼ同時に何体もの呪霊を一気に祓っている。

 

 入学四か月で、4級術師のまま退学した。

 

 いくらその後にボランティアで低級呪霊の相手をし続けていたとはいえ、これほどの成長はあり得ない。高専での訓練も、強者との戦いも、体系だった指導もされていないはずだ。

 

「こっちは任せてください!」

 

 咲来の声が夜の校庭に響く。そこで七海の思考は中断された。

 

 七海が、対して強くはないがすばしっこくて倒すのに時間がかかる1級相当の呪霊を相手している間に、咲来の方にも強力な呪霊が向かっていた。彼がまとめて対応しようとするものの、咲来が、おそらく時間稼ぎをするつもりのようだ。

 

 黒い制服に仕込まれた隠しポケットから、五寸釘サイズの木製針のようなものを三本取り出して無造作に宙に放り投げる。すると、それらは急加速して別方向に飛んでいったかと思いきや、急カーブを描いて、三方向からその呪霊に突き刺さった。

 

 ――直後、それらが爆発する。

 

 身体に直接刺さった三本の針が大爆発を起こしたその呪霊は、そのまま悶え苦しみながら、ただの呪力となって消えていった。

 

(大丈夫、効いている!)

 

 咲来は内心で力強くうなずく。

 

 最初から信頼していた。

 

 何せこれは――大切な親友と先輩からの贈り物なのだから。

 

(ありがとう、真依ちゃん! 桃先輩!)

 

 この木の針は、高専を去る際に、「餞別」として贈られた、桃お手製の呪具だ。

 

 呪力を流し込むことで、この呪具に刻まれた≪付喪操術≫が発動し、自動で理想の起動を描いて対象に突き刺さる。≪付喪操術≫の達人である桃の能力を生かした、単純な呪具だ。

 

 だが当然それだけでは、4級呪霊を倒すのがせいぜいである。

 

 実は木でできているのは表面だけ。その中心には、鉛製の、まさしく五寸釘が入っている。

 

 その釘の作成者は真依だ。≪構築術式≫によって作られた呪力由来の鉛製五寸釘は、構造が複雑な弾丸や以前使っていた数重視の金属球とは比べ物にならない質量を持つ。これを表面の木に刻まれた≪付喪操術≫で相手の直接突き刺し、至近距離で≪爆散≫させることで、強力な呪霊すら一瞬で祓うことができるのである。

 

 これによって咲来は、同格・格上相手への手札も持てるようになった。先ほど七海を貫こうとした呪霊とその槍を爆発させたのも、これによるものだ。あれだけのサイズなら相応にタフであろう、しかも1級呪霊を大きく怯ませたその威力は、三本同時に爆発させれば、準1級相当の呪霊も先ほどのように祓うことができる。

 

 さて、これで一安心……とはいかないのが今の状況だ。

 

 祓えたと思ったら、別の呪霊たちが正面から殺到してくる。その半分は普通の≪爆散≫で祓えたが、中には強力なものも混じっており、倒しきれない。

 

 その呪霊たちが一斉に、それぞれが個性的な方法で呪力の弾丸を飛ばしてくる。一瞬で至近まで近づいてきたそれらを、咲来は自身を巻き込んでしまうために≪爆散≫で壊すことができない。

 

「成宮さん!?」

 

 ここまでか。七海がそう思った直後。

 

 

 

 

 

 

 ――咲来の目の前で、その呪力の弾丸は消し飛んだ。

 

 

 

 

 

 すぐに咲来は先ほどの針を呪霊の数の分投げてそれぞれに一本ずつ突き刺して、すぐに≪爆散≫して祓う。だが、そんな正面を向いていた咲来の真横から、高速で鋭い爪を立てて猫型の呪霊が迫る。

 

 正面を見る咲来の視界には入らない位置からの奇襲。本体は弱そうだが、賢い呪霊の様だ。

 

 彼女の脇腹に、凶刃が突き刺さる――

 

 

 

 

 

 

 

 ――と思いきや、咲来は、そちらへと向くこともなく、ギリギリまで引きつけ、ぴったりのタイミングで、身をよじって回避した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてすれ違いざまに、逆に横っ腹に、呪力を籠めた左裏拳を叩きつける。筋力が無い彼女のさほど力のこもってない打撃だが、宙に浮いていたその小型の猫呪霊を怯ませるのには十分だ。右手で掴むと、身をよじって回転した遠心力を生かして、もう反対側から迫っていた呪霊に投げつけ、纏めて≪爆散≫させる。

 

 窮地を脱した咲来の脳裏に、メカ丸と加茂の顔が浮かぶ。

 

 まず呪力の弾丸を防いだのは、餞別としてメカ丸がくれた呪具≪呪弾撃墜障壁(メタバレット・バリア)≫だ。

 

 その本体は、メカ丸の顔を模したポケットティッシュサイズの端末である。これを体に仕込み、呪力を流し込むことで、正面に呪力製の不可視の障壁を展開することができる。ただしお手軽な分制限が厳しく、一定以上の呪力的質量を持つものは防げない。呪霊本体による攻撃などは防げず、あくまでも、呪霊がよく使う呪力の弾丸を防ぐことを目的に造られている。

 

 あまりにも残酷な天与呪縛によって、メカ丸は、当時一年生にして、呪具作成のスペシャリストとなっている。そんな彼による、渾身の傑作だ。

 

 そして、なぜ咲来が、視界の外だったはずの真横からの攻撃を避けられたのか。

 

 その理由は簡単だ。

 

 咲来は、「そちらをしっかり見ていた」。

 

 呪霊や七海からは、正面を見ていたようにしか見えない。だが実際は、咲来の目線は、横から迫る呪霊を捉えていたのである。

 

 そのトリックは、彼女がつけている眼鏡だ。これも呪具の一種であり、自動で外から見た自分の目線を別方向に向いているように見せかけることができる。見せかけの目線は任意操作も可能であり、たった今、咲来は真横から来ている呪霊を騙すために、正面を見ているように見せかけていたのだ。

 

 そもそも彼女の数少ない自慢が、視力である。この眼鏡も伊達眼鏡だ。高専を去るまでも、ずっと裸眼で過ごしてきた。

 

 そんな彼女が高専を去る際、「呪霊が見えると視線で察知されて困るだろう」ということで、加茂が用意してくれたのが、この伊達眼鏡だ。役に立つし、デザインもシンプルながらお洒落なので、咲来も愛用している。ただ、当初加茂が選んだデザインは相当「ダサかった」らしく、桃の口添えでこれに決まったらしい。退学後しばらくしてからのチャットアプリの中で、そのような愚痴を聞いた。天然の加茂とその横でいきり立つ桃、実に目に浮かびやすい光景だ。

 

「……大丈夫そうですね」

 

「はい、なんとか……」

 

 戦っていたすばしっこい呪霊をようやく倒して一息ついた七海が、次々迫りくる呪霊に向き合いながら背中を向けて話しかけると、咲来からも背中を向けての返事がくる。この状況で、自然と二人は、互いに背中を預け合っていた。

 

 七海の方には大量の呪霊。気配からして、背後の咲来の前には、数こそ少ないが、強力な呪霊が複数いる。

 

 ――彼女は呪術師として、ここで戦うことを選んだ。

 

 歓迎するべき事態ではない。

 

 それでもこうなった以上、彼女の意思を尊重して――戦い抜くべきなのだ。

 

 直後、お互いに何の合図もなく、両者の間を軸として一回転する。そして位置の交換が終わった瞬間、七海は鉈を構えて駆け出し、咲来は腕を振るう。

 

 七海の鉈が、複数いる強力な呪霊の弱点を次々と両断する。咲来の術式が、数多の呪霊を次々と爆殺する。

 

 強い呪霊は七海が、数多くいる低級呪霊は咲来が、戦うのに適正だ。故に、位置を交換した。

 

 なんてことはないが、事前の打ち合わせを一切無しで、ここまでスムーズな連携ができた。

 

 しかし、そう上手くはいかない。

 

 咲来が倒した呪霊たちの奥から、次の一群がやってくる。

 

「なんとかできますか!?」

 

「ッ――やってみます!」

 

 その群れはほとんどが低級呪霊だが、一匹だけ、1級は確実な呪霊がいる。電話ボックスサイズのやや縦に大きい、象のように瘡蓋だらけのガサガサな太い脚で直立する、大猿のミイラのような、奇妙な姿だ。今日現れた中では、間違いなく一番厄介であろう。

 

 また位置を交換したいところだが、七海の方にも、2級以上が複数体現れた。こちらを任せるわけにはいかない。

 

 咲来の声に脅えが混じる。相対する呪霊が放つオーラは強大だ。七海ですら油断ならないであろう存在に、今から立ち向かわなければならない。

 

 咲来は深呼吸をし、決死の覚悟でその呪霊を睨む。こちらに引きつけるために、あえて見える目線はずらさない。

 

 それを受け取ったそのミイラ呪霊も、天を仰いで咆哮する。それに呼応するように、周囲の低級呪霊も咆哮した。

 

 咲来と七海は察する。明確に統率の取れた「群れ」だ。呪霊はそれぞれが自分勝手で、集団行動はほぼしない。群れになっているとしたら、呪霊が好む・発生しやすい場所にたまたま集まっただけに過ぎない。

 

 だが、この一群は違う。あのミイラ呪霊をボスとする、本当の意味での群れなのだ。

 

「持ちこたえてください!」

 

 他の呪霊を従えるほど強力なのは大前提。間違いなく、知力もあるし、術式もあるだろう。あの釘があっても、咲来には荷が重い。祓うのではなく、時間稼ぎが最適だ。

 

「はい!」

 

 釘を取り出しながら、安心させるために、恐怖を吹き飛ばすように、大きく返事をする。

 

 ここが正念場だ。

 

 ミイラ呪霊がまた咆える。直後、取り囲む低級呪霊たちが一斉に、まるで弾幕を張るように、呪力の弾丸を放ってくる。咲来はそれを、≪呪弾撃墜障壁(メタバレット・バリア)≫を展開して防いだ。その弾幕は、途切れる気配が全くない。一体一体の装弾数と言うべきものは低級なだけあって多くはないが、その分相手の数が多く、戦国時代の鉄砲の三段撃ちのように、途絶えることはない。

 

(どうしよう!)

 

 ≪呪弾撃墜障壁(メタバレット・バリア)≫はあくまでも携帯用の簡易・小型の呪具であり、展開できる時間に限りがある。背後の七海はまだ、片付く様子がない。

 

 とりあえず、バリア越しに≪爆散≫で数を減らそうか。

 

 そう思った矢先――視線の先で、恐ろしいものを目にする。

 

 ボスであるミイラ呪霊が、弾幕を張る低級呪霊の後ろで、大口を開けてこちらを向いている。その口には、とんでもない密度・量の呪力が、急速に集まっていた。

 

「――――!?」

 

 あれはまずい。当然この簡易バリアで防げるものではないし、もし放たれたら、咲来どころかその後ろの七海まで消し飛ぶ。

 

 あの塊を≪爆散≫させようにも、まだあの1級呪霊のコントロール下だから、通じない。

 

 焦る。

 

 全身からさらに汗が吹き出し、脳みそが茹で上がる程に、思考が回転する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、咲来の脳にあふれ出す、「存在する」記憶――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

†††

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「思うんですけどお」

 

 テレビの中で、アイドルと言う割には長身で、そこがむしろ人気になっている少女・高田ちゃんが、テレビの企画で遊んでいるゲーム画面を見ながら、何気なく呟く。

 

 そのゲームの内容は、第二次世界大戦をモチーフとした無双ゲームだ。うら若きアイドルがやるにしても似合わないし、リアルさを追求したものでなく「雑兵を蹴散らす」タイプの無双ゲームはその戦争に駆り出された人々が未だ存命の世の中では不謹慎である。これはまだ彼女がデビューして間もないころで、仕事が選べなかったのだろう。

 

「あのボス、たくさんの人に守られてますよねえ?」

 

 敵陣形の真ん中。三国志や戦国時代ではないはずなのに、敵軍の総大将が指揮をしている。近代の戦争ではありえない光景だし、それはゲームであることを差し引いてもリアリティがなく、場がすっかり冷え切っている。

 

 だが、高田ちゃんが気にしているのはそこではなかった。

 

「でも、兵隊さんたちはみんなピストルや爆弾持っているんですよねえ? 一人が暴発させちゃったら、誘爆とかあると思うんですけどお」

 

 そんな素朴な疑問を聞いたゲストの壮年の男性が、苦笑いしながら答える。

 

「当然、現実ではそういうのに関してはちゃんと対策をしているよ。実際の戦場でそうした事故が起こることはあまりないかな。武器庫みたいな火器が密集しているところならまだしも」

 

「なるほどお」

 

 高田ちゃんは気のない相槌を打ちながら、男性の言うことをまるで無視して、守りが固い総大将へ直接ではなく、その傍に爆弾を投げ込む。

 

 爆発。

 

 ただ数人の雑魚が散るだけ。特に意味がないはずだった。

 

 ただしこれが――クソゲーじゃなければ。

 

「あ、勝ちましたあ」

 

 画面の中では次々と誘爆が起きて、それが敵総大将の周辺まで届き、一瞬で爆死させる。そして画面にはチープな効果音とともに、武骨な線上には似合わないド派手な色とフォントで「ステージクリア!」と表示される。

 

 

 

 

 

 

 ――そのあまりにもあり得ない光景に、場が冷え切っていたと思ったがさらに冷えていく。

 

 ――そんな中でも高田ちゃんだけは、迷うことなく次のステージへと進んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

†††

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この間、約二秒。

 

 咲来は照準を合わせやすくするために、指先を向ける。

 

 それが指すのは、あの1級呪霊――ではなく、その傍で弾幕を張っている数多の低級呪霊。

 

 直後――数多の爆発が、同時に起きた。

 

≪爆散≫させたのは、低級呪霊たち。ただし闇雲にではなく、1級呪霊の近くにいた個体のみだ。

 

 その効果は絶大。

 

 急に周囲で数多の爆発を起こされた1級呪霊は相応のダメージを一気に食らい、動揺して溜め込んでいた呪力も霧散している。

 

 そして、その隙を見逃さない。

 

 咲来は五寸釘の最後の七本を取り出し、呪力を籠めて投げる。

 

 それらは自動的に飛んで1級呪霊に突き刺さり――直後に、先ほどとは比べ物にならない大爆発を起こした。

 

(ありがとうございます! 東堂先輩! 高田ちゃん!)

 

 油断せず周囲の低級呪霊も次々と≪爆散≫させながら、咲来は心の中で、二人に頭を下げた。

 

 ――意外なことに、退学するにあたって、東堂からも餞別が送られた。

 

 ただしそれは他生徒のように、呪術関連ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 題して――『高田ちゃん名場面集』だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東堂が持っていたコレクションの中でも、「布教用」のもの。それが、咲来に贈られたのである。

 

 その大きさたるや、分厚い辞書程のセットが五つ。餞別の大きな紙袋二つのうち、一袋はまるまるこれで埋まっていた。涙の別れの後にこれを見た時、おもわず涙が引っ込んでしまった。のちにメールで真依と桃が「あいつはカス」「人を何だと思ってるのか」「というか同じものを何個も持っているのはキモい」など、惜しみない罵倒を吐き出していたのは余談である。

 

 だが、ここでは役に立った。

 

 律義な咲来は、一応このDVDをすべて見た。ファンになったわけではないが、高田ちゃんの魅力がわかった。

 

 魅力は色々あるが――一つを挙げると、「彼女の何気ない発言は、ふとしたところで役に立つ」ということである。

 

 本人にその気はないだろうが、おそらく変わった視点を持っているのだろう。そういえば東堂が「高田ちゃんが言うには……」みたいなことをたまに言っていたのを、彼女はDVDを見ながら思い出した。当時は分からなかったが、DVDを見たことで、あのぶっ飛んだ先輩の気持ちが少しだけ分かったのだ。

 

 こうして、変わった先輩からの思わぬプレゼントによって、咲来は窮地を脱した。それと同時に七海も片付いたみたいで、こちらにゆっくりと歩いてくる。

 

 

「…………1級呪霊を祓ったのですか」

 

「その、たまたまです……」

 

 七海の声に、わずかな動揺が見える。それに対して咲来は、少し頬を染めながら、返事をした。

 

 さらなる呪霊がもう集まってくる気配は、今のところない。ようやく、≪獅子蟲≫の呪力が届く範囲の呪霊が集まりきったようだった。

 

(…………これが、4級で中退した生徒なのですか……)

 

 照れて緩く笑っている少女を見つめながら、内心で七海は驚嘆する。

 

 聞いていた話と違う。この戦闘で、彼女は4級どころか、3級や準2級呪霊すら、直接≪爆散≫させていた。話が確かなら、直接≪爆散≫させるには、明確に呪力を上回っている必要があるはずだ。つまり今の彼女は、準2級呪霊を明確に上回る程度の呪力を持っていることになる。

 

 また、その戦闘力も、4級術師に収まるレベルではない。

 

 身体能力は未だ4級術師程度だ。しかし、その判断力は高い。その場に応じて持っている手札を有効活用して、数多の呪霊を捌ききっていた。

 

 また、直接≪爆散≫させずとも、攻撃力も高い。七海を救った時の異形の巨人然り、今の低級呪霊を率いていた呪霊然り、不思議な道具を巧みに操って有効打を与えていた。後者に至っては、多数の低級もろとも、短時間でまとめて祓った。

 

 おおよそ、4級の枠に収まるレベルではない。

 

 3級すらも温い。準2級、いや、2級相当の可能性すらある。

 

(暴走、だけではなかったのでしょうね)

 

 呪霊の気配はない。周囲を警戒しつつも少し気を緩め、校庭のど真ん中で息を整えるためにしゃがむ。七海以上に疲労している様子の咲来が先にしゃがんだのを見て、見下ろすことがないようにと言う気づかいも、その行動にはあった。

 

 去年の八月に起きた、トンネルでの惨事。

 

 その出来事を、咲来は「暴走」と表現した。

 

 事実、高専側も状況から、「暴走」と判断している。

 

 それらの判断は、間違っていない。絶対に正しい。

 

 ただ、それだけではなかったのだ。

 

 当時の咲来の呪力では、本来、それほどの≪爆散≫を起こすことはできない。

 

 だが、その惨劇の間際――仲間を助けたいという感情の高ぶりが、咲来に、彼女自身も自覚がない「成長」を与えた。

 

 そう、あの瞬間――彼女の呪力は、暴走とともに、急成長もしていたのだ。

 

 だからこそ、今は準2級呪霊程度ならば余裕で上回っているし、インターバルもはるかに短くなっている。戦術については、話を聞いた限りでは高専時代にこれといった呪具は使っていなかったことを加味すると、道具を使った戦いに適性があった、ということだろう。

 

 ――あの惨劇は、起こってはいけないことだった。

 

 だが一方で――彼女に、素晴らしい成長ももたらしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……私も、もしかしたら)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分を守ってこの世を去った同級生の顔がよぎる。

 

 なにも良いことなどあるはずがないと思っていたあの出来事。

 

 七海の中で、それに対する視点が、今、変わろうとしていた。

 

「…………とりあえず、簡易的な再封印処置を施しましょう」

 

 だが、今は思考にふけるわけにはいかない。七海は自分を律するように、咲来への説明と言う体で、今からやろうとすることを口に出す。

 

 懐から、≪獅子蟲≫が入っている小箱と、包帯とマスキングテープの中間程度の幅があるロール状の呪符を取り出す。

 

 本来施されていた厳重な封印に比べれば、ザルに等しい。呪物が持つ効果を抑えることができないからだ。ただ、外に漏れ出る呪力を大幅に弱めることができる。これを持ち歩くわけにはいかないので、急遽臨時休校にしてもらい、ここに封印専門の呪術師がきて、本格的な封印をすることになるだろう。これは、それまでの時間稼ぎだ。

 

「へえ、そんなのもあるんですね」

 

 咲来の声には疲労が滲んでいるが、明るくて楽し気だ。大仕事を終えた達成感で、高揚しているのだろう。その眼鏡――今思うに伊達眼鏡だ――の奥の目線は、もう隠す必要がないからか、真っすぐに七海の手元を捉えている。その顔は、激しい戦闘の影響と先ほどの照れが残って、赤く上気している。

 

 もう少し近くで見たいのか、咲来が身を乗り出してきた。

 

 七海と咲来。二人の距離が、一気に縮まっていく。

 

 その時――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――七海は急に、咲来を思い切り蹴飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「きゃっ!」

 

 並外れた筋力で蹴飛ばされた小柄な彼女は、数メートル後ろに吹っ飛ぶ。呪力でのガードは本能で出来たが、受け身には失敗した。

 

 どうして、なんで、いきなり。

 

 咲来が、自分でも訳が分からない感情を抱きながら、ゆっくり顔を上げると――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――巨大なウツボの頭が、そびえたっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

 尻もちをついたまま、唖然と見上げる。

 

 そのサイズは、十メートルは下らない。空を向いた、巨大な緑色のウツボ。そう表現するほかない、異様な光景だ。

 

 呪霊。

 

 それ以外あり得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あ……ま…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタガタと、咲来は震える。

 

 全く力が入らない。

 

 声にならない声が漏れる。

 

 涙で視界が歪む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐怖。

 

 あのトンネルでの惨劇でも、つい先ほどまでの大戦闘でも、感じたことが無いほどの恐怖。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前の呪霊も、間違いなく強力だろう。

 

 だが、それは、もはや関係ない。

 

 どこに潜んでいた。油断した。自分が食われかけていた。

 

 そんなものが「どうでもよくなる」ほどの恐怖が、咲来を支配する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悍ましい呪力が、形作られる。

 

 そして大幅に密度を増して、膨れ上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ほう、中々悪くないやつだなぁ~』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳ではなく頭に響くような、金切り声と唸り声が混ざったような声が聞こえる。

 

 その声は、ボコボコと形を変え、次第に縮まり、いまいち輪郭が捉えられない黒い(もや)の塊のへと変化していく、呪霊から発せられていた。

 

「…………あ、や……い…………」

 

 逃げたい。

 

 脚に力が入らない。

 

 立ち上がれない。

 

 ただ、見上げることしかできない。

 

 悲鳴すら上げられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成宮さん!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い靄の向こう、七海が叫びながら、こちらに走ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『とりあえず、朝餉だなぁ~!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがそれよりも早く、靄が突撃してきて、咲来を飲み込むほうが早かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

†††

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あまりにも冒涜的な黒い靄が、眼前で咲来を飲み込む。

 

 七海は助け出すべく、≪十劃呪法≫で弱点を作り出して鉈で斬りかかるが、手ごたえはない。まるで本当に、靄を切っているかのようだ。

 

「いやああああああ!!!」

 

「成宮さん!?」

 

 直後、甲高い悲鳴が、真夜中の学校に響き渡る。喉が割れんばかりに叫ぶ彼女の顔は、苦痛と恐怖に支配されていた。

 

『ほうほう、こっちもこっちでそこそこだなぁ~』

 

 そんな張り詰めた場に、場違いな呑気なトーンの声が、靄の中から聞こえる。

 

(人語を話す呪霊!? 間違いない、特級だ!)

 

 七海は、辛うじて無事だった右手で無駄だと分かりつつもなおも鉈を振るいながら、後悔に歯噛みする。

 

 油断していた。

 

 あのウツボの頭のような巨大な呪霊は、おそらく自分の術式で、じっと地面に潜んでいたのだ。そしてタイミングを見て、食らいついてきた。辛うじて手放して引いたので、これといった怪我はない。さらに、乱暴なのを承知で咲来を蹴飛ばして食われるのを防いだ。

 

 だが、状況は、ほぼ最悪に等しい。

 

(≪獅子蟲≫が目覚めた!)

 

 特級呪物≪獅子蟲≫。自ら呪霊に食われることで逆に乗っ取って力を増していく特級呪霊が封印された姿。

 

 そしてたった今、呪霊に食われたことにより――特級呪霊≪獅子蟲≫として、復活してしまった。

 

「いや! 痛い! やめて!」

 

 靄の中で咲来がもがいて暴れるが、まとわりつく黒色はどんどん濃くなっていく。もはや七海からは、近くにいるというのに、その姿がほとんど見えていない。

 

(どうすればっ!?)

 

 一心不乱に鉈を振るう。靄はほとんど咲来にまとわりつくせいで、彼女を傷つけないように攻撃をしなければならない。よって自由な場所に攻撃できず、≪十劃呪法≫に制限がかかる。仮に使えたとしてもこの手ごたえでは意味がなかっただろうが、それでも、焦りと無力感が膨らんでくる。

 

「助けて! たすけ、ななみさ――アアアアアアアアアアア!!!」

 

 自分に助けを求める声が聞こえる。だが、助けることは叶わない。

 

 ついに靄が完全に彼女を取り込み、その全身を完全に覆いつくした。

 

(また私は、何もできないのか!)

 

 そのまま突っ込んで引っ張りだしたい。

 

 だが、放つ呪力がより強大になっていくのを鋭敏な感性で察知して、本能で後ろに飛び退いてしまう。

 

 咲来は命の恩人だ。だが、そんな彼女を、七海は助けることができなかった。

 

 目の前で、咲来を飲み込んだ靄が、その漆黒の密度を維持したまま、大きく膨らんでいく。

 

 形の定まらない、直径五メートルほどの、巨大な球体。

 

 そしてそこに、真横まで裂けているのではないかと思うほどの口角が吊り上がった巨大な口と、ニタニタと嗤っているかのような形の目が、空洞で形作られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『カカカカカッ、悪くない食事だったなぁ~』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 特級呪霊≪獅子蟲≫。

 

 その真の姿が、今ここに、顕現した。

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