「いやー、平和ですなぁ」
「平和だねぇ」
休日の昼下がり、セイウンスカイとそのトレーナーは長閑な渓流で釣り糸を垂らしていた。
周囲からは鳥のさえずりや水流のさらさらとした音が聞こえるばかりで、人の気配は感じられない。
現在二人がいるのはトレセン学園より三時間ほど電車で移動した場所にある森林の奥深くだ。中々に遠く、ヒトの足では難儀する場所も少なくない険しい道のりではあったのだが、『トレーナーさんトレーナーさん、森林浴ってご存知ですか?セイちゃん耳寄りなお話、アレ、とっても身体にイイらしいですよ?』から始まったセイウンスカイの甘言に乗せられた次第である。
到着して早々にセイウンスカイが手慣れた様子で釣竿の準備を始めていき――結果として、朝からずっと渓流の手頃な大岩の上で釣り糸を垂らしているのだ。
(僕も学ばないなぁ……)
しかし、内心で愚痴りつつも彼女の流言に流されるのを楽しみにしている自分もいて、もうすっかり骨抜きにされていると嘆息する。
同僚からは呆れられたが、仮に誰がセイウンスカイを担当しても自分と同じ道を辿るだろうと彼は確信していた。庇護欲のそそられる可愛らしい顔立ちから繰り出される、計算づくしのお願いを断れるはずもないのだ。
特にあれはいけない、『素敵なご褒美のおかげで、セイちゃんの好感度が1アップしました。ぴろりろりーん♪』あの言葉を聞くだけで、ついついセイウンスカイを甘やかしたくなってしまう。
トレーナーの単純さはさておき、問題は魚である。釣りを始めて四時間程経過している。しかし、トレーナーは勿論のこと、セイウンスカイも一匹の釣果も得られていなかった。
隣を見遣ると、いつも以上に穏やかな顔をしたセイウンスカイがいた。もう随分と長い間一匹の釣果もないと言うのに、彼女はのんびりと胡座を描きながら湖畔のように凪いだ瞳をしている。
トレーナーはセイウンスカイから釣果を楽しむのではなく、釣りその物を楽しむことが釣りのコツだと教授されていたが、どうにもピンと来ない。
だが、トレーナーは決してこの時間が嫌いではなかった。釣りの楽しみとやらを実感するには幾許かの時間を要しそうだが、ここではそれよりも遥かに素晴らしい風景を瞳に収めることができる。
風景というのは言うまでもなく、セイウンスカイのことだ。
雲のように掴みどころがなく、放っておけばどこまでもどこまでも――それこそ、彼女の名前の由来である遥か蒼穹の彼方にでも行ってしまいそうなセイウンスカイを中心に、牧歌的で、眺めているだけで心洗われる緑の風景が一面に広がっている。
眠たげながらも飄々としているセイウンスカイがいるだけで、所詮見ているだけの分際であるトレーナーさえもが不思議と穏やかな気持ちになれるのだ。
ぼんやりと自分を眺める視線に気が付いたのか、セイウンスカイはトレーナーに視線を滑らしてにゃははと笑った。
「おや、トロンと眠そーな顔をして……あ、ついにトレーナーさんもお昼寝の魅力に気がついちゃいました?」
指摘されて、眠気に気付く。朝早くからの移動に加えて昨夜はセイウンスカイが飽きずにできるトレーニングを夜通し考えていて、若干の寝不足だ。
一度意識してしまったら手遅れだ。何とか誤魔化していた眠気がドっとトレーナーを襲う。自然と降りて来た目蓋を擦りながら口を開いた。
「あー…うん、確かにそれも魅力的」
「ほうほう?だんだんと私色に染まってるねー、ここでセイちゃん渾身の提案!トレーニングにお昼寝を加えません?きっと気持ちいーよー…!ちらっ」
「流石にだめ」
「ちぇー、トレーナーさんのいけずー」
セイウンスカイは口先を尖らせて足をぱたぱたと揺らした。そして釣り竿を横に置き、もう一度足を組みなおしてからぽんぽんと膝を叩く。
「まートレーナーさんが疲れてるのは私の責任なので。特別にセイちゃんのお膝を貸してあげましょー、お昼寝マイスターセイちゃんをして体験したことの無い極上の枕ですよ〜」
「それはありがたいけど……犯罪臭が……」
「今にも寝落ちそうな顔して何をおっしゃいますかー。まあまあ、細かい事は忘れて寝ちゃいなさいな〜、飛ぶよ…夢の世界に」
「そりゃあね、ドヤ顔して何言ってんのさ……でも…うん、ならお言葉に甘えさせて貰おうかな……」
「うんうん、そうするがよいさー!」
日に照らされて映える白い細腕の誘うままに、トレーナーは横たわる。
柔い枕に頭を置くと、自然と整った造作の容姿が目に入ってきた。セイウンスカイは疲れたトレーナーを労うかのように、優しげな手付きでトレーナーの髪をとかした。
「ゆっくりおやすみ〜」
トレーナーは空に揺蕩う雲を眺めながら、静かに瞼を閉じた。
――――――
「いや〜真面目で勤勉ってのも困ったものだよね〜」
セイウンスカイは自分の膝元で眠るトレーナーに苦笑しながら再度釣り竿を振った。
ぽちゃんと針が着水し、只管待つだけの穏やかな時間が過ぎ去っていく。事ここに及んでは雑念は必要ない。肩の力を抜き、リラックスして時を待つだけだ。
(私くらいゆるる〜んと気楽に過ごせば楽なのにねー、まったく、困ったトレーナーさんだよ。どうしてこの人はテレビを見ながらお茶をすすり、縁側で寝こける行為の尊さが理解できないのかな〜)
セイウンスカイから言わせれば、トレーナーは働き過ぎだ。
新人トレーナーがG1ウマ娘を育て上げたというだけで実績としてはこの上ない物だろうに、トレーナーは未だ満足していない。
キミなら出来る、もっと大きな得物を釣れる、と人目もはばからず豪語する様は、控えめに言ってもおかしいとセイウンスカイは思う。
大言壮語は結構、言うだけならば自由だ。故に通常であればセイウンスカイの側から何を言うこともないのだが、トレーナーはその大言を実現しようと必要以上に無茶をしてしまう。それこそ、物理的に仕事から距離を取らせないと休養の一つも取らないぐらいに。
セイウンスカイは仕方の無いトレーナーだと文句を吐きながらも、口許にはゆるりと笑みを浮かべていた。
(まー悪い気はしないしね〜)
なぜなら、トレーナーのその働きは、セイウンスカイが一流の天才達を凌駕出来ると本気で信じていることの証左に他ならないのだから。
期待されるのは重荷だし油断が誘えなくて困るのだが、決して悪い気はしない。それがトレーナーなら尚更だ。セイウンスカイは、再度ぐーすかと気持ち良さそうに寝息を立てるトレーナーに視線を落とした。
トレーニングは嫌いで、きっとこれからも事ある毎にサボるのは間違いない。けれど――
(ふっふっふー。青雲の志、みせてあげましょーとも!)
――まあ、ほどほどに頑張ろうとトレーナーのやや硬質な髪を弄りながらセイウンスカイは思った。
静謐な森の中、のんびりと休日を謳歌した二人であった。