兄妹で乙女ゲームの世界に転生したけど俺がヒロインで妹が悪役令嬢ってどういうこと? 作:どくはら
「なんだ、気のせいか」
そんな呟きが、扉の向こうから聞こえてくる。
それに小さく安堵の息をついてから、足音を立てないようにそっと妹の部屋の前を後にした。
歩を進める最中、脳内で繰り返されるのは先ほどスールが口にした言葉。
現実味がなく、口にする場所を誤れば王族に対する不敬罪ととられてもおかしくないような発言だ。本来ならば入室もせずに立ち去るなどという真似などせず、堂々と中に入り、嗜めるのが兄としての務めだろう。
しかし、そうはしなかった。
荒唐無稽な呟きに動揺してノックをし損ない、気づかれないようにその場を後にした私の姿は、とてもではないが褒められたものではなかった。
――――クリス王子に拉致監禁、されなきゃいいんだけど。
「……まさか、そんな」
スールの言葉を思い起こしながら、私は顔を顰めずにはいられなかった。
私の名前は、セザール・ルクスリア。
オリエンス王国の貴族の一門として名を連ねる、ルクスリア家の息子として生を受けた男だ。
生まれつき体を動かすのが好きだった私は、父上に懇願して剣の指南役を招いてもらい、幼いころから稽古に明け暮れていた。それは今も変わらず、剣でも人生でも師となった指南役に修行の誘いを受けた私は、またも父上に懇願し、しばらくの間は諸国を旅して回っていた。
師の急病で返ってきたのが数ヶ月前。
貴族としてのしがらみから解放された修行の旅は充実していたが、やはり実家というものは居心地が良い。
旅に出る前は私にべったりだった実妹のスール・ルクスリアの態度が唯一の懸念であったが、私が旅に出ている間にスールは見事な成長を遂げていたために懸念は杞憂に終わった。
安堵と一抹の寂しさを覚える一方、スールがフレールという下女の少女をやけに気に入り、側仕えのメイドにまでしたことは今も怪訝に思っている。
あくまで私の憶測ではあるが、妹はこのフレールという少女をかつては好いてはいなかった。むしろ邪険に扱っていたと言ってもいい。
気心の知れた下男は、二年と半年前にスールとフレールが階段から転落したことがあり、その時に庇われでもして気を許したのではないだろうかと推測していた。しかし、それに今一つ納得できない自分がいた。
なぜ、そのことが気がかりになるのか。
それはひとえに、セザール・ルクスリアという男が、がフレールという少女を好いているからだった。
この好いているというのは、ただの好意ではない。
慕情、恋情。そういった名称がつくものだ。
『セザールさま、大丈夫ですか?』
『……うるさい。放っておいてくれ』
『でもその足、痛そうです……。ごめいわくかもしれませんが、私に手当てさせてくださいっ』
『……勝手にすればいい』
『はいっ。ありがとうございます、セザールさま!』
幼い日。小さなプライドに突き動かされるまま隠そうとした怪我の存在に気づき、気遣い、そして手当てをしてくれた少女に、私は恋をした。
きっかけは、言葉にしてしまえば本当に些細なできごとだ。
それでもあの時の声は、眼差しは、表情は今でも忘れることができない。
恋とはするものではなく落ちるものだということを、私はあの時、その身をもって知ったのだ。
そんな少女のことを、気にかけるなというのはどだい無理な話だと思う。
フレールはスールとの仲は良好だと言っているので、私が気にしすぎなのは無論あるのだが。それでも好いた少女のこと、心配にもなるというものだ。
しかし、今はスールがフレールに対してどう思っているかよりも、もっと別のことで彼女が気がかりだった。
「……クリストフ王子が、フレールを監禁?」
スールの呟きを思い出しながら言葉を口にし、まさか、と首を振る。
ジャン=クリストフ・スペルビア様は、オリエンス王国の第一王子であるお方。若い身空でありながらも既に国務に携わっているらしく、国の未来は安泰だと今から社交界でも囁かれている。そんなお方がどうしてフレールを監禁などするのか。
そう思う一方で、今日初めて対面したクリストフ王子のことを思い出す。
王族の方々とルクスリア家に接点が生まれたのは、確かフレールがクリストフ王子の窮地を救ったからだと聞いている。ゆえに、かのお方とフレールが顔見知りであることは不思議なことではない。
しかし、クリストフ王子からは顔見知りに寄せる以上のものを感じた。
フレールもまた、かのお方に親しみのようなものを感じていたように思う。
つまり二人は、ただの顔見知りという関係ではないということ。そんな推察に加えて、クリストフ王子から感じたシンパシーのようなものが私の心をざわつかせた。
王子は、私がフレールに寄せているものと同種の感情を彼女に抱いている。
そう思えてならず、そしてその思考が、スールが口にした不敬な呟きを否定しきれずにいた。
なぜなら、理解できてしまうから。
恋焦がれている少女が、他の男と親しくしている時に抱く悋気を。
だが、言ってしまえばそれだけのこと。
嫉妬したからと言って、即座に囲い込んでしまうほど浅慮なお方とは思えない。想像よりは粗野な雰囲気を感じはしたが、その中にも確かな理知の光を感じた。そうでもなければ、二十歳にも届かぬ若さで国務を任せられなどしないだろう。
「不敬な考えだ」
そう呟くが、不安は掻き消えない。
呟きが大丈夫だと自分に言い聞かせているように聞こえ、思わず顔を顰めてしまった。
喉に小骨が引っかかったような心地のまま、迎えた夜。
なんとか眠りについた私は、誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
「……誰だ?」
返事が来ないとわかってはいたが、体を起こしながらそんな呟きを零す。
『――――セザール様』
そんな私の予想に反し、部屋の片隅からは声が聞こえてきた。
一気に目が覚める。なぜならその声は、聞き間違えようがないものだったからだ。
「……フレール?」
『セザール様』
そんな馬鹿な。
そう思いつつ声をかければ、返ってくるのは先ほどと同じ言葉。
声がした方に目を凝らす。目が夜闇に慣れたところで、部屋の片隅に佇む人影を捉えることができた。
そこにいたのは、下女の服でもなければメイドの服でもなく、ネグリジェと呼ばれる女性用の寝間着を身に着けた少女。
陽炎のようにぼやけてはいるが、間違いなくフレールその人だった。
現とは思えず、しかし夢というには五感が冴え渡っている。
呆然としていると、フレールは胸の前でそっと手を合わせた。
『セザール様……お願いします……』
愛しい少女が紡ぐのは、哀切に満ちた懇願。
『私を……クリストフ王子のところから……助けてください……』
「……王子のところから?」
『このままでは私……セザール様のもとに帰れません……』
そう言いながら、フレールはそっと顔を伏せる。
その動きに合わせて、彼女の頬に一筋の雫が伝う。それが涙だと気づいた時、私はベッドから飛び出してフレールの元へと駆け寄っていた。
「フレールっ」
『お願いします……セザール様……』
「っ!」
しかし、駆け寄ると同時に少女の姿は煙のようにほどけ始めた。
とっさに抱き寄せようとしたが、それは叶わない。引き留めることもできず、部屋の片隅からフレールの姿は消えてしまった。
「……」
夢を見ていたのだろうか。
そう思いながら、つい先ほどまでフレールが立っていた場所を見下ろす。
床には、小さな染みがあった。
「……これは」
屈んでそこに触れれば、湿った感触を指の腹で感じる。
それは乾いた染みでは感じることができない、今しがた染みの原因となる液体がここに落ちたことの証左。先ほどのできごとが夢ではないのだと、私の本能に語りかけてくる。
その事実は、私に一つの決意をさせるには十分すぎた。
荒唐無稽なできごとだとしても。
恋した少女が助けを求めているというのなら、立ち上がるのが騎士というもの。
「――――待っていてください、フレール」
強く拳を握りしめると、私は寝間着を脱ぎ、動きやすい服へと着替える。
そして壁にかけてあった剣を手に取り、そのまま部屋を後にした。
そうして、セザール・ルクスリアがいなくなった後。
部屋の片隅に、再びフレールという名の少女の姿が浮かび上がる。
『……』
少女は、フレールを知る者ならば目を疑うような無機質な表情で、セザールが出て行った扉をジッと見つめる。
『……ふふっ』
無機質だった表情が変形し、笑みが浮かぶ。
それもまた、フレールが浮かべることがないような冷笑だった。
『神が邪魔をしているようだけど、そんなことは関係ないわ。ちゃんとあいつにも不幸になってもらわないと』
微笑とともに言いながら、陽炎のような姿が薄れていく。
ほどなくして、部屋からは今度こそ誰もいなくなった。