Escape from Aincrad 作:リンクス二等兵
おのれ眼精疲労
あのナイフには麻痺毒が塗ってあるらしい。ムスタファはまだ息があるけど、オレンジたちに捕まってしまった。
跪かせられたムスタファに力はなく、抵抗すらできないようだ。彼を盾にされた私たちは、撃つに撃てない。間違いなくムスタファに当たってしまう。
「下手なことはしてくれるなよ? お仲間が大事なんだろ?」
ああ、本当に醜悪な笑みだ。何度も見てきた人の悪意が目の前にある。
話には聞いていたけれども、アトラスはこういう人たちと戦っていたんだ。他の誰かがこうならないために、自分たちを犠牲にしようとして。
「彼を離してください。撃ちますよ!」
「その頭に風穴開けられたいようじゃないかい?」
私とフカが銃口を向けても、相手は全く動じない。アリフも狙っているはずだけど、ムスタファに当てないという確証が得られないのか。
「ははは! 人を撃てるなら撃ってみなよ! まっ、無理だろうけどな!」
人を撃てるのか。改めて考えて、躊躇ってしまった。
一撃では殺せないのを分かっているけれども、人を殺すこと、傷つけることを絶対の禁忌として生きてきたから、人へ向けてトリガーを引くことを躊躇ってしまった。
SCAVならば撃てたのに。ベータ版のタルコフならば、PMCでも迷いなく撃てたのに。私はまだ、普通の人である証拠なのだろうか。
誰かを見捨てるくらいならば、人でなくなっていればよかったのに。
「……アリフ、俺の家族を頼んだ!」
ムスタファの叫び声が意識を引き戻す。家族を頼む、それはまるで、自分はここで死ぬと、現実には帰れないと悟ったように聞こえる。
「何言ってるの、ムスタファさん!」
「おいおい、待って……!」
「……守ります! 俺が、あなたの代わりに!」
アリフが絞り出すように叫ぶ。待って、アリフにとっても大事な仲間のはずなのに、なんで受け入れてしまうの!?
止めよう。そう思った私の前で、ムスタファはグレネードを取り出していた。ポケットからこっそりと取り出したF-1グレネードが、やけに大きく見える。
「ベイサル、上手くやれ!」
「……行け、すぐに追いつく」
ムスタファは笑顔で頷く。この後の運命を受け入れて、心安らかに。
「一人の死が……!」
ピンを抜いた。やめて、そのレバーから手を離しちゃダメ!
——千人を救う!
毒ナイフの男は逃げ出した。周りのオレンジたちはその姿に目を取られ、レバーの外れたグレネードに気付くことができない。
巻き起こる爆発、飛び散る破片がムスタファの周りにいた2人のオレンジプレイヤーを巻き込む。いくらSAOプレイヤーでも、至近距離で爆発に巻き込まれれば即死は免れない。
それは、ムスタファも助からないということを意味する。自分を人質にされて、仲間に危害を加えられることを防ぐために、自ら犠牲になった。
「……アリフ、そっちのスナイパーはどうなった!?」
戦友の死に、ベイサルは目を背けた。隊長として見届けなければならないのだが、それ以上に苦しすぎた。
そして、その苦しみは声にも現れる。絞り出すような、慟哭のような声が現状を掌握しようとする。
ベイサルにとって今大切なことは、敵討ちよりも残りの仲間を生かすこと。ムスタファの犠牲を無駄にしないことだけだ。
「捕捉したが、奴はグリーン! 撃てないぞ!」
それを撃てば、今度はアリフがオレンジになってしまう。できるとすれば、せいぜい威嚇射撃程度だ。どうして、こうもオレンジ数人よりもグリーン1人が厄介なのか。
「オレンジを突破するぞ。斜面の地雷原を超えて3番倉庫で籠城。アリフ、レンとフカはお前に任せる」
斜面は地雷が埋めてあるが、それは地面が土のところだけだ。中腹までは岩肌が続いており、そこから先、地雷を踏まずに越えられるかは運次第だろう。
「了解!」
アリフは進路を邪魔するローグを狙撃しながらも、PKギルドの一員であろうグリーンのスナイパーを牽制する。
落ち着きさえすれば、歴戦のスナイパーであるアリフがローグなんかに負けたりしないのはよく知っている。
それなのに、私もフカも、どうしてまともに戦えない? リロードの手が震えて、マガジンさえ取り落としてしまう。
早く行かなきゃ。それでも、地雷の位置がよくわからない。いつもみたいにムスタファが先導してくれるはずだったのに、彼はもういないんだ。
「マズイ……!」
ベイサルの弾薬が尽きた。突っ込んでくるSAOプレイヤーを止める術はなく、倒れているオレンジも、すぐにスタンから回復してくるだろう。
そうなれば、待つは崩壊。それを察したベイサルは、悲しそうに目を伏せた。
「待って!」
撃たなきゃ。それなのに撃てない。突っ込んでくるオレンジを止めなければいけないのに、人が目の前で次々と死んでいくショックがトリガーを引くことを躊躇わせた。
そんな私たちを守るために、今度はベイサルが盾になった。
そして、そこからは見事としか言えない。目にも止まらぬ、キレのいい足払いでオレンジを斜面へと投げ飛ばし、地雷原に放り込んだのだ。
爆音が響き、オレンジは致命的なダメージを受ける。さらには、地上を徘徊していたローグに捕捉され、激しい銃撃を受けてHPを削り切られた。
「こちらグリズリー、オレンジプレイヤーの攻撃を受けて退却中。死傷者あり!」
ベイサルはようやくプレストークスイッチを押すことができた。本隊に連絡さえ取れれば、すぐにレイジが飛んでくる。
「現在地知らせ! 岩山か!?」
ベイサルが答えるより前に、別のオレンジがベイサルへ飛びついた。無線のスイッチさえ押せず、銃もナイフも抜くことができない。
「……アリフ、レンを連れて行け!」
「待て、ベイサル!」
ベイサルはオレンジと組み合ったまま、自ら斜面へと身を投げる。そこは地雷原で、勢いのままに転がれば止まることもできず、地雷を踏んで死亡してしまう。
「ベイサルさん!」
「お前たちは、生きろ!」
ベイサルに捕まったオレンジは悲鳴をあげるが、彼はしっかり掴んで離さない。転がり落ちる中で何度も地雷が爆音を轟かせ、その悲鳴は途絶える。
ベイサルも死んだのだろう。力なくオレンジを手放して、さらに下まで転がり落ちていく。
そして、彼らの死体は岩肌が途切れたあたりで止まった。まるで飛び石。俺たちを踏み超えて逃げろ。そうとさえ言うかのように。
「嘘……ベイサルさん!」
「レン、行くぞ! フカも先に行け!」
彼らが死んでも、オレンジはまだいる。生き残るにはこの斜面を超えて3番倉庫へ飛び込み、籠城するしかない。
迷うだけの選択肢は与えられなかった。私は岩肌を駆け下り、躊躇う時間もなく、彼らの遺体を踏み越え、地雷原を乗り越えていく。
ドッグタグの回収さえできない。ローグの射線に入っている以上、迅速に離脱しなければ死体の仲間入りを果たしてしまうから。
だから、どうか私たちを許して。