トントントントン と リズミカルに刃物で食材を切る音が聞こえる。ここは【たった一部屋の領域守護者】ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフの守護領域にして、居住区画でもある一室。そこに併設されている小さなキッチンでラナーは料理を行っていた。
「玉ねぎを切ると涙が出てくるのですね。何か対策は……いいえ、クライムのためですもの、これくらい我慢しないといけませんわ。」
ラナーの持ち合わせている
「ああ、今日もまた〝初めての交換〟ができる。なんて素晴らしいのでしょう。そうだわ、今度クライムの手料理を食べる〝初めて〟が終わったら、次はお互いに箱に入れて後で食べるための手料理……お弁当だったかしら、お互いのためにお弁当を作ってアウラ様やマーレ様のご許可をいただいて第六階層にピクニックに行く〝初めて〟なんてどうかしら。」
ラナーは調理の手を止めてリ・エスティーゼ王国の王女と従者の時分では出来なかった〝初めて〟を指折り数える。どんな小さな〝初めて〟だろうとその喜びが陰ることはない。〝初めて〟の数は余りにも膨大で、ラナーの頭脳を以ってしても全て数えることは出来ない、今回の料理のように後で思いつくものもあるだろう。思わず胸に手を当ててクスクスと笑みを浮かべる。
「いけない、もうすぐクライムが帰ってくる時間だわ。出来立ての料理を振舞わないと。えっと、野菜やお肉は切り終えたから次は調味料ね。レシピによると、ショーユ・お酒・みりん・ワフー出汁を合わせて……」
ラナーが作っている料理は〝ニクジャガ〟なる未知の料理だ。【
コン コン と ノックの音がする。クライムが訓練から戻ってきたのだろう。
「おかえりなさい、クライム。今日も鍛錬お疲れ様。」
本当は抱きしめて帰りを迎えてあげたいのだが、両手は現在調理に忙しい。そのことをもどかしく感じながらも、ラナーは愛するクライムのための調理を手際よく進めていた。
「いえ、わたくしがこの地における訓練という誉を賜ったのもラナー様のお力があってに御座います。それにしても……すごく良い香りが。」
「ええ、今日は料理長に教えをいただいて、わたしが夕食を用意してみたの。もうすぐ出来上がるからクライムはテーブルに座って待っていて。いつものように豪勢な料理とはいかないけれど、許してね。」
「そんな!ラナー様が手ずから作られた料理をいただくなど恐れ多い……。」
「そう……折角二人分作ったのだけれど、わたし一人で食べるしかないかしら。」
「そのようなことはより恐れ多いです!せ、僭越ながらラナー様の手料理……その、ありがたく頂戴させていただきます。」
シュンと花が萎れたような演技をするとクライムは慌てふためき前言を撤回する。敬愛すべき主の手料理など恐れ多い、しかし自分のために作ってくれた品を無下にも出来ない。そんな
薄い茶色の汁に沈むのは、一口で食べられる大きさまで切り分けられた牛の肉、汁を吸って黄金色に輝くジャガイモに薄く切られたタマネギ、鮮やかな扇状に切り分けられた人参に緑色の実をつけていないサヤエンドウ、他にも何やらプルプルとした麺のようなものが入っている。
美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐりクライムはゴクリと唾をのむ。
「この料理にはパンよりもライス……ごはんが合うらしいわ。訓練でおなかも空いているでしょう?たくさん食べて。」
そう言ってラナーは底の深い食器にごはんを盛りつけた。〝それくらい自分がいたします!〟と慌てて声に出そうとしたが、既に盛りつけは終わっていた。クライムには山と思わせるほど大量に、ラナーは器の半分くらいの量を盛りつけて、冷たいお茶を準備し食卓は完成した。
「で、では!ありがたくいただきます。ラナー様、改めてありがとうございます!」
「そんな畏まらなくて大丈夫よ、ではいただきましょう。」
そう言ってラナーとクライムは同時に〝ニクジャガ〟を食す。一口食べたクライムの目は燦然と煌めいており、無礼にならない程度に――王女と従者の身分だったら間違いなく不敬とされる行為だが――〝ニクジャガ〟をおかずとしてごはんをバクバクと咀嚼していた。
(味でいうならば普段食べているナザリックの料理とは比べ物にならないほど劣るはずなのに、クライムったらこんなにうれしそうに……。やはり〝手料理〟というのが特別なのかしら、ああ……作ってよかった。)
クライムの瞳を堪能しつつ、ラナーも二口目を食す。
(うん、初めレシピを見たときはビーフシチューによく似た素材だと思ったけれど、全くの別物ね。ショーユというのが未知の調味料だわ。甘辛い味わいは確かにご飯によく合うわね。)
二人は同時に食事を終え――クライムは後半ラナーのペースに合わせて大分ゆっくり食べていた――食後のお茶を飲む。
「素晴らしい味でしたラナー様!このクライム、ラナー様の手料理を頂戴するという幸福を堪能する機会を賜れたこと、幸甚の至りです。」
「大袈裟よクライム、そうだわ。今度はクライムの手料理を食べてみたいの、是非お願いできないかしら?」
「そんな!わたくし如きがラナー様のお口に料理など……」
「あらひどいわクライム、折角わたしは今日クライムのために料理を作ってあげたというのに、クライムは作ってくれないのかしら。」
ラナーはぷくっと拗ねたように、それでいて嫌味にならない程度に怒った演技をする。〝わがままで困ったお姫様〟……こんな演技もリ・エスティーゼ王国にいた時分ならばすることは出来なかっただろう。そんな幸福を噛みしめながら、クライムをみつめる。演技の効果は覿面で、慌てふためき〝かしこまりました!〟とラナーに告げる。
決意と困惑に満ちたクライムの瞳は見れば見るほどに味わい深く心地がいい。クライムはきっと自分に料理を提供するため【
(クライムはわたしにどんな〝初めて〟をくれるのかしら?)
クライムに宮廷料理やナザリックで出される贅を尽くした料理を求めるのは不可能だろう。かといって自分に牛や豚の肉を焼いただけの簡素な料理を出すとも思えない。クライムが最終的に行き着くのは少し凝ったパスタか、はたまた〝オムライス〟なる卵と米を使った料理か……。
ある程度予想はできるのだが、ラナーの頭脳を以ってしても確定まではさせられない。愛しのクライムが自分のために考え抜き、そして手ずから作った料理……その響きだけでどんな料理が出てこようと何杯でも食べられる。いや快感に身を支配され食事どころではないかもしれない。
(ああ、わたしはなんて幸せなのでしょう。)
この幸福が続くためならばなんだってしてみせよう。ラナーは改めて自らの夢を叶えてくれたナザリック……ひいては魔導王陛下へ感謝の念を抱いていた。