※刑唯です
※個人の妄想です
ウエディングフェアの日程を全て終了した夜。
水戸へ帰るのに、始発に乗れば始業に間に合うはずだと、刑部は今夜は少し無理をして横浜に残ることにした。
自ら鉄の理性と言う彼なら、普段はしない行動だ。
(右手、右のまぶた、左頬……)
刑部は[[rb:菩提樹寮 > リンデンホール]]の練習場へ続く階段を上る。手には冷えた緑茶のペットボトル。
近づくほどに漏れ聞こえてくるヴァイオリンの音は伸びやかで明るく、屈託のない彼女らしい。
(成宮が何もしていないとは思えないが……)
少なくとも刑部の目の届く範囲で、運良く花婿役を射止めたひとりである成宮は朝日奈に対して妙な動きは見せなかった。
しかし三上、弓原、南はちゃっかり花婿の特権とばかりに、どさくさに紛れて朝日奈にキスをしていた。
(本人に聞けばわかることだ)
朝日奈が一曲弾き終えるのと同時に、刑部は練習場の扉を開いた。
「お疲れさま」
「刑部さん」
刑部が現れたので、朝日奈はヴァイオリンの構えを解いた。来なければまだ弾くつもりだったのだろうと、刑部は小さく微笑む。
「ひと息入れないかい?」
朝日奈は刑部の提案にうなずく。
ふたりは窓辺に腰掛けた。朝日奈は刑部との距離があまりに近すぎて、少し居心地が悪そうにする。互いの腕も足も、ぴったり密着しているのだ。
刑部は気づいているのに知らん顔だ。
人の悪い笑顔を浮かべて朝日奈へペットボトルを差し出す。
「ありがとうございます……」
おずおずと受け取ろうとした朝日奈の白い手を、刑部はすかさず掴む。そのまま引き寄せ、右手の人差し指の辺りにキスをした。
「お、刑部さん⁉」
「こちらも上書きしておかないと今夜は眠れそうになくてね」
朝日奈を優しく抱き寄せる。少女の右のまぶたに触れるだけの短いキスをした。
きゅっと身体を小さくした朝日奈の耳元に、刑部は形の良い唇を寄せる。
「動かない方が良い。間違いが起こっては困るだろう?」
耳朶をくすぐる甘く低い刑部のささやきで朝日奈は大混乱に陥った。
「成宮はどこに触れたのかな?」
「おでこに……」
熱に浮かされるように白状してから、朝日奈はしまったと思った。しかしもう遅い。
(やはりか)
刑部は舌打ちをしたい気持ちになる。思っていた通り、成宮は油断も隙もない。
朝日奈はぎゅっと強く目を閉じて、刑部のキスを待つ。待っているのはひどく長い時間に思えた。しかし何も起こらない。
あれ、と拍子抜けしながら朝日奈が目を開けると、刑部は意地の悪い微笑を見せた。
「額へのキスは祝福の意味があるらしい」
刑部は慈しむように、朝日奈の額にキスをする。そして朝日奈の左の頬の柔らかさを唇で確かめた。
「香りの上書きだけでは安心できなくてね」
頬を撫でる大きな手に、朝日奈はドキドキする。
「刑部さんて……」
「何かな?」
裏のあるにっこり笑顔を前にした朝日奈は口をつぐんだ。
刑部は案外嫉妬深いのかと思ったが、そんなことを口にしたら次は何が起こるかわからない。
「なんでもありません……」
大人しくなった朝日奈の左手を取り、薬指に刑部は口づける。
「ここは俺のために開けておいてくれるね?」
全て見透かしているような、眼鏡の奥の琥珀色の切れ長の瞳。それに射抜かれた朝日奈は全身が熱くなる。
いつも自分ばかりが翻弄されて悔しい気持ちはある。だが太刀打ちできない。
コクリとうなずいた朝日奈を見て、刑部は満足そうに相好を崩す。
「それから」
刑部は朝日奈のあごに触れ、くいと上を向かせた。
この流れは、と朝日奈の中で期待と不安が入り交じる。
目は閉じるべきなのかと悩んでいるうちに、刑部の顔が近づいてくる。
鼻の頭が触れ合ったところで刑部が止まった。
「この先のことは、俺としてはやぶさかではないが君はまだ迷いがあるようだから、徐々に慣れてくれたまえ」
クスリと余裕たっぷりに微笑む刑部。
「休憩の邪魔をしてすまなかったね」
そう言えば休憩しようとしていたのだと、朝日奈は今さら思い出す。心臓が激しく動きすぎて、練習より疲れた気がした。