「マーシャル……!」
沖野とルドルフの目前。一夜限りの狂気のカーニヴァルは、ようやく幕を下ろした。
こちらからは見えない相手と死闘を繰り広げたマーシャル。ゴールラインを突っ切ったと同時に、ターフへと俯せに倒れ込んだ。
幸いにも意識はあるらしいが、呼吸が激しい。自身をかなり消耗させる程の、攻撃的な走りをしたのだ。顔を赤く、口をいっぱいに広げ、なんとか生命を紡ごうとしている彼女の姿が痛々しかった。
直ぐにでも、彼女の下へ駆け寄って、介抱しなくては。そう思えど、放送席の扉は依然開かない。
しかし、そこから少しした後、彼女は突然むくりと身体を起こした。激しかった呼吸が、いつの間にか落ち着いていた。
何が起きたのか、彼女自身も理解をしていないようだった。芝に内股を付いたまま、茫然としていた。
彼女は、とある一点を見つめている。また、誰かと話している。
すると、突然、新しい光が彼らの瞳の中に飛び込んだ。
着順掲示板だ。さっきまで消灯していた筈のそれが、急に点いたのだ。
その着順、一着には、とある数字が刻まれていた。
―――――――――――――――――――――――
全力疾走を終えた後、急に止まることはよくないことだとは知っている。本当は、埒にしがみついてでも歩いたほうがいいのだ。
だが、彼女の肉体は、埒に捕まることすら拒絶した。そして、ターフの海原に彼女は溺れた。
どれだけ荒々しい呼吸を繰り返しても、息苦しさからはなかなか解放されない。
心臓が、激しいBPMで鳴り続けている。このまま胸から飛び出してくるんじゃなかろうかと思える程だ。
脳はもう、何も考えられる状態ではない。酩酊状態宛らだ。
流石に、やりすぎたな、とマーシャルは思う。
いくら7秒だけとは言え、そのスパートの密度を濃くすれば濃くするほど、宿主の身体を蝕んでいく。どこまで行っても、7秒スパートが諸刃の剣であることには変わりないのだ。
7秒とは意外にも魔物なのだ。だから、宿主はそれを上手く飼いならさないといけない。
どこまでを最大出力として、どこまでを余力として残すのか。針に糸を通すように、慎重に繊細にコントロールしなければ、母体は簡単に限界を迎える。
だが、今日のマーシャルは、幽霊の挑発に乗って、そのリミッターを外した。
120%スプリント――オーバーレヴだ。
酸素吸入器でも当てて貰わないと、立てそうにすらないな、と思った。このまま一生ターフで寝ているんだろうか。
ふと、マーシャルの視界に、赤褐色の鬣。
少し視線を上げると、赤いウマ娘がそこに居た。
こっちがこんなに消耗しているのに、向こうは息ひとつ乱れていない。そんなのずるいや、とマーシャルはまた心の中で呟く。
赤いウマ娘は腰を屈めて、動けないマーシャルの顔をじっくりと眺める。消耗しきっているマーシャルの顔がそんなに愉快なのか、口端が吊り上がるのが見えた。
マーシャルは何かを言おうと口を開くが、言葉が上手く出てこない。
……そういえば、幽霊に負けた場合ってどうなるのだろう。赤いウマ娘の顔を見たマーシャルはそう思った。
やっぱり負けたら、連れていかれてしまうのかなと思うと、急に少し怖くなった。
そのわずかな恐怖が、顔に表れたのかもしれない。赤いウマ娘はもう一度くすりと笑って、そして、マーシャルの背中を優しく摩った。
すると、瞬間。肺の息苦しさが、ふっと蒸発するように消え去った。
まるで、水中から水面に引き上げられるような感覚だった。自身に何が起きたのか、マーシャル自身も、よくわかっていなかった。
苦しみから途端に解放されたマーシャルは、戸惑いを隠せないながらも、ゆっくりと起き上がり、ターフに内股を付いた。
顔をゆっくりと上げると、赤いウマ娘は出会った時と同じように、埒に座って煙草を咥えていた。
彼女に言いたいことは沢山あった。だが、最初に出て来た言葉。
「……どっちが、勝ったんですか?」
マーシャルvs赤いウマ娘。最後の記憶が正しければ、二人は並んでゴールラインを切った筈だ。
赤いウマ娘は、肩越しに背後の着順掲示板を見た。何も映っていない、真っ暗な掲示板だ。
だがしかし、眠っていた着順掲示板は、途端に彩りを持った。
瞬間的な光の群衆に、マーシャルは一瞬目を細め、そしてゆっくりと開いていく。
そこの一着には
-7-
それだけが書いてあった。
「7……?」
マーシャルがその数字に戸惑っていると、赤いウマ娘は埒から降りて、マーシャルの左肩をポンポンと叩いた。
彼女が叩いた左肩。マーシャルの勝負服には、そこにとある数字が刻まれている。
-Ⅶ-
つまりはこの勝負
――レッドマーシャルの勝利を意味していた。
「7……なな……」
ターフに内股を付いたまま、恍惚と着順掲示板を眺め、Ⅶの刺繍をマーシャルは優しく擦り続けた。
マーシャルの勝負服は、結構珍しい部類に入る。普通、出走時の枠番にて、選手の数字とは決まるものだ。なので、勝負服に矢鱈大きな数字が入っていると、ゼッケンと混同してしまうと言う理由で、数字の使用は避けられている場合が多い。だが、彼女の勝負服には、大きくローマ数字が刻まれている。
それを、URAに無理言って入れさせた人がいたのだから。彼女への、お守りだと言って。
マーシャルはその場からゆっくりと立ち上がって、赤いウマ娘が居る場所へと振り返る。彼女は両手の平を上に向け、首を横へと傾けた。おどけているのだろう、きっと。
「いいんですか……私の、勝ちで」
少し安堵に浸されながらも、切ない瞳でマーシャルはそう言った。
赤いウマ娘は、頷きながらマーシャルの傍へと歩み寄ると。
――彼女の尻を、思いっきりひっぱたいた
パァン! と子気味の良い音が、静かなターフに冴え渡る。
「いったあああぁぁぁ!? な、何するんですか!?」
マーシャルがふと顔を上げた時、赤いウマ娘はマーシャルの後ろ襟を掴み、自身の額と彼女の額を擦り合わせるようにして、マーシャルの瞳を覗いた。
赤いウマ娘の、近くて、意地悪で、それでいてどうしても懐かしく、安心感を覚えてしまうようなその瞳。
その瞳が何を言わんとしているか。
――勝者が情けねぇツラをするな。
そう、言いたいんだろう。
マーシャルは、まだ少しヒリヒリする尻を摩って、そしてもう一度、彼女に向かって。
「……"赤いウマ娘"さん。わたし……私が勝ちました。もう、学園での悪戯は許しません!……煙草も、駄目ですよ」
もう一度、真っすぐな瞳でそう言った。
赤いウマ娘は、もう一度笑うと、マーシャルの後ろ襟を放した。
ふと、東の空がじんわりと色づいてきているのが見えた。
赤いウマ娘は、マーシャルともう一度瞳を交わすと、その夜明けの気配を纏う東の空へと歩きだした。
一歩、また一歩。曖昧な光と暗闇に、彼女の背中が吞まれていく。
その光景に、マーシャルはあの日の光景を重ねてしまう。
それは、彼女がトレーナーと過ごした、最後の日。「また明日」と果たせなかった約束を交わした、取り戻すことのできない、終わりの日。
いつも通り、両ポケットに手を入れ、少し猫背で、マーシャルに背を向け歩いた彼の後ろ姿。それが、最後の姿になるなんて、思ってもいなかった。
消える。消えていく。彼との思い出が、もう一度消える。
本当はもっと、彼と一緒に居たかった。沢山話をして、歓びを分かち合って、沢山教えられて、沢山教えてあげて。
たった一度だけ、思ったことがある。こんなに苦しい思いをするのだったら、彼なんかと巡り合わなければよかった、と。優勝の盾だなんて、いらなかったんだ、と。
とても、とても痛かった。とても、とても苦しかった。
行ってほしくない、本当はもっと、縋りたいんだ。彼の優しく、暖かい背中に。
「トレーナーさんっ!」
マーシャルが赤いウマ娘の背中に、そう声を投げかけた。
赤いウマ娘は、その場で立ち止まる。だが、マーシャルの方を振り向こうとはしなかった。
沈黙の狭間で、地平線彼方の日の光だけがじわりじわりと上ってくる。
また、暗闇の中で、大切な人の背中を見失う。その光景が、マーシャルの呼吸をより浅くさせるのだ。
だから、だからこそ。彼女は、告げなければならないのだ。この一言を。
「――さようなら……さようなら、トレーナーさん」
赤いウマ娘が、ゆっくりと振り返る。
そこに居た、Red Sprinterの姿。今だけは、顔を紅く、瞳に涙を薄っすらと浮かべた、年相応の少女。
「最後にずっと、それだけは言いたかった……今度は、今度だけはちゃんと言いたい。あなたに、さようなら……って」
ぼた、ぼた、とターフに涙が落ちる。自分が流しているものだと、マーシャルは気付かない。ひとつ語る度に、胸が大きく踊らされ、それが地面に落ちる。
しかしもう、少女に杖などいらないのだ。彼女はもう、一人でしっかりと、歩いて行けるのだから。
赤いウマ娘は、また笑う。意地悪な笑みでなく、純粋な優しい微笑みで。
そして、マーシャルへ向かって、言葉を発さずに口だけを動かした。
きっと、彼女はこういった。――楽しかったぜ、マーシャル、と。
赤いウマ娘は、もう一度マーシャルを背に置き、歩き出す。そして、手の甲を軽く振った。
東の空から、ようやく、金色に輝く日が昇る。その光に包まれて――
"赤いウマ娘"は、学園から姿を消した。
―――――――――――――――――――――――
「マーシャル!」
放送席の封鎖が解け、そこから脱出した沖野とルドルフがマーシャルの下へ駆けつけた時、彼女はただ、ゆっくりと日が上る東の空を、ただ恍惚と眺めていた。
彼らの存在に気が付いたマーシャルは、少しだけ充血した瞳を細めて、二人へ優しく微笑んだ。
「……赤いウマ娘は、どうなった」
ルドルフが静かに問う。
「もう、幽霊が来ることはありませんよ。私がたっぷり、叱ってあげましたから。だからもう……大丈夫です」
「討伐は成功か。流石だ、マーシャル。学園を代表し、礼を言おう」
マーシャルは目を閉じて、静かに頷いた。
ターフに落ちた、火の付いていない煙草を沖野が拾う。以前、宮崎トレーナーが部屋に置いていた煙草が無くなっていたと言っていた。それと同じ銘柄なのは、偶然なのだろうか。
「どうだった、レースは」
沖野が煙草を片手に訊く。
「今までで、一番手強い相手でした。とても緊迫していて、本当に負けちゃうかもって。でも、今までにないくらい、純粋な走りができたレースだとも思いました。駆け引きが通じるような相手じゃありませんでしたから。緊張と高揚でハイになって、それこそそう、ロックンロールなレースでした」
くすりと笑いながら、彼女は言った。
「君たちらしいレースだったと受け取ろう。勲章やトロフィーを授与することはできないが、生徒会より、何か礼を用意しよう」
「いえ……しょんな……大丈夫れすよ……それよりも……」
ルドルフがマーシャルの肩に手を置いたとき、マーシャルはプツンと電源が切れたように、ルドルフに凭れるように倒れた。
「おいっ! マーシャル!」
ルドルフの胸の中、マーシャルは安堵したような寝顔で、朝日を拝んでいた。
―――――――――――――――――――――――
マーシャルが目を覚ました時、同室のモモミルクは不在だった。
ぽつんと一人だけの寮の自室。時計を見ると、既に時刻は正午過ぎ。
衣服はパジャマを着ている。自分の机に目を向けると、彼女の勝負服が綺麗に畳んであった。
土曜日の午後の微睡の中、夜中のあのレースが夢だったのか、現実だったのかをぼんやりと考える。
夢だとしたら、随分と激しい夢だったなと思う。ただ、現実だとすれば、そこで何があったのか、よく覚えていない。
しかし、何故か印象深く残っていることがある。それは、その競争相手が言っていたような、ワード。
――ビート、ビート、ビート・ミュージック
――ロック、ロック、ロックンロール!
ベッドに蹲り、考える。果たしてロックンロールとは、何なのだろう、と。
未来への鍵なのか、それとも現実逃避の為の非合法な劇薬なのか。或いは二面性を持った天使であり悪魔なのか。
尤も、そんなことを思うこと自体間違っているのかもしれない。
そんな寝起きの弱った心で、頼りなく思う。わたしは、あの人のようにロックになれるのかな、と。
その時にふと、思い出す。あの人が言っていた、「俺たちは転がり続ける石であり続けなければならない」という言葉を。
考えていたって仕方ない。落ち込むことや、悩むことはこの先ずっと付き纏うのだ。それが、生きている証拠であり、それに抗い続けることが、ロックンロールなのだ。重ね続けた日々の中で、彼は幾度となくそう言い続けていた。
マーシャルは、ベッドから降りて、部屋のワイヤレススピーカーから、マイケル・シェンカー・グループの"Rock Will Never Die"を選曲する。
そのミュージックを背に、赤いストラトキャスターを手に取って、ベッドに腰掛ける。
悩んでいたFコードは、意外にも綺麗に鳴った。
「マーシャル!」
トレセン学園の、和やかであり忙しない朝の時間。
学園指定のバッグを持ってぽつぽつと歩くマーシャルを呼び止めたのは、この学園の女帝、もとい副会長のエアグルーヴだった。
彼女の表情に、僅かながらの焦燥を感じる。何かあったのだろうかとマーシャルは思う。
「エアグルーヴ先輩、どうしたんですか?」
「ああ、すまない。お前、この辺りで妙なウマ娘を見かけなかったか?」
「妙なウマ娘……もしかして、また、あの"赤い"……」
「ああ、いや、そうではないんだ。まぁ、その件は助かった。だが、そいつは奴とは違い、日中、それも今この時間、学園内を逃げ回っているらしい」
「日中に現れる幽霊……?」
「幽霊かはわからん。だが兎に角、妙な不審ウマ娘を見かけたら、生徒会まで連絡を!」
「あ、はい! でも、どんな娘なんですか?」
「ああ証言によると――
頼んだぞ、と言い残し、エアグルーヴはマーシャルを置いてその場を後にしていった。
「黒鹿毛のウマ娘……?」
それが一体誰の事なのか、マーシャルにはよく、分からなかった。
-END-