バイク、サメスマッシュを撃破した翌日。呪術高専京都校校庭。
朝一の冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら、貴丈は相対する東堂に鋭い視線を向けた。
自分の倍はある胴回り、腕を睨みつけ、それを形作る筋肉の強靭さは先の任務で嫌というほど理解している。
純粋な殴り合いでは、まず間違いなく勝負にもならない。だが、その差を埋められるのが呪力の便利なところだ。
「いきますよ!」
「よし、来い!!」
貴丈は全身に呪力を纏い、滾らせながら東堂に言うと、彼は自信に満ちた表情と声でもって応え、構えをとった。
あの戦い以降、毎日のように行われている東堂との組み手。フルボトルなしで行われるそれは、貴丈の素の力を試し、伸ばすためのもの。
いつもは握り込むフルボトルがない違和感にも、武器もなく、鎧も纏わずに相手と向き合う緊張感にも、ようやく慣れてきた。
貴丈はふっと短く息を吐くと共に、駆け出した。
爪先の力だけで固められた校庭を抉るほどの力を込めて地面を蹴り、静止状態から五歩足らずで最高速度に達すると、加速の勢いのままに東堂の懐に飛び込む。
「シッ!」
鋭く息を吐きながら、東堂の鳩尾に向けて拳を放つが、東堂は高速で迫る彼の手を軽く弾き、体勢を崩すと、無防備に晒される貴丈の顔面に肘を打ち込む。
貴丈は「がっ」と痛みに呻きながら後ろに仰け反るが、逆にバク宙をすることでダメージを受け流すと、着地と同時に東堂に飛びかかり、頭を抱えると同時に顔面に膝を叩き込んだ。
校庭に響く快音に貴丈は確かな手応えを覚えるが、同時にこの程度では倒れないことを理解しており、抱えていた東堂の頭を離すと、空中で揃えた両足を彼の顔に乗せ、
「ラッ!!」
膝を伸ばし切ることで、蹴りと同時に跳躍で離脱。
貴丈の全体重を乗せた蹴りに「うお!?」と驚く程度の反応しかしない東堂は、顔に貼り付いた鼻血と土汚れを拭うと、獰猛な笑みを浮かべながら駆け出した。
着地した貴丈が身構えるのと、東堂が肉薄したのはほぼ同時。
東堂は腰を捻りながら拳を引き、避けるのは無理と判断した貴丈は胸の前で腕を交差させて呪力を込める。
「死ぬなよ、
東堂のその宣言と共に、彼の拳が放たれた。
並外れた筋力と呪力を込められたそれは、並の呪霊ならまず間違いなく即祓除する一撃だ。
真っ直ぐに放たれたそれを貴丈が受けた瞬間、凄まじい快音が校庭に響き、地面を揺らす。
「〜ッ!」
受け流すこともできず、それを真正面から受けた貴丈は吹き飛ばされ、数メートル宙を舞い、背中から地面に落ちた。
東堂がしたのは、文字通り呪力を込めた拳で殴っただけだ。それだけだというのに、腕が痺れ、感覚が鈍くなってしまった。
──腕は繋がってる。なら、問題ねぇ……っ!
フッと不敵に笑った貴丈は立ち上がり、同時に駆け出す。
彼の笑みに同じく不敵な笑みで返した東堂が構えると、貴丈との間合いが零に。
東堂は彼の接近に合わせて拳を振るい、彼を打ち負かさんとするが、今度は貴丈が彼の拳を払い飛ばし、返しの裏拳で東堂の頬を打つ。
頬骨が軋む感覚に目を剥く東堂だが、貴丈のラッシュは止まらない。
先ほど打ち損ねた鳩尾に拳をめり込ませてほんの一瞬呼吸を止めさせると、刹那の隙に人中、臍、肝臓、再度鳩尾に拳を叩き込み、締めとして顎を打ち上げるようにアッパーカット。
ごぼりと血を吐きながら東堂の巨体が宙を舞う。
「ふん!」
──かと見せかけて、その場で踏ん張りアッパーを耐えた東堂は、貴丈の頭を掴むと、背筋が伸び切った姿勢から彼の額に頭突きを叩き込み、額の傷跡を開かせて出血を強いた。
だが、お互いにその程度の負傷を構うことはない。
貴丈は東堂との間合いが詰まっている事を鋭い痛みの中でも理解し、ならばと彼の顎を打ち据えるように右横拳を放つが、東堂はそれに対して左縦拳で完璧にカウンターを合わせ、逆に貴丈の顎を打ち抜いた。
「〜〜……っ!!」
ほんの一瞬脳が揺すられ、意識が飛びかけた貴丈は足を踏ん張ることで耐えるが、そんな彼の腹に東堂の拳が突き刺さった。
肺の空気どころか、血の塊を吐き出しながら殴り飛ばされた貴丈は地面に血痕を残しながら転がっていくが、その途中で体勢を整えて両手足をついて急制動をかけて停止。
貴丈と東堂はお互いに睨み合いながら、ほぼ同時にぺっと口に溜まった血と痰を吐いた。
額から溢れる血を拭い、全身の痛みに耐えながら立ち上がった貴丈は深く息を吐き、脱力気味に自然体な構えを取った。
同時に呪力を全身に纏い直し、手足に呪力を集中させる。
凪いでいた水面が突如として荒れ始めたように、無害だった呪力が攻撃的なものとなり、数メートルの距離があるというのに肌に刺すような痛みを感じる。
東堂も彼の雰囲気が変わった事を肌で感じ、警戒しながら身構えると、貴丈は改めて拳を構えた。
──
ぞわりと鳥肌を立てながら、東堂は神妙な面持ちで貴丈を見遣る。
久しぶりの再会──と、東堂は思っている──を果たしたあの日は、貴丈と面と向かっても恐怖はなく、むしろ安堵さえも感じるほどに優しい呪力を纏っていた。
だが、昨日の
気分次第で呪力の質が変わってしまうというのは、呪術師としては減点対象だが、彼の事情を知っているとあまり責める気にもならない。
──しかし、それを言わないのは
「
「……っ!うす!」
東堂が静かに告げた指摘に、貴丈はハッとしながら返事を返し、一度深呼吸をした。
同時に暴れ狂っている呪力が落ち着きを取り戻すが、それでも普段よりも数段濃密な呪力を纏っているのだから、思わず嫌な汗も流れるというもの。
呪術師は普通、そんな急激に強くなることはない。黒閃を経験すればあるいはそんな事もあるだろうが、それは強くなるための一歩目に他ならない。二歩目、三歩目と歩みを続けることで人は強くなっていくのだ。
だが、貴丈はどうだ。
もっと場数を踏み、実戦経験を経ていけば、きっと彼は大成する。東堂にはその確信があった。
──それを
だが、貴丈にとって実戦とは家族殺しの苦行だ。負ければ死に、勝っても家族が死ぬ。その重圧を跳ね除け、邁進することができるだろうか。
いいや、それでも彼は進むのだろう。既に歩み始めてしまったのだ、止まることは死んでいった家族への冒涜に他ならない。
──ならば、俺にできることは……!
「さあ、来い
「それで二人とも、これはどういうことかしら?」
歌姫にとって、東堂は少々面倒な性格をしているが可愛い生徒であり、貴丈は五条から半ば強制的に任された、通う学校こそ違えど可愛い生徒である。
生徒同士の訓練や交流を制限したり、禁止したりするつもりもないが、その内容に対して苦言を呈するのは教師として仕方がないことだろう。
「いや、朝から組み手を」
「
だが、その苦言を呈されている肝心の二人が罪悪感を感じていないどころか、なぜ怒られているのかも理解していない様子を見て、歌姫は額に青筋を浮かべた。
「校庭も滅茶苦茶だし、何より二人ともぼろぼろじゃないの!?」
そしてあちこちが抉られ、凹凸だらけになった校庭と、血と土汚れ、汗に塗れた二人の身体を指差しながら、「何でそんなに落ち着いてるのよ!?」と二人に怒鳴るが、当の二人は首を傾げながら互いに顔を見合わせた。
「別にこのくらいな怪我は珍しくもないですよ?」
「この程度、怪我をしたうちに入らん」
同時に二人はあっけらかんとそう言うが、そうしている間にも貴丈の額から溢れた血が顔を赤く染め上げ、東堂も身体のあちこちから滲み出た血が服を赤く染めていく。
「……説教の前に治療ね。保健室行くわよ」
歌姫はそんな満身創痍の二人の姿に溜め息を漏らし、湧き出た怒りを落ち着かせて最優先にすべき事を思い出す。生徒が怪我をしているのだ、あれこれ説教する前に、治療してやらねば怒るどころの話ではない。
「これ、縫わないと駄目かもしんないですね」
「流石は
そんな治療待ちの二人が、お互いに相手に負わされた傷を見せあいながらあれこれ言っているが、おかげで二人の歩調はだいぶ緩く、近場の保健室にもなかなか辿り着かない。
「早くしなさい……」
そうしている間にも校庭から廊下まで二人の血痕が点々と続いており、また掃除をしなければと歌姫は額に手を当て、小さく溜め息を吐いた。
貴丈が悪人でないのは初対面の時に理解はできた。そう、彼には悪意はないのだ。ないのだが、彼が来てから大量の窓が割れたり、廊下が血で汚れたり、包帯を以上に消費したりと、色々な意味でも問題が立て続けに起こっている。
何度も言うが、貴丈に悪意はない。彼が誰かの悪意に応戦したり、あるいは周りも見えないほどに集中した結果に起こっているのだ。あまり強くは責められない。
それはそれとして、
「そうだった、桐生くん」
「はい?」
彼の怪我で後回しにしてしまったが、彼にとってはそれなりに重要な話を思い出し、歌姫は振り返りながら言う。
「バイクの免許に関して話すから。後で職員室まで来てね」
「……あ」
彼女に言われてようやく貴丈も思い出したのだろう。バイクスマッシュを追いかけるため、自分はマシンビルダーを駆ったが、あの時は頭の中に操り方が思い浮かんだからできたことだ。
あの感覚は忘れていないし、忘れるわけもないのだが、呪術師とはいえ自分は学生だ。今後バイクを運転することがあった時に面倒避けると言う意味でも、免許は必須だ。
まあ、呪術業界では多少のズルをして最短最速で免許や資格を取る例もあるにはあるそうだが……。
貴丈はマジかと溜め息混じりに肩を落とすと、隣を歩いていた東堂が「何事も経験だ」と慰めの言葉を投げながら彼の肩を叩いた。
その拍子に二人の身体のあちこちから血が噴き出し、廊下を汚すことになるのだが、二人は気にしない。歌姫は小さく溜め息を吐いた。
年末の大掃除で綺麗になった筈の廊下に二人の血痕が残り、鉄臭い血の臭いが鼻腔を擽る。
「二人とも、治療が済んだら掃除をお願いね。免許の話はその後でいいわ」
流石に無視できないものとなり始めたそれに、歌姫は頬を引き攣らせながら二人にそう告げて、それを言われた二人は顔を見合わせると同時に頷いた。
二人は何も言わなかったが、貴丈の顔は如実に何を言いたいかを表している。
──別に言われなくてもやりますよ。
悪意もないもない、善意のみで作られたその表情は、逆に相手の神経を逆撫でし、歌姫も流石にほんの僅かな憤りを感じてしまう。
東堂は「
その協調性を普段から見せて欲しいと、心から思う歌姫なのだった。
やる事はいつも通り。照準を定め、引き金を引く。
銃口から一発の弾丸が吐き出され、標的を射抜く。
「きゃっ!?」
──筈なのだが、放たれたのは銃に込められた貴丈の呪力で形作られた六発の弾丸だ。
六発のほぼ同時発射による凄まじい反動を抑え込むことができず、構えた腕が跳ね上がり、その勢いのままに尻餅をついてしまう。
誰にも見られていないかを確認するように周囲を見渡し、舌打ち混じりに立ち上がる。
貴丈の手で作り替えられた拳銃──正確には片手で扱えるだけのガトリング銃だが──を睨みつけ、溜め息を一度。
彼曰く、一度変えたものは戻すことができないため、もうこれに慣れてくれとの事だが。
──替えの銃は何挺もあるし、別にこれに拘る理由もないのよね。
彼の言葉を律儀に守ろうとしている自分を自嘲し、部屋に替えの銃を取りに戻ろうとするが、不意に件のガトリング銃を見つめた。
あの時、これがなければあの
万が一に起こり得る、最悪の状況を想像してしまい、真依は深々と溜め息を吐いた。
そうなれば自分は死ぬだけだ。いや、呪霊が相手となれば、それよりも酷いことになる可能性もある。
そうはなりたくない。死にたくない。なら、今すべき事は一つだ。
真依はじっとガトリング銃を見つめると、再び射撃姿勢を取った。
深く息を吸い込み、吐き出し、ブレを抑える。
後は、いつも通りだ。照準を合わせ、引き金を引き、六発の弾丸が放たれる。
「ッ!」
反動で腕が跳ね上がり、先程同様に体勢を崩し、背中から倒れそうになるが、
「真依!?」
不意に自分の名を呼ばれ、誰かに抱き止められた。
「え?」と声を漏らした彼女の視界に飛び込んでくるのは、額に包帯を厳重に巻かれた貴丈だ。
彼は心配そうに彼女を見つめながら、倒れなかった事にホッと安堵の息を吐いた。
「大丈夫か?」
「え、ええ……」
困惑しつつも応じた真依だが、彼の手が自分の腰を支えていることや、火傷痕で目立たないがそれなり以上に整った顔が目の前にある事に気付き、すっと目を細めて彼に告げた。
「離れなさい……っ!」
「え?ああ、悪い」
語気を強めて彼に離れるように言うと、彼は申し訳なさそうにしながら彼女を立たせ、距離を取った。
同時にガトリング銃を向けられると、慌てて両手を挙げて降参を宣言。
「あんた、東堂と組み手する筈でしょ。なんでここにいるのよ」
「いや、やってたんだけどさ。色々あって、今は校庭と廊下の片付けを」
「……?今度は何したっての?一応、あんたは東京校の所属でしょう」
彼がここにいる理由を問うた真依に、貴丈は悪びれた様子もなく答えると、彼女は溜め息混じりにそう告げた。
一応だが、貴丈は東京校の生徒だ。姉妹校とはいえ、他所の学校の世話になっているというのに、何度も問題を起こすなと、苦言を呈するが、貴丈はどこ吹く風だ。
「ちょっと、二人して熱くなりすぎた。校庭ぼろぼろ、廊下は血塗れだ」
誤魔化すように笑いながら貴丈が言うと、真依は不意に頭痛を覚えた顳顬の辺りを抑えながら「ああ、そう」と吐き捨てた。
何故だろう。彼が来てからというもの、この校舎に対して様々な形でダメージを与えられている気がする。
まあ、そのうちの一度は自分が渦中にいた為、今更文句を言うつもりもないが。
「もう少し大人しくできないの?子供じゃないんだから」
だが、多少の皮肉を言うのは許されるだろう。
一旦ガトリング銃を下ろした真依は、腰に手を当てながら彼を見下すような声音でそう告げると、
「成人してないって意味なら、まだ子供だけどな」
貴丈は両手を広げながら肩を竦め、ぼそりと彼女に言い返す。
呪術師の端くれとはいえ、二人は高校生だ。大人と子供のちょうど境に位置する年齢の彼だが、自分はまたまだ子供だと思っているのだろう。
大人というのがどんなものかはわからないが、きっと自分と同じ状況になってももっと上手く立ち回れるのだろうなと、何となく夢想してみる。
自分がもっと大人っであったなら、今とはだいぶ違う道を歩んでいたのだろうが、考えるだけ無駄だ。今の自分ができる事を、ありったけの力で頑張るしかない。
「ホント、俺はまだまだ子供だよ」
「……。なに一人で感慨に耽ってるのよ」
俯き加減に目を細め、しみじみと彼が呟くと、そんな彼の後頭部をガトリング銃で殴りながら真依が声をかけた。
「いって〜!?」と突然の鈍痛に悲鳴をあげ、後頭部を押さえながら蹲った彼を見下ろしながら、真依は言う。
「東堂と同じこと言うのも癪だけど、あんたはもっと周りを頼りなさい。昨日だって、あんた一人じゃどうにもならなかったでしょう」
「……そう、だな。うん、そうだ」
彼女の言葉にほんの一瞬考え込むように黙り込んだ貴丈は、すぐに柔らかく微笑んで頷いた。
一人であれこれ考えて立ち止まるくらいなら、誰かを頼ってでも前に進んだ方がいいだろう。
「でも、それはお前にも言えるんじゃねぇか?色々と背負い込んでんだろ?」
そして助けてくれるのなら、助けるのも当然のこと。
真希も中々のものを背負い、それでも一人でどうにかしようとしているが、それは真依も同じこと。いや、真希と双子の姉妹であるというだけで、禪院家からのやっかみもあるだろう。
物理的に距離のある真希ならともかく、禪院家宗家が目の前にある京都では、先日の直哉のように直接手を出してくる可能性も高い。と言うよりかは、事実出されていたのだし。
彼の気遣いに真依は言葉を詰まらせるものの、「大丈夫よ」と返して彼に背を向けた。
「いや、大丈夫じゃねぇだろ。この前も直哉に絡まれてたし」
「そう思うなら、これ以上私に構わない方がいいわよ。余計な因縁付けられるわ」
「それは、もう手遅れじゃねぇかな〜」
背を向け、肩越しに投げられた言葉に貴丈は苦笑を漏らし、蹲ったついでにその場で胡座をかきながら言う。
「前にも言ったけど、俺は人助けが好きなんだよ。なんか悩みとかあれば相談に乗るぞ」
「そう。なら、一ついいかしら」
言ったそばから頼ってきた真依の反応に嬉しく思いつつ、「おう、なんだ」とその頼みを聞こうとすると、彼女は無言で校舎の方を指差した。
反射的にそちらに目を向けた貴丈は、同時にそこにいる人物に気付いて「げ……」と呆れたような声を漏らす。
そこには窓からこちらを見つめる東堂の姿があり、二人に気付かれた事を察した彼は、『こっちは俺に任せておけ!』と言わんばかりに胸を叩くと、雑巾の入ったバケツを担いで消えていく。
廊下掃除の途中で抜け出してきたのだ、そんな自分を探して歩き回っていた時に、校舎裏で自分と真依が二人からの場面を目撃、そして去っていった。
「……いい加減ウザいから、あれの誤解解いておいて」
「それは、いきなり無理難題だな……」
真依からの頼みに貴丈は溜め息を吐くと、服の汚れをはたき落としながら立ち上がり、「やるだけやってみる」と告げて踵を返して校舎の方に歩き出す。
そんな彼の背を無意識の内に見つめながら、真依は拳を握っていた。
正義感からくる優しさなど、こちらの身の上を知っての同情など、不要だ。以前なら、そう突き返していた筈なのに。
自分は知ってしまった。彼がなぜ人を助けるのかを。なぜ戦うのかを。
そして、戦いながらも仮面の下で涙を流しているだろうことも。
そんな普通なら誰かに助けられ、それでようやく立ち上がれるかもわからないまでに追い込まれている筈なのに、誰かを助けようと足掻く彼の姿を、知っている。
「ああ、本当、ムカつく……っ」
無意識の内に彼を目で追っていることも、何だかんだで彼を頼ってしまった己の弱さも、そして、今の自分では彼に恩を返すこともできないことも、理解しているからこそ、彼女の胸中には怒りがあった。
「ホント、ムカつく……ッ!」
彼女は行き場のない怒りを込めて、的に向けてガトリング銃を放つのだった。
呪術高専京都校、職員室。
朝一にそこを訪れた七海は、補助監督に渡された書類に目を通していた。
眼鏡の下で目を鋭く細め、その内容を一言一句残さず頭に叩き込んでいく。
相手はおそらく
場所はとある街中に放置された廃ビル。かつては複数の店が入っていたであろうそこに、他の呪霊を含めて
現にその周辺で子供を含め数名が行方不明になっており、呪霊か
その子供の救助と、
今回も
「……どうにか、彼に楽をさせたいのですが」
眼鏡の位置を直しながら誰に言うわけでもなく呟いた七海は、不意に窓の外に目を向けた。
職員室から見える校庭には、自分たちで抉ったであろうクレーターを埋める貴丈と東堂の姿があり、遠目からでは彼は楽しそうに笑っているように見える。
その笑顔が、少しでも長く続くように願ってはいるが、現実はそれを許してくれない。
子供が背負うにはあまりにも重い十字架が、引き剥がすこともできないそれが、あの青年の背中に縛りつけられている。そして、彼がそれを背負う事を自ら望んでしまっている。
これは七海の持論ではあるが、大人になるには小さな絶望の積み重ねが必要だと思っている。
好きだった商品が棚からなくなる。抜け毛が増えた。そんな下らない絶望が積み重なり、人は大人になっていく。
それなのに、貴丈は一家全滅。そして犯人は自分というこれ以上ない絶望を叩きつけられ、大人になる準備もないままに大人にならざるを得ない状況に放り込まれてしまった。
そんな彼を、自分が救えるのだろうか。
一人の大人として、彼の助けになれるのだろうか。
七海はそんな自問をしながら、東堂と和気藹々としながら校庭を駆け回る貴丈を、じっと見つめていた。
感想等ありましたら、よろしくお願いします。