校庭の整地と廊下の掃除を終える頃には、高かった日も傾き始め、空は少しずつ夜の暗さが強くなり始めていた。
遠くの山の輪郭が僅かに橙色に染まり、そこから紫のグラデーションを描きながら見事な黒へ。
そんな空を廊下を進みながら見上げていた貴丈は、七海に呼ばれたのを合図に意識を前に戻す。
「おそらくですが、これが桐生くんが京都で行う最後の仕事になると思います」
眼鏡の位置を直し、書類を確認しながら告げられた言葉に東堂は「なんだと!?」と驚きを露わにし、真依は何をいうわけでもなく小さく息を吐く。
「
「……別に携帯の番号は教えたでしょう。暇な時に電話してくれれば話せますよ」
貴丈の両肩を掴み、ぐわんぐわんと前後に揺らしながら、東堂は激昂の声を上げた。
彼からすれば同じ中学からの親友だ。進む道が同じでも、やむを得ない都合で離れ離れになり、様々な偶然を経てこうして久しぶりの再会ができたというのに、また離れ離れになるのか。
今にも泣き出しそうな顔で迫る東堂に、貴丈はどこか冷めた表情で切り返し、ぽんぽんと東堂の肩を叩いた。
彼の一言にハッとした東堂は涙を拭うと、強がるように笑みを浮かべながら言う。
「……確かにそうだな。すまん、もうあの頃とは違うのだった」
金もなく、携帯も持たせてもらえなかった中学時代とは違うのだ。今の自分たちにはあの頃よりも自由があり、選択肢も多い。携帯電話というまさに魔法の道具があれば、距離に関係なくいつでも話せるではないか。
「ならば、行くか
先程までの泣き顔をどこへやったのか、ドン!と貴丈の胸を叩きながらそう告げる。
「うす」と胸を押さえながら小さく頷いた貴丈が、ちらりと七海に目配せすると、彼らは補助監督が用意してくれているという車を目指して歩き出す。
「……もう帰るのね」
東堂に絡まれ、もみくしゃにされている貴丈の背中を見つめながら真依が呟いた言葉は、誰の耳にも届く事なく、窓から吹き込む冷たい風に攫われていった。
草木も眠る丑三つ時。
貴丈を始めとした呪術高専の学生三人と、引率の七海は、郊外にあるとある廃ビルの前にいた。
地上五階建ての大きなビルは奥にも長く、かつてはいくつもの店が軒を連ね、多くの人で賑わっていたであろうことがわかる。
同時に、時代に取り残されて朽ちるを待つのみになってしまった哀れな建物であることも、わかってしまう。
「京都って聞いたからもっとお寺とかに行くもんかと思ってましたけど、結局こんな感じの建物ばっかりでしたね」
見るからに呪力を放ち、まだ入ってもいないのに嫌な気配を漂わせるビルを見上げながら、はぁと小さく溜め息を吐く。
せっかく京都に来たというのに、自分が行った場所といえば京都呪術高専と近代的な廃墟や廃車置き場ばかり。有名どころの寺院は影すら見ていない。仕事で来たのだから観光するなと言われたらそれまでかもしれないが、貴丈にとってはそんなことを考えねばやっていられないのもまた事実。
彼の言葉を聞いた七海がどこか同情的な視線を向けつつ、ふーっと深く息を吐いて表情を引き締める。
既にベルトを巻き、あとはフルボトルをセットするだけの貴丈。
ゴキゴキと指を鳴らし、貴丈に向けてウィンクする東堂。
拳銃の弾倉を確認し、チェンバーを閉じる真依。
三人がそれぞれの準備を終えていることを確認し、背中の鉈を取り出した七海が「では、行きましょう」と告げ、厳重に封鎖された扉を蹴り破り、彼を先頭に廃ビルに突入。
その後ろに貴丈、真依が続き、殿と東堂が足を踏み入れ、各々が警戒を強めた瞬間、バタン!と音を立てて七海に蹴破られ、壊れた筈の扉が勢いよく閉まった。
「え……?」
驚きの声をあげたのが誰だったかのか、それはその場にいる四人にとってはどうでもいいことだった。
そして、背後の壊した筈の扉が閉まったことも、どうでもいいことだった。
彼の思考が向けられているのは、事前に確認した建物の地図と自分達の現在位置に関すること。
そして今、自分たちがいるのは地図上のどこでもないという有り得ない事実であった。
本来なら扉を抜けた先には吹き抜けがあり、上に続く階段や空になった店用のスペースなどが確認できる筈なのだ。
なのに自分たちは学校の昇降口を思わせる空間におり、目の前にあるのはT字に伸びる長い廊下のみ。
「な!?これは……!」
「マズイぞ、Mr.七海!」
この状況に放り込まれ、真っ先に思考が回復したのは七海と東堂だった。
二人は慌てて閉まった扉に目を向けるが、そこにあるのは一枚の壁であり、扉が消失していた。
それでも左右にある下駄箱の存在もあり、何となく学校の昇降口を思わせる空間に、呪術師たちは放り込まれたのだ。
「なによ!まさか、これって……!」
そして二人の声にハッとして我に返った真依が拳銃をあちこちに向けながら強烈な焦りを含んだ声を漏らし、額には嫌な汗が垂れる。
「ここは相手の『領域』の中!?やられた、相手は特級か……!」
東堂が珍しく慌てたようでそう捲し立て、何か印を結んで『領域』なるものに対抗しようとする中、七海は抱いた違和感をそのまま口にした。
領域とは、呪術における到達点。己の内にある心象風景を結果とし、相手を閉じ込めるある種の結界術。
その効果は強力で、その中に入ってしまえば勝敗は決すると言っても過言ではない。
相手の領域に入るとはつまり、相手の有利な戦場で戦うのと同義。その内側で放たれる術式は、必中となって襲いかかってくるのだ。
「ここが領域だとしたら、どうして攻撃が来ない……?まだ未完成なのか?」
鋭い目つきで辺りを警戒しながらそう口にした七海に対し、貴丈は下駄箱を撫でたり、叩いたりと、その質感を確かめるような行動を取っていた。
領域に関しては五条から教わっている。その危険性も、耳にタコができるほど叩き込まれている。
だがこの時の貴丈の胸にあったのは危機感でも緊張感でもなく、ある種の安堵──そして、決して戻れない過去への情景だった。
「桐生くん?」
「どうした、
警戒する三人を他所に、一人だけどこか懐かしげに、それ以上に悲しそうに辺りを見渡す貴丈の様子に怪訝な眼差しを向ける中、真依が彼の脇をどついた。
「あんた、何してんのよ」
「ふぐ!?い、いや、領域ってスゲーなって思ってよ………」
真依に殴られた脇腹を押さえながら、何かを誤魔化すように笑った貴丈だが、その目に宿る感情はどうにもならない。
強い後悔と悲嘆、そして決して消えない己への憎悪の炎が揺れている。
「……桐生くん。この場所に見覚えが?」
絶対に触れてはならない話題なのは承知だ。だが、この状況を打破するには些細な情報でも拾わなければならない。
この場は生存を優先し、心を鬼にして問いかけた七海に対し、貴丈は乾いた笑みを溢しながら「知ってますよ」と返し、下駄箱の一番端の囲いを撫でた。
「──俺がいた孤児院です。ここが俺の下駄箱でした」
ポンポンとかつて自分の靴を入れるのに使っていた下駄箱を叩き、懐かしさを噛み締めながら拳を握り締めた。
爪が皮膚を破り、血を滴らせながら、眉間に皺を寄せて歯を食い縛る。
彼にとっての特大の地雷を踏み抜いた七海が珍しく言葉を失い、東堂と真依もかける言葉に迷う中、貴丈だけが口を動かす。
「領域については五条先生から教わってます。この領域が、術式が付与されていない、形だけのものだってこともわかりました」
瞳を赤く染め、涙の代わりに呪力を溢れさせながら、ここに住まう
だが、この場所が領域になるほどに思い入れがある人物など、父を除けばあと一人。
「俺は
貴丈は一方的にそう告げると、どこか断的的な足取りで昇降口から廊下に歩み出し、左に伸びる廊下を進み始める。
「桐生くん!単独行動は──」
七海の制止の声を無視し、彼はT字の曲がり角の向こうに消えていく。
「頭に血がのぼっている。いや、怒りすぎて周りが見えていないだけか。
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!?追いかけるわよ!」
顎に手をやり、眉を寄せながら貴丈の状態を冷静に推察する東堂に対し、真依は慌ててその場を走り出し、貴丈と同様に左の廊下へと足を進めた。
「真依らしくもない。まったく、恋は人を変えるな?Mr.七海」
「なぜ私に聞くのですか?追いかけますよ!」
ふふんと鼻を鳴らし、なぜか楽しそうに笑う東堂に七海がツッコミを入れ、二人は揃って貴丈と真依の後を追いかけようとするが、
「な……!?」
「なんと!?」
二人の前に立ち塞がったのは、一枚の壁だった。
東堂は反射的に殴りつけるが、壁はびくともせずに彼の拳を弾き返す。
「領域内だからな、なんでもありか!」
東堂は赤くなった拳を摩り、堪らず舌打ちを漏らす。
ここは敵の領域内。何があってもおかしくないのは、百も承知。
真依のことは貴丈に任せ、東堂と七海は別ルートを探すべく振り向くと、二人は揃って目を細めた。
そこにいたのは数十の呪霊の群れだった。虫のようなものから、かろうじて人型を保つものまで、種類こそは様々だが、
狭い廊下に隙間なく詰まりながら、体を壁や天井、床に擦りつけてじわじわと二人の方に近づいてきている。
「洒落臭い。蹴散らす!」
「時間をかけてはいられません。三分で終わらせます」
東堂は指先で鼻を弾くと拳を構え、七海はネクタイを緩めながら鉈を構える。
見る限り、相手は低級の呪霊ばかり。数が多いだけの雑魚だ。
二人は合図もなく同時に走り出し、呪霊の群れへと突撃するのだった。
後方、壁に挟まれた廊下の向こうで七海と東堂が大立ち回りをしている一方、貴丈と真依は静かな廊下を歩いていた。
貴丈は廊下の途中にある扉には見向きもせず、黙々と奥へと進む。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
真依と一切ペースを合わせることもなく、ずかずかと無造作な足取りのまま、早歩きで更に奥へ。
壁に飾られた、小学校低学年の子どもが描いたと思われる絵や、誰かが撮った家族写真にも見向きもせず、ひたすらに奥へ。
まともな光源もなく、薄暗い廊下を、勝手知ったる道のように、迷いなく突き進む。
一切言葉を発さず、聞こえてくるのは何かを堪えるように力んだ息遣いのみだ。
「だから、待ちなさいってば!」
短い付き合いとはいえ、見たことがない彼の姿に真依は声を荒げ、彼の手を取って無理やり足を止めさせた。
貴丈は振り返らない。離せとも言わない。ただ真依に背中を向けて、彼女の言葉を待っている。
「ここがあんたの思い出の場所だったのはわかった!けど、流石に無茶よ!死にに行くつもり!?」
「なんだ、心配してくれるのか?」
「違うわよ!?あんた、私が言ったこと忘れてないでしょうね?」
真依の真面目に心配する声に皮肉的な笑みを浮かべながら返すが、彼女は不満そうに目を細めて切り返す。
「俺が忘れっぽいって?」と肩を竦める貴丈だが、真依はそんな彼の正面に回り込み、その表情を覗き込んだ。
いつかの直哉と対峙した時と同じように赤く輝く瞳は、その輝きを翳らせて、どこか虚な印象を与えてくる。
いや、当然だろう。彼にとっては自分の犯した罪を真正面から突きつけられているのだ。目を背け、振り返らず、前だけを見て進もうとするのはある意味で当然だ。
あまりにもこの領域は術式的な攻撃力は皆無でも、彼にとっての致命傷を容易く与えてくる。
「言った筈よね、私たちを頼りなさいって」
「……」
「なのに、なに?一人でずかずかと進んで、私はいないみたいに」
「……」
ずいっと彼に詰め寄り、胸倉を掴みかからん勢いでつい昼間にしたやり取りを引き合いに出した真依は、はぁ〜と深々と溜め息を吐いた。
「……悔しいけど、私じゃほとんどあんたの力になれないわ。けど、話を聞くくらいならできるわよ」
すっと目を細め、神妙な面持ちでそう告げた真依に貴丈は驚いたようにほんの一瞬目を見開くが、小さく溜め息を漏らして自分の腰に手を添えた。
「お前って、意外と世話焼きだよな」
「違うわよ!ただ、あんたが私が言ったことも忘れてるから馬鹿にしただけ」
貴丈が苦笑混じりに、どこか弄りを含んだ声音でそう告げると、真依は間髪入れずに否定の言葉を吐き、あくまで心配していないという風を装う。
そんな相変わらずのようでいて、こちらを気遣う彼女の姿に毒気が抜かれたのか、貴丈は血を滴らせる拳を開き、一度深呼吸をした。
「……ここにいる
そして重々しく告げられた言葉に、真依はほんの僅かに驚いた様子を見せるが、彼が焦っていた理由を理解し、眉尻を下げた。
「誰?」
別に聞かなくていいだろうと理解していながら、それでも動いた口を止められなかった。
それが彼の傷を抉ることだということもわかっている。だが、このまま黙っていては、それ以上の傷を彼が負うことになる。
自分は七海のように大人ではない。東堂のようにイカれてもいない。貴丈のように強くもない。そして真希のように、彼の側にいたこともない。
だが、それでも、嫌われ役になる程度のことならできる筈だ。
「それは──」
貴丈が目を伏せ気味にその言葉を告げた時、真依はいよいよをもって数秒前の判断を呪うことになる。
そして彼が成そうとすることの重みを、再び叩きつけられることになった。
「これは、なんだ」
雑魚呪霊の群れを蹴散らし、貴丈の実家ともいえる場所を模した領域を探索していた東堂は、その部屋にたどり着くと共に困惑の声を漏らした。
遅れて部屋に入った七海が「どうかしましたか?」と問いかけながら同じく部屋を見渡すと、眉間に皺を寄せて「これは」と驚倒にも似た声を漏らす。
そこには大量の呪霊の死体が積み重なっていた。部屋を暴れ狂う蛇か、押さえる人物を失った消火ホースのように、縦横無尽に暴れ回る数本の血塗れの鎖が、それらを狩り尽くしたのはまず間違いない。
そしてそんな鎖の奥。何も映さない窓の近くに、二人が探していた人がいた。
毛布代わりのぼろ布を被せられ、すやすやと穏やかな寝息を立てている子供が数人。それぞれが肩を寄せ合い、寄りかかりあいながら、静かに雑魚寝している。
東堂と七海は状況が理解しきれず顔を見合わせるが、すぐに鎖の方に目を向けて構えを取った。
とりあえず救助を最優先だ。鎖を破壊して安全を確保し、どちらか一方が残って子供達を守り、もう一方が貴丈と真依と合流を目指す。
二人は目配せのみで簡単な会議を終えると、ほぼ同時に動き出した。
東堂は床を砕くほどの踏み込みと共に、呪力を込めた拳で鎖を砕こうとするが、同時に不可思議なことが起こる。
あれだけ動き回っていた鎖たちが突然動きを止め、東堂の拳を何の抵抗もなく受け、そのまま砕け散ったのだ。
避けられるか、あるいは腕に絡みついてくると予想していた東堂は面を喰らいつつもそのまま鎖を殴り砕き、勢いのままに放った回し蹴りで隣の鎖も破壊した。
七海も二連撃で二本の鎖を寸断し、その手応えの軽さに怪訝そうに眉を寄せ、他の鎖の反撃を警戒するが、やはりと言うべきか何も仕掛けてこない。
──なんだ、この違和感は……?
七海のそれは東堂も感じていたようで、拳を構えたまま首を傾げ「逆にやりづらいな」と悪態を吐く始末。
七海も同様の感想を抱きながら、改めて鎖の動きを観察。
暴れ狂い、ぶつかるだけで床や天井、壁を削り取るほどの呪力が込められていた筈なのに、いまやその呪力は霧散し、もはやただの鎖程度の力しか残されていない。
七海はともなく、恵まれた肉体を持つ東堂なら、呪力なしでも受け止め、引きちぎれる程度の強度しかないだろう。
──手加減されている?いや、まさか。
呪霊がこちらに手加減を?
そんな疑問が脳裏を過り、すぐにあり得ないと断じる七海だが、やはり一度抱いた違和感はそう易々とは拭えない。
そもそもとして術式が付与されていない領域だとしても、ここは
あの鎖がその術式だとしたら自分たちは既に鎖に捕らえられるか、寸断されている筈だ。足元の呪霊たちがいい例だろう。
七海が眉を寄せ、万が一の可能性を──まだ自我を強く残しているという、貴丈からすれば最悪の可能性を思慮し、小さく唸る。
七海は東堂に視線を向け、構えを解くと共に鎖の方に足を向けた。
東堂も念のためいつでも手を叩けるように構える中、七海は鎖の隙間を縫いながら足を進め、無傷のまま子供達の元にたどり着いてしまった。
マジかと驚倒を露わにする東堂は確かに見た。鎖たちが役目を終えたように霧散し、消えていくその瞬間を。
「やはり、この
「ええ。私は桐生くんと合流します。この
東堂にこの場を──子供達の護衛を任せ、返事を待たずに部屋を飛び出してしまう。
だが東堂もそれに関しては同じ意見なのか、「ここは任せろ!」とサムズアップと共に七海を見送った。
あれだけ騒がしくしたというのに、いまだに眠りこけている子供達を見遣り、「呑気なものだな」と苦笑混じりに呟いた。
懐かしい歌が聞こえた。
物心ついた頃から──いいや、それよりもずっと前から聞いていた、とても懐かしい、歌が。
聞いているだけで胸が温かくなる。聞いているだけで心が安らぐ。
その筈なのに、今は胸が締め付けられる。心が揺れ、呼吸をするだけでも酷く疲れてしまう。
『♪〜♪〜♪〜」
それでも足は止まらない。
この先にいる
貴丈は目の前で道を塞ぐ扉を蹴り破り、その部屋と、この領域の主たる
子供用の玩具や、勉強道具が散乱している、孤児院の娯楽室の中央。
そこに座り込み、鼻歌を歌っていた
「お待たせ、
貴丈が柔らかく、相手に全幅の信頼を寄せる声音で声をかけた瞬間歌が止まり、ゆっくりと彼の方に顔を向ける。
辛うじて人型を保つ身体に何重にも鎖を巻きつけ、南京錠で己を縛る異形──ロックスマッシュ。
貴丈を見た彼女は笑うように肩を揺らし、己を縛る鎖を腕力のみで引きちぎると立ち上がり、彼を迎え入れるように両腕を広げた。
『ぁつ、ひろぉ……。みんなのこと、ぉねがぃ、ねぇ』
涙を堪えるように声を震わせながら、愛する息子に何もかもを背負わせる罪悪感に身を震わせ、それでも彼に託すしかないと理解してしまっていた。
だがならなかった。なれなかった。つまり、この話はここまでだ。
貴丈はベルトにラビットフルボトルとタンクフルボトルをセット。レバーを回して呪力を漲らせる。
『Are You Ready?』
ベルトが放つ呪力が最大に達した瞬間に投げられた問いかけに、貴丈は噛み締めるような声音で告げた。
「──変身」
直後、彼の身体を赤と青の装甲が包み込み、ビルドへの変身を完了させた。
いつもの音声が鳴り響く中、ビルドは再びレバーを掴んで回転させる。
自分とは異なる異形──まるでテレビのヒーローのような姿に変わった貴丈の姿に、ほんの僅かに驚いた様子を見せたロックスマッシュは、彼の背後で不安そうに彼の背を見つめる真依に気づき、僅かに安堵したように息を吐く。
『このッ、この子の……こと、おねがい……っ』
涙に声を震わせ、それでも笑うように肩を揺らしながら、桐生の母親は最期の頼みを真依に告げた。
突然の頼みに驚く真依だが、貴丈が振り返らない事を確認してから小さく頷いた。
そして、それが見えていないにも関わらず二人のやり取りを見届けたビルドは、レバーの回転を停止。
『《レディー・ゴー!!ボルテック・フィニッシュ!!!》』
ベルトから鳴り響く陽気な音声を聞き流し、拳を握りしめる。
「さよならだ、母さん!」
静止状態から助走をつけて一気に間合いを詰め、そして雄叫びと共にロックスマッシュを殴りつけた。
瞬間、彼の拳から発生した黒い閃光が部屋を駆け抜け、壁伝いに広がった衝撃がロックスマッシュの肉体諸共領域を破壊し尽くしていく。
周囲の景色が孤児院から元の廃ビルへと戻っていく中、ビルドは手元にフルボトルを生成。
南京錠の意匠がある金色のフルボトル──ロックフルボトルを握りしめる。
「これで、終わりだな」
何かを堪えるように声を震わせながらそう告げたビルドの背に、そっと真依が手を置いた。
「別に泣いてもいいのよ。その仮面で見えないし」
「……あぁ、かもな」
彼女の純粋に心配から投げられた言葉にビルドは天井を仰ぎながら応じると、変に力んだ深呼吸をしながら肩を震わせた。
「なんなら一人にしてあげるけど?」
「ああ、頼む。七海さんと東堂先輩に、言っておいてくれ」
ついでに向けられた真依の気遣いに甘えると、彼女は言葉の通りにかつては店が入っていたであろうスペースを後にして、慌てた様子でこちらを目指す七海に目をやり、小さく首を横に振った。
眼鏡の下で目を見開いた彼は足を止め、誰にも届かない声で「申し訳ありません、桐生くん」とやはり彼に全てを背負わせてしまった事を謝罪する。
真依の背後。ビルドのみがいるスペースから、一人の青年の泣き声が響き渡った。
感想等ありましたら、よろしくお願いします。