山無しオチ無し煮詰めてドロドロの砂糖あり。
そう言う塩梅。
非常に僭越ながら。
自分の生業が何なのかと問われれば、やはりそれは「画家」となるのだろう。
出逢いとは人を軽率に変えてしまうもので、中学三年生の晩夏という僅か1週間にも満たない期間の出来事はその後の人生を文字通りの意味で決定付けたのだ。
そんな一瞬の煌めきに魅せられてかれこれ十年も絵画を続けてきた結果、生業は最早変えようがないし、変えるつもりもない──ロマンチックな言い方をすれば運命というヤツにまで至ってしまったのである。
尤も、その甲斐あってか自分は世間で「それなり」程度の評価は得ている訳だし、通販が無ければ陸の孤島と言っても差し支えないくらい孤立して日々消滅の危機に晒され続けるこのクソ田舎で不足なく生きていけるだけの成功はしている訳なので、あの夏には一つの後悔もしていない。
何なら彼女と巡り会えた幸運に感謝したいくらいには10年前の出来事を大切な思い出だと考えている。
まあこれを口に出して言おうものなら素直じゃない彼女からは「はあ?」と怪訝な顔をされるか、また神妙な顔をして変なことを言い始めたと揶揄われそうなので取り敢えず胸の中に秘めておくだけにしているが。
前置きが長くなってしまったが、要するに僕はそれなりに自分の職業──と言うか作品──いや、具体的に言えば「向日葵畑で、君と」に対してプライド的なアレがあるということだ。
別に私人としての僕はそう大したことのない人間なので、何を言われようと問題はないのだが、スピネルに贈ったあの作品が粗雑な扱いを受けることはどうにも我慢がならないし、「向日葵畑で、君と」を描いた人間として侮られるのには一言異を唱えたくなってしまうのである。
ついでに言えば人並み程度に承認欲求はあるし、ネガティブな評価には悔しくなってしまう性質なので、つくづくSNSアカウントの管理を二川青年に任せておいて良かったと思わざるを得ない。
悲しい話だが、スピネルという非現実的な妖精少女との出逢いを経てもアニメや漫画に登場する芸術系キャラクターのようなどこか超然的だったり隔絶した視座を持つような人間にはなれなかったのだ。
強いて「それっぽい」部分があるとすればこだわりの強さくらいなもので、それ以外は全くの小市民──未だにモルガンさんと対面するだけで喉からヒュッと音が漏れてしまう程度の凡俗である。
つまり、十年経ったところで僕は超人に進化したわけではない。
成長はしているが、結局それら全てがこれまでと地続きなのだろう。
で、そう。
何が言いたいのかと言えば。
──夏に負けず劣らず、僕は冬が苦手だ。
毛布のそれとも床暖房のそれとも違う温もりが身体を包んで、真っ暗な闇の中から意識がどろりと浮上する。
目を開けても最初に映ったのは天井からぶら下がる裸電球──それと、十年以上前から変わらない少女の香り。
すっかり慣れ親しんだそれだけれど、ふと少し甘いその匂いが鼻を擽るだけで安心感が心が満たしていく。
軋むような悲鳴を上げる肉体が、少しずつ緩んでいくような感じがする……あくまで、そんな気がするだけだが。
──それにしても
靴作りに精を出している時でもびっくりするくらい美容に気を遣う彼女の香りの隅に、あまり馴染みのない匂いが混じっているような気がした。
これは、何だろうか──あまりその手の事情には詳しくないけれど、多分香水を変えたとかではないと思う。
正直、気にするほどのことではないのだが、一度意識してしまうと頭から離れない。
でも、それより優先すべきことがあった。
彼女は僕が朝一番に「おはよう」と言わないと、その日の機嫌がまあそこそこ悪くなる。
これは以前の一週間では分からなかった……同棲して初めて知ったポイントだ。
籍を入れる前にそういうアレコレをお互い理解しないと結婚生活が冷え込みやすい、というどこかの婚活サイトのアドバイスが如何に正しかったか、僕は身をもって思い知らされていた。
まあでも、その程度ならこちらとしてはお安い御用だ──十年間彼女に逢えなかった埋め合わせなら、寧ろこの程度では全然足りないくらいだと思う。
そう言う訳で、僕は毎朝恒例の「おはよう」を繰り出そうとしたのだが──いざ口を開いても、喉から出てきたのは意味のある音ではなく鈍い痛みだった。
そればかりか、全身が重くてだるい。
上体を起こそうとしても、指一本動かすのすら億劫になるほどだ。
しかし──スピネル、或いはバーヴァン・シー、或いは妖精騎士トリスタンである彼女。
彼女は僕がベッドの中でもぞもぞする気配に気付いたのか、少しぶっきらぼうな調子で「起きたのね」と呟いた。
「飲み物、持ってくるから」
傍にあった熱が急速に遠ざかり、彼女はすぐ横にいたのだと今更ながら気付かされる。
それと同時に、小さくなっていくスリッパの音に僕は得体の知れない心細さを感じていた。
それに、何と言うか……スピネルも、大人しい時の彼女より更に物静かに思える。
何故だろうか。
僕はスピネルが常に隣にいなければ情緒不安定になってしまうような類いの人間ではなかった筈だ。
まあ、頻繁にお菓子などを集りにくるメリュジーヌさんは「見ているだけでお腹いっぱい」とか言っていたが……ともあれ、束縛は緩い方だと思う。
僕も彼女もお互いの分野には本気だから、朝以外会話をしない日だってあるし。
などと考えている内にスピネルはもう戻ってきていて、その手にはコップが握られていた。
お茶かな、と聞こうとしたら益々喉が痛くなって、軽く咳き込んでしまう。
「落ち着いて、ゆっくり飲んで」
いつになく優しい彼女に背中を擦られ、助けを借りながらコップを傾ける。
適度に温められたホットレモンがひりついた喉を通り抜ける感覚に、また咳き込みそうになって──そこでやっと思い出した。
──そうか、僕は風邪を引いたんだ
成る程、一度思い出してしまえば理解も容易い。
繊細な油絵の保管には、気温と湿度の管理が重要──加えて、暖房器具を絵の近くに置いてはならないし可能な限り風通しも良くあるべきだ。
そうして真冬だと言うのにヒーターを隅に追いやってアトリエの換気も頻繁にやったものだから、当たり前のように風邪を引いてしまったのだ。
しかも、かなり酷いやつだ。
熱はガンガン上がっていくし、頭痛に喉の痛みまで出てくる症状のオンパレードにたちまちやられてしまった。
そうやって倒れる寸前だったところをスピネルに発見された僕は、否応なしにベッドへと叩き込まれ──どうやらそのまま朝まで眠っていたらしい。
我ながら、馬鹿らしいことをした。
このクソ田舎の夏の暑さに対する憎悪は言うまでもないが、冬の寒さだって同じくらい苦手なことを僕はすっかり忘れていたのだ。
スピネルと再会してから創作意欲が無尽蔵に湧いてくるものだから、調子に乗っていたのだろう。
こう言う迂闊さは十年前から直そうとしているのだが、画家の端くれとしてプライドが出てしまうと言うか──どうにも上手くいっていなかった。
それで、落ち着いて周囲を見回すとここが自室でないことに気付く。
「ここ、スピネルの……」
「あ?何か文句あるの?」
僕たちは、部屋を分けている。
かつて、僕の部屋とそこから繋がる屋根裏部屋だった空間は、同棲するに当たってそのままそっくりスピネルのものとなった。
寝るときは大体一緒だけれど、お互い作業が忙しいと風呂すら入らずベッドに飛び込む時があるから、そう言う場合だけ僕たちは各々の部屋で眠るようにしていたのだ。
そんな彼女の部屋は、一目見て分かるほど丁寧に維持されている。
衣服やら生活用品の類は全てクローゼットに収納され、赤を基調とした内装はちょっと視覚に悪いけど僕の部屋より余程整っていた。
元々結構広めだったのも相まって、僕が使っていた時と比べて開放感が感じられる。
それにしても、何故スピネルの部屋なのだろうか。
「どっちでも変わらないなら、手元に置いとく方が安心できるだろ」
コップを台所に戻してきたスピネルは、視線を合わせずそう言った。
確かに、それはそうなのかもしれない。
どちらの部屋でもやることが変わらないと言うのなら、自分の領域に置いておく方が面倒は見やすいだろう。
そこまで迷惑をかけてしまったところに、忸怩たる想いを感じずにはいられないが。
何せスピネルは、小さいながら自分のブランドを持っている。
用意周到な彼女であればアクシデントに備えて日程に余裕は持たせてあるだろうが、今もスピネルが手掛ける靴を待っている人がいることには変わりないのだ。
そんな彼女に看病をさせてしまっているという事実そのものが、何だかとても情けなく思えてしまう。
「……ごめん」
「謝るくらいなら早く治して」
とは言えそんな感傷がスピネルに通じる筈もなく、謝罪はすっぱりと断ち切られた。
自己管理のなっていない人間だと、彼女に失望されてしまっただろうか。
身から出た錆とは言え、スピネルの期待に添えなかった自分が情けなくて────
「違う、責めたいんじゃない」
そんな僕の自責を叩き切るように、スピネルは言った。
相変わらずこちらと目線を合わせないまま。
悔しさの滲む、振り絞った声で。
「もっと早く気付くべきだった」
「もう同じ失敗を繰り返さないって決めたのに」
そう告げて、部屋を出ていくスピネル。
彼女の視線は──きっと十年前を見詰めていた。
それからと言うもの、スピネルは甲斐甲斐しく──まるで死にかけの重病人でも取り扱うかのような丁寧さと熱意で、僕の看病をしてくれた。
たかが風邪なのに、と言っても全く聞き入れてくれない。
夕食のおかゆは彼女の手作りで、しかもれんげによそったらふぅふぅと冷ましてから口元に運んできてくれる。
風呂の代わりに蒸しタオルで全身を拭く時も、背中や手が届かないところは彼女がやってくれた。
そうして、トドメに「これ」だ。
「……」
「……」
超、至近距離──鼻先が擦れ合うような近さに、スピネルの瞳がある。
そう、僕と彼女は同じベッドの中にいた。
止めようとは、したのだ。
幾ら君が強靭なサーヴァントと言えど、受肉している以上風邪が移ってしまうかもしれない。
僕のために、態々君がそんなリスクを負う必要はないだろう、と。
しかし説得を試みれば試みるほど頑なになると言うか、端から聞く気がなかったのか、有無を言わさず彼女はベッドに潜り込んできてしまった。
こうなってしまっては、もう梃子でも動くまい。
「……」
「……」
そう言う訳で、僕とスピネルは結局普段通り──互いの背中に緩く腕を回して見詰め合う、いつもの就寝スタイル。
この状態で、どちらかが眠くなるまであれこれ話すのが毎日の習慣だった。
つまり──そうまでして話したいことが、スピネルにはあるということ。
けれど、悪辣で素直になれない彼女がすらすらと事情を話せる筈もなくて。
「話したくなるまで待つよ」
「……」
僕の言葉に、スピネルは小さく頷く。
そうして、すぅはぁと何度か息を吸って──彼女は、ぽつりと呟いた。
「怖かった」
「……」
「アナタが倒れそうになりながら、アトリエから出てきたとき。触れたアナタの額が、普通じゃない熱を持っていたとき」
「……ごめん」
「謝らないで。芸術家がこれだって思った時に自分を抑えられなくなるのは、私だって分かるし……兎に角、アナタを責めたいんじゃない。それは理解して」
捲し立てる彼女に、こくこくと頷く。
どうやら、思っていた以上にスピネルは心配してくれていたようだった。
まあ、僕だって彼女が倒れたなら居ても立ってもいられないだろうし、気持ちはよく分かる。
「無茶はしない……とは断言出来ないけど。次からもっと相談するよ」
「無茶苦茶だもんな、お前は」
十年前から、その辺は全然変わんない。
そう言って、スピネルはニヤリ笑った。
僕たちの間で重苦しい雰囲気はそう長く続かない。
無駄に沈黙を横たわらせるより、サクッと不満や反省点を洗い出して次の話に移る方が楽しいと、僕も彼女も知っていた。
「十年前と言えば」
「うん」
「あの時より上手くなっただろ、看病」
何だっけ、と返そうとしてその直前に思い出す。
スピネルを無理矢理外に連れ出そうとして殴られ、気絶してしまった僕を彼女が介抱してくれたことがあった。
その時と比較すると、格段に手際が良い。
気持ちに行動が追い付いていると言うか、段取りをよく考えているように思う。
そう述べると、彼女はほっと──本当に安心したように、息を吐いた。
「ああ、良かった。これで料理とか大して変わってないとか言われたらどうしようかと……」
「そもそもスピネルが料理下手なのはすぐアレンジするからだろ。普通にレシピ通りに作ったら僕より上手い癖に」
「色々探求するのが料理ってモノでしょ?」
成る程、感じていた匂いは彼女が料理に苦心していたことの表れらしい。
やたら凝り性なスピネルのことだから、きっとお粥を作るだけでも色々と考えていたのだろう。
そのために普段あまり入らない台所に籠っていたのだとすれば、違和感を覚えるのも納得だった。
そうして疑問が氷解すると、すとんと全身の力も抜けてしまう──スピネルの介抱で大分良くなってきたとは思うのだが、本調子はまだ遠いらしい。
「眠くなった?」
「うん……」
ぎゅっと抱き締め合ったまま、眠りに落ちる。
少々、どころか相当浮かれているように見えるだろうけれど、僕とスピネルの間ではこの距離が普通だった。
いや──隔てられていた十年間を考えれば、本当はこれでも足りないかもしれない。
その証拠に、スピネルはただ抱擁するだけじゃなくて、僕の頭を胸元に抱き寄せてくる。
「……風邪、移っちゃうよ……」
「だから、大丈夫だって」
そう、だろうか。
本当は、そうじゃないんだろうけど。
スピネルが言うなら、正しい気がしてくる。
まあ、何でもいいか。
モコモコとしたパジャマと、その下の柔らかな肉体に包まれて──体も意識も、勝手に解れていく。
ザンコクでサイアクでワガママで、何より優しいスピネルがいるなら、風邪の日だって良い日に違いない。
そうして、彼女に身を委ねて────
「おやすみ、私のアナタ」
僕の意識は、温かな闇の中へ落ちていった。
抱き締めた男の意識が夢の世界へ旅立って、数秒。
すぅすぅと穏やかな寝息を立て始めるのを確認して──少女は溜め息を吐いた。
──危なかった
バレないように匂いは香水で誤魔化していた筈だが、どうやら看病のあれこれに気を取られていたせいで隠蔽が甘くなっていたらしい。
そう、これは裏切りだ。
青年と、彼に対してなるべく嘘や隠し事をしたくないと考えている自分自身への裏切りだ。
そうまでして隠したい理由がスピネルにはある。
何故なら────
「んっ……」
かぷり、と青年の首筋に歯を立て、滲み出した液体を舌で舐め取る。
何度も何度も、ミルクを舐める子猫のように血の味を舌体に馴染ませていく。
「最っ高……」
これが、止められない。
勿論、今のバーヴァン・シーは吸血衝動とは完全に決別しているし、誰彼構わず血を吸うなんてみっともない真似は当然しない。
つまり、この吸血行為は単なる習慣。
平たく言えば、趣味だ。
騎士としての矜持と雨の国の後継としての誇りを身に付けたバーヴァン・シーであるが、一度強固に染み付いた「残酷な部分」が抜ける気配は未だ見えない。
寧ろ十年越しの再会を果たして以来、独占欲は深まるばかりで──一通り青年の血を堪能したスピネルは、いそいそと魔術で傷痕を癒して己のはしたない行為を無かったことにする。
「はぁ……」
相当に「終わっている」行為だとまた溜め息を吐きつつも、少女は噛み付いた痕を指で何度もなぞる。
彼は、気付いているのだろうか──一生を添い遂げると決めた相手が、思っている以上にサイアクな妖精だということに。
──だって、今日は相当揺らいだ
風邪で寝込んだ彼の姿を視界に入れるたびに、一生自分が面倒を見ないとダメなようにしてしまおうとか、
心配や思い込みが行き過ぎて、うっかり物事をより解決不可能な方向へ転がしてしまう──妖精國の頃からその資質自体は未だ健在だ。
失意の庭やそれに纏わる己の末路を経て深く反省しているものの、やはり染み付いた悪癖はそう簡単に抜けるものではない。
それを強く自覚しているから、スピネルは献身的な看病で誘惑に駆られそうな自分を牽制したのだ。
「……あまり、心配させないで」
だが、それでもスピネルの精神は自制の箍を自ら外しかかっていた。
どう取り繕おうが、怖いものはやはり怖い。
彼が朝一番の「おはよう」を言えなかった時、少女の心は悲嘆に暮れた。
体を動かすのも辛そうにしているのを見た時、人の脆さに驚嘆した。
故に、少女は青年を抱き寄せる。
強く、強く──けれど、決して彼が起きないように。
「……アナタは、私の騎士なんだから」
愛とは呪いにして、呪いより遥かに強いもの。
妖精騎士トリスタンがそうでないのだとしても、少女スピネルがたった一人にとって最大最悪の
◯青年/彼
夏と同じくらい冬もダメな男。
画家としてのプライドは多少ある…と言うか、スピネルに恥じない画家になろうとしているのでプロ意識はかなり高い。
しかしそれが仇となって重めの風邪を引いてしまった。
実は彼女に吸血されていることを知らないが、知ったら知ったでビックリしつつ受け入れる程度にはベタ惚れ。
◯スピネル/バーヴァン・シー/妖精騎士トリスタン
ちょっと(最大限オブラートに包んだ表現)様子のおかしい妖精少女。
現在は妖精騎士としての自覚が強く、十年前のようなヤバい愛情表現は自重している…が、趣味としての吸血行為は止められない。
いくらアンチカースの妖精と言えど、愛と言う呪いより強いモノに対しては為す術がなかった。
本作のスピネルはFGO本編の妖精騎士トリスタンと幾らか違う部分があるが、元々の気質が内向的・受動的であることには変わりなく、好きなもの(=彼)が苦しむことに対しては非常に行動的になる。
野暮な話かもしれませんが、二人の関係性は敢えてぼかしています。
相変わらずプラトニックかもしれないし、もしかしたらとっくに行く所まで行っているかもしれないけれど、その辺りは皆さんの想像にお任せしますということで。