芦名市街地、夜も更け始めたころ瀬名茂三は繁華街の一角にある行きつけの居酒屋にシマカゼタービンを乗り付けてやってきていた。
時々何も知らない観光客からは変わったモノを見た目で見られるが慣れたものだ、仮に飲み過ぎても自動で家に連れて帰ってくれるできのいい息子は自慢である。
一度車が使えなくてシマカゼタービンで飲みに出かけてからというもの、こういう酒の席ではシマカゼタービンに乗ってくるのがいつものことになっていた。
いつものように店の前の駐車場の一番端っこの枠に停めて、近くの電柱に手綱を結ぶ。
シマカゼタービンはそれを見てからごろりと駐車スペースの中で横になって、尻尾を振って行くように促してきた。
「へいへい、じゃ、また後でな」
「ヴッフ」
飲みすぎんじゃねぇぞ、と咳払いしてくる彼に茂三は確約できんと答えて店に入る。
「よぅ、大将。あいつきてるか」
「そこにいるよ、今日は?」
「駐車場にあいつがいるから、頼むわ」
知り合いの店の店主はあいつといえばシマカゼタービンだとわかる。あいよ、と答えると同時に彼の後ろから少年がメニューとニンジン片手に飛び出していった。
まだ小学生の店主の孫だ、おそらく店の手伝いに駆り出されていたのだろう。茂三の来店を目ざとく聞きつけたに違いない。
シマカゼタービンもこの街ではそこそこ有名な馬だ。行儀が良くて物わかりもいいから馴染めばどんどん仲良くなれる。
「食わせすぎんなって言っとけ」
「解ってんよ」
この場合、金勘定ができるシマカゼタービンより孫のほうが心配だ。主に興奮しすぎて怪我しないかで。
ほら行った行ったと目で訴えてくる対象に肩をすくめて応対しつつ茂三は、店主が教えてくれたカウンター席の隅に向かう。
そこには昔から馴染みの中年男が、一人で焼き鳥をつまみに熱燗を飲んでいた。香りで分かる、瀬名酒造の馬練りだ。
「相変わらず好きだな、甘口の熱燗か」
「今月もいい出来じゃねぇか、この仕込みはタービンが?」
「どれ瓶を失礼…あぁ、そうだな。良い具合になってるぜ。翼、テレビで随分と大きく出たじゃねぇか」
「しょうがねぇだろ、そうなっちゃったんだよ」
茂三は隣に座った親友、群馬地方競馬の理事を務める親友の桜葉翼は照れくさそうな笑みに微笑み返す。
「俺は本気だよ、あいつらを3頭、今年の成績いかんでは海外に挑戦させる。中央と張り合うことになるがな」
「面白いじゃないか。だが俺が思うに、それで終わるぞ、今のままじゃ」
茂三がそういうと翼は目の色を変えて、我が意を得たりとばかりに笑った。やっぱりそうだ、こいつは本気だ。
自分がツインターボに熱を上げていたように、こいつもかつての伝説にお熱で、それを地方競馬でやりたくてしょうがないヤツなのだ。
同じ田舎者同士、最盛期の中央競馬を生で見るには少し距離があって難しかった時代を生きてきた。
その少ない機会に恵まれてみてきたレース場の熱気と輝かしい伝説は今でも焼き付いている。
それを身近な競馬場でやりたい、もっとあの夢を見せてやりたい、そう思って親友は本気で動いているのだ。
「そうだな、あいつらの実力は本物だ。だがこのままじゃその後が続かない。いずれ飲み込まれるか、一瞬の輝きで終わるな」
「どうすんだ?お前のことだ、流行りのサンデーサイレンスやほかの奴はできれば入れたくねぇんだろ?」
翼は頷く。
「すげぇのは認める、別に嫌いってわけでもねぇ。俺が目指したいのは楽しい競馬だ、あいつらがいるともっと楽しいに決まってる。
でもまだ駄目だ、もっと幅が欲しい。俺はみんなであいつが強いコイツが強い、顔突き付けあってもっと考えられる昔みたいなやつがやりてぇんだ。
あの走りならやれる、いやあいつが追い込む、逃げて逃げて逃げまくる、あの血だこの血だ、そんなん知るかこいつだこいつ、そういうあーだーこーだが欲しい。
今だって楽しいんだろうがよ。なんか聞いたことある血筋が多くてちょいとつまらんと思うだろ?」
「まぁな」
だから自分は中央競馬を見なくなった。確かに盛り上がっていた、でもそこには何かが欠けてる気がして乗り切れなかった。
戦術もどこかスローペースで、最後のところでみんな全力で走るばかり。駆け引きはやっているのだが、一気にガツンと来るものが足りない。
翼の言う通り血筋が似通いすぎててなんか違うと思うところもあった。
ブライアンズタイム、トニービン、サンデーサイレンス、この血統が強い馬と聞くとどういうわけか目についた。
彼らが悪いわけではないが、強いとどの馬も同じ親の血を引いているのではどこか機械的に均一化された感じがして嫌だった。
その点でいえばまだ地方競馬のほうが考える余地があって、番狂わせがあって、見てて面白いと思った。
有名で強い馬の血を引く有力馬が血縁もくそもないただの馬に千切られる、その瞬間があるかもしれないわくわく感がもっと欲しいのだ。
懐古主義だと笑うならば笑うがいい、それが自分は欲しいのだから恥ずかしくもなんともない。
「だがどうする?ダイオー達の活躍でほかの奴らは警戒してるぜ、今から準備するのはちょいと面倒だ」
何しろ中央競馬と群馬地方競馬では財力も何もかもが違う。もし彼らが過去の有名馬の血を独占しようとすればできてしまうだろう。
店内に戻ってきた少年が焼き鳥とコロッケとサラダとウーロン茶を注文するようにホイホイとできるようなものではない。
いつかあの時の夢を全部群馬競馬に集めてやると豪語して、それを実行しつつある彼にも難しいことは難しいだろう。
「実はな、もういるんだよ。ひょんなところからぽろっとな」
「ほぅ?走るのか?」
「いや、走らんそうだ」
かつての伝説たちの没落はどうにもならない理由がある、一つがその産駒の戦績がどうにも伸び悩むことだ。
こればかりはその馬の個体差だからどうしようもないとは茂三も思っている、走る馬は走るが走らない馬は走らない。
競走馬は血統の競技である、もしその血統にケチが付けばそれをどうにか雪がなければ後は廃れるだけだ。
「どうせ走る気にもできん連中の評価だろ」
だがそんなものはくそくらえだ、血統の大切さは知っている、しかしどんな血統だろうが強い馬は強い。
速くて脆い馬もいれば遅くても頑丈な馬もいる。どんな馬を掛け合わせようが、どう生まれるかは天に任せるしかない。
茂三には持論がある。長年、馬と接してきて多くの競走馬たちを見て、多くの馬を引き取って、一緒に酒造りをしてきた経験から言えることがある。
馬を走る気にさせられないのにグダグダと文句を抜かす連中は三流以下だ。馬も生きているのだ、感情があるのだ、だから走ろうと思えないなら走るわけがない。
だがやる気さえあれば馬はその馬なりに走る。人間もそうだ、やる気がないならそれこそ何にもやらないのだ。
教えれば酒造りだってできる、出来ない馬だって別の仕事ができる、やり方次第でどんな風にもなれるはずなのだ。
どこまで行けるかは未知数だ、馬の努力と才能にもよるだろう。しかしまだ子供の時の体格や血統で決める連中が競馬では多すぎる。
頑張ってダメならしょうがない、どうしようもない時だってある、でも挑戦せずして諦めるか?否だ。
「俺に任せたいんだろ、写真はあるか?」
「ほら」
翼が見せてきたのは栗毛の綺麗な牝の仔馬だった。細身でサラブレッドとしては華奢、どこか緩いふわふわな雰囲気である。
写真を裏返すと父と母の名前が書かれていた、その父親の名前で思わず懐かしさがこみ上げる。
「親父はセイウンスカイ、母親がアレンフオート、母母がイルドルチェだ」
「牝馬か、最近多いな」
「しょうがねぇよ、まだ牡は生産者も希望持つから値が張ってな」
「相手は地方馬か?どこの馬だ」
「北海道の地方馬だが勝ち星無いまま繁殖入りだ。まだ先の話なんだが、やってくれるか?」
「構わん、ダメならうちで引き取っていいな?」
「助かるよ」
瀬名酒造は常に馬の労働力を募集中である。今年はこの子が最初の採用馬になるかもしれない。
例え競走馬としては成功しなくても、酒造りの才能を持つ馬かもしれない。そうでなくても活用法はいくらでもある。
とはいえ調教となるとどうするか、シマカゼタービンの時のようにハチロクの後部座席に乗せて走り回るのも悪くはない。
茂三のやり方は翼も分かっているだろう、ならば彼が望んでいるのはそれに加えてシマカゼタービンとのふれあいの方だ。
「うちのあいつを先生役にするんだ、逃げさせたいんだな?」
「当たり前だ」
「逃げるかどうかは馬次第だが、やらせてみよう」
シマカゼタービンは頭のいい馬だ、金勘定もできれば車の整備も理解してて、走り方の教練もほかの馬に対する教え方が無駄にうまい。
彼に先生役を任せれば、例え走れなくても頑丈で理解力のある馬に成長してくれるはずだ。そうなればほかの職種で十分働いていけるスキルになる。
少なくとも馬肉になることはない、仮に競走馬としてはだめでも酒屋の輓馬で決まりだ。
「言っとくが多くてもうちでは2頭が限度だ、それ以上は自分でやれ」
「ダイオー達に任せてみるさ、あいつらも頭いいしな」
「そうしろ」
かつて一世を風靡して消えていった伝説の末裔にポケットマネーまでつぎ込む親友のことだ、見る目は確かだ。
茂三はもう一度セイウンスカイの娘の写真に目を落として思った、こいつも峠を走らせたら面白そうだ。
夜の峠を並走するシマカゼタービンとこの馬の大きくなった姿を想像して少し微笑む、悪くない。
「後悔すんなよ、そいつにも俺の技術叩き込んで峠でバリバリ走らせてやるからな」
「頼もしいね。ならいっそシマカゼにも子供が欲しくないか?ちょうどいいのが3頭ほどいるんだが?」
「それはあいつに頼むんだな」
いくら親父でも嫌がることはさせられん、茂三は酒を呷りながらにやにや笑った。
◆◆◆◆◆◆
「しかし、ディープもすごい癖馬になったな。大竹さん」
「どうしたんです急に?」
夕刻、栗東厩舎駐車場、本日の調教を終えて帰ってきた馬運車の中で暢気に欠伸をするディープインパクトを見ていた調教師の言葉に大竹は首を傾げる。
癖馬といえば気性が荒かったり気難しかったりする扱いが難しい馬の事を差す。
だが今のディープインパクトは癖馬というほど気性が荒いわけではない、競走馬らしく対抗心は強いがどちらかといえば温厚なほうだ。
よくわかっていない大竹の事を見て調教師は肩をすくめて苦笑した。
「実力もそうだが、うちらとしては物わかりが良くて扱いも簡単になって逆に怖いくらいだ。馬房もきれいに使うし、夜だって寝たら朝まで滅多に起きない。
その上、口で言えばいろいろわかってくれる頭の良さときた。今まで癖馬は腐るほど扱ってきたがこれは別の意味で癖馬だ」
「そうですかね、こいつとは長いですからそんな風に思ったことありませんでした」
「大竹さんはこいつとずっと一緒だから気付かないだけだよ。最初の頃と今じゃまるで別の馬だ。
考えてもみろ、これまでの馬は栗東から競馬場までの移動だけでも結構なストレスなんだぞ。
それがあれだ、今なんか群馬どころじゃない長距離移動だって暢気に居眠りしてる余裕を見せてやがる。普通は考えられんぞ」
そういえばそうだ、大竹は馬運車で外に出る合図を待ちながらうとうとし始めているディープインパクトに目をやる。
ディープインパクトの主戦騎手になり、シマカゼタービンたち群馬競馬の馬たちと交流するようになってからだいぶ慣れてきていたがやはり利口になっている気がする。
思い出せば今まで走ってきた馬たちも利口なところはあったがここまでじゃなかったはずだ。
「…あいつも成長したな」
「この馬バカめ…所で、次は阪神大賞典だが、ディープの調整はやはり群馬で?」
「はい、そのつもりです」
「シマカゼか」
「彼ほどうちのディープが本気になれる相手はいません。菊花賞の後でも負けましたからね」
今思っても信じられなかった。菊花賞を制した実力を持って挑んだ模擬レース、そこでは大差をつけられて負けた。
でもそれだけではない、群馬にはディープインパクトと競いあう馬がほかにもいるし彼らも乗り気だ。
だがだからこそ、全力で逃げる相手を差す研究と追われても絶対に乱れない度胸を付けてきたのが有馬記念では生きたのだ。
もしシマカゼタービンと瀬名親子がいなければ、自分はハーツクライたちが仕掛けた先行策を見抜けなかったし、見抜いたとしても足が間に合わなかった。
常に全力で大逃げするシマカゼタービンを追従する脚力を培ったからこそ、あの追い込みの爆発力を得たといってもいい。
「勝てそうか?」
「解りません、俺たちは勝ちに行くつもりですが相手が相手ですからね」
ブロックが効かないくらいバカ逃げするか、それとも普通はやらない奇特な走りをしてくるか。どちらにしろ怖くもあり楽しみだ。
「…正直、ちょっと控えたほうがいい気がするんだ。これ見てくれ」
「雑誌?」
大竹は調教師に出された雑誌を手に取り、記事に目をやって首を傾げた。
「ハーツクライが群馬に?なぜ?」
「探りに来てるぞ、お前らの秘密をな」
「秘密なんてないんですが…」
「今話題の馬を探ると不思議なことが見えてくる。読んでみろ、次の海外遠征を目指す地方馬のコラムだ」
「ダイオーにノルン、ツバキも海外遠征を表明…これならもうみんな知ってることじゃないですか?」
「まぁな、実力は地方馬じゃ頭抜けしてるから夢物語じゃねぇ。しかも全員血統が夢見させてくれてる」
トウカイテイオーを父に持つホクリクダイオー、ミホノブルボンを父に持つノルンファング、タマモクロスを父に持つツバキプリンセス。
どれも日本競馬を語る上では欠かせない名馬たちの血を引いていて、それで力強い走りを見せる重賞馬。
それも全馬が地方競馬所属で、並みいる中央競馬の強豪を薙ぎ払って今年の秋のG1を搔っ攫っていったのだ。
「それだけじゃない、地方はあの時代を蘇らせる気だ。群馬競馬の理事長自ら四方八方で昔の血筋をかき集めてやがるのはそこそこ聞く話だっただろ?
結果があの大当たりだ、まだまぐれの可能性があるしみんな慎重だが次のレースで暴れたら怖ろしいことになるぞ。
しかも世界でも走らせてあっと言わせる気だぜ、できると思うか?」
やれる、何故ならこの3頭の実力は身をもって知っている。同じシマカゼタービンの背中を追い続けて横に並んできた3頭なのだ。
有馬記念のツバキプリンセスも、最後までディープインパクトに食らいついてきた。今でもあの追い立てられる恐怖は覚えている。
ハーツクライの背中に食らいつきながら、自分たちはずっとあの芦毛のライバルに追い立てられ続けてきたのだ。
最後に引き剥がせなければ、コスモバルクとリンカーンが意地を見せなければ間違いなく3着にいた。
そして少し運がツバキプリンセスに寄っていれば、自分とディープインパクトもハーツクライと同じ運命だったはずだ。
あの時、自分とディープインパクトは無茶をした。ツバキプリンセス達はそれをしなかった。
急激なカーブで発生する遠心力を後ろ足でカウンターを取って打ち消しながら曲がるドリフト走法、まだ未完成なドリフトもどきのそれはツバキプリンセスもできるのだ。
一緒になってあの馬の尻を追いかけてきたからこそわかる、ツバキプリンセス達も理解していたはずだ。
だがその走りは馬の足に大きな負担をかける、一レースに一回が限度である。慣らしていても自殺行為、まさに賭けなのだ。
あの時ツバキプリンセスは賭けに出なかった、自分たちは無茶をして賭けた。
二頭そろってドリフトもどきに賭けていたらもっと厳しい戦いになっていた、運が良かっただけでしかない。
「彼女達ならばできますよ、あれはフロックでも何でもない」
実力は十分だ。模擬レースで何度も走った大竹だからこそ、それは断言できた。
ホクリクダイオーは第25回ジャパンカップを、ツバキプリンセスはエリザベス女王杯を、ノルンファングは第132回天皇賞・秋をそれぞれ取った。
どの競争にも海外からの出走馬が出てくる中央シリーズ重賞G1、それを地方競馬から勝ち上がってきた彼女たちが取っている。
ツバキプリンセスに至っては本気のディープインパクトに最初から最後まで食らいつく意地の追走で有馬を沸かせた。
世間ではまだ注目され始めたばかり、業界では生産者たちに波紋が広がりざわつき始めているというところだ。
「だろうな。で、そいつらの事を調べると、そこも群馬トレセンに行きつく。ダイオーとノルン、ツバキも今は群馬だしな」
「…群馬に偏ってるんですね?」
「その通り、今年騒がせた奴が大体群馬に縁があるんだ。そりゃ目を付けるさ。お前、次の模擬レースで勝ちに行けるか?」
「もちろん、そのためにディープとばっちり仕上げてますからね」
本番のための模擬レースで勝つために仕上げるというのもおかし話だが、最近はその形でより一層ディープインパクトと大竹は力がついているのが実感できた。
そのデータをもとに栗東厩舎での調教はより向上力を高めている、これからへのノウハウも着実に蓄積しているのだ。
「解ってんだよ、今のディープも最高だ。でも俺は不安なんだ、また負けんじゃねぇかってな」
「負けるのもいつものことでしょう、タービンと瀬名親子に勝てたことがない」
「そうだよ、いつも俺たちは最高の状態にしてる。それこそ実戦並みに仕上げてんだ、でも勝てん」
それは群馬トレセンでいつも顔を合わせるほかの3頭とその騎手も同じだ。
芝でもダートでも、シマカゼタービンに勝てる馬がいない。どんなに追いかけても逃げられてしまったら最後なのだ。
「勝てるって自信はあるんだ、でも勝つときの姿が全く浮かばねぇ」
「私もそれはありますね、いつも彼の後ろ姿ばかりを追いかけてる」
「だからやべぇんだよ、たぶん日程がかぶる。お前、ハーツクライがいる前で負ける気か?」
「それは言わせないでください、負けたくて負けてるわけじゃない…でも彼の実力は本物だ」
「それも知ってるから困るんだよ、お前らは本気でぶつかって、あいつらも本気でぶつかって、あいつはお前らを千切る。
やらせもなんもないのは俺だって生で見てんだから知ってるさ」
でもな、と彼は少し物憂げな表情になって言葉をつづけた。
「お前らは四冠馬とその主戦騎手なんだ、それが地方オープン以降はまともに走らん地方馬に負ける?そんなんどう見ても異常だ。
俺は怖いよ、これから先このままでいいのか不安なんだ。このままじゃ、なんか取り返しのつかないことになりそうな気がしてよ」
「まさか、考えすぎですよ。勝ってると言っても、ただの練習じゃないですか。誰も本気にしませんよ」
「みんなお前みたいなやつならそれでもいいんだが、人間はそうじゃねぇからな。
あいつは走り屋じゃねぇか、それも怖ろしく強いやばい奴だ。そんなの普通の人間が見たらどう思うよ」
大竹が収集してきたシマカゼタービンの本気の実戦、スカイラインR33とのバトルとそのあとに取るだけ取ってきた記録映像はまさに栗東厩舎では全員が知る秘宝のような扱いだ。
その峠のバトルは競走馬の常識を鼻で笑う現実が納められていて、それを少し解析するだけでもシマカゼタービンの異様さと競走馬の調教に対するヒントが得られる。
何よりその映像は見るだけである種の光が見える、競走馬は突き詰めればスポーツカーにさえ勝てるという夢を見せてくれるのだ。
大竹自身、彼に乗って走った峠を下る感覚は身に焼き付いている。平地競争ではありえない速さ、ナイター以上に暗い峠道を駆け下る恐怖、シマカゼタービンが加減してくれても身が竦んだ。
「峠の話じゃあいつは十分話題性あるだろ?R33をテクニックで勝ちに行く馬だ。俺は何度見てもゾッとするよ」
「確かに、でもうちのディープだって負けてませんよ。今は無理でも、もっと訓練すればできるかもしれません」
それは確信でもある、あの映像はディープインパクトにも見せた。その時の彼の目には闘志が燃えていた。
あのシマカゼタービンが、自分を芝で散々負かした最大のライバルの本当の走りは彼に火をつけていた。
大音量のエンジン音も、スキール音にもまったく動じることなく彼はつぶさにシマカゼタービンの走りに集中していたのだ。
そしてその片鱗が有馬記念のドリフトもどき、アレを突き詰めていけばいずれはシマカゼタービンのドリフトにたどり着くだろう。
「臆病なはずの馬があんなとんでもない速さで真夜中の峠を走って、あのやかましいスポーツカーに挑みかかること自体普通は無いよ。
でもあいつはそれをやる、しかも足場は普通のアスファルトで、走り方もハチャメチャだ。なのに、あの速さであの強さ、何よりあほみてぇな技術があって頭もいい。
四本足でドリフトしまくって平気な顔してるって何だよそりゃ?頑丈なんてもんじゃない、ドーピングしてるほうがまだ納得がいく」
「してないんですよね、それがまた」
群馬地方競馬から取り寄せている健康診断の結果はいつも正常でドーピングの形跡は一切ない。
栗東厩舎の疑り深い人間が、許可を取って血液を採取した後に精密検査に持ち込んだがそれでも白と出てこの世の終わりのような眼をしていた。
茂三に聞いてもいつも好きに走らせてる以外は、せいぜい普段の食料がほかの厩舎と違い所帯じみててバリエーション豊富ということくらいだ。
それもいい意味ではない、瀬名酒造で出されていたのは普通の飼い葉や近所の農家から格安で買い取っている屑野菜、瀬名酒造の社員食堂の残り物だ。
ドーピングどころか、競走馬たちの健康のために計算されて作られた飼料や飼い葉などと比べれば栄養価としては数段劣るものが主食なのだ。
「茂三さんの言う通り、アレは育ちからしてまるで別物だ。あんなに強けりゃそういう育て方もあるんだって納得も行くが、だから怖い。
あれは一種のブレイクスルーだ、競走馬の調教の仕方を変えちまうかもしれん」
まさか仔馬の時からスポーツカーに乗せて峠で振り回すなんて荒業を普通は考えるわけがない、けどそれをやった結果があのシマカゼタービンだ。
だから怖い、加熱していくこの競馬の中で大きな何かになっていくようで怖い。調教師はそう言って口を噤んだ。
あとがき
群馬競馬の親父と酒造の親父はただ夢を追ってるだけですのでできれば放っておいてください。
彼はただ群馬で昔みたいな熱くて楽しい競馬をやりたいだけで本気でどっかに喧嘩売るとかそんなの毛ほども思ってない。
次こそはハーツクライ編に…行けるかなぁ?
おまけ資料設定
『栗東厩舎極秘調教資料・シマカゼタービン2005』
2005年、群馬県芦名峠にて撮影されたシマカゼタービンの実戦、及び訓練記録映像を編集して閲覧しやすくしたもの。
芦名峠で瀬名酒造が行う公道レース向け調教の一端と、現実に行われた実戦映像が納められている。
坂道教練、スタミナ訓練、ワンビアカスタムやAE101GT―Zとの併走訓練などから始まり、最後はスカイラインR33との実戦レースで締めとなる。
シマカゼタービンのダウンヒルタイムアタックやそれに向けた坂道教練など瀬名酒造の社長自らが解説してくれるおまけつき。
また撮影に協力してくれた地元の走り屋たちのコメントも必見。
なお本データは栗東厩舎における極秘資料であり外部持ち出しは長らく禁止されて秘匿されていた。一般公開は2021年。
必見は『スプリンタートレノAE86GT―APEX対シマカゼタービン』のレースと大竹自身がシマカゼタービンに騎乗して撮影した降りのタイムアタック一本。
なお編集前の生データは現在に至るまで非公開である。