気儘に生きた転生馬物語   作:イナダ大根

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いつも多くの感想と多くの誤字報告ありがとうございます。今日もサービスサービス!
ちなみに某騎手が母国語を話すけど機械翻訳の雰囲気作りです。





第19話

 

「おい…おいおいなんだよこれ…なんなんだよこれ…!!」

 

カメラマンの動揺しきった呟きが耳朶を打つ蹄の音に紛れて聞こえる、その動揺を隣で聞いていた稲波はまるで遠い声のように聞こえていた。

レースの内容があまりにも意味が解らなかったからだ、目の前の光景がまったくもって理解不能だったからだ。

2410メートル、左回り、水濡れで重馬場になった芝コース。

出走馬全てが馴染みのない、海外芝を模すために作られたコースだ。ゆえに誰にでもチャンスはある、練習とはいえディープインパクトに勝つこともできるかもしれない。

それは理解していた、理解していたはずだ、なのに稲波の意識は必死に目の前の現実を否定したくて仕方がないのだ。

 

「千切れシマカゼ!俺が勝つまで負けるなんて許さねぇぞ!!」

 

「まだだ!まだツバキは終わらんよ!!」

 

「行けぇ!!捉えろ!!ディープ!!」

 

「な、何やってんのダイオー!?」

 

「仕掛けろ、ノルン!!」

 

最後の直線、観戦スペース前のホームストレッチに帰ってきた最初の馬、鬣を短く切り筋肉質な特徴のない栗毛の牡馬。

シマカゼタービンだ、群馬競馬のダート競走馬のはずの彼が、濡れた芝の上を全身の筋肉をフルに使った全力疾走で後続を振り切りに掛かっている。

何の冗談だ?馬好きを自負する稲波でさえ目の前の馬を信じたくなかった、これは悪い夢だと思いたくて仕方がなかった。

最初のスタートでハーツクライに先頭を取られたときに彼は終わったと思っていた。その後ろに控えた4頭はそういう作戦なのだと考えていた。

それは間違っていなかった、だが狙いはディープインパクトでもほかのライバルでも、ましてやハーツクライでもなかった。

4頭が狙っていたのはシマカゼタービンだった、初めから彼を抜き去ることだけを考えていたに違いない。

彼が加速してハーツクライの前に出ようとしたときはやはりツインターボの孫だったと感嘆した、それだけしか見ていなかった。

彼は逃げられるから再び前を狙った、そこからは延々と加速し続ける大逃げだ、最初から最後までペース配分なんて無視した全力のスピード勝負だ。

それはセオリーを無視したバカバカしい走りに見えて、同時にかつてのツインターボを彷彿とさせる走りでもあった。

勝つかもと思いつつも最後は恒例の逆噴射だとも考えた、考えて楽しんでしまった、侮っていた。

 

「…GⅠだぞ」

 

呆然とした大橋の呟きが妙に耳に入る。彼も大逃げを見たときは喜んだ、血筋は血筋かと納得していた。

スプリンター顔負けの加速からのハイペース、すべてを置き去りにする大逃げ、しかしノルンファングが仕掛け始めたときから奇妙に感じ始めた、

シマカゼタービンの加速がまったく衰えない、彼特有の自動車の変速のような一瞬減速する加速でどんどんペースを上げていく。

それについて行こうとハーツクライ以外の馬は当たり前のようにペースを上げて食い下がり、それにつられてハーツクライもペースを上げざるを得ない。

そこからはシマカゼタービンの檜舞台、次々と仕掛けてくるノルンファングやツバキプリンセス、ディープインパクトを躱してずっとトップを譲らない。

止まらない、緩まない、垂れない。加速する、ただ加速する、まったく速度を落とさない。ただただ速く先頭を駆け抜ける。

 

「みんな、GⅠクラスなんだぞ。無敗4冠だって、いるんだぞ」

 

群馬地方競馬の星、すべて2005年のGⅠホース、中央所属競走馬たちをすべて抜き去って手に入れた日本中央競馬の頂点の一つを持った地方の競走馬たちが走っているのだ。

クラシック三冠を達成し、05年の有馬記念を制して無敗四冠を達成した新たな伝説が目の前で走っているのだ。

彼に、彼女らにハーツクライがまだ及ばないのならば納得はできよう。それを糧に精進できよう、だがこれは何の冗談だ?

 

「ハーツクライだって、ずっと頑張ってきてるんだぞ」

 

それはハーツクライの実力を誰よりも信じている大橋がよく知っている、稲波もハーツクライの実力は理解している。

GⅠ未勝利とはいえ、いつGⅠに手が届いてもおかしくない、それ程までに仕上がってきていた。

GⅠクラスの競走馬が5頭、競い合うならこの5頭しかない。残り一頭は偶然いただけの数合わせ、多少追いすがれば十分なはず。

だが目の前のこれはなんだ、ラストスパートをかけて何とか上がってきたハーツクライだがホクリクダイオーとブービー争いだ。

それどころか最初の飛び出し以後はまったくもって競り合うところがない、ずっと後ろについたまま前へ上がれないでいる。

走りに違和感は全くない、有馬記念並みに思いっきり走っている、故障の様子もない、なのに最下位争いをしている。

 

「あり得ないだろ…嘘だと言ってくれ…嘘にしてくれ…」

 

あのシマカゼタービンが前をひたすらに走り続けているからだ。先頭でバカみたいな大逃げを行い、レースを頭のオカシイハイペースにしてしまっているからだ。

自分たちの努力がすべて無駄に終わっているような気がした、今まで行われてきたレースがすべて否定されてきたような感じがした。

常識外のスピードでラストスパートをかけ始めるシマカゼタービンにディープインパクトとツバキプリンセスが迫る。

ディープインパクトが優勢だ、ツバキプリンセスは足の伸びが足らずに少し遅れてきている。

 

「勝て、勝ってくれ」

 

大橋が願う、じりじりとシマカゼタービンに詰め寄るディープインパクト。その速度はいつもよりもはるかに緩慢でじれったい。

なのにその姿は完璧だ、足の動きもキレにキレている、完璧に最高の追い込みを見せている。なのにじれったいと思ってしまうくらいにゆっくりとしか詰められない。

 

「嘘でしょ…」

 

現実は非情だった、ディープインパクトの加速が止まった。残り60メートル、残り1馬身、そこまで迫ってディープインパクトとシマカゼタービンの差が僅かにまた開いていく。

ディープインパクトが捉えきれなかった、垂れた?いや、まだ全力で仕掛けつづけている、なのに差が開く?

 

「ディープインパクトが…!!」

 

届かない、無敗四冠の伝説が全力で走ってなお突き放される。彼らは諦めていない、でも届かない、距離が縮まらない。

セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンに並んだ生きた伝説が、最盛期の彼が全力を出してなお、届かない。

 

「嘘だ」

 

誰か嘘だと言ってくれ、大橋の呟きにはそんな願いが聞こえた。

 

「あり得ない、こんなの嘘だろ?」

 

誰でもいいから余興だとバラしてくれ、ドッキリでしたと言ってくれ。

 

「あいつらが…日本のGⅠホースたちが、あんな趣味の道楽馬に負けるっていうのか!!」

 

速いのだ。ハーツクライよりも、ホクリクダイオーよりも、ノルンファングよりも、ツバキプリンセスよりも、ディープインパクトよりもシマカゼタービンのほうが速いのだ。

差が広がる、ディープインパクトが置いて行かれている。

残り30メートル、2馬身、巻き返す余力はない、ディープインパクトはもう全速力だ。なのにシマカゼタービンはまだ加速し続けている。

バカみたいに速くて体力自慢の大逃げステイヤー、脳裏に大橋の言葉が蘇る。嘘ではなかった、本物がそこにいる。

地方競馬の星が、2005年の秋GⅠ戦線を暴れた猛者たちが、地方競馬に光明をもたらすはずの光が、その地元で負ける。

無敗四冠が、2005年中央競馬のクラシック覇者が、日本競馬会に刻まれた新しい伝説が、この群馬で負ける。

ホクリクダイオーを振り切って、ノルンファングを躱して、ツバキプリンセスからも逃げて、ディープインパクトすらも置いて行く。

最下位でなければならないはずのシマカゼタービンに、完全に実力差で負ける。

あり得ない、信じられない、あってはならない、こんなの現実が間違っている、不正だ、間違いだ、無敗四冠の伝説がこんなところで負けるなんてありえない!!

 

「ちっ…まだダメか。だがF1テクはうまくいった、まだまだいけるな」

 

小泉の悔し気な、しかし納得した呟きが非情なくらい耳を通り抜けていった。

シマカゼタービンの馬体がゴール板の前を駆け抜ける、終わった、シマカゼタービンが1着だ。

ディープインパクトが負けた、日本中央競馬会の秘宝であり日本近代競馬の解答と言われてきた彼が、地方重賞すら出ていない馬に。

それもぐうの音も出ない決定的な敗北、主戦場がダートであり短距離かマイル辺りしか走ったことがないはずの相手にだ。

 

「また速くなってるな、最終速度は?」

 

「ラストスパートで93、平均では85辺りですかね」

 

「またハードルが上がったか」

 

余りのショッキングな光景に大橋を筆頭としたハーツクライ陣営が声も出せない状態の中で、周囲は当たり前のように弛緩した空気に包まれていた。

小泉は肩の力を抜いてやれやれとかぶりを振り、自分の隣で馬たちの最高速度を計測していたホクリクダイオーの調教師と一緒に肩をすくめている。

 

「ダイオーが最初から仕掛けに行ったのは作戦だな?」

 

「ご明察です、あいつの加速には癖がありますからね。真後ろに付けばある程度はこっちの土俵に引きずり込める。

…ハーツクライが無防備に前に出たのは予想外でしたよ、しかもそのまま逃げに移るとはね」

 

「あの動きは予想外だったか?」

 

「見事なモノですよ、おかげでうまく嵌められちまった」

 

まるでいつものこととでもいうような空気に稲波とカメラマンは声すら上げられなかった。

明らかに彼らはこの光景に慣れている、負けたのは悔しくても、あり得ないと否定していない。

彼らが一番憤慨しておかしくないはずなのに、丹精込めて育て上げたGⅠ競走馬たちがあんなふうに負けたのを見てうろたえて当然なのに、それがない。

 

「おい、小泉!今のは一体何なんだ!いったい、あの馬は!!」

 

「あいつがシマカゼタービンだよ。酒屋の輓馬で走り屋、芦名の名物ダウンヒーラーさ」

 

「走り屋?馬鹿な!!あいつは馬だぞ!!」

 

「嘘じゃない。あいつは幼駒の頃から、ハチロクの後部座席で峠の走りを体に叩き込まれた規格外だよ。それも当時、芦名最強と呼ばれたハチロク乗りにな。

大竹曰く、あいつにとってレースは車とやることが当然なんだ。平地では馬と走る、峠だと車と走るんだよ。

さっきの話聞こえてただろ?FDとシビックに勝ってるって」

 

そんな馬鹿な話などある物か、稲波は否定したかった。だがそれを知った上で彼の走りを見れば何かと納得できてしまう。

彼の癖だと思っていた一瞬減速する加速は、文字通り車のシフトチェンジを模したモノだとしたら?

コーナーで見せる恐怖を置き忘れたかのようなインコースの走りは走り屋特有の攻め込みの模倣だとしたら?

体を傾けてカウンターを取る特異な走りの元が峠の走り屋が行うドリフト走行だとしたら?

なにより、その常軌を逸した走りとテクニックを可能とする頑丈な足と強靭な筋肉をどうやって鍛えたのか?

 

「競走馬になる前からずっと、瀬名酒造で仕事をしている時も芦名を峠も平地も仕込みの酒を担いで走り回ってんのさ。

雨の日も風の日も、雪の日だってよほどじゃなきゃ仕事はやる。だから体の出来からしてまるで違う。

日常的に負荷がかかった生活の上に繰り返される坂路の往復してんだぞ。

当然、日常的に車ともすれ違うから車のエキゾーストも全く気にもしない。騒音だってなんのそのだそうだ。

あいつほどストレスに耐性のある馬は他にいないんじゃないかな。

噂で聞いたことないか?スポーツカーが違法レースで馬に千切られて負けたってやつだ」

 

その噂ならば稲波も聞いたことある、カーレースを題材とする編集部にいる友人が馬に関係しそうな噂だからと教えてくれたことがあった。

だが峠の違法レースは自分の専門外であるし、噂を調査する編集部もアングラな峠の違法レースのことなのでうまく信憑性のあるネタとして扱いきれなかったと聞いている。

もしそれが真実だとしたら、それは『馬』と呼べるようなものではない。文字通りの『化け物』ではないか?

 

「あいつだよ、首都高で腕を磨いたガチガチチューンのスカイラインR33を負かした馬はな。それもただ千切るんじゃない、地元でしかできない戦術とテクで、鞍上も無しにな」

 

「あり得ん、スカイラインって言ったら立派なスポーツカーじゃないか!それも首都高といえば高速道路だろうが!!

それを鞍上無しだと?そんな放馬状態で、馬の判断だけで勝ったっていうのか!証拠でもない限り―――」

 

「証拠を見せてもらうか、うちのでもいいが…いいかな?」

 

小泉がホクリクダイオーの調教師に目配せする。彼は上に聞いてみると言って携帯電話を取り出した。稲波は背筋に悪寒が走った。

 

「許可が取れたら見せてもらえるぞ。ただし他言無用、一切の口外無しだ」

 

不用意に開けてはいけない扉を開けてしまったような、そんな気がした。

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

体を温めてくれるはずの温かいシャワーのお湯が、まったく芯まで伝わってこない。

それ以上に、ルベルは心の底から湧き上がる寒気を感じていた。群馬トレセンのシャワールームで頭からシャワーを被りながら何度目かもわからないレースのリフレインが脳裏をよぎる。

勝てて当然の相手に負けた、勝てるわけがない相手が勝った、そこにいてはいけないはずの相手が前にいた。

口で言えば何とでもいえる、でも現実は違う。さっき一緒に模擬レースをした馬たちは全頭が超の付く一流であったのだ。

それを完全に侮った、一頭だけ完全に意識から外して甘く見ていたから自分たちはあっけなく負けた。

そう思っていても、解っていても、ルベルの心の中はずっとざわついていて収まらない。

 

(あそこまで速度を上げて相棒を走らせたのは初めてだった)

 

自分の限界すらも超えた超ハイペースレース、今思い出しても一歩一歩が寒気のするレースであった。

自分は怖かった、落馬すれば確実に死ぬ、踏み込みを間違えれば相棒が死ぬ、どこを間違えても確実に死ぬ。

そんな光景がありありと脳裏に浮かんでは消えて、浮かんでは消えるのだ。

狂っている、あの馬も、あの騎手も、みんな狂っている、レース中何度もそう悪態をついていたほどに、自分は恐れを覚えていた。

いつハーツクライが足を滑らせてしまうか怖かった、あのハイペースレースは彼にとっても未知の経験だったのだ。

それも洋芝を模倣するために水を撒いて滑りやすく重くした重馬場の芝コース、踏み込み損ねたら芝に足を取られるのではなく芝の上を滑ってしまうくらい濡れていた。

その足場でほかの馬は、あの化け物の大逃げに追い付かんとハイペースを維持しながら狂ったテクニックで延々と勝負を仕掛け続けていた。

 

(足が震えそうだ…)

 

こんなに自分が情けないと思ったのは初めてだ、母国フランスでのレースでも経験したことがない恐怖が自分を打ちのめさんとしている。

それも日本中央競馬の大舞台でも、日本地方競馬の大舞台でもなく、たかだか海外遠征前の最終調整で行った模擬レースたった一度ですべての運を使い果たしたかのように疲弊しきっている。

この日本の地で母国フランスを代表するような立場になってしまったとはいえ、それを背負って堂々と走り栄光に向かって走る自分が、恐怖に負けかけていた。

走りたくない、もうやめたい、そう思ったのは久しぶりだった、こんな練習では初めての経験だった。

それでも音を上げようとしなかったのは意地だった、情けない姿を見せるわけにはいかないと思ったからだ。

でもそんな意地も吹き飛ぶような光景が自分の目の前で連続していた。

3度目のコーナーを曲がった時、前を走るノルンファングが明らかに頭のオカシイ速度で内ラチ沿いにギリギリまで寄せながら走り抜ける光景は明らかに異常だった。

目測で10センチも離れていないような超インコースを、綺麗に安定しながら抜けていったのだ。

そしてそれを上回る、その前を走っていく馬、シマカゼタービン。あの馬は異質すぎだ、あまりにも奇妙すぎた。

二つ目のコーナーで見せたディープインパクトが有馬記念で見せたものが児戯に見える完璧なドリフトは、模擬レース中でありながらつい見入ってしまうほどに怖ろしく魅力的であった。

前足をピッチ走法で走りながら軸にして、後ろ足をストライド走法で芝の上を滑るように走りながらカウンターを取りつつコーナーを減速せずに抜けていく恐ろしいテクニック。

そして同じようにドリフトを模倣しながらも、遠心力に耐えきれずコーナー途中で外に膨らんだノルンファングを躱してさらにピーキーな内側にラインを攻めこむ度胸。

そしてそこから魅せた安定した走行とコーナー終わりのさらなる加速、どこをどうやればあんな風にテクニックを磨けるのか全く予想ができない。

それに自分はついていけないと悟っていた、無理について行けばハーツクライが持たないと、自殺行為でしかないと。

だからまだ行くべきではない、そう言い訳をしていた。

 

だがそれに群馬の競走馬たちはついて行った、騎手たちもそれを恐れずについて行った。ディープインパクトでさえ挑みかかった。

 

ツバキプリンセスは大逃げするシマカゼタービンの後ろに恐れもせずに入り、その後ろをディープインパクトが追従した。

その走り自体目を疑うようなものだ、馬が嫌がって騎手も絶対に避けるような劣悪な状況下にあえて彼らは飛び込んでいったのだ。

こんな重馬場で、大逃げで走る馬の後ろは巻き上げる水しぶき、泥、千切れた芝などが嫌というほど舞い上がる。

当然、ツバキプリンセスやディープインパクトはそれを真正面から食らいながら駆け抜けることになる。

言わずもがなだが彼らもドロドロの泥まみれになっていた、なのに彼らの闘志は萎えることなくただ前を向いて走り続けていた。

悪辣な状況下にわざと突っ込んでいながら駆け抜け、勝負時を待ち、そして最高と思えるタイミングで仕掛ける。

それができる馬と騎手、その通じ合ったまさに歴戦のコンビネーションがこの競馬界にどれほど存在するだろうか。

だがそれでもシマカゼタービンには届かない、それも躱して彼は前へとさらに体を押し出して差を広げていく。

そこで自分は悟ってしまっていた、ハーツクライと自分では勝てない、シマカゼタービンと瀬名茂三に追い付けない。

ふざけた事実を認めてしまっていた、中央競馬に出走経験のない競走馬と騎手ですらない馬主のコンビに負けを認めてしまった。

 

(情けない、なんて情けないんだ自分は!!)

 

思い返せば情けない自分の姿に怒りがこみあげてくる、諦めてしまっていたのは自分だけだったという事実が余計に自分の情けなさを増幅させてくる。

彼らに全員が食らいつこうとしていた、隣を走るホクリクダイオーでさえ最後の最後まで加速を止めようともしなかった。

まだレースは終わっていなかった、まだゴール板をシマカゼタービンは抜けていなかった、なのに自分は諦めてしまっていた。

それでも何とか最下位を免れたのはハーツクライの意地でしかなかった、彼は自分が諦めてしまった後もただ一人で走りぬいてくれた。

レースが終わって自己嫌悪した、自分はただの重りになっていただけだ、ただの重いリュックサックになってしまっていた。

思わずシマカゼタービンを睨みつけさえして、それにも恥じ入るばかりだ。

これがポール・ルベルの限界か?あのハーツクライの相棒か?フランスギャロからはるばるやってきた外国人騎手の姿か?

 

「Erreur…」

 

違うだろう、こんなもんじゃないはずだろう?なのに、頭から彼の背中が離れない。勝てるビジョンが浮かばない。

何もかも置き去りにしてただ前へと走り去っていく時代遅れの大逃げ、その嵌り切ったときの恐ろしさがどうしようもない。

速すぎて何もできない、ついていけば馬がバテる、様子を見れば置いて行かれる、体力任せで最後まで突っ走ってしまう。

追い付くのに最も簡単なことは自分も速く、そして長く走ること。だがそんな簡単なことがこの競馬の中では一番難しい、だから駆け引きというものがある。

自分は駆け引きというものすらさせてもらえなかった、競り合うことすらかなわずにただ後ろをついていくのに精いっぱい、最後はこんな醜態をさらして相棒に失望されたかもしれない。

足取りが重い、ルベルはシャワーを浴びても拭えぬ気持の悪さを抱えながら、重い足取りを何とか持ち上げながら服を着替えてシャワー室を出た。

 

「随分長いシャワーだったじゃないか?」

 

自分が望んだわけではないが、話をしたかった彼が待っていた。

 

「大竹さん…ちょうどいい、少しいいですか?」

 

「私も少し話をしたかったんだ、ちょうどいい」

 

シャワー室の前で壁に背を預けて待っていた大竹に促され、近くの休憩スペースに座る。

大竹もシャワーを終えたばかりのジャージ姿で、慣れたようにベンチに座る。実際に慣れているのだろう。

何か自分に用があったのかもしれない、だがそれは後にしてもらいたかった。最初に自分の質問を聞いてほしかった。

 

「大竹さん、あの馬と…シマカゼタービンとはずっと走ってきたんですか?」

 

「うん、弥生賞の後に負けてから群馬にくるたびに何度もね」

 

「…負けてたんですか?」

 

「負けてた。クラシック3冠の同じ距離を同じようにレースして、逃げられてた」

 

聞きたくはなかった、そんな事実を聞きたくはなかった。

 

「ルベルさん、こんな風に言うのは誤解されるかもしれないけど…あんまり気を病まないほうがいいよ、彼は少し特殊だから」

 

「ワカラナイ。なぜあんな馬が、重賞レースに出もしないでこんなところに?」

 

もしあの走りが中央シリーズに飛び込んできたら、そう思うと震えが出てきた。

大竹の言っていたことに誤りはなかった、ディープインパクトは無敗四冠を達成してなおシマカゼタービンに届かなかった。

これまでも本当に負け続けてきた、ディープインパクトが強くなるように彼もまた強くなっているということ。

伸びしろもあり、実力もあり、扱いもしやすい賢い馬だ、むしろ出さないほうがおかしい。

 

「ちょっと訳ありでね、馬主の意向もあるし大きなレースは避けてるんだよ」

 

「信じられない…あんな足を持ってたら普通は…」

 

競走馬の馬主なら是が非でも夢を追う、馬主の瀬名茂三は酒造会社の社長でもあるから資金面でもある程度余裕もあるはずだ。

群馬地方競馬ではなく中央競馬に登録して、今年のクラシックを走らせていれば歴史が変わっていたかもしれない。

 

「うん、彼は強い。こういうの瀬名さんたちは嫌がるけど、おそらく群馬最速の競走馬はあいつだ。群馬最強、馬のダウンヒーラーだ。

芦名の峠道なら、彼は条件付きとはいえ走り屋のスポーツカー相手に競り合って勝ちに行ける実力があるんだから」

 

そんなことあるものか、と一蹴するのは簡単だっただろう。だがルベルにはとてもではないができなかった。

騎手としての経験が、実際に走ってあの走りを見たから、その身をもって実力を知ったから、あり得ると納得してしまった。

 

「なぜ彼は一緒に出てこなかったんだ?あの3頭と一緒に中央に挑戦していてもいいはずだ」

 

「仕事があるからダメなんだってさ、中央でGⅠに挑戦となると色々時間も手間もかかるだろ?

シマカゼは副業で競走馬してるだけで本業は酒を仕込むための輓馬なんだ、仕込みの主力を外せないってわけさ」

 

競走馬の本業はレースを走ること、という常識がシマカゼタービンには通用しない。ルベルは改めて、彼が群馬地方競馬に所属していることを理解した。

競走馬とはいえただ走るだけではない、有名どころとなればテレビ取材に応じたり、牧場で静養中などの場合ファンが見学に来たりするのでファンサービスを行う場合もある。

競馬業界内でとはいえアイドルとしてもてはやされてレースとは別の人気を博す競走馬もいないわけではない。

シマカゼタービンの場合、所属である瀬名酒造の看板馬であり酒の仕込みを行う面がそうなのだ。

 

「Je n’arrive pas à croire qu’un cheval qui court si fou soit un cheval brasseur de saké.(信じられない、あんな狂った走りをする馬が酒造り用の輓馬だなんて…)」

 

思わず母国語が飛び出してしまう。あの馬がもしフランスにいたら…と、つい考えてしまう。

瀬名酒造は一体どんな仕事をあの馬にさせているというのだ。

ただの調教だけであんな力強い走りができるわけがない、普段の仕事から自分たちとは何か違っているはずだ。

 

(これが日本か、どこからともなく化け物がポンポンと。それも専門の厩舎ですらない場所から当然のように!)

 

これは模擬レースであって成績には一切響かない、そのことが救いだ。だが同時に、ルベルの胸に心残りができた。

シマカゼタービンは自分たちと同じレースに出ることはまずない、彼がいないレースで自分たちはこれからも走る。

あいつがいないから勝てたんだ、そんな風に思ってしまうのは無理からぬことだった。

なぜなら彼の走りは大逃げだ、テクニックや駆け引きではなく純粋な速さとスタミナだけで勝たれたようなものだから。

今まで自分が走ってきたレースにそのまま当てはめても違和感なく、彼が前を千切っていくのが容易に想像できてしまったから。

 

「悔しいかい?」

 

「えぇ」

 

「なら何度でも挑戦すればいい、一度でダメなら二度、二度でダメなら三度、何回でもね」

 

きっと茂三さんなら大笑いで承諾してくれるし、シマカゼタービンは乗り気で相手をしてくれるだろう。

そうだ、これは練習なのだ、何度だって挑めばいい、相棒と一緒に乗り越えられるまで挑んでいい勝負なのだ。

だがそれは敗北を積み重ねる行為にもなりえる、今の自分にシマカゼタービンに勝つビジョンが浮かばない。

 

「そうさせてもらいます、負けたまま帰るのは喉に骨が刺さったみたいで気持ち悪い」

 

なにより、相棒に地方の輓馬に負けたなんて噂を立てさせるわけにはいかない。せめて一勝、勝ちをとらなければ取材に来てくれた稲波達に申し訳が立たない。

ハーツクライは快調だ。予定しているドバイミーティングにて、別レースを走るツバキプリンセス以上の成果を必ず出してみせると大声で言える実力を見せねばならない。

だからその前にシマカゼタービンには必ず勝つ、そう気持ちを引き締めるしかなかった。

 

 

 

 





あとがき
レース終盤とレース後の一幕、ハーツクライ陣営からしたらガチ現役の伝説が普通に負けてるのでこんな感じ。
これでも競馬に携わってたからある程度耐性あるから有情ですぞ。発狂ロール表もデメリット少ないタイプ使ったし。
ルベル氏の日本競馬観が、とんでもない波乱の時期に重なったので大分魔境になってる。たぶん帰国したらしばらく話が合わない。
あと風呂上がり日本兄貴とフランス兄貴のサービスシーンはいかが?すこしはサービスしないとね(ウホッ)

茂三のクソマイペース。瀬名酒造はあくまで酒造業なんで、競馬業界に少し食い込んでるだけの一般企業だから感覚も違うの。
そもそもシマカゼ運用の根底は茂三のガンギマリファン魂で、騎手資格を取った敏則もこいつの背中に変なヤツ乗せたくないってだけ。
ちなみに群馬競馬最初の海外遠征馬はツバキプリンセス、出走はドバイミーティングのどれか。
ただしハーツクライとは被らないのでご安心ください。




おまけ
なおハーツクライはその後も延々と千切られ続け、06年最初の被害者となった。



追記
小泉が『失速しないツインターボと折れないサイレンススズカを混ぜてできた超頑丈で気を抜かないスーパークリーク』と例えたのを大橋が『バカみたいに速くて体力自慢の大逃げステイヤー』と解釈して答えてますので、誤字ではありません。

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