大体ここら辺からこの一年の大騒ぎスタートって感じにしたいなぁ…
日常というものはかけがえのないものである、今日の天気は晴れだとラジオの天気予報が言っていた絶好の洗濯日和の空を、我が家の物置馬房の和式ボットン便所にお座りして用を足しながら、窓から見上げながらなんと無しにそう思った。
何でかって?ディープ達の調教に付き合って走りまくったせいで昨日は全身筋肉痛で馬房から動けなかったんだよ!
一週間やぞ一週間!ハーツクライの野郎の滞在期間ぶっ続けだ。休みは入れてるとはいえ、まさかトレセンに酒の仕事を持ち込む日が来るとは思わんかったわ。
おかげで昨日は飯食うのも辛い、部屋の掃除できねぇ、当然峠なんてもってのほか…ストレス溜まりまくりだぜ。畜生、俺が何したってんだ。
「ブルルッ…フィー」
ま、そんな愚痴は置いといて、今日は仕事があるからちゃっちゃとシーツと毛布を干すのだけでもやってしまおう。
馬房裏に位置する便所ですっきりして、尻尾を丸めたまま隣のシャワールームに。
水道が使えるから囲っただけの手作りシャワールームの水道にくっついたままのシャワーヘッドがちょうど尻の部分の高さにあるのを確認してから、掛け金に蛇口を開ける。
「ヴァァ…」
冷たい水が気持ちいい、足元も濡れるけどそこはしょうがない。綺麗になるまで流して、足元も流して…便所に戻って常備してるポイ捨てできる再生紙を尻尾で何枚か絡め捕って尻を拭く。
こうやって尻尾でいろいろ掴むのも今や慣れたものだ、元人間故にする事したらキレイにしたいんだもの。
踵を返して物置馬房に戻る。元々は入るはずの馬房が使えなくなって急遽あてがわれた古い物置の改造、玄関部分から入れば土間と一段上がった板の間。
寝床は土間にあって干し草の上にシーツをかぶせたヤツと毛布が一枚、最初は干し草だけだったけどちくちくして落ち着かんの教えたらこうしてくれた。
思えばこの物置馬房とも付き合いが長い、そもそも本当は新しく作った馬房に入るまでの間に合わせのはずだったのにいつの間にか俺の定位置になってた。
板の間には古いちゃぶ台と小さな棚、ちゃぶ台には古い年代物のラジオが一つ。敏則のおさがりの電池式だけどまだまだ現役。
拾ったり貰ったりした小物や道具が置かれた棚、雅孝さんを手伝ったときに群馬県警から貰った賞状の入った額縁。
たぶん冷蔵庫がある馬房に住んでる馬なんて俺だけじゃないかね。
『コマツ、シーツを干すからどいてくれ』
『えー?しゃーねーなー』
俺の寝床でまだ暢気に寝息を立てていたコマツにどいてもらってからシーツの端をトングで咥えて持ち上げて、物置馬房の前に突っ立ったままの古い物干しにつっかけた物干し竿に引っかける。
引っかけたら馬房にもう一度首を突っ込んで、玄関横が定位置の布団干しセットが入った籠を引っ張り出して、その中の洗濯ばさみを一個トングでつまみ出してから中心点に挟む。
本当は人間みたいにしっかり止めたいけども、そこまで行くと馬の身にはメンドクサイしどうせシーツと毛布しか干さないからこれでいいのだ。
最後に尻尾で布団たたきを掴んで、一通りバンバンぶっ叩いて埃とかその他もろもろを叩き落としたら終わり、これだけでも結構綺麗になる。
毎日交換から三日に一度でいいくらいには長持ちになるから世話係の負担も軽くできて言うことなしだぜ。
あとは掃き掃除をしたいところなんだが…もう飯の時間か、仕事終わったらにしよう。
馬房の柵を閉めて閂を閉めたら朝飯を食いに、放牧地の向こうにある第二馬房のほうに行く。
前は俺の馬房まで飯を持ってきてくれたけど、今年からこっちの馬房にも新入りの馬が入ったから飯はこっちに食いに来るように言われてるからな。
『おはよー、さっきバンバン音したけど何やってたの?』
『シーツ干してたの』
『ふーん、干し草のほうが気持ちいいのに』
立派な第二馬房前の餌場に行くと、もう今日のエサやりが始まってて担当の社員さんがせっせと軽トラに積んだ各種エサを馬房前で待つ動物たちの餌桶やカップに配膳していた。
新入りの馬にいつものメンバー、ブチに配下の会社猫数匹、混ざってる会社狸の夫婦。
仕事の都合で引っ越したご近所さんから引き取ったウサギにミニじゃなくなったミニブタ。
みんなうちで飼育してるから首輪と名札付けてるから余計にカオス、まるで動物園だ。
ここ馬房のはずなんだけどね、入ってんのは馬だけじゃないっていうか、俺らのテリトリーだったせいでほぼ会社で飼育してる動物の雑居房と化してるのよね。
「バウバウ!!」『こら、静かに食べろ!』
そしてドッグフード喰いながらじゃれつく子犬と子狸に注意するでっかい黒い犬、ドーベルマン先生。瀬名家の飼い犬で会社の警備犬のリーダーを務める雌のドーベルマン。
なんで先生なのかっていえば、モンスニー爺さんがレースの先生なら、年長者というかまとめ役としての先生がドーベルマン先生だから。
先生が仲立ちしてくれたからみんな今は仲良くやっていけてるのよ。
「ふふふ、やっぱり動物はみんな可愛いですね」
で、かかりつけ獣医さんのドクターがなぜかいるのもいつものことね。相変わらず青っぽいラインが入ったフード付きジャンパーを着て、変な黒いフルフェイスヘルメット被ってる。
言動が不穏だし実際ちょっと変わり者だから胡散臭いんだけど…普通に良い人だから恰好で損してる人なんだよな、このドクター。
しょうがないんだけどね、獣医さんなのに動物の毛がダメな呼吸器官系アレルギー持ちでその対策用マスクだから。
そのまんまだと毛とか吸っただけで喘息の発作を起こして死にかけるらしい、でも常時ガスマスクとか物騒だからおしゃれなのにしたそうだ。
『おっはー…なにやってんぎゃー!』
『コマツ!?』
暢気に飯食いに来たコマツがターゲットに…ありゃりゃ、べろべろされてドロンドロン。
『あらあら、コマツったら相変わらず気に入られてるのね』
何食わぬ顔で俺の頭の上に留まるカラスのレッド。
『朝から頭はやめーや』
『いいじゃない』
良くねーわ、飯食いづらいんだよ。
「素晴らしい、実に素晴らしい…!」
「あ、まだここにいたんですかドクター!もう遅刻しちゃいますよ!!」
「おや?もうこんな時間ですか、これは申し訳ありません」
「今日もみんな待ってるんです、休んじゃダメですよ」
「これも愛、愛ですよ」
ドクターが助手の女の子に引きずられていく、いつもの光景だな。あー癒されるんじゃァ…
『何を黄昏ている?』
『ここも大所帯になったなーと』
やっと日常に戻ってきた感ありますねぇ。おかしいな、俺は輓馬なんだけど最近やけに競走馬と走らされてる気がするぞ。
しかも走れば走るほどハーツクライとかルベルさんとかの視線がすんごい事になってくるし、目が怖いんだよハーツクライ陣営。
酒を担いで走っただけで悲鳴上げてたんだぜ?たかが3200を全力疾走して仕込んでただけなのに。
『社長にも困ったものだ、おかげでまた手間が増える』
『親父さんだからな』
『お前もだぞ、向こうで一頭引っかけてきたそうだな?近々、預かりの馬が増えると社長が言っていたぞ』
『何それ知らん、どこソース?』
『社長が桜葉理事長と電話で話していた』
マジか?マジかー?心当たりねぇぞ、ほんと。
『んー?何々?』
飼い葉が入った桶から顔を上げて不思議そうに声をかけてくるさっきの仔馬。やっと入ったピカピカ第2馬房の新入り一頭目。
栗毛の可愛い雌の仔馬ちゃん、まだ1歳のシャッタードスカイ。まだまだ可愛い盛りの子供だが、なんでか知らんがマイペースなお昼寝好き。
走るよりもブチたちとゴロゴロしてるほうが性に合ってるって感じだ、実際結構な頻度でブチの群れに混じってる。
だけど走り屋の素質は十分だ、親父さんのハチロクに乗ってた時も面白がってたしな。
『兄さん、仲間増えるの?』
『スカイ、その話は俺も今聞いたわ』
『そっか、騒がしくない子がいいなー』
『誰が騒がしいだって?』
『げぇ…出たな軍曹』
俺の隣に並んで朝飯の飼い葉を食い始めた新入りの二頭目、黒鹿毛の逞しい牡の2歳、メジロジョンソン。瀬名酒造厩舎所属の地方競走馬第二号予定。
体毛の上からでもわかるくらい全身に裂傷や火傷の傷跡や手術の痕跡がある上に、鼻先にもナイフで切られたみたいな跡があるのが特徴。
全体的にムキムキでまるで歴戦の軍人がそのまんま馬になったみてぇなヤツ、前世で地底人とか宇宙人と戦争してそう。
そんな歴戦の強面が受けてついたあだ名が軍曹ってわけ、性格もそれっぽいしな。
モンスニー爺さんの生まれ故郷と同じ牧場生まれで将来は障害競走? とかいうのをやるはずだったらしいけど、本格調教直前に事故に巻き込まれて重傷を負い、病院で一年丸々棒に振って全部おじゃんになっちまったそうだ。
事故で亡くなった厩務員の遺族からの懇願もあっていろいろ牧場が扱いに困ってたところで、新入馬探して手ごろなのがないか打診してた親父さんに白羽の矢が立った。
色々訳ありで旬も逃した馬を、障害でも平地でもいいからできれば走らせてほしいとかいうリクエスト付きで買うモノ好きなんかそうそうおらんわな。
で、それに『名前そのまんまでもいい?』とかとぼけた許可を取って格安で引き取るのも親父さんよ。登録したら名前変えられないって爺さんが言ってた気がするが?
『おはよう兄貴、昨日は大変だったな。もう平気なのか?』
『おはようジョンソン、問題ねーよ。こっちこそ悪かったな、お前の練習に付き合えなくてよ』
『しょうがねぇよ、兄貴の体のほうが大事だ。俺も親父みたいにばっちり走ってくるから心配すんなって』
『お前もうちの輓馬なんだけどねぇ…』
『俺も走りてぇんだよ、親父みてぇによ』
こいつの親父、メジロパーマーとかいう馬もたいそう強かったとかで瀬名酒造から群馬競馬に出す競走馬第二号に抜擢されたってわけだ。
別に競馬を走るなとは言わんが、俺としては酒造りのほうに比重を置いてもらいたい。次世代は長々と育てないと後が困る。
近場の峠ならいつでも走っていいから、欲求はそこで発散させてもらいたいもんだ。
『ならこの前に教えた混ぜない走り方、できるようになったのか?できるならテストに移るように指示するぞ』
美味い馬練りを作るには相応の技術が必要だ、そのためにはやはり練習が肝心。ジョンソンにも仕込み方ってのを教え始めてるところだ。
今は炭酸水を入れた一升瓶で練習中、まずは炭酸水を背負って振りすぎないように走ることで衝撃を制御する練習をさせてるところだ。仕込みと同じ距離を走って、栓を抜いたときある程度炭酸が残ってりゃ上出来だ。
普段の練習でうまくできれば、頃合いを見て一升瓶の中身を炭酸水からサイダーに中身を変えてテストを実施する。
これが馬にはよく効くんだ、できるようになればシュワシュワで美味しいサイダーをご褒美に飲めるが、失敗したら開栓で盛大に噴き出して少なくなる上に炭酸が抜けたゲロアマの元サイダーを飲まされる羽目になる。
普通の馬ならそれでも喜ぶっていうがうちは違う、最初に普通の美味しいほうを舐めさせて味を覚えちゃうからな。
上手くやらなきゃこうなる、って身をもって分からされるわけさ。テストの時は、当日の昼飯一品が自分の技術で良し悪し決まるから必死だよ。
俺も最初は苦労したぜ、何度ゲロアマ炭酸抜きサイダーを飲まされたことか。中身人間だと余計辛いぜ。
『勘弁してくれよ、そんなすぐにはできねぇって』
『ならまずはうちの走りを覚えてからだ。競走馬としてガチにやりたきゃこっちのスキルも磨け、そのほうがお前のためになる』
走行時に体に走る振動をある程度制御できるようになれば走りがだいぶ楽になる、自分の走りが体のどこに負担を多くかけるか理解できるようになるからな。
怪我をしたときの対処にも打ってつけ、怪我の部分をカバーした結果過負荷のかかる部位がわかればケアも楽だ。
できるようになれば働くのに困らんし、よほど大怪我しなきゃ酒がダメでも乗りやすい乗馬馬として人気が出るだろうよ。
そういうセーフティーネットがあると馬としてもやりやすい、爺さんも苦労したそうだしな。
『解ったよ、頑張るって。それより兄貴、新入りが気になるぜ、どんな奴が来るんだ?』
『軍曹、それは機密事項だ』
『知らんのね』
知らんもん。
◆◆◆◆◆◆
どんな日にでも夜は来る、そして夜は居酒屋の稼ぎ時。ポール・ルベルは客の笑い声や喋り声が聞こえる居酒屋の個室の端で、御猪口に注がれた透き通った清酒、馬練りを一口で飲み干す。
熟成期間を置いて濃縮されたアルコールの熱さ、口の中に広がる芳醇で複雑な旨味、間違いなく一級品だ。
瀬名酒造で働くシマカゼタービンが仕込んだ馬練りの味、フランスのワインと比べても決して劣るものではない。
だからこそもったいない、だからこそ悔しい。これは敗北の味である。
(勝てなかった、シマカゼタービンに)
ルベルとハーツクライは滞在期間ギリギリまでシマカゼタービンに勝負を挑んだ、そして負けた、最後まで負けた。
芝で、ダートで、各種距離で、ハーツクライが得意とする距離から不得意とする距離に至るまで全てで負けた。
長距離3200メートルでは影すら踏めず、中距離2000でようやく希望が見え、マイル1600で何とか射程距離に収まり、芝の短距離1200で半馬身差まで詰められた。
一番苦手な短距離スプリント、温存もくそもない開幕からの全力疾走が唯一の勝ち星といえるくらいに惨敗だ。
それでさえ高揚は一瞬で終わり、彼を射程に捉えてから味わうフェイントや煽りといったテクニックに絡め捕られて恐怖に変わってしまう。
いくら仕掛けても抜けない、どこを走ろうとしても必ずシマカゼタービンが前にいる、まるで自分の考えが読まれているように射程距離から逃げられない。
最終的には自分の判断力すら疑ってしまいグロッキーになって勝負にすらならなくなる始末、まったくもってお話にならなかった。
彼の武器は逃げ足とスタミナだけではない、競馬だけではありえない長い年月をかけて熟成された公道の走り屋から得たテクニックが備わっているのだ。
惨敗である、ディープインパクト、ホクリクダイオー、ツバキプリンセス、ノルンファング、群馬に集ったGⅠホースとジョッキー達が束になって掛かり、酒造会社の馬主が乗る趣味の競走馬に惨敗した。
たった一日で実力を見せつけられ、次の日にはとんでもない回復力に圧倒され、その次の日には本業を持ち込まれて驚愕させられる。
そして鞍上を乗せずに一升瓶を10本担いだシマカゼタービンにさえ自分たちは負けた。簡単に千切られた、ダート3200メートルを悠々と。
さすがはスポーツカーをその足で下した生粋の怪物である。彼の『実戦映像』を見せられた時は、大橋や稲波も含めてしばらく放心したほどだ。
ここまで鮮烈な印象を残されてしまえば調教へ懸ける熱意は半端ではいられない。
自分たちが目指せる上が見せつけられたのだ、実例がそこにいるのだ、目指さない理由がないのだ。
(大逃げはリスキーだが…考えてみれば結構応用が利く。これは海外遠征での作戦に使えるぞ)
馬練りを飲みながらルベルの思考はハーツクライの初の海外遠征のプランに寄っていた。
何もかもを無視して先頭を突っ走る大逃げはリスキーな戦術だが、慣れない遠征地でのレースでは頼れる技だ。
海外レースは日本競馬に慣れた日本競走馬には負担が大きい、輸送、気候、慣れない馬場にコース、慣らしていても不安は残る。
ならばなんだかんだと試行錯誤するよりもとにかく先頭を突っ走らせてさっさとゴールする大逃げは、シンプルで馬にも騎手にも実に優しい。
競り合いも駆け引きも一切合切無視してさっさとゴールする、それだけを考えて調整するなら余裕もできそうだ。
「大橋さん、ドバイでの戦術、案があるのですがいいですか?」
「あとでな、今はあいつ―――」
「没って言われましたぁぁぁぁ!」
向かい側に座る大橋が顎で示す先、ルベルの思考は聞き慣れた稲波記者の滂沱の涙を混ぜた鳴き声に中断される。
個室の向い側の席、少しずれた場所に座る稲波はぶー垂れながらお酒の力に身を任せていた。
稲波記者が丹精込めて執筆した記事の原稿、まだ下書きであり肉付けするための型枠程度のものだがそれが編集部で没にされたのだ。
それも局長から直々に謝罪と模擬レース全部抜きで書き直してほしいとの命令付きである。
向かいに座る大竹と茂三は苦笑い、隣に座る小泉は耳を押さえて隣の大橋に寄りかかる。
「だから言ったでしょう?レース部分は抜いたほうがいいって」
「でもでも!こんなの記事にしないなんてありえないじゃないですかぁ!」
稲波がバンバンと叩くのは編集部に提出した記事の草案、シマカゼタービンとのレース含めた調教の様子と参加した馬たちの精細な様子を熱く語った記事だ。
特に模擬レースに至っては恐ろしい熱の入りようで、シマカゼタービンとディープインパクトたちの熱戦の様子が事細かに描写されている。
「だから没って言われんだよ、そんな記事許されるわけねーだろ」
「茂三さんも茂三さんです!なんでこんなことされて怒らないんですか?」
「別に目立ちたいとか思ってねぇもん、むしろケツ持ちに感謝してるくらいだぜ」
事も無げに微笑を返す茂三、中央競馬会に隠蔽の圧力を掛けられているはずなのに全く堪えていない。
むしろ嬉々としてそれに乗り、ニヤニヤしながらありがとうと自社製品をお礼の品として送っているくらいだ。
強い馬、面白い若手、面白いレース、しかも巨大組織のバックアップ付きで現役競走馬相手を好き勝手に千切り倒して目立たない。
彼や瀬名酒造にとっては笑いが止まらないとはこのことらしい、まったくもって理解できない感性である。
「そもそも中央も中央ですよ、ここまで実力を見せつけられて手を出さないってあり得ません」
「あいつらも後に引けねぇんだよ、ディープに思いっきり進退を賭けちゃってる状態だからね。今更今更」
お金がかかるって怖いよねぇ、と暢気に焼き鳥を頬張る茂三の姿はどこにでもいるただの親父である。
それを聞いて何とも言えない表情でビールを口に含む大竹と小泉、件のディープインパクトを扱う身としては身につまされる思いだろう。
ディープインパクトは世界に誇る日本近代競馬の結晶であり解答である、それは比喩ではないし、実力も確かで怖ろしく強い。
中央競馬会のバックアップとタイアップはディープインパクトの名声を大いに高め、競馬に対する認識とファンの増加に大きく貢献しているのだ。
しかも何の因果か、この時代に中央競馬が意図しない復活劇を持って戻ってきた過去の伝説の血を引く末裔たちが挑みかかってきたのだ。
対抗馬として鎬を削るのは中央だけでなく地方競馬に所属する伝説の末裔たちともなれば、古いファン層をも復活させて収入増加と人気復権に歯止めがかからない。
皇帝の孫であり帝王の娘、復活の白い稲妻、坂路と努力と根性の第2世代サイボーグ。それがネームバリューに負けない強さを持つ、これで熱くならない競馬ファンはいなかった。
中央競馬や地方競馬の懇意にする生産企業が販売するファングッズの復刻生産に追われ、日本競馬会を中心にバブル状態がスタートしつつある。
その過程で競馬の歴史と歴代の伝説たちのエピソードに触れることになれば嵌るものは大いに嵌る。
涙あり、笑いあり、競走馬たちの歴史にはなんだかんだとドラマが存在するからだ。
今年の日本競馬会は熱狂に包まれつつある、それもディープインパクトたちの活躍で大熱狂に成長する可能性が高い。
その中にシマカゼタービンはいるべき馬なのだ、付き合いの浅いルベルでさえもそう考えるほどに彼の影響は大きい。
だが現実として、シマカゼタービンの活躍も実力も中央競馬が圧力をかけて隠蔽している。
本来ならば憤っていいはずの瀬名茂三やシマカゼタービンはむしろその圧力に嬉々として乗って気楽な立場を維持、群馬競馬も当人たちが納得しているのであればと静観している始末。
しかし競馬界に生きる騎手や調教師たちからしてみれば、それはあまりに不条理で異常な光景でしかない。
「うちの方にも中央競馬の知り合いから連絡があったよ、黙っててくれって。いいのかい、瀬名さん」
「俺からも頼むよ」
「マジかよ」
「マジだよ」
苦虫を押しつぶしたような顔になる大橋が言うには、ハーツクライの今回の最終調整についてはシマカゼタービンのことは一切口外しないでほしいと懇願されているそうだ。
それも悪意のある隠蔽工作というよりは、やりたくないけどやらなきゃいけないというどことなく悲壮感に満ちた様子だという。
気楽な笑みを浮かべる茂三とは全くもって真逆だ、信じられないモノを見たような顔になる大橋。
群馬競馬を訪れてからもうお家芸のように板についた驚きの視線である。
「コップがカラだぜ、大橋さん。次はこっちの馬練りステイヤーにしてみるかい?さっきのスプリンターよりもコクがある」
「…いや結構、今はやめとく」
「そういわずに飲んでみな、嫌なことは酒で流すのが一番だぜ?」
茂三が差し出した仕込み方が違う馬練りを断る大橋に、茂三は自分のコップに馬練りを注ぎながら諭す。
「グイッとやってパッと忘れちまえ」
「そういう風に考えられるあんたが俺は理解できないね。あんなすごい馬に仕上げてるのに、その欲の無さは一体何だってんだ?」
「俺に欲がないって?馬鹿言うなよ、俺だってほしいもんはたくさんあるわな。こんな風に現役最強とやりあえるなんてめったにあるもんじゃねぇ、欲張ってでも逃がさんぞ」
「なら何でもっとあいつを活躍させないんだ。あいつなら狙えるはずだ、もっと大きな賞を、それこそ公道レースなんてものじゃなくてもっと価値のある賞をとれる」
「そっちの方には興味ないな、俺ら田舎もんには田舎もんの生き方が性に合う」
「だが―――」
「少し気になってたんですが聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「なんでシマカゼタービンなんです?」
ヒートアップし始めた大橋を遮るように割り込んだ稲波の問いかけに茂三は首を傾げる。唐突な問いかけにルベル達も首を傾げた。
「なんか変かな?」
「ちょっと気になっちゃって、お名前の由来ってこれ、船ですよね?自衛隊の」
「自衛隊のってことは軍艦かい?」
ルベルの問いに稲波は頷く。
「えと、最初は車とエンジンから取ったのかなって思ったんですけど、シマカゼなんて車聞いたことないし、調べたら自衛隊のホームページに行き当たることが多くて。
それに護衛艦しまかぜのエンジンもタービンが特別らしいんで、そうなのかなって」
「なるほどね、俺の趣味は車でツインターボの孫なのになんで船か?ってことか」
「そういうことです」
「なんというか…こいつの名前の発案は親父なんだよ、親父が大好きな駆逐艦の名前なんだ」
「お父様の、なるほど道理で…ってあれ?年代が合わないような…まさか旧日本軍?」
「そ、うちの親父のお気に入りの駆逐艦が『島風型駆逐艦一番艦・島風』で、実は少し縁があってな?
常日頃から言ってたんだ、世界は大和ばっかり見てるが一番速いのは島風だって」
曰く、瀬名茂三の父が心底惚れこんでいた駆逐艦だそうだ。世間が日本の軍艦で言えば大和だという戦後でさえ、かたくなに島風を推していて、自分の書斎には常に慣れない手つきで作ったプラモデルを飾っていたほどだという。
「タービンを連れてきた時はさ、突然だったから実は名前を決めてなくてな。あーでもないこーでもないってうだうだ悩んでたら不意に死んだ親父の思い出話を思い出したんだよ」
瀬名酒造の歴史はかなり古い、確認できる限りでは戦国時代初期から酒類の販売を商っており歴史の文献でも散見される超が付く老舗である。
当然ながら戦前も存在しており、当然ながら取引先に旧日本陸海軍も含まれていて、わざわざ群馬から遠出して横須賀の軍港まで荷馬車で配達していたそうだ。
事件はその配達で起きた。時は太平洋戦争の只中、1943年5月の事であった。
本来は軍港の納品担当に届けて終わりなのだが、その日に限って港の中は洋上訓練に船を出すということで大賑わいで暇がない。
納品担当官もてんてこまいであり、見慣れた業者という事もあり今日は特別という事で入港許可をもらい直接船に届けることになった。
その納入先が訓練で寄港していた『島風型駆逐艦一番艦・島風』であったのだ。だが当時の祖父はその船がどんな船かわからず、広い軍港の港で船を探して迷うことに。
何とか話を聞いて島風を見つけ、警備の海兵に声をかけると話が通っていたのであっさりと乗り込めた。
そこでまた事件が起きてしまった、島風に乗り込んだはいいが納入先の酒保に行くまでに艦内で迷ってしまい時間をかけてしまったのだ。
軍艦の中は一見見分けのつかない通路の連続で、一般人にとっては迷路である。たとえ軍用船の中でも小さい駆逐艦であっても例外ではない。
何とかたどり着いたが酒保も忙しくしており、倉庫にそのまま持っていってほしいと頼まれてしまう。
倉庫にもっていくとその中はまた備品や商品でさながら迷路、迷いながら酒置き場を見つけて、帰り道にまた迷ってしまい…
「何とか倉庫から出てきたときには、すでに島風は訓練で海に出ちまってた。親父は運悪く降り損ねちまったのさ」
アクシデントで無断乗船してしまったことに気付いた祖父はすぐに海兵に声をかけて出頭、正直に話して謝った。
島風を統括していた広瀬駆逐艦長はむしろ自分たちのミスを詫びた上で、訓練の邪魔をしないようにと言い含めた上で非公式ながら乗艦と見学を許可してくれたのだ。
既に海を出て沿岸での訓練に向かう島風をわざわざ一人のために港に戻すわけにはいかない。
日程が狂うし重油の無駄、さらに言えば責任問題が大きくなり過ぎる。内緒で見学させてあげるからなかったことに、という事だ。
幸い訓練といっても機関の試運転だけで、日没後に軽い夜間訓練をやりつつ港に戻る日帰り訓練であったこともあり、終始和やかに事は終わったのである。
そこから茂三の祖父と島風の縁が始まり、数少ない偶然で出会えば馬練りや群馬の名産品を差し入れ、返礼に南洋土産や戦地で手に入れた珍品類を交換し、艦長以下乗組員たちとも互いに親睦を深めていたそうだ。
その温かい親交は1944年11月、島風がレイテ島のオルモック湾で作戦中に撃沈された後も続いたという。
「たぶん業を煮やした親父が提案してきたんだ、『シマカゼだ、軍隊さんの船で一番速くて強い船の名前だ!』ってさ。
それがなんだかすとんと胸に来ちまった、こいつにはこれがいいってね。で、船のエンジンはタービンかボイラーだろ?タービンのほうが聞こえが良さそうだから、そいつにしたんだ」
「なるほど…なんか、そういう話を聞くとますますシマカゼタービンを走らせてくれないのが惜しい気がします!」
「なんでだい?」
「ディープインパクトとシマカゼタービン、深海の怪物と海原の韋駄天!こんな組み合わせ、燃えるじゃないですかぁ!
茂三さん、出しましょうよぉ。今年はみんな海外行っちゃうっていうから寂しくなりますしぃ」
「ははは、残念だけど難しいねぇ。仕事も忙しくなるし、今年はうちもちょっと予定があるからね」
「なんですと!?どちらに!」
これは聞き逃せない、どこのレースにエントリーするつもりなのだろうか?
「ちょっと嫁探しついでにいろいろなコースレコードにタービンの名前を乗せてくる、バトルはさすがに無理だからタイムアタックだけだけど。
まずは近場で赤城、榛名、妙義、碓井のコースの歴代ランキング10位内、それでうまくいけば次は栃木辺りでいろは坂辺りを攻略してみるつもりだよ。
ダイオー達も外に出て行ってるからな、あいつも遠征くらいしないと仲間外れだぜ」
「公道じゃないですか…ん?嫁探し?」
「うん、あいつ牝馬に惹かれた試しがねぇんだわ。あんだけダイオー達に絡まれてんのに仲間としか見てねぇよ。
スペシャルウィークほどじゃないが、たぶん『馬』は『馬』としか見えてない。
下世話な話で悪いけど、あいつが興奮してんの初めて見たのってどっかの走り屋が連れてた彼女っぽいエロい姉ちゃんを見てた時でな。
普通に会わせただけじゃ無理、だからのんびり気儘に探すなら早いほうがいい」
「種牡馬には?」
「しないよ」
瞬間、稲波記者の絶叫が個室内に響き渡り同席者の鼓膜を直撃した。
あとがき
基本が輓馬なので子孫を残す残さないは勝手、競走馬は副業だから極論だが種牡馬にする必要性が薄い、それがシマカゼタービン。
そもそも瀬名酒造が子孫を競走馬にしようとか毛ほども思ってない、輓馬で酒の匠になって峠走ってくれたら感無量という有様やで。
この世界だとディープと群馬3強の人気に日本競馬界は中央地方問わず売上右肩上がりで笑いが止まらない状態です。
たぶん歴代の競走馬のぬいぐるみとか再販し始めてる、いろんな競走馬のドラマが再燃してファンも増えそう。
そして中央はその裏で、無駄にフレンドリーな深淵からの差し入れにもはや戦々恐々としてたりする。
初手で常識的に間違えた対応したのに、その間違えが相手にとっては最良の対応でやればやるほど相手から評価が高まるっていう非常に始末に困る状態。
かといって態度を翻せば相手にされなくなるうえに制御不能な核爆弾を自分で作っちゃうからもう後には引けぬ。
おまけ・未来のヤベー奴のプロフィール
メジロジョンソン
所属・メジロ牧場(2003~2006.1)→瀬名酒造(2006.1~現在)
詳細
2003年生まれの黒鹿毛の牡、群馬地方競馬所属の地方競走馬、メジロパーマーのラストクロップにして第91回凱旋門賞優勝馬。
2006年後期にデビュー後、地方、中央、海外と多くのレースに出走し勝利と敗北を重ね、2013年の引退まで長期にわたり活躍した。
2013年、群馬地方競馬SPⅠ『芦名杯(ダート3200右回り)』の優勝をラストランとして引退。
種牡馬登録をしながらも瀬名酒造にて再就職、酒の匠として今も生きている。
メジロパーマーのラストクロップとして生まれる、母はメジロ牧場が安値で偶然手に入れた国産牝馬。
目立った成績はなく安売りアウトブリード目的で買われた牝馬で大きな期待はされていなかった。
平凡な体躯ながら後ろ足の発達が良いことが見受けられ、メジロ牧場所有の障害競走馬としてデビューが決まる。
特筆した特徴はこれと言って無かったものの病気にかかることもなく成長していったことから、次第にそれなりの期待はされていった。
2004年末、登録を終えて馴致を行い、本格的な調教を行うための輸送中、高速道路で乗用車の追突事故に巻き込まれてしまう。
馬運車は大破、運転手は即死、同乗していた担当厩務員が瀕死の重症を負う大惨事ながらジョンソンは頭蓋骨骨折と全身打撲、胴体に亀裂骨折複数、体にひどい裂傷を負いながら生き残る。
大破した馬運車から自力で脱出し、助手席から瀕死の厩務員を引っ張り出して助けようとしているところを駆け付けた警察に保護された。
動物病院に移送され、緊急手術の末に命は取り留めたものの体に大きな傷跡を残すことになった上に障害競走馬としての運用は絶望的とされ、長期入院することになりメジロ牧場に戻ったときには別の問題が始まっていた。
2005年後期からメジロ牧場の経営状況は悪化、致命的ではないまでも保有馬の成績は落ち込んでおり厳しい状況に置かれていた。
そのため戻ってきた走れないメジロジョンソンの居場所はほぼなくなっており、有望視された障害レースへの出走も絶望視された彼は無駄飯食いにしかならなかった。
事故で死亡した厩務員(病院に搬送、緊急治療を受けるも3日後に死亡)や運転手の親友や上司からの嘆願で廃用は避けられたが、事故で走れるか不明の馬を『競争目的』で買い取る奇特な人物は…あっさり見つかった。
当時、群馬地方競馬の流れに刺激されて自分も次世代を探していた瀬名茂三にその話が偶然持ち掛けられ、名前をそのまま使うことを条件で二つ返事の快諾を貰い、瀬名酒造に転売、群馬地方競馬への移籍が決定する。
以後、メジロ牧場から瀬名酒造に生活拠点を移すことになり、群馬競馬に所属して活躍、平地競争の逃げ馬として頭角を見せた。
血統
父父・メジロイーグル(現実)
父・メジロパーマー(現実)
父母・メジロファンタジー(現実)
メジロジョンソン
母父・マリーンエイブリー(架空)
母・ハーベストマリーン(架空)
母母・ハーベストオーツ(架空)