ついに2006年の天皇賞春、開幕。群馬のキチガイが牙を剥く!!
京都競馬場は空前の満員御礼だった、人がみっちり詰め込まれたような観客席を見上げながらジョッキーの田島はノルンファングに騎乗してコース上に出ていた。
既にコース上には出走馬全頭が出てきておりゲートも引き出されて最終調整の真っ最中、万事すべて整えばいつでもゲート入りが始められる状態だ。
天候は晴れ、芝の状態は良好、素晴らしい競馬日和でベストコンディションと言えるだろう。
周囲から感じる視線を無視して18番のゼッケンを身に着けたノルンファングを気儘に歩かせ、集まってくる視線をどこ吹く風と袖にして挑発し返しつつ周囲を自らも今日の相手の馬体を見直す。
このレースで地方競馬から出走しているのは自分たちだけで、交流服姿の自分は実に目立っている。
(やっぱ中央はやばいわ、どの馬も仕上がりが半端ない。群馬もだいぶ変わったけどまだここまでじゃないなぁ)
最近は粒ぞろいの新入りが育ってきて群馬地方競馬の幅もだいぶ厚みが出てきているのだが、やはりこういった仕上がりの馬が軒を連ねるのはさすが中央競馬といったところであろう。
どの馬も非常に怖い、ノルンファングに出会う前の自分ならばいの一番に騎乗拒否している魔境っぷりだ。
『1枠1番 ストラタジェム
1枠2番 マッキーマックス
2枠3番 チャクラ
2枠4番 ローゼンクロイツ
3枠5番 トウカイトリック
3枠6番 トウカイカムカム
4枠7番 ディープインパクト
4枠8番 ビッグゴールド
5枠9番 デルタブルース
5枠10番 アドマイヤモナーク
6枠11番 リンカーン
6枠12番 ハイフレンドトライ
7枠13番 ファストタテヤマ
7枠14番 アイホッパー
8枠15番 シルクフェイマス
8枠16番 ナリタセンチュリー
8枠17番 ブルートルネード
8枠18番 ノルンファング』
しかも18頭立てである。地方競馬ではまずない大所帯のレース、これにはさすがにノルンファングと田島はまだ経験が浅い。
地元群馬でも多くて10頭くらいが最大で、それ以上は全て中央に出張してからの経験しかない。
(危険なのは大体…11番リンカーン、1番ストラタジェム、14番アイホッパー、6番トウカイカムカム、13番ファストタテヤマかな?)
地方競馬騎手からすれば全頭が超の付く危険牌なのであるが、その中からこのレースでいかにも頭を出しそうな相手を選別する。
9番デルタブルース、4番ローゼンクロイツ、8番ビッグゴールド、17番ブルートルネードあたりも十分仕上がっているように見える。鞍上にいる今日の相棒たちもやる気一杯だ。
16番ナリタセンチュリーも怖い、前走のGⅡ京都記念では同じ鞍上を乗せて一着を取っている。
その勢いでここでも暴れられたら面白くないだろう、なんだか騎手に親近感が湧くのだが。
(怖い怖い、とはいえマークすべきはこいつらじゃないから、考えすぎないようにしつつ警戒しないとな)
いくら強敵とはいえ、無視しては痛い目に遭いそうな敵とはいえ、今回はそうもいっていられない。
絶対に口には出さないが、まだ走ったこともない彼ら彼女らよりもいつも走っているライバルの見知った実力のほうがどんな前評判よりも田島には怖いのだ。
ノルンファングも分かっているようで、彼女の足は自然とお目当ての馬に近寄っていく。顔見知りが居るから近づいているだけなのだろうが。
「ヒーヒン!」
「ブルル、ヒヒン!!」
ノルンファングの声に気付いたディープインパクトがいつものように答えてあちらも近づいてくる。
大竹もそれに気づいて田島の姿を見つけると、にこやかに手をひらひら振って答えてくれた。
「ういっす、大竹さん。これまたヤベー具合にしてきましたね?」
「どうも田島君、仕上がりには自信があるよ」
すっかり顔見知りになった大竹と、彼の跨るディープインパクトからほとばしるオーラのようなものに田島は気圧されそうになった。
彼らは本気だ、最初から全力でこの勝負を取りにかかってきている。いつもの笑顔の裏に音を立てて燃え盛る闘志が見えるようだ。
特に大竹から感じるやる気がすごい、ディープインパクトもいつも以上にやる気に満ちているが大竹のそれはさらに上をであろう。
彼はカネヒキリと共にドバイワールドカップに赴き、群馬地方競馬の桂井とツバキプリンセスに負けた、この敗北はやはり大きい。
特に大竹に限ってはその前に競い合った2005年の有馬記念での敗北をそのまま返されたような形になったのだから。
だからここでは負けられない、ホームである日本の中央競馬で、最高の相棒であるディープインパクトに騎乗して負けるなど言語道断といったところであろう。
(怖いねぇ、うれしいねぇ、そうだよ俺たちに注目しときな、それが一番やりやすい…とはいえちょっとガス抜きしとこ)
変な空回りされていらないミスをされても困る、大竹とディープインパクトの走りは自分たちの戦術に多大な影響が出るのだ。
大竹ほどの大ベテランに入らないおせっかいかもしれないが、これも友でありライバルとしての誼だ。
「そんなに見つめないでくださいよ、イケメン過ぎて恥ずかしいっす…俺ノン気なんで」
「ホワッ!?」
「フンスフンス!」
「はッ!?いやいやそんな気毛頭ないからね僕!!あとディープもなんで尻尾でお尻抑えるの!?」
「ははは、冗談ですよ」
「…君、緊張ってもんがないのかい?前もそうだったよね?」
自分がからかわれたことに気付いた大竹が若干げんなりしながらも笑い声をあげる。
彼が言っているのはアルトアイネスに騎乗していた時のことを言っているのだろう、あの時は大竹の乗るタイムパラドックスを相手にアルトレーネに乗る桂井と共に大逃げをかましてやったのだ。
周囲の空気がなんだか一変している気がするが田島は気にしなかった。そんなものどこ吹く風である。
「うちには一つ家訓がありまして、それを実践してるんで緊張してる暇ないっす」
考えるのをやめない、動くのをやめない、見るのをやめない、田島の祖父が掲げた我が家の家訓のようなものだ。
最後まで考えろ、どんなに怖くても動くのはやめるな、耐えがたい現実でも目を逸らすな、でなければ死ぬ。
思考停止したら死ぬ、動きを止めたら死ぬ、現実逃避したら死ぬ、だから現実を見て常に考えて最善を尽くせ。
祖父が第2次大戦を通じ、硫黄島の戦いで得たどんな世界でも通じるありがたい教訓である。
ただ頭を働かせるのに忙しいだけで、緊張というのは意外と忘れられるものだ。
「そういえば君の家も結構歴史あるんだっけ」
「瀬名家には負けますがね、戦前から競馬騎手ですわ。今日は負けませんよ、うちにある秋が春を待ってるんでね」
「残念だけど今日は諦めてくれるかい?ディープには公式だけでも無敗でいてもらうんだ、これからもずっとね」
「ヒヒーン!」
「フヒヒーン!!」
「「「「フフフフ…」」」」
多大ににらみ合って笑いあう、互いにもう気心知った競争相手だ。負けないとも、負けてなんかやらないとも、だから勝つ。
二人と二頭の考えは同じだ、こいつらが今日の相手だ。大変恐縮だが、他の連中には退いててもらおう。
「そろそろ時間だ、行こうか」
「もちろん、あ、こらこらまだ順番じゃねーよ」
「あっ、ディープもダメだよ。群馬じゃないんだから待って待って」
「「ハッ!?」」
ついついいつもの調子で二頭が順番無視し、自らゲートに突っ込もうとしたのでどうにも締まらなかった。
◆◆◆◆◆
≪ゲート入りで少々アクシデントがありましたが、全頭発走準備が整いました。どうでしょうか?≫
≪そうですね、ゲートを嫌がらないというか率先して入ろうとするっていうのは珍しいですね≫
解説と実況の声が流れる関係者席、そこの最前列でよく見える位置に陣取った小泉は隣に控えて一頭の馬に注視する彼に少し笑みを浮かべていた。
「どうだった、ノルンファングは?」
小峠貞治、元騎手であり現調教師。同じ栗東トレーニングセンターに厩舎を持つ自分の同業だ。
「思いのほかブルボンに似てたよ。すまないね、変なお願いしちゃって」
「いいんだよ、こういう機会でもないと難しいんだしな」
後学のためにディープインパクトの天皇賞春出走に同行させてほしい、小峠にそうお願いされたときに小泉には彼の目的が分かっていた。
この大一番、同業としてその理由は理解できるし嘘ではないのだろう。同じ調教師としてさらに先を見据えるために勉学を怠らない姿勢は実に感動だ。
しかしそれと同時に彼は、どうしても会いたかったに違いない。あのミホノブルボンの娘に、堂々と触れ合いたかったに違いない。
小峠は調教師としてはまだ発展途上とはいえ、元騎手として馬も見る目は確かだ。ゆえに人気はほどほどにあって暇な時間は少ない。
昨今はノルンファングの活躍もあり、父のミホノブルボンに乗っていた騎手がやっている厩舎として人気も上がって小峠は忙しい日々を送っていた。
どうにかして触れ合いたいが仕事は放っておきたくない、どうにかして理由を付けたい…と考えた結果がこれなのだ。
「すごい馬だったろう」
「あいつより表情豊かだったけどね」
「確かにな、ダイオーほどじゃないけど似てる」
「うん」
心なしか小峠の口は重い、嫌なことがあったというより感慨深くて口数が減っているといったところだ。
「正直、びっくりしちゃったよ。まさかブルボンの娘がGⅠ取っちゃって、しかも地方競馬からとかね。
で調べたらあの西竹一さんが馬主やってるし、母馬にまさかのウラヌスの血でしょ?目を疑っちゃったよ、嘘だろ? って」
≪スタートしました、おっとディープインパクト出遅れまして最後方からのスタート。
先頭はノルンファング大きく逃げる、まさかの逃げです。2番手から先行、トウカイトリックとビッグトルネードが競り合って、外からブルートルネード。
一気に逃げたノルンファングをほかの馬がそれを追う形になっています。右回り3200のこのレース、縦長の展開になりそうです≫
「自分の知らないところでとんでもなく立派に育っちゃってさ、正直もう驚く以外ないよホント」
もはや言葉にならない、といった具合にハナを切って逃げを打つノルンファングを見つめる小峠の目はいつに無く優し気だ。まるで祖父が孫の活躍を見ているかのようだ。
「実際彼女は強いよ。でも今回は逃げか、なかなか大胆に出てきたな」
「彼女、逃げはできるの?」
「できるね、群馬で練習してるの何度も見たし」
だがこの大一番で得意の先行策をやらない理由はあるのだろうか?と考えて小泉はため息をつく。
何分群馬地方競馬の競走馬は主にあいつのせいで普段から大逃げペースで先行やら差しやら追い込みをやらされるのだ、普通の逃げならば素のままできるのである。
≪向こう正面からぐるっと回って一度目のホームストレッチ、先頭は変わらずノルンファング、白い馬体を弾ませて悠々と逃げています≫
≪鬣が金にも見えて綺麗ですね、最初はどうかと思いましたが案外イケるかもしれませんね。坂に負けない力強い走りです≫
≪2番手は少し遅れてブルートルネード、3番手にビッグゴールド、さらにその後ろにシルクフェイマスとローゼンクロイツときまして縦長のレース、みんなほぼ一直線に駆けていきます。
おっと後方からじわっと加速してきたのはディープインパクト、トウカイカムカムと並んで6番手、ここで先頭を捉えるつもりか?≫
≪これは少し勝負を急いたかもしれませんね≫
「いや、これでいい。ノルンに好き勝手させていたら怖いぞ」
小泉は実況の言っていることに小声で否定を入れる。一般的な解説としては間違っていない、ディープインパクトは一般的な競馬ならば明らかに仕掛けが早い。
しかし今先頭を走っているのはノルンファングだ、群馬地方競馬であのシマカゼタービンの大逃げを相手に常に戦っているノルンファングだ。
3200メートル一本程度の距離を、一般的な大逃げの範疇で走るならば十分に走り切れるスタミナはあるとみていい。
それをはるかに超える爆速大逃げをする相手が群馬にはいる、それと比べたらこのレースはいささか悠長だ。
ここにあの馬が居たらこんな風に悠長な構えはしていられない、あれを知っていたら逃げ馬のスタミナ切れを待つなんてやっていられない。
「それはどういうことだ?」
「逃げ馬は逃げきれる自信があるから逃げる、逃げきれないなら初めからやらない」
「逃げ馬は捕まれば終わり、でも捕まらなきゃレースの主導権を握って自分のペースを作れる。どの馬にも先手を取れる」
「だから捕まえに行かなきゃダメだ、自分のペースが故意に壊されちゃうんだし。特にノルンファングはあいつの後ろ突っ走れるからな。
でも今回、先行組はそれをやるヤツが誰もいなかった、ノルンに仕掛けを匂わせてすらいない」
「なるほど、ノルンファングは逃げきれない、途中でばてて落ちると思い込んでると?」
「決めつけてると言ってもいい、地方をまだ舐めてる。群馬競馬はそんな甘くないぞ、常識が全く通じないから、あそこ」
現に昨年から群馬地方競馬に賞を取りに出かけた中央競走馬のことごとくが入着できれば御の字という大苦戦をしてばかりだ。
あのタイムパラドックスでさえ調整不足ではあったモノの、当時デビューしたての双子姉妹に負けていいところなしだったのである。
「だが逃げはそう簡単な走りじゃない、ブルボンだってあの走りを身に着けるまでずっと努力してきたんだ。
ノルンファングが努力をしていないとは言わないけど、彼女の戦法は今まで先行型が主でときどき差しだ。いきなり逃げをやろうとしたって体力が持つわけが…」
それが普通、まずはそう思う。でもまず前提が違うのだ、と小泉は笑った。
≪さぁ再び向こう正面に入って一番手はいまだノルンファング、しかしやや苦しいか後続との距離が大分狭まってきている。
2番手は何とディープインパクト、一気に距離を詰めて先頭集団に食い込んできています。
3番手はブルートルネード、続いてビッグゴールド、シルクフェイマス、そして早めにリンカーンも上がってきた。後ろは徐々に馬群が詰まってきて混戦模様だ≫
≪これはなかなか見ない展開ですね、ディープインパクトがだいぶ早く上がってきているのを見るにノルンファングを警戒しているのでしょうか?≫
≪しかしノルンファングここにきて足が徐々に鈍ってきている、馬群も徐々に徐々に団子になってきているぞ!≫
≪これは作戦を間違えたのかもしれませんねぇ≫
やはりノルンファングと言えど逃げはやや厳しいか、このまま逃げ切られる可能性は十分にあるがこの状態だとディープインパクトと大竹なら十分に差せる。
勝負に乗った、このままいけば自分たちは十分に勝てる。ほら、今ノルンの速度がさらに落ちた、チャンスだ。
「…おい待て、今なんて考えた?」
「どうしたんだ?」
「私はノルンの姿をなんでこんなに受け入れているんだ?なんであっさりディープと大竹が前に行くのを見てるんだ?」
「え、何を言って…」
背筋に嫌なものが伝う、それは背中を通り、背中全体に広がり、そして全身に寒気となって駆け巡った。
自分たちは今まで何を見ていた、このレース展開で何を感じ取っていた、このレースで走っているのは一体誰だ?
十分勝てる?勝負に乗った?おい待てよ、そもそもノルンファングは見慣れた走りをしているのか?
「…やられた」
「小泉さん?」
「よせ!出るな!狙いは最初から、お前達だ!!」
≪おっと出た、ディープインパクト早くも先頭!!ノルンファング徐々に遅れていく!!≫
◆◆◆◆◆
白い馬体があっさりと後ろに流れていく、自分とディープインパクトが先頭に立ったというのに大竹の脳裏には焦りが浮かんでいた。
余りに簡単すぎる、余りにあっけなさすぎる、あまりに順調すぎる。そう、あまりにも簡単に事が進み過ぎている。
いきなり逃げを打たれたときはもしやと思った、だれも彼女を止める気がないのを見てやばいと思った。
こんなこと前になかったか、いや、こんなこと何度もされてなかったか?思い出せ、今自分たちは何をされた?
「しまった、誘い込まれたッ」
「ヒヒン!?」
「忍法・馬群隠れの術ってな」
してやったり、そう言いたげな含み笑いが僅かに聞こえる。咄嗟に大竹は振り返り、すべてを理解した。
逃げ場がない、後ろにはすでに横にも広がり始めた後続馬群、その中に不気味な笑みと闘志を浮かべて膨らんだ馬群に埋没していく田島とノルンファング。
ノルンファングが馬群に飲まれた瞬間に後ろの馬群からにわかに湧き上がる殺気、そして一縷の望みをかけた覚悟のスイッチが入った踏み込みが聞こえてきた。
まだ向こう正面の中間点、距離はまだある、そんな中途半端な位置でポツンと先頭に放り出された自分たち。
長いレースで思考力が徐々に切り取られ始めてくるこのタイミングで、このレースで最大の勝機をノルンファングと田島は見事に全参加者の前で演出してみせた。
それを見逃す騎手はいない、それを見逃す馬もいない、彼がそれを見逃させるわけがない。今まさに、あのディープインパクトと大竹に一泡吹かせる絶好の機会が降って湧いた。
しかも大逃げでそれを演出した張本人たちはスタミナ切れで自爆、これが天祐でなくて何だというのか。
(まずい、これはまずい!!畜生、こんなのありか!!?)
だが大竹にはわかった、ノルンファングと田島はあえて後ろに逃げた。後ろに逃げてすべて仕切り直す機会を作った。
シマカゼタービンと茂三が良くやる力任せな仕切り直しだ、競馬で敢えて最後尾に抜けてからコースを取り直してまた上がってくるなんて普通は誰も考えない。
でもノルンファングと田島はできる、あの二人は茂三からも警戒される突破力がある。しかも最後尾で一息入れて足を休めて、その機会を伺う余裕すら持っていったのだ。
最後尾の芝はきっとボロボロだ、土と芝が混じった悪路だ、群馬スペシャルで鍛え上げたダート競走馬であるノルンファングの足には実に走り慣れた素晴らしいコンディションになっている。
しかもこの先には淀の坂がある、自分たちには関係ないが他の競走馬たちからしたらキツイ登りと降りだ。
後ろには逃げられない、自分のペースには戻せない、ここから仕切り直すには何もかもタイミングが悪い。
(逃げるしかない、やるしかない!)
ここで捕まればディープインパクトとはいえ終わりだ、馬群に飲み込まれればそれを抜け出す機会はない。
ならば、大竹はすぐさま手綱を緩めてディープインパクトに合図した。
「このまま千切れ!任せる!!」
「ヒヒン!!」
◆◆◆◆◆
ディープインパクトが加速していく、それは馬群を抜けて最後尾に抜けた田島には加速していく馬群の姿で分かった。
どうだい大竹さん、俺たちだってやるもんだろ?いきなり逃げに変えさせられてどこまで持つかな?
種は十分仕掛けた、馬群に抜ける途中で『ディープインパクトと大竹のせいでミスった』とぼそぼそと独り言をつぶやけば効果覿面だった。
それにほかの連中だって気付かない。やばいぞ、大竹さんとディープインパクトが遮二無二になって逃げだしたらしこたま鍛えたスタミナで振り回されるんだからな。
「俺たちはしばらく高みの見物と行こうか、ノルン」
「ふぁひん」
「最後の直線だ、そこまで休もう。全部ぶち抜くぞ」
「ひひん」
他の馬に、他の騎手に聞こえないようにこそこそと喋って機会を伺う。
足場は完璧な悪路、ノルンファングには走り慣れた柔らかいデコボコ道だ。足を休めて一息つかせるには十分。
自分たちの後ろには誰もいないから急かされることもなく、馬群を風除けにしながら余裕をもって息を整えられる。
飛んでくる土なんて何のその、淀の坂?お前群馬で同じこと言えんの?
(悪いな、お前らとまともに遣り合ったらかなり分が悪いから一案練らせてもらったぜ)
逃げを打ち先頭を切るディープインパクト、それを追いかけるほかの馬たち、自分が考えた通りの結果になった。
ディープインパクトのスタミナと末脚の強さは何度も一緒に練習したのだからよく知っている、自分たちがいつものように走っても正直に言えば勝てるかどうかは微妙だ。
追い込みでしっかり速度に乗った状態で突っ込んでくるディープインパクト相手にノルンファングの末脚はおそらく持たない、速力では確かに上回るであろうが持続力となるとディープインパクトに軍配が上がる。
仕掛け所を間違えなければ勝機はあるが、問題はこの京都レース場が自分たちには完全なアウェーでありレース距離も3200メートルと長い所だ。
京都レース場に馴染みのない自分たちではどこが仕掛け所か見分け辛いし、長い距離は末脚を使い体力もそれなりに削られるから余計に不利だ。
中央競走馬としてこの手の競馬場を多く走ったディープインパクト、そして中央騎手として何度も京都競馬場を走って身にしみ込ませた大竹相手では自分たちはどうしても劣る。
京都競馬場に対する理解はもうどうすることもできない、ならば距離でその差を埋めて相手に近づくほかないと田島は思っていた。
だから逃げたのだ、他の中央競走馬にはない自分たちへの理解がある大竹とディープインパクトだからこそ、あの大逃げの怪物を知るからこそ絶対に放ってはおけないはずだから。
(いいぞ、そのままディープに削られちまえ)
根性で逃げを打つディープインパクトにほかの馬たちがどんどんつられていくのを見てほくそ笑む。
3200メートルを大逃げで走り切れるわけがない、ましてや強いとはいえ地方競走馬なのだから絶望的だ、普通の中央騎手ならそう考える。
それは甘い、非常に甘い、3200メートルを日に何本も大逃げする馬にしこたま鍛え上げられるのが群馬地方競馬所属の競走馬だ。
芝で、砂で、左回りで、右回りで、そして曲がりくねった山道を往復して、自分たちとディープインパクトは鍛え上げてきた。
もう少しだ、もう少し待つ、他の馬が削れるまで、ディープインパクトが削れるだけ削れるまで。
最後のカーブが終わる、すでにほかの馬たちはディープインパクトと大竹に振り回されて息も絶え絶えだ。
最後尾に落ちたと思い込んでいる自分たちに意識を割く余裕などない、目の前にはすでにばて始めたディープインパクトが居るからだ。
ディープインパクトの足並みは乱れ、息も乱れ、すでに限界を超えているように見える。チャンスでしかない、ここで踏ん張らなければ意味はない。
そんな風に考えてるから、どこかで自分たちを舐めてるからこうなるんだ。最後の直線が終わる、がら空きだ、みんな隙だらけだ。
馬群がいい感じにほどけて隙間だらけになっている、ちょうどいい。
「ビンゴ。ノルン、突っ込め!」
◆◆◆◆◆
もう足が棒のようになっていた、走るたびに何かがそぎ落とされていくような感じがした。
息をするたびに胸が痛んだ、いくら吸っても苦しいままだ、吐いても吐いても楽にならなかった。
心臓が早鐘のようになっていた、体中に血を行きわたらせても行きわたらせてもまだ足りない。
まだ止まれない、まだ止まれない、ゴールはまだ先だから止まれない。いつに無く遠いレースの終着点、走れば走るほど遠くなるような錯覚すら覚えるゴール板。
なのにもう今にも崩れ落ちそうだ、もう走るのをやめたくて仕方がない。もう立ち止まろうかなんて考えたこともない事さえ過って来る。
『な!?お前!!なぜ!!』
『お、終わったはずやぞ!どうして上がれるんや!!』
『馬鹿な、その隙間を通るのか!!』
やはり来た、思った通り奴が来た、馬群の中をすり抜けていつものように上がってきた。畜生、完全にあいつの思った通りになっちまった。
後ろから近づいてくる聞き慣れた足音、どんどん距離を詰めてくる聞き慣れたライバルの足音が耳障りだ。
(負けるのか)
いくら力を込めても速度が出ない、いくら走っても距離が縮まらない、長い、長い、苦しい、苦しい。
あと何メートル走れば終わる、終わりはまだなのか、考えることすら億劫だ。
大丈夫だ、自分は強い、自分は速い、自分はタフだ、何も考えなくても…いや、それはただの逃避だろう。
分かっているのだ、このままでは自分は負けるのだと。この距離と、相手の速さでは相手のほうが速い。
自分はよく知っている、自分たちをこの罠に引き摺りこんだ彼女たちの実力をよく理解している。
(苦しい、つらい)
自分はもう限界だ、もうこれ以上足が持たない。でも相手はどうだ?ラストスパートを残しているに違いない、現に彼女の足跡に淀みはない。
それに比べて自分はどうだ、こんなフラフラで、足並みもぼろ糞で、呼吸もままならなくなりかけている。負けるのか、負けるんだ、この俺が負けるのか?
無敗の馬が負けるのか?この俺が負けるのか?この大一番で?この京都で?あいつのいないこんなレースで?
(あいつ以外の馬に負けるのか?俺が?)
負けましたって言うのか?天皇賞であいつに負けたというのか?無敗じゃなくなりましたって?
(ふざけんなよ)
脳裏に栗毛の馬が駆けた、ぼやける視界の中に栗毛の馬体の後姿が見えた、忘れたことはない、彼の背中だ。
いくら走っても自分をいつも負かしてくるライバルの、あの頼もしくて憧れる大逃げの後ろ姿だ。
何度その姿に焦がれたか、何度追いすがって突き放されたか分からない。その姿に葦毛の馬体が重なっていく。
瞬間、彼の中で我慢ならない怒りが込み上げてきた。違う、そこのにいるのはお前じゃない、俺の前にいる馬はノルンファングじゃない。
(どけよ、あいつの姿が見えないだろうが)
シマカゼタービン、自分のライバル、自分がずっと勝てない最大の目標、俺の親友。そこに割り込む?塗り替える?ふざけるんじゃねぇ!!
瞬間、ディープインパクトは体に稲妻が走るような衝撃を感じて、すべてがスローになったような感覚にとらわれた。
(あいつを負かすのはこの俺だ、それまで、負けてらんないんだ!!)
張り裂けそうな息を止める、息をする意味がない。ゴール板が見える、もう少しだと理解できる、だから全部、全部走るために使え!!もっとだ、もっと出せるだろ?
寄越せよ、全部。中央競馬の結晶とやらの血の全てを出せよ、俺の全部はレースのためにあるんだろ?俺は全部出し切ってやる!だから何もかも吐き出せってんだよ、サンデーサイレンス!!
聞いたことしかない父、見たこともない父、その血がすごいと常々言われてきたその父の全てと自分の全てを、ディープインパクトは全て一緒くたに吐き出した。
『邪魔だ、どけぇ!!』
『っ!?』
風になる、加速する、空を飛ぶ鳥のように体がふわりと浮くように軽くなる、まるで羽根が背中に生えたみたいだ。
そしてそれを抑え込み、地を這うように駆ける、羽を広げて吹き抜ける突風を受けて飛ぶ鳥のように。
走れ、走れ!走れ!!俺の前にいていいのはあいつだけだ、あいつを倒すのはこの俺だ!!
『こんな所で負けてたまるか!俺が勝つんだ!』
前に出る。栗毛の馬体が離れていく。
『いいや私です!!』
ノルンファングが前に出る。それでもあいつとの距離は離れるばかり。
『俺が先に勝つ!』
『私が先に勝つ!!』
また俺が半馬身出る。もうシマカゼタービンの背中は遠い。
『馬鹿な、加速する、だとぉ!!』
『こんな長いレースで、どうして!!』
『バケモンかよお前らぁ!!』
うるさい、後方がうるさい、もう気にするだけ無駄だ。もう敵はこいつだけだ、ノルンファングさえ振り切ればいいんだ。
『私が!先に!!彼に!!!勝つんです!!また、勝ってみせるんだ!!』
『あいつにだけ勝ててない!勝てないまま負けたくない!!負けた姿を見せたくない!!』
ノルンファングの馬体を追い抜く、ノルンファングが抜き返す、それに自分は喰いつく、前のめりになって加速しながらノルンを追い越す。
束の間にも前を走る栗毛の馬体がさらに先を行く、競り合う相手なんていないからどんどん加速する、まだ追いつけない、まだ追い越せない。
あいつはもっと速かった、3200メートルなんて長距離はシマカゼタービンの庭みたいなものだった。
引き離される、置いて行かれてしまう、まだ駄目だ、まだ俺のほうが遅い。だって、このレースのタイムは明らかに彼の大逃げのペースを下回っているから。
やっぱりまだかなわない、だから、だから!!あいつに勝つまで負けてなんかやれねぇんだ!!
『俺が、勝つんだぁぁぁぁぁッ!!』
『私だぁぁぁ!!』
ゴール板が迫る、自分は前に体を傾けた、ライバルも体を傾けた、加速はもうできない、そんな余裕はない。
ほんの少しでも前に出ていたほうが勝利する、もはや実力ではどうにもならない。ディープインパクトは歯を食いしばって、己の幸運に賭けた。
あとがき
というわけで天皇賞・春、ディープとノルンが群馬仕込みのキチガイレースをしたというお話でした。
最後の直線は他の馬置いておいて白いのと黒いのがデッドヒートしてると考えてくれればいいです、後ろは全部置いてけぼり。
え?淀の坂?こいつら群馬スペシャルで慣らしているのでちょっと不遇です、すまんな。
戦術は簡単に言えばノルンと田島の元からディープと大竹徹底マークおよび陽動作戦、普通に走ったら負けるから騙して先頭に引き摺り出したあとは他の馬に削らせて漁夫るつもりだった。
先頭を突っ走れば否が応でもここのディープと大竹は反応せざるを得ない、逃げの恐ろしさは骨の髄までしみ込んでるもの。
ついでにディープのキチガイ体力と根性も勘案に入れて、ディープを削る過程で他の馬の体力もぼろりんちょにして不確定要素も排除。
最後はヘロヘロになった動くパイロンたちを通り抜けて本命に仕掛けて勝負を挑む。これでも確実に勝てるなんてノルンも田島も考えていない。
つまり逃げでペースと主導権を奪って全部思い通りにレースを作り、ディープ陣営だけを潰すために何もかも利用した。
何もかも田島とノルンファングが悪い。
きっとこれにはお客さんは大満足でしょう、まぁ馬主さんや調教師たちからしたらどうかとは思うけども。
おまけ・天皇賞春当日の瀬名酒造。
(ん~~?なんだよみんなサボりか~?ま、ノルン大一番だからな、しかたないか)
天皇賞春の生中継を全員で見に行ったので無人な工房を一頭だけ暢気に仕事。すっかり前世モードで苦笑い。
現在は経理部に提出する研究予算案と電卓片手ににらめっこ中、なお本来は源次郎の仕事である。
≪トップは中央と地方の鍔迫り合いだ!!どっちも譲らないデッドヒート!!≫
「プギィィィ!!」「ヒヒーン!!」「うにゃぁぁ!!」「カァッ!」「わんわーん!!」
「「うぉぉぉぉ!!いけぇぇ!!」」
なおほかの連中は第一馬房にて人も動物もテレビに釘付け、社長もいるよほぼ全員集合。
あとで食堂長(社長夫人、社内ヒエラルキートップ)にみっちり怒られる大反省会となるがそれは別の話。