いつも多くのご感想と誤字報告、ありがとうございます。
そろそろ始めます、競馬物な走り屋物のはずなのにちょっと物騒なお話。
芦名市中央公園で行われているフリーマーケットは規模こそこじんまりとしているが、いろいろな品が並んだ露店や市内の飲食店からの出張出店が並び賑わっていた。
休日の夕方近くになっても人の行き来は絶えず、このままであれば久々に開催期間ギリギリまで客足は絶えないだろう。
その理由の1つはフリーマーケットに来ているのが地元の人間だけではなく、芦名観光に来る外国人観光客の数が以前より多くなっているからだ。
このフリーマーケットは元から芦名観光に来た旅行客がちょろちょろ見物に来るためそれなりに人でにぎわうのだが、今年は高崎競馬場を見学に来たついでに芦名を見にきた観光客も加わっていつもよりもにぎやかだ。
それこそ『日本のフリーマーケット』という未知との遭遇に目を輝かせる外国人客も多い。何しろ元の地元民向けスタンスを維持したままなので何かと緩くご当地色が強いのだ。
その片隅、瀬名酒造からの出店であるこじんまりとした酒・甘酒販売屋台も売り上げは好調。
地元の由緒正しき老舗酒造で、しかも馬に深いかかわりがあるとなればそれなりに客が集まった。
午後になっても客足はほどほどに絶えず、売り上げを伸ばす甘酒屋台の裏に停めたバンの運転席で、茂三は午前中の売り上げをダブルチェックしながら携帯電話を手に駄弁っていた。
「あぁ、売り上げはいつも以上だよ。この分だと全部捌けそうだから、迎えに行くのはもう少し先になりそうだ」
≪そうか、解った。悪かったな、無理言っちまって≫
全くだよ、と大きく出そうなため息を何とか飲み込みながら茂三はやれやれと肩をすくめる。
今日、群馬トレーニングセンターからの急な呼び出しで、休日返上で仕事に出たシマカゼタービンがどんな気分でいるかは考えるまでもない。
「そういうのはタービンの奴に言ってやれ、休日を潰されたのはあいつだ。機嫌悪かっただろ?」
≪いつになく、顔には出てねぇけどずっといらいらしながら放牧地に―――≫
「なにぃ?放牧地だぁ?」
聞き捨てならないことを聞いて思わず茂三は声を荒げる。
「お前まさか、呼びつけといて放牧地にほっぽりだしたんじゃねーだろうな?」
≪そうだよ、今日はさすがに初っ端からあいつを本気で走らせるわけにもいかねぇからな≫
「馬鹿野郎、ますます怒らせてんじゃねぇか。休日返上で呼び出してんだろうが、仕事させろ仕事」
≪そうはいっても相手はゴドルフィンの殿下だぜ?さすがにいつも通りにとはいかねぇよ、それとなくやり過ごさねぇと後が怖いじゃねーか≫
「何言ってんだてめぇ?俺が言いたいのはあいつがそういう事をされるの嫌い…あぁ、だからか。お前、あいつを番犬代わりにしたな?」
≪…この頃、うちの馬たち頭良くなっちゃってるからよ。この前なんて、馬房抜け出して自販機前でジュース飲みながら駄弁ってやがった。
あんなの教える奴らなんざてめぇんとこの連中以外居ねぇだろ?当然、抑えられんのだってな≫
思わず笑いが飛び出そうになるのを茂三は抑えた。シマカゼタービン達があまりにも頭のいい馬なのはわかっていたが、どうやら影響力という意味では想像以上だったようだ。
そうなると瀬名酒造の中でも古参の三毛猫、瀬名家のブチが気まぐれか何かで馬運車に相乗りしていたのは幸運だったかもしれない。
彼はただの三毛猫だがシマカゼタービンを一緒に育てた親代わりの一面もある。当然賢いのだ、桜葉の狙いにいち早く気付いていてもおかしくはない。
「なんでそう言い切れる?生憎俺は、お前んとこに迷惑かける気なんざないぜ?」
≪分かってんだよんなこた、あいつはあいつが正解だと思う仕事をしてるだけだ。実際、おかげでうちらもだいぶやりやすくなって助かってるよ。
うちの騎手達も驚いてんだぜ?シマカゼに習った馬とはコンビを組みやすいってな。具合が悪けりゃ隠さないで素直に見せてくれるし、大人しく治療も受けてくれるしよ≫
「ならよかったじゃねぇか」
≪内輪だけの話ならな、いきなりあんなもんゴドルフィンの殿下に見せられるわきゃねーだろ。しかもメディアまで一緒だぞ?国内と国外両方のな!
いつも通りなんて今回ばかりはご法度だ。大人しくしててもらわんと絶対にややこしくなる、考えなくても分かるぜ≫
だから不機嫌になるのを承知で置物にしたのかよ。茂三は親友が考えた対策に思い至って嘆息した。
シマカゼタービンがイライラしながらも腰を落ち着けているうちは安心だ。少なくとも大親友の3頭や極一部を除けば大人しくしているだろう。
しかしそれでもあいつが変に動けばすべてパーだ、何か別のモノに気が削がれて自ら動き出せばほかの馬も安心していつものようにふるまい始めるに違いない。
そうしないように言いつけて仕事をさせたとしても同じだっただろう、そうなるとボス馬であるシマカゼタービンの言う通りほかの馬は大人しくするだろうがその分シマカゼタービンの異様さが浮き彫りになる。
放牧地や練習場をせっせと練り歩いて目配り気配りを欠かさない完璧な仕事をするだろうが、その姿自体が殿下には異様に映る。
ただでさえツバキプリンセスのドバイ出張での立ち振る舞いにてんてこ舞いになり、今なおツバキプリンセスの腹すら狙う連中が見れば一体何が起こるかなんてわかり切っているのだ。
なるほど、こいつなりに一応気配りはしたわけだ。これならば変な気配りをシマカゼタービンにさせることなく自分が恨まれるだけで済む。茂三はやれやれと肩をすくめた。
「この野郎、嫌われるぞ?」
≪こうでもしないと来ねーだろ、お前ら≫
「当然だ」
誰が今まさに修羅場の群馬トレセンに好き好んで首を突っ込もうと思うものか、そもそも殿下が襲来することすら直前まで知らなかったのだ。
かのゴドルフィン、アラブ競馬の重鎮でありトップの直接交渉と視察は相手方の特殊事情によって関係者の中でも一部にしか知らされないトップシークレットであった。
そんな機密事項を関係はあっても基本的には外野の瀬名茂三が知るはずもなく、知っていれば絶対に避ける事案にシマカゼタービンをホイホイ貸してしまったのである。
去年も同じようなことがあったな、茂三はなんとなくディープインパクトとの初対面の時の事を思いだした。
≪覚悟の上だよ、あとでしっかり謝っとくさ≫
「一発位覚悟しとけ」
≪勘弁してくれ、今度一杯おごるからよ≫
「タービンにもな」
≪じゃ、今度の休み、うちでバーベキューでもするか。肉と飯をたんまり用意しとくぜ≫
「そうしてやれ。だがな、理由は分かったがこういうのはもうこれっきりにしとけ。そうじゃねぇとマジでこのアルバイトやめるって言いだしかねんぞ」
≪なんだよ、藪から棒に≫
「藪突いて蛇出すどころか、逆鱗に触れる寸前だって言ってんだ。ここ最近、あいつ指名で合わせする連中増えてんだろ」
2006年に入って以降、シマカゼタービンを指名して練習を行う競走馬は右肩上がりに増え続けている。
それも群馬地方競馬に所属する見慣れたメンバーだけでなく、中央競馬で噂をかぎつけて遠征してきた連中までだ。
栗東厩舎や中央競馬協会は情報をできる限り秘匿しているようだが、それでも聡い陣営は群馬に何かあると嗅ぎつけている。
最近ではホール・ルベル率いるハーツクライ陣営も、最終調整には群馬トレセンに遠征するのが常なのだ。
そこから考えを巡らせ、少ない情報を手繰り寄せて群馬にたどり着く陣営は意外と多い。
ディープインパクトやハーツクライがご執心の相手がシマカゼタービンであるという事までたどり着くものはまだ少ないが、群馬地方競馬自身はあまり隠匿もしていないので広まるのは時間の問題だ。
「このまま増えると、アルバイトが本業の邪魔になるのは時間の問題だ。言っとくが、そうなったら切るのはそっちだ」
≪おいおい、勘弁してくれ。今タービンが辞めちまったらブニーたちの仕上げが遅れちまう≫
「ならさっさと別の手を打て、人の口に戸は立てられねーんだ」
≪そう言ってもな、気付いてる奴は気付いてんだぜ?半信半疑で探りが浅い奴らは煙に巻けるにしても、ディープインパクトに煮え湯飲まされた連中は調べ上げてきてる。
それに栗東の小泉経由で話が来ることもあるし、そいつらは断れねぇだろ?少ししたら池永がスイープトウショウ連れてくることになってんだ≫
「断れねぇのはしょうがねぇが、せめて頻度は前のアルバイト程度に済ませるようにしてくれ。本業がおざなりじゃ、あいつの足も鈍っちまう」
≪そりゃマズいな、峠の時間まで削る寸前か?≫
「仕込みの話だよ、うちの酒は常に仕込みをやってんだ。知ってんだろ?」
瀬名酒造の馬練りには特定の季節で大量に仕込んで一定期間を置いて一斉放出するような形ではなく、常に年間を通して一定の量を常に仕込んで生産する形だ。
故に年間シーズン通して常に酒造は稼働しており、常に新酒の仕込みが行われている。もちろん季節に応じた商品の販売も手掛けているので、季節による仕事の増減はあるが基本的に仕事が途切れることはない。
例え会社が休日になっていたとしても、酒の仕込みと熟成は続いている。だから年間を通して瀬名酒造は忙しいのだ。
「あいつはうちの酒造りに欠かせねぇ、今じゃうちの中でもトップクラスの腕前なんだぜ?あいつ自身も新酒開発のプロジェクトを抱えてる。
これ以上競馬に時間を取られたら本業にまで響きかねん、そうなったら縁切りだ。てめぇがどう言おうがな」
≪おいおい、あいつも競走馬だぞ?≫
「副業でな。あいつは賢いからな、自分の本業がなんなのか理解しちまってんだ。忘れたのか?あいつの新馬戦後のゴタゴタ、あれでとっくに察してるよ」
競走馬という存在に大切なものは実力、しかしそれと同じように血統が重視される。
茂三は血統を重視するほうではないが大事なものであるという事は重々承知していた。
『血統』とはその馬が競走馬であるという証、かつて競走馬として走ってきた先祖たちの末裔であるという証明だ。
車で言えばシリーズだろうか、自分が今なお愛して乗り回すスプリンタートレノAE86GT―APEXも前に、そして後に世代がつながっている。
その後継であるAE101GT―Zが息子の敏則の愛車となったのもまた、どこか運命のようなものを感じていたほどだ。
その大切な『証明』にシマカゼタービンはケチが付いた、シマカゼタービンの競走馬としての土台そのものが大きく揺ぎ、ひび割れたのだ。
≪それはもう終わっちまった話だ、お前達にはなんも非がない。うちらだってなんも処分もしなかったじゃねーか。
悪いのはあの牧場で、あそこの経営者共だ。それにシマカゼの出生を誤魔化してた主犯格はみんな豚箱行き、他の連中もこの世界から足を洗ってる。
あのまま続けてりゃ、何言われようがどうってことなかったろう。それこそ、お前の人生が変わってた≫
「笑わせんなよ。出す出さないの問題じゃねー、見えてる地雷がでかすぎらぁ。社長が会社振り回すわけにゃ行くめーよ」
≪だが…お前の夢だったじゃねぇか、ツインターボの産駒で有馬に勝ちたいってよ≫
「あぁ、そうだったな。懐かしいぜ」
桜葉の言葉にふと昔の気持ちが過って茂三は懐かしさを覚えた。今でもツインターボが走ったレースで感じた興奮をしっかり覚えている。
青い面子を付けた小柄な競走馬が、狂おしく懸命に先頭をひた走り大逃げする数々のレースが。そこにあった期待と、胸の高鳴りが。
ツインターボが引退したときは、自分が自分ではないように使えるツテを辿ってツインターボの種牡馬化を支援する小規模な後援団体にもぐりこんだ。
だが何とか紡いだ血筋はほぼ全滅、ツインターボも早くに亡くなりすべてが終わったかに見えた。
ツインターボの血を引く産駒を手に入れて、それこそあのナリタブライアンのような3冠馬を寄せ付けない大逃げをさせてみたい。
その夢はもう叶わないとあきらめていた、そこに彼が現れた、本当にひょっこりと、予想もしなかった場末のブラック生産牧場から。
思わず体が震えた、運命といわずしてなんだという、あの彼の血を引く馬がまだいたのだ、それも自分目掛けて一直線にやってきた。
迷いはなかった、貯め込んでいたヘソクリをすべてはたいて、それこそ妻に土下座して金をかき集めて、一括払いの即金で支払い彼を手に入れた。
結果は言うまでもない、最高だ。シマカゼタービンは最高の馬だった、他の誰が何と言おうと今まで見た中で最高の素質を持った馬だった。
確かに見てくれはよくなかった、しかし彼は幼駒の頃から賢く、素直で、それでいて努力を怠らなかった。競走馬としての調教ではあまりの覚えの早さに、飛び級したかのようなスピード合格をもぎ取った。
そんな彼は競走馬としてだけでなく、走り屋としての技術も貪欲に吸収していった。自分はそんな彼に何もかも教え込んだ、自分がこれまで培ってきた峠の走り屋としての技術を。
いけるかもしれない、彼ならば自分の夢をかなえてくれるかもしれない。あの青い面子を付けた彼のように、そう思っていたのだ、あの時までは。
≪ったく、七夕賞とオールカマーの出走依頼を即答で蹴ったって聞いたときは耳を疑ったぜ?≫
「なんだよ、あいつらそっちに話持ってったの?それは別件、その日は仕事があるから無理なんだよ。ちゃんと説明したはずなんだがな」
≪競馬一本やりの中央競馬職員だぞ、そんなド素人にお前らの都合がわかるわきゃねーだろ。大体言い訳だろそんなん≫
「事実でもあるがな。ま、縁がなかったのさ。あいつが勝てば勝つだけ、活躍すればするだけ、どうしようもないことが起きる。賭けてもいいぜ?」
少なくとも、今も刑務所で臭い飯を食べているシマカゼタービンの生産牧場の面々は、シマカゼタービンが活躍しだせばいらない声を上げて暴れ出すだろう。
それを聞きつけたマスコミが、それを取り上げて面白おかしく脚色する。それを見たファンや一般人が感化されて耳障りな声を上げて行動しだす。
その後は堂々巡り、最悪の場合シマカゼタービンが上げた功績を全て捧げて命も絶たねば止まらない、それこそ自分たちの会社まで、ということまでありうる。
今の中央競馬で出走すればあり得る、なんと言っても去年からホクリクダイオー達3頭というかつての名馬の娘が大活躍しているからだ。
中央競馬に所属する超馬主たちもかつては皇帝、黄金世代、世紀末覇王などなどの名馬たちに心を焦がされたのだ。当然ながら推しであった名馬たちの復権を狙うものも少なくない。
その流れもあってか日本競馬界は現在大復刻祭り、往年の名馬グッズなどを皮切りにテレビ特番や特集雑誌など数多に手を伸ばしてブームをでかくしている最中である。
そんな中に訳ありのシマカゼタービンを、ツインターボに縁のある2レースに出走依頼枠で出そうものならどうなる事やら…想像するに難くない。
そして至極面倒臭いことになること確実、見えてる核地雷とはまさにこのことである。
被害妄想といえばそうなのかもしれないが、長年酒造という『酒』を造る仕事に携わってきた経験則上『ありうる』のだ。
人間とは天才で知恵者で分別のある者もいるが、愚かでバカで分別の付かない者もいるのだ。そして関わるだけで碌なことがない連中も。
そんな人間の愚かしさとどうしようもなさは身に染みている、それこそ瀬名酒造という歴史そのものに染み込んでいるのだ。
今日この時にいたるまで『酒のせい』にされて会社から自分自身にまで及んだ身に覚えのない中傷を、それこそ幼少のころから嫌というほど受けてきたのだから。
≪やめろよ、お前がそういうこと言うときは絶対当たるんだ≫
「お前だってわかってんだろ、公営競馬なんてギャンブルを運営してんだからよ」
≪耳が痛いぜ、今は特に。その通りだよ、競馬はギャンブルだ、最近はそれをわかってねぇニワカが多い≫
「なんだ、ついに群馬の馬主にもニューエイジが出たか?」
≪生憎馬主の方は先輩方が厳しく指導してるからねーよ。問題はファン層だ、うちの連中が強くなってきたからいやに中央挑戦を押す連中が増えてやがる≫
「バカ相手は疲れるな」
群馬地方競馬全体の実力は確かに底上げされてきている、地元の高崎競馬場であれば遠征してくる中央所属競走馬でも負けないだろう。
しかし実力面で言えばやはりツバキプリンセス、ノルンファング、ホクリクダイオーは別格だ。
まかり間違っても群馬地方競馬に所属するすべての競走馬が有望である、強い馬であるなどとは思ってはいけない。
全体的な戦力増加はただの結果だ、件の3頭の躍進に感化されて気合いを入れた調教が多くなり、そしてそれをさらに後押しできる存在が群馬地方競馬に顔を出しているからだ。
地方競馬とて競馬、地方騎手とて騎手、目指す相手が居て、その力を目の当たりにすれば奮起するものは奮起するのだから。
≪どう思う?ぶっちゃけ、上の方も迷ってんだ。このまま加熱させてホントに良い物かってな。うちはあくまで公営だ、中央みたいな馬狂いばかりが集まった場所とは土台が違いすぎらぁ。
やれることにも限度がある、中央みたいにイケイケどんどんなんてやれるとは誰も思っちゃいねぇんだよ≫
「ならどこかで水ぶっかけて酔いを醒まさせにゃだめだな。まだ身動きできるうちに距離取らんと足抜けできなくなるぜ」
≪本音は?≫
「迷惑だからさっさと元に戻せ、最近はとんと高崎で落ち着けた試しがねぇ」
常に満員御礼で観光客と競馬ファンでぎゅうぎゅう詰めの高崎競馬場を思い出して顔をしかめる。
ホクリクダイオー達が活躍しだしてから片鱗はあったが、もはや高崎競馬場は中央競馬の主要競馬場並みにホットな競馬場と化したのだ。
特に目玉のレースが行われているわけでもないのに連日大勢の客でにぎわうようになり、年収は右肩上がりだがその分高崎競馬場の運営や勤務する人々の疲労はたまるばかりである。
さらに地方競馬のこじんまりとした競馬場であるのは変わらないため、加速度的に施設にダメージが蓄積されていると来ている。
それ程までに人の往来が激しくなった高崎競馬場は、もはや一昔前の鄙びた地方競馬場ではなくなってしまったのだ。
ゆったりと腰を据えて、似たり寄ったりな所属馬の様子をパドックで見て新聞片手に頭をひねりつつ、これという馬に応援馬券を賭けて一喜一憂するような遊びが最近はできないのである。
峠攻めと同じくらい自分には必要なストレス発散法なので、ほんとにどうにかしてほしい所だった。
◆◆◆◆◆◆
夕刻間際の執務室、群馬競走馬トレーニングセンターの理事長室の執務室に座る桜葉は受話器を電話に戻しながらため息をついた。
ここ最近はため息しかついてない気がする、それも当然か。なぜなら自分はかなり疲れているし、常に気を張っているから。
今や一世を風靡し始めた日本競馬界の中でも注目されている群馬地方競馬のまとめ役である桜葉の胸中は陰鬱であった。
(終わった話か…んなこた分かってんだよ。あんだけあいつの凄さにほれ込んだお前が、あれ以来一切アレを口に出さなくなってからな)
せっかくゴドルフィンの殿下相手に厄介な話を終わらせて、一息ついていたというのに嫌な思い出を掘り返してしまったものだ。
シマカゼタービン、彼の実力は調教が始まってからいかんなく発揮されていた、群馬地方競馬の経験をもってして史上最高のものだと担当者が豪語するくらいに。
担当した調教師はあまりの賢さと飲み込みの早さに息を呑み、担当厩務員はあまりの神経質さと賢さに頭を抱えたが実力を見れば誰もが見惚れた。
戦術もくそもなく、ただただ大逃げする。たったそれだけの競馬で、彼は調教での練習レースでは、のちに中央GⅠを奪取する2頭と並ぶ無敵ぶりを見せていた。
彼は文字通り強くて賢い馬であった、できることとできない事の分別もきっちりしていて、管理面でも注意する点さえ飲み込めば非常に楽な部類であった。
学べば学ぶほど強くなる、戦術こそ一辺倒ではあったがそれを苦にしないほどに、これは群馬競馬の目玉になるとその時は感じたものだ。
デビュー戦も順当に勝利、ホクリクダイオーとノルンファングを置き去りにして3馬身差の圧勝、すべてはここから始まるはずだった。
だがそのデビュー戦のすぐ後に、すべてをぶち壊す事件が起きた。シマカゼタービンの生産牧場が倒産し、そこからうじゃうじゃと隠していた不都合な事実が噴出してきたのだ。
その中にはシマカゼタービンの出生の秘密、牧場内での放馬事故によって受胎した産まれるはずのなかった望まれない産駒であったことも含まれていた。
当時の群馬競馬は今のように世間に注目された地方競馬ではない、営利こそトントンであるがそれ以外ではほかの潰れていった地方競馬と大差がない地方競馬であった。
当然ながらこのことに関しては問題視された、馬主である茂三でさえも知らない事であり彼らも被害者とはいえ競走馬としての登録抹消の寸前まで話が行った。
事件の全貌が明るみになるにつれて完全な被害者である茂三やシマカゼタービンを処分するほうがおかしいという事になり、処分は免れたがその騒動はこういった『アクシデント』に鼻が利く茂三の気持ちを折るには十分だった。
シマカゼタービンの競走馬運用に積極的ではなくなり、目標に掲げていた有馬記念への挑戦も口に出さなくなり、やがてシマカゼタービンが気に入っている同期に会える機会を作るために地方競馬へ籍を残している状態になった。
シマカゼタービンを競走馬としての道から酒造用の仕込み馬として、そして峠の走り屋としての道に変更して、彼が競走馬でなくとも生きられる道に進ませたのだ。
(あの野郎の、ああいう対人レーダーは本当に百発百中だかんなぁ…本気でやばいって思ってんだろうな)
瀬名茂三という男は瀬名家が代々受け継いできた家業である『酒造』とそこから作り出される『酒』というファクターを通して、人間という存在の良さと悪さをよく知っている。
故に彼は昔から人間に対する価値観に独特なところがあった。人間不信ではなく人間諦観というべき価値観、人間に対しては絶望もしていないが希望ももっていないというべきか。
彼は人を信じるという事を知っている、それが正しいことだとも理解している。しかし信じ切ってはいない、茂三という人間には信頼の中にも必ず一定の距離感が存在する。
それはひとえに人間というモノの正しさと同じくらいに悪さというモノを『酒造』や『酒』を通して直に見てきたからだ。
幼少期の頃から見せつけられてきたために、関係性というモノには実はかなりシビアである。
「元に戻せか、戻したいのは俺も一緒だよバカ野郎。でも負けろだなんて言えねぇだろうが、あいつらきっとまだまだ勝つぞ」
容赦のない茂三の言葉に桜葉は毒づきながらも苦笑いを浮かべるしかできなかった。
できることならそうしたい、昨年の大躍進前の資金繰りに頭を悩ませていた時期に戻れるのならぜひともそうしたいところだった。
群馬地方競馬は日本国内に数ある地方競馬の一つでしかなかったのは、今群馬地方競馬を運営している行政もそこに馬を所属させている馬主も周知の事実である。
そして昨今、去年まで地方競馬業界を騒がせていた各地地方自治体における公営競馬の廃止の波も、徐々に近づいてきているのが聞こえていた。
群馬地方競馬は廃止になった地方競馬に比べると資金面では困らない程度には業績を上げている公営競馬場であり、いきなりの廃止はないまでも何かあれば影響を受けるくらいであった。
それはひとえに群馬地方競馬の業態、有名な競走馬たちの子孫を受け入れて走らせることによる中央競馬ファン層の定期的な取り込みを常に行っていたためだ。
トウカイテイオーの娘であるホクリクダイオー、ミホノブルボンの娘であるノルンファング、そしてタマモクロスの娘であるツバキプリンセス。今一世を風靡している3頭も、客寄せパンダとしての役目もあった。
もちろん調教や育成には絶対に手を抜かない、集めてきた馬たちには誠意をもって接して、今まで良好な関係を気付いてきた。
無駄に大きな宣伝は行わず地元密着型の基本運営を心掛け、地元に根差した愛される競馬になれるよう常に努力してきた。
そこにあって当たり前といえるちょっとしたスリルを味わえ、家族連れでも安心して競走馬たちの真剣勝負を見て一喜一憂できるような敷居の低い競馬場として心を砕いてきた。
その結果もあってか業績は良くも悪くもトントン、圧倒的黒字とは呼べないが行政がニッコリと花丸をくれるくらいにはクリーン。
場合によっては赤字を計上することもあったがあくまで何か要因があってのことなので理解も得られた。
それでも近隣の地方競馬やかつて名を馳せた地方競馬場がどんどん閉鎖や廃止されていく現実に心を痛めていないわけではなかった。
群馬地方競馬はとんでもない赤字を出しているわけでもなければ、運営に問題を抱えているわけでもない。
当時の状況で言えば極めて珍しい、良い意味で時代に取り残された地方競馬といえたが、所詮は公営ギャンブルである。
一つバランスを崩せば壊れてしまうような薄氷の上の存在という事には変わりはない。
かつてかかわりのあった地方競馬が消えていく、競走馬たちが引き取り手に会えずに消えていく、そんな光景に自分たちは何もしなかったわけではない。
しかし圧倒的にできることが少なすぎた、曲がりなりにも手を差し伸べたが故に現実をまざまざと見せつけられてどれだけ自分たちがか弱く儚い存在かを見せつけられたのだ。
宇都宮競馬場、足利競馬場、三条競馬場、益田競馬場、そして上山競馬場。直近でもこれだけの競馬場が廃止、休止になった。
親友の推しであったツインターボが最後に所属した上山競馬場も時代に飲まれて消えていった時には、茂三と同じように次は我が身と感じて桜葉自身もかなり堪えた。
それこそ余裕があるうちに完璧な終わらせ方をするために群馬県議会に相談しに行ったくらいだ、当然ながら親身になってくれた議長に病院に放り込まれた。
ショックによる精神錯乱と診断された、大事を取って入院になった、隣のベッドに茂三がいた、上山競馬場を買い取ろうと暴走したらしい、その夜は久しぶりに学生時代に戻った気分になって親友と愚痴りあった。
(…もうあんなのは御免だぞ、胃潰瘍とかのほうがマシだ。何せ全然自覚症状ないからな)
事が事だけに退院した後の周囲の反応は優しいものであったが、それがまた心に響いた。だが、今はそんな馬鹿をやりながら運営できていた時代が懐かしい。
桜葉は大きなため息をつきながら、机の上に放置されている書類の束を見下ろして、さらに大きなため息をついた。
今机の上にある書類は大手新聞社や競馬雑誌、あるいは東京の大手テレビ局や海外の競馬チャンネルなどからやってくる取材申し込みだ。
(みんなブームに乗っかろうと必死ってわけだ。しかもゴドルフィンが来たからなぁ…もっとひどくなるか)
アラブのゴドルフィン、日本競馬の中心といえる日本中央競馬でさえしり込みするような世界競馬のトップ争いをするやばい組織である。
それこそ群馬地方競馬なんて木っ端のような扱いをされて当然、それがまさかトップでありドバイ首長のジェイク・ラシード・マクターム、通称『マクターム殿下』が直々に見学とちょっとしたご相談にやって来るなんて思いもしなかった。
当然当たり障りなく歓待し、慎重に慎重を重ねて失礼がないように気持ちよくお帰り願った。ツバキプリンセスの馬主にはそっけなく袖にされたので、試しにゴドルフィンの持ち馬を一頭預かってほしいと言われたが、当然ながらNOである。
アングロアラブなら扱っていてもアラブのサラブレッドを扱った経験はない、そんな超有力馬なんてスケールが違いすぎて群馬地方競馬には一切ご期待に沿えません。
まかり間違ってその馬に何かあれば群馬地方競馬だけでなく群馬地方行政そのものが吹っ飛びかねないのだ、そんな爆弾は間違っても背負いたくない。
結論から言えばその手の話はすべてお流れになり、差し障りのない普通のファーストコンタクトで済んだのは幸いであった。
良くはないのだがあっちの護衛とこっちの警察の空気が最悪だったのが功を奏した、できる上司でもある殿下はその剣呑な様子に長居はできないと悟っていたらしい。
何しろ殿下が帯同してきた護衛と群馬警察が特別編成した警官隊の空気が最悪だったのである。
今は後々のコネクションを作る為か、今回の訪問とマスコミを含めた大移動の後始末に少数の職員を残してすでに殿下は次の訪問地へ向かっている。
(そういやなんであんなことしたんだあいつら、殿下の感じみると変なことしそうにはなかったんだがな。なんかわざとらしい様な、らしくねーような…)
群馬県警曰く、今回の電撃訪問での少ない時間に折衝を続けて互いに納得のいく警備プランを制定していたのに土壇場でゴドルフィン主導の強引なプランにすげ変わって滅茶苦茶にされたらしい。
それも群馬県警の能力を鼻で笑うようなのけ者っぷりであり、競走馬を扱う群馬トレセンで普通の馬なら怯えさせかねない剣呑な警護と行動を強行されたのだ。
いくら言葉で説得しようとしても耳を傾けない、こちらも配慮していた調教や練習にさえ口を出して止めさせる。
ゴドルフィンの殿下が直々に『申し訳ない、勘弁してくれ』と言ってくるなど、確かにいろいろと強引なところはあった。
2005年以前の競走馬たちであればそれこそこの後まで引きずったに違いない、今日はボスが苛立っていたのでそっちにビビっていて気にも留めていなかったが。
おそらくゴドルフィンの方で何かあったのだろうが、なぜか剣呑なあの様子だと何も話さないのは明白なのでさっさとお帰り願うのに利用させてもらったのだ。
どのみち自分たちにゴドルフィンが抱える問題を何とか出来るチカラなんてないのだ、邪魔しないに限る。
(今頃、警察は怖くないって説明してる頃かね…たぶんみんな気にしちゃいねーだろうがね)
むしろ体よく遊ばれていそうだな、主にブニーキャップとかの仔馬勢に。
脳裏に通常スケジュールに戻って調教を再開したコースの横で、仔馬たちに寄って集られて遊べ遊べとせがまれる制服警官達の姿が容易に想像できて思わず笑みが浮かんだ。
群馬トレセンで育成中の仔馬たちも昼間はあまり好きにさせてあげられなかった、そうなっていたら好きなだけ甘えさせてあげよう。
きっとそれで群馬県警も、特に問題ないと納得できるであろうし。
(とりあえず、この場は凌げた。あとはそれとなく中央のほうに擦りつけよう…うん、そうしよう)
いくら今が旬の群馬地方競馬とは言え所詮は地方競馬、その群馬競走馬トレーニングセンターもド田舎の旧式である。
あのディープインパクトを擁する栗東トレーニングセンターのほうがよっぽど見るべきものがあるはずだ、そこからゴドルフィンの意識を中央に擦り付けてやろう。
幸いなことに、中央所属の競走馬の中でも真新しい伝説を持つディープインパクトの主戦騎手と調教師には個人的にもつてがあるのだ。
ここはしっかり活用しなければ、ちょうどまだゴドルフィン側の職員もいることだしそこから話をもっていけばいい。
残っているゴドルフィンの職員の中には、日本の気候が合わなくて顔に蕁麻疹ができたので頭に包帯グルグル巻きの人もいるが、少し我慢してもらおう。
これを理由にそれとなくこの競馬ブームからもそれとなく距離を置けるように動こう、制御できる程度におこぼれを貰えれば十分だ。それでも十分、群馬地方競馬には大金になる。
そうと決まればさっそく電話だ、そう思って作話場は再び受話器に手を伸ばすとそれを待っていたかのように電話が着信ベルを鳴らした。
「ん?…はい、もしもし」
≪理事長、ドバイ国防軍首長警護隊のライール副隊長よりお電話です≫
おいおい、殿下のおっかない護衛のまとめ役その2じゃないか。桜葉の脳裏に褐色肌のいかつい中年の顔が思い浮かんだ。
言葉遣いは理知的であったが見るからに強そうで筋骨隆々、実戦経験があって人も殺してますと立ち姿で語っているような男だ。
とはいえ、無法者ではなくいたって真面目な護衛といった仕事ぶりではあったので必要以上にビビらないで済んだ。
「なんだ急に…回せ」
嫌な予感がする、すぐにそう感じた。これまでゴドルフィン相手のやり取りは向こうの事務官を通じて行われていた。
それが急に警護部隊の副隊長という物騒な役回りから直接の連絡、これで嫌な予感を感じるなというほうが無理だ。
そもそもなんでうちに電話がかかってくる?そう考えて、桜葉は嫌な方向に流れていた空気を何とか一新しようとした。
そうだ、うちは地方競馬なんだ、何か忘れ物をしたとかに違いない。もしくはただの挨拶だ、そうだ、絶対そうに違いない。
≪ライールです、突然のお電話ですみません。緊急のご用件が!!≫
うわ、聞きたくねぇ!!とはいえそう言えるわけもなく。
「はぁ、いったいどのようなご用件で?…はぁ!?殿下の車が襲撃されただぁ!!?」
あとがき
はい、というわけで…もう荒れるのは覚悟の上です。この展開じゃないとのちの展開に支障がでます、元々やる気だったもの。
リアルはフィクションよりもファンタジック、もうどーにでもなーれ!
なお殿下の護衛隊と群馬県警の間に情報量の差異があるのは仕様です、念のため。
殿下の護衛部隊もそれっぽくしただけでフィクションです。