気儘に生きた転生馬物語   作:イナダ大根

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いつも多くのご感想、誤字報告ありがとうございます。いやはや、普段からカオス書いてるとカオスに対する突っ込みが難しいですな。
外国勢諸君、群馬へようこそ。





第33話

 

 

事の発端は、本国にいるドバイ首長国軍諜報部のある諜報員が手に入れた緊急報であった。

日本に訪問しているマクターム殿下に対する暗殺計画が進行中、フリーランスの暗殺者が雇われてすでに暗殺工作を行っているという情報だった。

依頼主は不明、情報は諜報員が潜伏している裏の暗殺コミュニティ内の暗号通信を傍受し解析したものだった。

ドバイ王族という身の上である以上、こういった暗殺騒ぎは表沙汰にされないだけで幾度となく経験しており、良くはないが慣れたものだった。

問題はその情報を入手したのが群馬地方競馬訪問直前であったという事、そしてその暗殺計画はこちらの外遊計画に沿って作られていたことだ。

明らかにこちら側の護衛計画や移動計画が漏れている形跡があり、その流出経路も確実な証拠はつかめていない。

時間的に日本警察との合同警護計画を秘密裏に練り直す時間もなく、下手すれば日本警察に相談する段階で情報を抜き取られている可能性すらある。

危険な状況であった、故に思い切った作戦変更が必要だと考えたのだ。

そのために日本警察や群馬県警に連絡を入れず、勝手に警備計画を変更した。

今後の関係に大きなひびを入れるモノであったが背に腹は代えられない、今後のことは今後考える、というのがドバイ国防軍の見解だった。

 

「と、いうわけだよ。迷惑をかけてすまんね」

 

「いえ、しかしそんなこと一厩務員の私に話すことではないのでは?」

 

そうだね、長いしかったるいよな。マクタームは自分の案内役についてくれた群馬競走馬トレーニングセンターの厩務員である彼の困った表情に頷いて答えた。

好意で今も馬が身を休めている練習コース横の休憩スペースを案内してくれる彼には、まったくもって理解の及ばない話ではあるだろう。

 

「すまない。事が起きたからもう機密というわけではないし、その…ちょっと罪悪感がな」

 

アラブ首長国連邦を構築する都市の一首長でもある自分は当然ながら腹芸には多少の心得はある、黒いモノもさんざん見てきて慣れているつもりだった。

しかし改めて、文字通り何の関係もない人間や組織を巻き込んで自分たちの目的を達成しようという瞬間に立ち会ってしまうと、どうしても罪悪感が勝ったのだ。

現に今、囮作戦であえて襲撃させることによりあぶりだすなんて強引な解決法を取っている。

流れ弾などの物的損害以外は死者も怪我人も出ていないとはいえ、国家間の信頼関係にも皹を入れる蛮行だ。

この件に関する影響は長く続くに違いない、それを呑み込んででもやる必要があったわけであるが。

 

「ま、適当に聞き流しておいてくれ。あとでこの国にも一切合切報告して、後始末するつもりだ」

 

「勘弁してほしいんですがねぇ、うちはただの厩務員ですんで」

 

「ならやっぱりうちの馬を預かってもらおうかな? そうすればもう無関係ではないだろう?」

 

「勘弁してくださいよ、うちとドバイじゃ何もかも違いすぎますぜ。うちは冬になりゃ大雪が降るんです、中東の馬には厳しいでしょ?」

 

思わず顔から笑みがこぼれる。この群馬地方競馬独特の遠慮のなさのせいだ、こんな風に気安く喋って遠慮なくぐちぐちというなんて相手は、ドバイ首長となってから新しくできた試しがなかった。

ゴドルフィンのトップであり、ドバイ首長であり、世界有数の大富豪のやり手、

しかしそんな自分に、群馬地方競馬が掛けてきたアプローチは普遍的な飾らない丁寧な対応と、隠しきれていない厄介な相手を見るような困った空気。

何より打ち解けてみれば彼らは気負うことなく困った顔をして素直になってくれる、この自分に素のままで着飾らない姿で声を掛けてくれるのだ。

 

「まったく、うちに来るお偉いさんってなんでこう…しかし殿下、随分と日本語がお上手ですね?通訳いらなかったのでは?」

 

「実はこれも護身の一環だったりするんだよ、君たちも顔を包帯で隠しただけで変装した私をハザンだと思い込んでいただろう?生の姿を見ていただろうに」

 

「いやはやそういえば、なかなか気づかんもんですね」

 

日本語通訳として同行していた部下のハザンには、日本の空気が合わなくて顔に蕁麻疹が出たという仮病で顔を包帯でグルグル巻きにして仕事をする一芝居を打ってもらった。

自分も仕事中は常に通訳を介して会話をするよう徹底し、日本語を扱えることを隠して仕事をする。自分の事を調べればすぐわかる欺瞞工作であるが、こういう事はやれることは全部やるのが普通だ。

最初から理由も説明していたので群馬も日本も受け入れてくれたので、群馬トレセン出立直前にこっそりとハザンと入れ替わってしまうと不思議と誰も疑わない。

よくよく見れば体格も声色も少し違うが、群馬地方競馬の認識では『殿下は日本語で喋れない』『包帯グルグル巻きの通訳はハザン』という認識が先行して気付けないというわけだ。

 

「あと通訳は必要だよ、一見流暢に聞こえても本職の通訳ほど精通してるわけじゃない。私生活レベルじゃ仕事では通用しないからな」

 

「あまり想像できませんなぁ…そこまでの話は門外漢だ」

 

「だろうね。じゃぁわかる話をしようじゃないか、こいつの名前は?」

 

話題を変えるために近くにいた馬を指差す。何の変哲もない栗毛の馬だ、鬣を短くしているのが一番の特徴だろう。

 

「シマカゼですよ、シマカゼタービン号です」

 

「シマカゼ…風、なるほど!速き事島風の如し、だね?」

 

「ははは、まぁそんなとこっす。こいつ速いし強いですよ、ツバキのライバルでうちの最強ですからね」

 

「おや、それはなかなか聞き捨てならないことを言うねぇ?」

 

群馬地方競馬最強は、ドバイワールドカップの覇者であるツバキプリンセスでなければならない。

今はそういわれてしかるべきだ、これが同格といわれるノルンファングやホクリクダイオーだったら笑って流せるものだが。

 

「何しろ、今年も今まで全戦全勝、出れば勝ってますからね。この前もツバキに勝ってます」

 

「ふぅん、一体どんなレースでだい?」

 

「この前はダートの1200、無差別チャレンジレースですね」

 

「スプリントレースか」

 

考えてみれば何もおかしいことはない、群馬地方競馬は世界的にも名のある日本中央競馬とは別の公営競馬で、レースは主にダートのマイル、短距離が主だと調べはついている。

おそらくシマカゼタービンは群馬地方競馬のトップスプリンターなのだろう、得意分野ではないレースならツバキプリンセスが負けるのも頷ける。

むしろ中距離、長距離に適性があり、ダートだけでなく芝にも対応できるツバキプリンセス達のほうがここでは異色なのだ。

 

(彼女が強いのは確かだ、今やツバキプリンセスは世界タイトルを持っていて、世界的にも価値が認められている。

だがそんな馬に地元ならばライバルが勝つ…燃えるじゃないか。ホースマンならば、それで燃えないはずがない)

 

強い馬も絶対ではない、それでもあきらめないで勝負を挑む、そんな相手が居るからこそツバキプリンセスはキングではなくチャレンジャーでいることができる。

彼女は強い、しかし本当に勝ちたいと思った相手には勝てていない。ホームグラウンドで勝てないから遠征して勝ってきたようなものだ、極論ではあるがただの代償行為でしかない。

だから仮に世界の頂点に立っても、彼女は満足することはない。なぜなら一番勝ちたい相手に勝てないから、だからもっと上を目指すことができる、そう考えるとこういった仲のいい相手は得難いものだ。

 

(なるほど、互いに認め合ったライバル関係か、これは私たちの競馬でも使えるかもしれないな)

 

「とすると…ん?なんでツバキたちと一緒に中央に遠征しなかったんだい?確か日本のスプリントにはGⅠがあるはずだが」

 

「こいつは扱いづらいヤツでしてね、予定が合わんとやる気出さんのですわ」

 

「ブルッ!?ブルルッフィン!」

 

「馬鹿言え、お前は十分気性難扱いだぞ、変態って意味で」

 

「ふぁ!?」

 

「お前、マジでそういうとこ茂三さんとそっくりな。マジで敏則の弟なんじゃねーの?」

 

「ファ~バハハ」

 

「褒めとらんわ」

 

なんだ、彼は一体何をしている?馬と喋っている?そんな馬鹿な。

マクタームは唐突に始まった厩務員とシマカゼタービンの不可思議な言動と行動が理解できなかった。

まるで馬が人間の言葉を理解しているかのように話しかけ、それに馬が反応している。それも会話に応じるような形でだ。

馬が人間の言葉を理解しているはずがないのに、余りに自然と通じているかのようにやり取りする彼らはあまりにも不可解で、それでいて当たり前のような雰囲気であった。

 

「ま、こんな奴なんで意外と扱い難しいんすよ。賢いやつでしてね、下手なこと喋れんのですわ」

 

「…なんか普通に会話してなかったかい、わたしつかれてるかな?」

 

「こいつ、考えてること表情に出やすいんですよ。ほら、見りゃわかります」

 

そういう問題なんだろうか?マクタームは首をひねりながらシマカゼタービンの顔を見た。

普通の栗毛の馬、流星もなければ特徴といった特徴もない馬面である…が、確かに表情を見るとなんとなくわかる。

シマカゼタービンが『俺のどこが変態だコノヤロー』といった具合に考えていそうな顔をしている。

非常に奇妙な感想かもしれないが、この馬が人間の顔をしていたら絶対そんな顔している、そんな気がする表情なのだ。

思わず自分の専属護衛官であるハキムに母国語でぼやいてしまった。

 

『ハキム、私は頭がおかしいのか?どうにも、こいつが気性難とは心外な、みたいなこと思ってるように見えるぞ』

 

『私もです、殿下。なんて表情をしているんだ、馬の表情筋の使い方ではない。こんな風に動かすなんて普通あり得ませぬ』

 

それはそうだ、普通の馬がこれをできたなら世界はもっと表情豊かな馬が多くいることだろう。

興味をひかれたらしいハキムがまじまじとシマカゼの顔を見つめると、シマカゼはこれ見よがしに目じりと口元を吊り上げて笑うような表情を作った。

 

『なんて柔軟な表情筋だ、天性のモノか? いや、それでも幼駒の頃から使い込んでいなければこうはならぬ…そもそも、人間の感性に嵌る表情を作ってみせるなど、どうすれば覚えるというのだ?』

 

「えーと、護衛の方が何言ってんのか理解しかねますが…乗ってみます?」

 

「いいのかい?」

 

「いいですよ、こういうこと自体は何度かやってますし変なことさえしなきゃこいつの馬主は気にしませんから。

こいつ賢いんで人間に合わせて走れるもんだから、うちらとしても安心して任せられるんですわ」

 

「そこまで賢い馬は聞いたことがないですが…」

 

『殿下?』

 

『乗せてくれるらしい、何でも乗用馬並みに扱いやすいようだ』

 

『競走馬ですぞ?それでやっていけるのですか?』

 

ハキムも首をひねる。競走馬は大なり小なり闘争心が強く、気性が荒いのが通例だ。

もちろん例外がいるのだろうが、目の前の馬はその例外に例外が掛け合わさっているような状態である。

 

「こいつが異常なだけっすよ。タービン、OK?」

 

「は?」

 

「殿下乗せてダートコース流しで頼むわ、無理ない範囲で殿下のリクエストにもこたえてやってくれ」

 

「…ヴッフヴッフ、フィンフィン!」

 

「ヒヒーン?ヒン!」

 

「にゃぁ!?にゃぁにゃぁ、な?」

 

「ヴッフ、フヒン」

 

「なぁ~~…」

 

しょうがないなって言ってる、しかも寄ってきた馬同士だけでなくいつの間にか猫まで混じって喋ってる、確証はないのにそう確信できる。

というかこの猫、さりげなく自分を危険物扱いしてそうなんですがねこれ!?

感じるはずがないのに頭脳の奥底にかすかにかゆみを感じるような光景に目を白黒させるしかない。

自分はもしかしてとんでもない場所に来てるんじゃないか?今更ながらそう思う、気のせいだと思いたい。

頭が痛くなってきそうだ、自分はもしかしたらとんでもない場所に手を出してしまったのではないか?

 

「じゃ、ちょっと装具持ってきますんで。タービン、変なことすんなよ?」

 

「ひひーん」

 

しねーよ、と言いたげな嘶きであった。国に帰ったら病院に行こう、きっと自分は疲れてるんだ、マクタームはそう思った。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

作戦は簡単だ、単純な陽動作戦による抹殺対象の釣りだし作戦で行こう。そうチームリーダーが決めたときは耳を疑ったものだ。

まず最初に自分たちが殿下の暗殺を企てていることを相手に気取らせ、警戒を促して行動を制限する。

これは依頼主の知る殿下側諜報員に意図的に気取らさせ、あたかも偶然察知したように思わせることが重要だ。

こちらが殿下たちの行動を知り、それを踏まえて作戦を作り、あたかも作戦が失敗したかのように見せかけるための第一歩といえよう。

殿下たちの対策がどう出るか、これによって作戦は大きく二つに分けられる。もし思い切った策に出る、予定を変えるなどといった根本から覆るのならば接触を図りつつ超長期戦に移る。

この依頼の達成の難しさは依頼主側も理解している、少なくともひと月ふた月で遂行されるとは考えていない。

 

だがあくまで予定をそのままに対策を取って来るというのならば、勝負はここで決める。

 

殿下側の対策はあくまで予定はそのまま、その中で何かしら対策を取るというモノだった。

そのやり方はお粗末なものではあったがそれはこちらがその情報を知れる位置にいたから言えること、我が標的ながらあっぱれな対策の早さである。

 

そんな単純でいいのだろうか?その時はチームリーダーの決定を疑ったりもしたが、今となっては慧眼だったと言わざるを得ない。

何しろ今回は、普段の仕事とは前提条件があまりにも違いすぎたからだ。

極東の平和で浮世離れした国での活動、その中でもド田舎の山奥の競走馬育成機関への潜入と潜伏。

それだけでも外国人は目立つ、アジア系の顔立ちをしている自分でもかなり神経質に偽装しなければならなかった。

それだけではない、日本の競馬関連知識はできる限り頭に詰め込んできたつもりであったがここではその常識がことごとくズレる。

このトレセンは一体どうなってるんだ!?身分を偽って新米厩務員として入社して一週間、ほどほどに馴染んできた身ではあるがそれでも目を疑わずにはいられない。

これでも悪辣な現場での活動には、自分はチームで一番慣れていて今回も偵察と主力を担っている。その自信が一気に揺らぐのだ。

 

「ハルナは可愛いですね。ほら、こっちを向いて」

 

厩舎で便所用の猫砂を入れ替えている横で仔馬の検診を行っているこの男、この群馬地方競馬でかかりつけの医師をしている仮面の獣医なのだが全身が怪しいのだ。

年がら年中コートを着ており常にフルフェイスマスクをかぶって仕事をしており、仕事場では素顔を見ることすら稀で、言動もなぜかいちいち胡散臭い。

見るからに怪しい、言動も妙に怪しいこの男だが、この群馬競走馬トレーニングセンターでは厚く信頼されている獣医だ。

はっきり言って自分よりもはるかに怪しい、恰好も言動も何もかも変態のろくでなしのそれだが、腕は本物である。

 

「ふむ、目ヤニはないようですが少し血行が悪いようですね。今日は鍼マッサージを行いましょう。亜美ちゃん」

 

「はい、ドクター。お香は?」

 

「今日はいらないでしょう、粘膜類には異常は見られませんしとても落ち着いています。このまま施術します」

 

ドクターの助手、と思しき少女もどこか浮世離れしたような雰囲気がある。年齢的に未成年に見えるが、日本生まれだと西欧系に見える顔立ちも幼く見えるのだろうか?

少し疑問に感じてしまうが、あまり多く探りを入れると怪しまれるのでぐっと抑える。

この群馬トレセンに来てから何度と無く行った我慢だが、正直に言ってまだ慣れない。ここには明らかに異常な光景が多すぎる。

 

(ん…消毒液の香り)

 

部屋内に漂い出す薄い消毒液の香りに、ちらりと視線をドクターたちのほうに送る。

そこには気持ちよさそうに体を横たえ、亜美という助手に膝枕をされたままドクターに太もも部分へ細長い針のようなものを差し込まれている仔馬の姿があった。

日本競馬では一般的な笹針を使った鍼治療ではない、人間に行うような細長い針を何本も差し込む鍼治療だ。

 

「次は少し痛いかもしれませんが、できるだけ我慢してくださいね?」

 

「ひひぃん…」

 

「よしよし、いい子ですね。今は疼くでしょうがすぐに収まります、じっとしていてくださいね」

 

(いい子ですむかよ!馬だぞ!!馬に鍼治療ってどんな状況だよ!!しかも全然暴れ出さねぇってどうすればそうなる!!)

 

自分の頭の中にあるモンゴルの馬と日本の競走馬、これが根本的に違うのはよく知っているがそれでもこれは予想外過ぎる。

入社当時から今まで、顔に出さないようにするのが精いっぱいであるほどに。

最初の仕事は馬への触れ合いから始まった、それ自体は慣れたもののはずだった、自分は幼少期から馬には慣れ親しんできた家系だったからだ。

その経験と技術はこの裏家業の中でも身に染みついているし生きてきた、正直に言えば日本の競馬関係者よりも自分のほうがずっとうまく馬を操れる自信すらあった。

だが結果は他の新入りと同じ、馬を手懐けるのではなく合わせられていた。それも自分が気づかないほど自然にだ。

自分の試験担当馬だったメジロモンスニーという馬は老齢らしからぬ精悍さと賢さを持っていたが、それに気づいたときには怖気が走った。

 

「おや、グエンさん、もしやこの施術に興味がおありで?」

 

くそ、気付いてやがった。偽名には気付いてないみたいだが、どうしてこう鋭いんだ。誤魔化すのが大変なんだ!話が長いから!!

 

「えぇ、その、そういうのは他のところだと見たことがないので」

 

「それはそうでしょう、この鍼治療は私がタービンと一緒に作り上げた最新の治療法なのです。

笹針治療と東洋医学を元にして、強力な薬品には頼らず患者の体への負担を極力抑えて行う画期的な方法です」

 

「へ、へー、すごいですね、タービンさんと先生」

 

「えぇ、彼の献身のおかげでこの鍼治療は格段の進歩を遂げたとも言ってよい。特に幼駒への施術に関するデータは大変得難いものでした。

彼ほど医療に理解を示し、協力してくれた馬はいません。彼の口利きのおかげでみんな快く協力してくれましたよ」

 

(聞きたくねぇよそんなマッド理論!!落ち着け、今日を乗り切ればこんな魔境とはおさらばだ)

 

「興味がおありならば、どうです?我が病院に見学に来られては?歓迎しますよ」

 

「い、いえ結構です。次の仕事がありますので!!」

 

「おや、振られてしまいました…」

 

「ドクター、やっぱりマスクが怪しいですよ」

 

「今度からコミカルに光るものに変えましょうか、あのI字のモノは受けがいいんですよね」

 

真後ろで行われる奇妙な施術と会話から目を背け、手早く馬用便所の猫砂を張り替えると、自然な挨拶と会釈をしてから張り替えた猫砂を入れたカートを押して厩舎を出る。

その厩舎の裏手にあるゴミ箱に猫砂を捨ててカートを元の場所に戻すと、彼女は自分の休憩時間になるのを時計で見てから二つ折りの携帯電話を取り出して登録された番号に連絡を入れる。

すぐに電話が取られるが問いかけはない、彼女はすぐにあらかじめ決められた暗号通りに口を開いた。

 

「休憩時間だよ、どう?今夜飲まない?」

 

≪ダート練習場で馬を乗り回してる、護衛がいる付近で合流しそうだ≫

 

「あいあい、じゃぁいつもの時間にいつもの飲み屋でいい?」

 

≪了解、仕事の後はすぐに離れろ。長くは援護できない≫

 

「OKOK、じゃまた後で」

 

電話を切ると自然な足取りで足をターゲットのいる地点に向ける。

電子ロックが一般的になった厩舎の通路を抜け、厩舎裏の自販機前で担当馬におねだりされている厩務員の横を足早に通り抜ける。

ここで変なことに巻き込まれてはたまらない、暇な馬に目を付けられて引っ張り回されたりしたら丸一日潰れる。

下手に拒むと先輩厩務員か調教師のお世話になってしまうので目を付けられないようにするには避けたいところだ。

 

(見つけた、暢気に馬なんか乗り回しやがって)

 

ダート練習場に着くと、ちょうど練習場脇のスペースで殿下が乗り回していたウマから降りている所だった。

周囲には殿下が乗り回していたという事で若干人だかりができており、居残っていた警察官の姿も見られる。

周囲にいるのはほとんどが居合わせた調教師と競馬の騎手、これは一般人だ。

暗殺目標のマクターム殿下、何が琴線に触れたのかしきりに乗っていた馬に対して厩務員に質問している。

これは僥倖、完全に意識が馬に向かっている。いつもなら彼自身も警戒しているところだが今回はかなり楽に撃てそうだ。

警官は3名ほど、さほど警戒している風に見えないので対処は容易だ。戦力外とみていいだろう。

一番警戒すべきは殿下の護衛だ、一名だけだが手練れである。たとえ殿下の暗殺が成功しても十中八九あの護衛につかまるだろう。

 

(だがそれだけだ、この人だかりの中で真正面からぶっ放されたらどんな人間でも反応が遅れる)

 

普通なら自殺行為だ、一般人だらけで警察官や護衛の人間もいる中で堂々と銃を抜いて突きつけるなどという事は。

ほかの国ならば、そのそぶりを見せただけでこちらに護衛の銃口が向く。

しかし今ならばできるのだ、一難去ったと殿下も護衛も無意識に弛緩しているなら、そして所詮は赤の他人でしかない日本人共の群れの中では。

強いて注意するべきは、唐突な発砲による轟音で競走馬たちが確実に恐慌状態になるという事だ。

それも逃げるために使う隠れ蓑にできると思っているが、やはり相手は馬、ただ暴れるだけで十分人を殺せる巨体である。

何よりこれに関しては本当に運頼みでしかない、自分目掛けて突っ込んでこないことを祈るのみだ。

 

(逃げられますように逃げられますように逃げられますように…)

 

それとなく殿下の近くまで歩を進めた、まだ誰も自分に注目していない。

殿下は今まで乗っていた馬に心底ご執心であり、護衛もまだ背を向けている。距離は十分、これ以上近づくのは怪しまれるだろう。

隠しホルスターを最終調整して武装を抜きやすくしながらグロック26を抜き、体の陰に隠しながらスライドを引き、銃口を殿下たちに向けた。

まずは、仕事をやり遂げて逃げる上で一番厄介な護衛の男からだ。

 

 

 

 






あとがき
騒動勃発、これより暗殺部隊の災難が始まります。
ちなみにドクターが行った治験は生命の安全性を確保したものなので死亡した動物たちはいません。
タービンへの施術も骨格矯正に関するものです、あのろくでなしみたいなだけであの人ではないので…混ざってるし。
ちなみにウマ娘編での医者枠に人数が必要なので馬世代ではこの人を出してます、悪しからず。



おまけ
ドクターの経営する動物病院『イドフロント・ロドス』の獣医師や職員はフルフェイスマスクおよび厚着が多い、素のままもいるが少数。
何故ならフルフェイスマスクで厚着の職員は、全員が憧れを諦めきれずアレルギーだろうが周囲の反対だろうが何だろうがその一切を振り切って理想を目指した者達の成れの果てだからである。


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