いつも多くの誤字報告、ご感想をありがとうございます。
一世一代の大勝負、2006年宝塚記念、出走です。
彼女との出会いは十年も前のことだった。ふと出走直前のゲートの中で、ハルウララの鞍上で古海は思い出した。
8年前、1998年11月17日、高知競馬で行われた何の変哲もない新馬戦。その敗北から結ばれ、主戦騎手を離れてもなお繋がっていた腐れ縁だ。
何の因果か、どんな神の気まぐれか、巡り巡って手に入れてしまった夢の舞台に立ちながら古海はとても落ち着いていた。
何度夢見ただろう、なんど待ち望んだだろう、騎手であるなら是が非でも立ってみたいGⅠグランプリ『第47回・宝塚記念』に今まさに一人の騎手として走ろうというのに。
雨がひどくなってきている、風も吹いてきている、いつもならこんな天気は嫌だっただろう、陰鬱な溜息の一つもついただろう。
ずっと競馬場で走ってきたからわかる、この風の方角だと最後の直線はきっと地獄の向かい風だ。
いつもならとことん嫌になる最悪の状況だ、ひどい雨と強い向かい風は年のせいでガタが来た上、キツイ減量をした体には堪える。
だが今はそんな気持ちは一切ない、不思議な気持ちだった。あるのは心地よい高揚感、胸を焦がす勝利への渇望、そしてそれを抑えて向きを定める冷静な理性。
現実味がなく浮ついているのではない、地に足を付けた一人の騎手として古海はこの宝塚記念で勝つために覚悟を決めてここにいる。
自分たちが勝つのだ、この宝塚記念で一番になるのはこの古海とハルウララなのだ、そのために今日までずっと努力してきたのだから。
そうと決めてしまえば何を恐れることがあるものか、何を浮つく必要があるものか。
「なぁ、俺は騎手をやめるつもりだったんだ」
小さく独り言ちる、どんな偶然があったのか、どんなめぐりあわせがあってこんなことになったのか、きっと誰にもわからない。
自分の記憶にある彼女は弱かった、デビュー戦で負け、未勝利戦で負け、それからも短いスパンでレースに出続けては負け続け、自分が主戦から外れてもなお負け続けた。
自分が主戦騎手を離れた後も負けに負けて負け続けて、それを自分はなんとなく気にかかってずっと見守って、気付けば彼女と関わってきた騎手や厩務員たちの中にいた。
そして負けに負け続けてなお走る姿がクローズアップされていつしか『負け組の星』とすら呼ばれるようになって、それを自分や厩務員、担当調教師は歯噛みしつつも納得するしかなかった。
勝つことがほめたたえられるはずの競馬の中で、負けて褒められるなんてことは、それがどれだけ好意的なことであれ屈辱であった。
どれだけ後世において功績を認められようが、彼女のおかげで高知競馬が存亡の危機を救われたと讃えられようが、彼女は肝心のレースで一度も勝っていない。
そうだ、自分はあの時悔しかったのだ。今度こそ勝たせてやろうと息巻いたじゃないか。今度こそ勝たせてみんなをあっと言わせてやろうじゃないかと。
なのにそれをいつしか忘れてしまっていた。いつしかそんな声にも慣れて、ウララの体に配慮した調教しかしなくなって。
それをハルウララのためだという言い訳を信じ込んで、それに縋って目を背けてきた。
これは自分を今まで一端の地方騎手として走らせてくれた、高知競馬への最後の奉公のつもりだった。
このところの自分は騎手として限界だった、年齢も最盛期を過ぎ、すでに騎乗のための減量すらきつく感じる年になった。
これまで多くの馬たちの鞍上を乗り継いでやってきた地方騎手人生であった。いつか夢の大舞台で走る夢を見て、地方重賞のみならず中央のGⅠや世界に羽ばたく夢を見て走り続けた。
だがそんな夢は破れ、ついぞ中央や大舞台での晴れ晴れしい時代は訪れなかった。やがてそんな初々しさを忘れ、世間に揉まれ、当たり前のように結婚して、仕事として騎手を続けてきた。
そんな騎手生活もだんだんきつくなってきた、体がもう言うことを聞かなくなってくる歳になってしまった。
もうこれで終わりにしよう、まだ体が動くうちに新しい仕事を見つけて騎手としての人生を家族に誇れるいい仕事だったと笑って終わらせよう。
知り合いの寿司屋に転職する話はすでにしていた、今後はただの寿司職人になろう。そう考えていた時期だった。
(お前が復帰したなんて、正直最初は信じられなかったよ)
あのハルウララが群馬競馬で復帰した、主戦騎手として君に乗ってもらいたい。お世話になった高知競馬の理事長が直々に頼み込んできたのだ。
かつて彼女のデビューを共に走り、最初の主戦騎手だった自分が、復帰した彼女の最後の主戦騎手として再び手綱を握る。
そんな話題性を見込んで舞い込んできた話に自分は、最初は冷めた気持ちで頷いた。これは仕事だ、高知競馬への最後の奉公だと自分に言い聞かせて群馬で走った。
きっと彼女は今も昔も弱いままだ、勝てるわけがない、勝つ必要がない。気楽な仕事じゃないか、久しぶりに懐かしい顔に会える仕事じゃないか。
そんな腑抜けた気持ちだった。だからショックだった、群馬で再会した彼女はまるで変わっていなかったのだ。飽きっぽい性格も、愛らしい人懐っこさも、そしてレースに対する情熱も。
彼女は弱かった、一度引退しその後は人の思惑に翻弄された彼女の体は鈍り切っていた。それでも彼女は走った、厳しい調教に負けじと挑んだ。
かつてのような矢継ぎ早な出走に合わせ、彼女の体に配慮した壊さないための調教ではない。ハルウララがハルウララとして強くなるために作られた専用メニューで、勝つために徹底的に扱き上げる群馬地方競馬の全力調教であった。
そこには限界を見定めて彼女に合わせた配慮はあっても、それで強度を誤魔化すような遠慮はなかった。群馬地方競馬の調教師陣と担当となった相方の彼は徹底的にハルウララを扱き上げた。
彼女はそれに嬉々として挑んだ、勝つための調教に逃げることなく勝つために、次こそは勝つために。
最初から彼女は勝つために挑んでいた。負けるためでも、楽しいからだけでもない、面白くて勝ちたいから嫌がるなんてしなかった。
一度引退し、競走馬として一度は終えた体をさらに磨き直すそれはどうやっても辛かっただろうに、彼女はかつてのような嫌がり方をしなかった。
8年前に最初の担当厩舎で聞いたような手のかかる様子はなく、レースのためだと理解させればそれこそ嬉々として調教にやる気を見せた。
それでも初戦ではぼろ負けだった、それが悔しくて調教では熱が入った。次走では掲示板に入った、思わず驚いて大声を上げてしまった。
そしてそれからは怪物ども相手に何とか二着に食らい付いた、タイムパラドックスに、メジロジョンソンに、ツバキプリンセスに、ホクリクダイオーに、ノルンファングに、アルトアイネスに、アルトレーネに、シマカゼタービンに。
負けて負けて負け続けて、延々と一着の背中を見せつけられて、何度も何度も苦汁を舐めた。
いくら快挙と叫ばれようが、最高の復活だと認められようが、自分は悔しくて悔しくてたまらなかった。ハルウララと一緒に悔しくて悔しくて仕方がなかった。
あと一頭抜かせれば、あの怪物どもさえ抜かせれば、あともう少しで夢の一番を手に入れられたのに。
そう思うと仕事への熱意が徐々に変わり始めた、寝ても覚めてもハルウララと勝つためにどうすればいいか考えるようになった。
荷重を増やしたり、スタミナ調教を増やしたり、根性論で何でもかんでもやってみた。
いつしか自分は若いころの熱い気持ちを思い出していた、そして愕然とした。こんなにも自分が変わり果ててしまっていたことをまじまじと思い知らされた。
好きな仕事で言い訳をして、ずっと自分を誤魔化してきた自分を思い知らされて、それが嫌になった。負けたくなかった。
だから自分を苛め抜いた、減量が苦しいなんて言い訳にもならない。血反吐を吐くように群馬で用意できるカリキュラムに参加し続けた。
元から行っていた騎手としてのトレーニングにさらに負荷をかけ、中央競馬のトレーニングも参考にして体を虐めて苛めてイジメ抜いた。
群馬地方競馬のカリキュラムの中でも一番厳しいモノにも進んで参加して、元軍人だという外人の教官の怒号に歯を食いしばり、汗と泥と擦り傷に身を塗れさせ徹底的に心身ともに体を鍛え上げもした。
水泳もした、格闘技もした、山登りもした、走り屋の車に乗って徹底的に振り回してもらったりもした、そして群馬の秘蔵の彼の本気のシゴキにも耐え凌いだ。
顔を見に来た家族に『前よりかっこよくなった』と言われたときには、どれだけそれが嬉しかったことか。
家族と撮った新しい家族写真に写った自分は、ハルウララに負けないために必死であらゆる訓練に参加して磨き上げた姿。
群馬に来る前に取った家族写真の自分とは比較にならないほどに鍛え上げ、精悍な顔つきになった自分がいた。
(お前のおかげで俺は変われたんだ、お前はずっと変わらなかったんだな)
そうだ、彼女はずっと変わっていなかった。どれだけ負けても、どれだけ負けても、ずっと走ってきた。
負けるとわかっていても出走料を稼ぐために、休む間もなく何度も何度も高知競馬場を走って走って走り続けてきた。
どれだけ多くの馬達に追い抜かされて、どれだけ多くの馬達の背中を見送っても、ずっとずっと走り続けてきた。
それはなぜだ?そんなことは簡単な話だった、この世界で生きるのならば単純明快なことだった。
(お前は勝ちたいんだよな、ずっとそうだったんだよな)
ずっと彼女は勝ちたがった、だって彼女だって競走馬なのだから。
世間がどれだけ彼女を持ち上げても、負けることに意義を持たせていたとしても、彼女は最後の最後まで勝つために走り続けてきた。
どれほど弱い馬だと思われても、あの天才騎手にさえ遅いと断じられてもなお、一生懸命に小さな体でずっと先頭を夢見て前を睨み続けてきた。
最初からずっと、昔も、今も、この絶望的なレースでさえも、彼女の目は変わらない。今日こそ勝つ、絶対に勝つ、そのために彼女はここにいる。
なんで忘れていたんだろうか、なんで目を背けていたんだろうか…きっとそれは歳のせいだ、人は歳を取れば取るほど守るべきものが多くなる。
(そろそろ歳だし…って思ってたけど、やっぱダメだ。俺だって勝ちたいんだ)
それに気づいてしまった、また火がついてしまった、年甲斐もなく取り戻してしまった。もうだめだ、知ってしまえば堪えられない。
自分だってそうだ、俺だってそうだ、勝ちたいから騎手になった。馬に乗って、競馬で勝って、デカい世界で一旗揚げたくてここに来た。
重賞を取りたい、GⅠを取りたい、世界に挑みたい、世界で勝ちたい、当たり前のような夢をもってこの世界に入ってきたんだ、そのためにずっと頑張ってきたはずじゃないか。
もう自分は昔の自分ではない、昔のような活力も向こう見ずさも残ってない。守るべきものはたくさんあって、背負うべきものもたくさんあった。
時間というのは誰にでも平等で、そして平等に残酷だ。昔の自分には戻れない、だがそれならここからまた始めたっていいだろう?
高知競馬の騎手として、一人の男として、ハルウララの相棒として、一人の父親として。
「負けて終わるなんて、できないよな?」
ファンファーレが鳴り響く、ゲートの中の空気が一段と重くなり、言葉にならない無言の重圧が体を押しつぶそうとしてくる。
だからどうした、こいつらがどう考えていようが気持ちは自分たちだって負けていない。
逃してなるモノか、この大舞台を逃してなるモノか。こんな奇跡はもう絶対にない、ハルウララとこんな素晴らしいレースに堂々と走れる機会なんて絶対にない。
もう目の前に夢がある、あと一歩踏み出せば手に入る目の前にそれがある。勝つのは自分たちだ、この宝塚記念に名前を残すのは自分たちだ。
相手がどれだけ強豪だろうが構うものか、相手がディープインパクトだろうが構うものか。
このレースで勝つんだ、絶対に勝つんだ、未勝利で終わってなんぞなるモノか。
もう覚悟はできている、最後に笑うのは俺たちだ。勝って終わるならここで終わってもいい、ありったけだ、自分たちの全てを賭けよう。
ゲートが開く。瞬間、芝のコースに勢いよく躍り出るハルウララの背中に古海は歯を食いしばって食らい付いた。
◆◆◆◆◆◆
≪スタートしました。正面スタンド前、先行争いに入ります。外から内に向かうように、やはりバランスオブゲームが先手を奪いに前に出ました。
続きましてダイワメジャー、シルクフェイマス、少し遅れてハットトリック、その後ろにコスモバルク、そして内にリンカーン中段馬群の内≫
快調なスタートだ、関係者席で出走の瞬間を見ていた小泉は室内に流れている実況中継に耳を傾けながら満足げに頷いた。
ディープインパクトの出走は極めて順調であった、出遅れが多い彼であったが今はそんな様子もなく周囲を見てその場その場に適したタイミングでゲートから飛び出せている。
自分の戦法である追い込みのために最適な後方位置を取るために少しずらして意図的に遅らせる小技もしているのだからもう完璧としか言いようがない。
≪そのあとにアイポッパーが行っています、さらに外からカンパニー、後ろにチャクラ。
ナリタセンチュリーとトウカイカムカムと続きましてディープインパクトこの位置につきました。
これを見るようにファストタテヤマその後ろにハルウララ、ぴたりとついて殿です≫
ハルウララもぴたりと後方に付いた、これくらいならあのハルウララでも朝飯前だろう。そこからどう動けるかはわからないが。
ディープインパクトも狙った通りの位置に付いた、大竹はこの雨の中でも完璧な騎乗でディープインパクトと折り合っている。
「相変わらず良いフォームで走り出すな、羨ましい」
「ふん、そういうお前のリンカーンもいい足してるじゃないか?」
「謙遜はやめてくれ。あれじゃまだお前のディープインパクトには勝てん」
含みのある言葉をかけてきた同業の鼓笛調教師に、小泉はそこはかとない嫌味を感じたがそれを顔に出すことはしなかった。
この場において、真面に自分を扱ってくれる陣営はほぼ皆無に等しかった。
理由は分かっている、ディープインパクトのためにこの第47回・宝塚記念は開催されているようなものだからだ。
そしてそれに自分たちはほとんど拒否権無く、中央競馬からの圧力と泣き落としで無理矢理自分の所有馬を走らせることになった。
はっきり言えば最悪も良いところだ、これなら回避しまくりで出走最低数での寂しいレースになったマルゼンスキーの一件のほうが救いがある。
あれは出走馬陣営が出なければならない理由があって逃げられなかった、なので覚悟を決めて蹂躙されたのであって思うところはあってもしょうがないと考える余地があった。
だが今回の件はどうだ?いくら馬を集めてもGⅠレースという肩書に見合う馬が集まらず、ディープインパクトが勝つ出来レースになってしまうからという理由で集められてしまった。
他陣営がディープインパクト迎撃のために練っていた計画全てをおじゃんにして、フランスへ旅立つディープインパクトのための箔付レースに宝塚記念を変えてしまった。
恨まれないはずがない、勝つために策を練っていたのに盤外戦術でおじゃんにされたのだ。それも中央競馬という一番敵にできない相手によって。
どれだけ温厚で理解のある同業だとしても、嫌味の一つも言いたくなるに違いない。
≪各馬第一コーナーを曲がりまして先頭はバランスオブゲーム1馬身半、シルクフェイマス2番手、3番手にダイワメジャー。
そのあと三頭並びましてリンカーン、外にコスモバルク抑えきれない感じか?さらにハットトリックが並んできまして固まっています。2,3馬身離れてアイポッパー≫
「謝るなよ、小泉。お前らが望んだわけじゃねぇのは知ってる」
「…ッ」
「だが感情は別だ。お前らだけ特別扱い、あぁこんな気持ちだったんだろうな?やっとわかったよ、巨大の運動会の意味…ふざけやがって」
鼓笛の言葉には言葉にならない複雑な感情があった、それは自分たちに向けられた憎悪とも呼べる代物。
こんなレースに出す気はなかった、こんな風に愛馬を消耗させる気なんてなかった、もっと最高の馬であの怪物と戦わせてやりたかった。
騎手も馬も万全な状態で、完璧な布陣をもってあの怪物と戦う準備を整えるはずだったのに、すべてがディープインパクトと中央競馬会の意思によって狂わされた。
≪そこからバックストレッチ、4馬身、5馬身と離れましてナリタセンチュリー、そこからポツンと離れたカンパニーとチャクラ。
さらに2馬身離れましてトウカイカムカム、ディープインパクト後方から3頭目、後方2頭目にファストタテヤマ。ハルウララすぐ後ろで最後方、しっかりついていきます≫
「…リンカーンは悪い馬じゃない、他の連中だって」
「じゃぁなんでやらせてくれねぇんだよ…今回ばかりはうんざりだ」
「…俺たちは何もやってない」
「だから質が悪い。せめてそのまま胸張ってろ、今度こそぶちのめしてやる」
そう乱雑に言葉を切ってレースに再び目を向ける鼓笛に、小泉は何も言葉を出すことはできなかった。
最悪だ、かつて感じていた懸念が最悪の形になって自分に降りかかってきやがった。
≪前のグループと後ろのグループが分かれたようになりまして、各馬が3コーナーの坂へと入ります。
バランスオブゲームのペース、3馬身のリードを取って快調な逃げ、2番手にシルクフェイマス、ダイワメジャーが後ろから2番手に接近じりじり詰める。
コスモバルク4番手、その後ろにリンカーン、ハットトリックが並んで残り800通過、3コーナー坂の下り!≫
ハルウララの調教担当であった群馬の調教師やシマカゼタービン、高知競馬の何某や競馬場内のどこかにいるだろう瀬名茂三でもいればきっと空気は違ったのだろうが残念ながら孤立無援である。
瀬名茂三は探したが見つからず、群馬の調教師たちは忙しくて現場に出てこない。大穴で高知競馬の面々だが、こちらもハルウララのお迎え準備でてんてこ舞いで誰もここにいない。
終始、真面に闘気を発してヒートアップしているのはコスモバルク陣営のみ、ひどく浮いているが助けにはならない。
≪あとはナリタセンチュリーとアイポッパーが来て、ディープインパクトが後方外を回ってジワッジワッと上がってきて後方から4頭目、3コーナー中間です≫
場内が一気に盛り上がる、一般客の歓声がここまで響いてきて熱気に当てられそうになるが室内の空気は冷たいままだ。
やはり来たかという諦めたようなため息、これだから嫌だったんだという落胆の息、そしてこの勝負に対する諦観の空気。
勝負に挑んでいるコスモバルク陣営のみ、ハラハラとした様子で見ているがそれ以外はみな確信を持っていた。
やはりあの馬が勝つのか、ディープインパクトが勝つのか、当たり前のように勝つのか、決まっているように勝つのか。
≪さらに内からカンパニー、チャクラ、ファストタテヤマと続いて最後にトウカイカムカム。
さぁ、ディープインパクトが飛ぶように、飛ぶように3、4コーナー中間から外から一気に好位に取り付いてまいりました≫
最後の直線に馬たちが帰ってくるのが見えた、雨と風はどんどん強くなっている。完全な向かい風の中を馬と騎手は掻き分けるように駆けていく。
その中で飛びぬけて力強く走るのはやはりディープインパクトだ。他の馬たちの走りと規格が違う、先ほどのコーナーで一気に順位を押し上げて外からまくって上がってきた。
加速力がまるで違う、まるで別の生き物が走っているかのように、実況の言うように飛ぶように加速して上がってきた。
≪バランスオブゲームが1番手粘っているが、ディープインパクト単独2番手の位置に上がっていた。
ダイワメジャー3番手の位置、その後ろにリンカーン、4、5番手の争いだ。
バランスオブゲーム粘れるか?外からディープインパクトが来た、外からディープインパクト!≫
決まり切った展開だ、これ以上は無理をしなくていい。ディープインパクトにくれてやれ、つまらないレースなんかくれてやれ。
≪外からディープインパクト!楽々と抜けだした。そして内からハルウララ2番手、バランスオブゲーム3番手…ハルウララ2番手ぇ!?≫
場内が静まり返った、室内の空気が一気に変わった、全員がそれを見ていた。小泉もその光景が信じられなかった。
最後の直線、思った通りディープインパクトが大外を苦もなく加速して馬群を追い抜いて先頭に立った。
激しい雨の中でも耐え、強い風にも負けずに力強く前に加速する黒い馬体はまさに今の日本競馬が誇る頂点だ。
この中央競馬で最も新しい生ける伝説、最強無敗の3冠馬、そしてこれから世界に挑む今年の日本最強競走馬。
このレースは最初からこの展開が望まれていた、最後はディープインパクトが勝つことを望まれていた。
だからそれを追いかけてくる馬はいないと思った、追いかけられる馬はいないと思い込んでいた、だが違った。
「ばかな…」
≪ハルウララ!?ハルウララ上がってきた!!?内にハルウララ!外にディープインパクト!!≫
ディープインパクトが辿って行った大外からの捲り上げの真逆を行くかのような超超インコース。
最後の直線に入る直前に少し開いたその隙間を通り、内ラチを削るかのように攻め込んで馬群を抜けて、荒々しく芝を抉るように蹴散らし土を巻き上げながら、たった一頭だけディープインパクトに挑みかかっている馬がいた。
他の馬たちがやってこない、やる意味がないと誰もが考えた最後の全力捲り上げ、挑むことが当然とでもいう顔で内ラチギリギリをじりじりと前へ詰めてくる。
やってくる馬はいたかもしれない、けれど勝つ見込みはない無駄な行為だ。この勝負はディープインパクトが勝つことを望まれている、誰もが願っているのだ、誰もが当たり前だと思っているのだ。
でも彼女はここに来た、当然のようにそこにいた、あの小柄で栗毛の牝馬がそこにいた。
≪バランスオブゲームが粘っているが苦しいか!!後方三番手ぐんぐん突き放して残り200メートル!!
ハルウララ詰める!!ディープインパクト行けるか!ディープインパクト粘るか!!ハルウララ!!ハルウララ並ぶ!!
残り100メートル!!並んだ!!ハルウララディープインパクト!!≫
「馬鹿な!!」
ハルウララがそこにいた。
あとがき
最後に勝負を決めるのは、覚悟の差だ。
ちなみに群馬地方競馬の騎手訓練担当教官はロシア人で瀬名茂三のお友達、元山岳兵。
なおこの世界は子供を迎えに戦場へ突っ込む肝っ玉母ちゃんもいる世界線とする。