いつも多くのご感想と誤字報告、ありがとうございます。
2006年の宝塚記念、後半戦です。
高知地方競馬の伝説として、世紀末世代を生きた競走馬として、最後に一発喰らわせましょう。
ちなみに作者はライスシャワーとキングヘイローとのやり取りも大好物です、はい。
ハルウララのことは知っていた。知らないはずがない、彼女には自分も一度騎乗したことがあった。
彼女は遅かった、体の出来も何もかもが他の馬よりも劣っていた。それでも競走馬であった、負けを美化されて喜んでいるようなアイドルではなく一生懸命走っていた一端の競走馬だった。
自分が乗ってきた中では一番遅かっただろう、それでも立派な競走馬であったと大竹は彼女の姿を記憶していた。
そんな彼女が今自分たちに追い付かんとしている、それは予想をしていても決してあり得ない未来だろうと内心では決めつけていた。
彼女はすでに一度引退し、人間の欲望と勝手な都合に振り回されていた。たとえあの群馬競馬で復帰しようとも、現役以上の働きはできないと思われていた。
真面に走れるだけでも価値がある、奇跡ですらあるそんな馬に彼女はなってしまったはずなのだ。
ディープインパクトは全力を出している、今も超えようとしている。君はここに来られないはずだ、付いて来られるはずがないのだ。
きっと自分以外も、誰もが、このレースで走る騎手の誰もがそう思っていたに違いない。
(…どうやら僕が間違っていたようだ)
だが彼女は来た、彼女はここまでやってきた。ハルウララはすでに10歳だ、引退して競走馬もやめていた。
彼女の姿を大竹も見ていたからわかる、既に彼女は競走馬として走れるような体ではなかった。
全力を出せば最後、彼女を見てきた調教師たちが言うようにそれで壊れてしまうような体になっていた。
どれだけ厳しい調教を超えようとも、加齢による老化は多少誤魔化せても消すことなんてできない。
事実、彼女の走るフォームはぐちゃぐちゃだ。無理に無理を重ねて、もうただただ走る事しか見えていない、走ることしか考えていない。
このまま走れば死んでしまうかもしれない、この場で転倒してしまえば騎手も馬もどちらも死んでしまう。
いつかハルウララの調教師から聞いた、ハルウララには確かに勝てる素質は十分にあると。十分に調教して、念入りに調整すれば未勝利戦程度は十分に勝てる強い馬に成れると。
だがそれをすればきっとハルウララはそこで終わってしまう、その全力で彼女の競走馬としての生は終わってしまうと。
(そうだね、来ないはずがない。君はあの時もそうだった)
ハルウララは競走馬だ、競走馬はなんのために走る?何のためにレースに出る?勝つためだ。
芝でも、ダートでも、競走馬の居場所は競馬場のコースだ。レースで一番になって、たった一頭の勝者になるためにここにいる。
アイドルになる為なんかじゃない、伝説になる為なんかじゃない、ただ一着になるために全力で命を懸ける。
彼女は全てを賭けて走っている、彼は全てを賭けて挑んでいる、何もかも投げ打って、何もかも全力で。
あの時の彼女にはそれは許されなかった、高知地方競馬のハルウララとしてそれは許されなかった。
それを今、全力でやり切ろうとしているのだ。ハルウララも、古海も、かつてできなかったそれを成し遂げようというのだ。
(命さえも惜しくない…わかるよ、その気持ち)
だってそれは僕だって同じなのだから。一人の騎手としてこの世界に身を投じて、幾度となくレースを走った。
競馬とは、レースとは、未勝利戦であろうがGⅠであろうが常に命懸けだ。
楽な勝利なんてありはしないのだ、望んだ結末を得るためにはどんな結果であれ努力をみんなするものだ。
ハルウララと古海は勝ちに来た、命を賭けて勝ちに来た、ディープインパクトと自分に堂々と勝負を挑んできたのだ。
それに何を言い訳する必要がある、何を余計なことを考える必要がある。
(ディープ、行くぞ)
『だろうと思ったぜ、あいつの弟子だ』
残り100メートル、出し惜しみは無しだ、買ってやろうじゃないかその勝負。自分たちも全力で彼女たちに応えよう。
フランス遠征も、凱旋門賞も、今はどうだっていい。重要なことではない、ここで手を抜くなんて恥でしかない。
日本中央競馬最強の3冠馬と自身の全力をもって、あのライバルをねじ伏せよう。
(『抜けるモノなら抜いてみろ、中央を舐めるなッ!』)
ディープインパクトがさらなる加速を開始する、いつにもまして強く感じる加速に体が持っていかれないように大竹は手綱を強く握りしめて姿勢を前に傾ける。
体感時速84km、ディープインパクトの足並みに迷いはない、迷う必要なんてありはしないのだ。自分たちは負けない、負けられるはずがない。
自分たちだって同じようにいろんな期待を背負ってきた、それ以上に自分自身が勝ちたいと思ってここにいる。
勝ち続けなければならないのではない、勝ち続けたいからここにいる。
(『ついてくるか!!』)
離れない、右横から聞こえてくる不格好で乱れ切った力強い蹄の音は後ろに全く離れていかない。
見なくても分かる、肌で感じられる威圧感だ。逃がさない、逃がしてなるものか、勝つのは自分たちだと、諦めていない彼らの気迫を感じる。
自分たちを捉えて離さない勝利への渇望だ、絶対に抜いてみせるという勝利への執着心がハルウララから発せられている。
背後から鞭がしなる音が聞こえた、新しく追ってくる蹄の音が混ざる。
(『もう一頭、この足音、コスモバルク!!』)
思わず笑みがこぼれた、予想もしなかった新たな敵、自分たちよりもはるかに後方とはいえいまだに闘志を失っていないコンビがもう一組。
これが嬉しくないわけがないだろう、やりがいを感じないわけがないだろう。
必死になって追いかけてきているコスモバルクの闘志が背中からビンビンと感じている、自分たちに匹敵する競走馬としての本気を彼らは出している。
(『さすがだ、僕たちの動きに合わせてきた。だが、まだ遅い!』)
残り70メートル、ディープインパクトのギアが一段上に入る。体感時速88km、コスモバルクの気迫が徐々に遠ざかっていく。
諦めずにそれでも挑みかかろうとさらに加速をかけているが、今のコスモバルクでは自分にも、ハルウララにもまだ届かない。
ハルウララはまだ横にいる、まだ横に並んでいる。息遣いは乱れ切り、泡を吹き、馬のそれではないような荒々しさを感じ、走る足音はさらに乱れて胸を打つような美しい音色を奏でていた。
どこまでも走れるだけ走りまくってやる、そう心に決めていなければできない本気の走りだ。
やはりこうだ、こうでなくてはならない、初めから勝つような出来レースなんて最初から存在しない。
勝つのは自分だ、負けるのはお前だ、そういう競り合いがあってこそレースだ。そしてどんな物語があろうともレースにあるのはたった一つのシンプルな結果のみ。
それを求めて最後の最後まであきらめない、終わるまでどこまでもどこまでも食らいつく、そうでなければ競走馬は務まらない。
(『60!!』)
まだ離れない、さらにディープインパクトが加速を入れてもハルウララも負けじと速度を上げてくる。
当然だ、上がらないはずがない。上げないはずがない、上げなければ負けを認めることになる。
ここまで来てついてこられないはずがないのだ。こいつを鍛え上げたのはシマカゼタービンで、こいつはハルウララだぞ。
ここにいる誰よりも敗北を経験してきたハルウララだぞ、敗北の悔しさを心に刻んできたハルウララだぞ、それでも走り続けてきたハルウララだぞ、一度身を引いてもなお戻ってきたハルウララだぞ。
ここの誰よりも、悔しいことにこのレースで一番負けたくないと思っているのは絶対にハルウララなんだ。
ここでついてこないはずがない、諦めるはずがない。俺たちさえ抜けば勝てるこの状況で自ら諦めるわけがないだろう。
(『50! もっとだ、もっと! 付いてこられるか!!』)
体感速度時速90km、ディープインパクトがさらなる加速をかけ、姿勢をさらに前のめりにして足を大きく踏み込む。
笑いが止まらない、楽しくて仕方ない。食らい付いてきている、まだ食らい付いてきている、もっとだ、もっと追ってこい!!
(『30…!?』」
残り30メートル、目と鼻の先のゴール板、その向こうに大竹とディープインパクトは壁を見た。
弾幕だ、ひと際強い雨と風が作り出した水と風と土の弾幕。水と風と土の壁が目の前にあった。
(冗談だろ!!?)
強烈な向かい風となった最後の直線、最後の最後で吹き荒れた突風が雨と一緒に踏み荒らされた地面の芝と土すら舞い上げたのだ。
これは観客席にいる観客から見たら怖いものではない、ただの強い突風だ。だがそれに自ら全力で突っ込んでいく自分たちからしてみれば、これはあまりに危険な突風となる。
自分たちの速度は時速約91km、全速力での競り合いの只中だ。その前に現れたのは対抗速度不明の強風と目に見えるほど大きな雨粒、そしてその中に混じった土と芝。
弾幕だ、文字通りの弾幕だ。自然発生した弾幕が、レース場そのものが自分たちを殺しに来た。こんなものは大竹の騎手人生の中でも初めてだ。
避けられない、避けきれない、大竹の脳裏に最悪の光景が過った。ディープインパクトの脳裏にも過った。
血の匂いがした、土の中に染みついた競走馬と騎手たちの血が鼻先を擽ったような気がして体が竦んだ。
ターフの向こう側に最悪の未来が見えた。砂と土に巻かれてバランスを崩し転倒、血みどろで倒れて動かない自分たちの姿を垣間見た。
(畜生―――)
或いは、また置いて行かれた自分の姿を。避けることはできなかった。自分も、ディープインパクトも、ここまで来て逃げられるわけがない。
耐えるしかないんだ、何とか走りながら不幸が起きないことを祈るしかないんだ。その最後の最後の運頼みに大竹は悔しさに歯を食いしばるしかなかった。
突風が体を吹き飛ばそうとする、雨粒と砂と芝が体を叩いた。
咄嗟に左手で顔面をかばい、突風に備えて身をかがめる。体全面を一気にはたかれたような激痛が体中に走り、大竹は悲鳴を上げないように両目を瞑って唇をかみしめて耐えた。
ディープインパクトも体を叩く砂と小石で激痛に顔を背けそうになりながら耐えて速度を維持して突き進んだ。
一瞬でそれは終わった、長い一瞬であった。耐えた、耐えきった。体中が痛い、全身が痛い、今までのレースで被ったどんな雨や土よりも効いた。
それでも何とか耐えきった、大竹は両目を開いてすぐに手綱を握り直し、ミスを悟った。
自分たちは耐えたのだ、耐えてしまった、堪えてしまった。ゴールの直前、僅か数メートル、ディープインパクトと大竹の加速は止まった。
想定内であれば、それでも勝ちは揺るがなかった。ハルウララというイレギュラーが、自分の想像をはるかに超えてきていなければ。
(踏み込んだのか、あの状況で、あんな危険な状況で!!)
ハルウララと古海は踏み込んでいた、弾幕の中に自ら飛び込んで加速を続けながら突き抜けていた。
自殺行為だと思った、事実彼女と彼は傷だらけであった。ハルウララも、古海も、体中に無理矢理突破してできた傷が増えていた。
彼女には突風を超えてできた傷よりも多く厳しい訓練の中でできた傷があった、幾重にも刻まれた歴戦の傷がそこにあって、無理な全力疾走で血が滲み一部は再発していた。
古海も傷だらけであった。ゴーグルは小石の直撃を受けたのかレンズが砕け、額からは出血し、騎手服を赤に染め、体は危なっかしく左に傾いでいる。
それでも彼らは後ろを見ることはなかった、砕けたゴーグルの奥に見えた古海の瞳も、ハルウララの両目も、後ろを振り向くことなく前を向いていた。
ゴール板までもう5メートルとなかった、そしてハルウララの栗毛の馬体は一歩、前に出ていた。
◆◆◆◆
永遠に感じた一瞬だった。突風に向けて吹き込んだ瞬間、目の前に平たい円盤のような小石がまっすぐ突っ込んでくるのを古海は確かに見た。
避けようとはしなかった、避けたらせっかくここまで来たハルウララのラストスパートの邪魔をしてしまうから。
避けなければ死ぬかもしれないとはわかっていた、けれど命を懸ける意味はあると思った。
ここまででいいなんて思いたくなかった、出し切ると決めていたから、ありったけを出し切って勝負すると決めていたから。
頭を突き抜けるような一瞬の灼熱の痛みが脳裏を焼き、視界が真っ赤に染まって痛覚が一気に消え去り感覚がなくなり、上半身から力が抜けるのを感じた。
不思議なことに両目は見えていた、直撃しただろう左目の視界は赤く染まったが右目は罅割れながらも見えた。
まるで無重力になったみたいに体が浮いたように感じた、ふわふわと体が浮いて今にもここから離れてしまいそうに思えた。
思考もまるで定まらない、昔のことを思い出しては消えていく。家族との何気ない日常、初めての騎乗訓練、同僚との飲み会、息子の笑顔、妻へのプロポーズ。
そんな思い出の向こう側で自分のやる事は終わったのも見えた、もう何もかもやり切ったのだとわかった。
(落ちるな、これ)
一瞬で過ぎ去った今までの思い出がよみがえってきた鈍痛で掻き消え、半分赤く染まった視界が蘇る。
姿勢はすでに崩れ、今にも自分は落馬しそうになっているのだと左に傾いた視界の角度で分かった。
当然だ、文字通り脳天に一発食らっている。もしかしたら貫通したかもしれない、それくらい感覚がない。
けれどもう十分じゃないか、高知地方競馬の騎手として、一人の騎手として、ハルウララの最初の主戦騎手として、最後の主戦騎手として。
自分は何もかも燃やし尽くした、何もかもやり尽くした。すべて流れに身を任せてもいい。そう思うだろう、自分はやるだけやったから。
誰かがそう囁いているように感じた、何かが自分を引っ張っていくように感じた、それもいいかもしれないと思う自分がいた。
(ダメだろ、それじゃ)
自分を引っ張る何かを振り払う、答えは最初から決まっている、あり得ないのだ、まったくもってあり得ないのだ。
このまま落ちれば奇跡に悲劇という注釈が付く、ハルウララの勝利に自分の血でケチが付く、なにより家族を置いて行くことになる。
子供が最前列で応援しているのを見た、その横で茂三が見物しているのを見た、家族が競馬場の端っこで見ているのも見つけた、このレースを多くのファンたちがテレビやラジオでずっと見ているのを感じた。
小さな子供に悲劇を見せるわけにはいかない、ハルウララの勝利はハルウララらしくみんなを笑顔にできるハッピーエンドでなければならない、家族に迷惑をかけるわけにもいかない。
ここで落ちたら一生後悔する、死んでも死にきれないくらい悔いが残る。だから死んでたまるか。
今までずっと思ってきたじゃないか、負けてたまるかって。たかが小石くらいで、この思いを諦められるわけがないだろう。
弛緩しかけていた体に火を入れる、肉体に浸み込ませた生存本能が生きるために必死で足掻く。
両足でハルウララの鞍上にしがみ付き、全力で締めあげて固定する。ハルウララには悪いと思った、きっと痛いはずだ。
だがそれに古海が落ちかけているのに気づいたのか、こわばったハルウララはそれに応えるように大きく息を吸い込んで腹に力を入れて力んだ。
風圧で負けそうになる上半身の全筋肉をもって支え、鍛え上げた筋肉をもって力任せにハルウララの鞍上に復帰した。
「意識飛んでた…いったいなぁ!整備不良だぞ中央、石混じってたじゃないか」
「古海さん!!」
「大竹さん?」
鈍痛の走る頭に触れようとすると、すぐ横からかけられた聞き慣れた大竹の声に気付く。
そうだ、必死過ぎてすっかり忘れていた。自分とハルウララはディープインパクトと競り合っていたのだ。
ゴール板を抜けてからすっかり意識が飛んでいたが、やはりディープインパクトと大竹は最後の最後まで横にいたらしい。
横を見るとハルウララに併走したディープインパクトの鞍上で大きな口を開けている大竹の姿が見えた。
「大丈夫、ちょっと意識飛んでた」
「それ大丈夫って言わないよ!?すごい血が出てるんだけど!!」
「大丈夫大丈夫、ゴーグルがやられただけだよ。交換すればいい」
激痛が走る顔から割れたゴーグルを外してみると、武骨で大きいそれは見事に右目部分が割れて全体にクラックが走っていた。
これは群馬地方競馬に出張してから渡された支給品だ。高知競馬で使用していたものは経年劣化が見られたから交換しておいたのだ。
高知競馬で使っていた物のままだったらもっと悲惨なことになっていただろう。
高知にいる同僚に見せたらずいぶん羨ましがっていた、彼の言っていることは半分も理解できなかったが地方競馬としては高級で頑丈な品という事らしかった。
今まで使っていたタイプや中央などで使われるシャープなスタイルとは違う、大きくて丸っこいスタイルのレンズが厚いゴーグルの性能は本物だったようだ。
予備は群馬地方競馬に来てからつけるようになったポーチに入っているが、もうレースは終わっているので付け直す必要はないだろう。
「大竹さん、変なこと聞くけどレースはどうなったのかな?実は最後のほう、記憶がすっ飛んでてね」
実際はディープインパクトのほうを見ることすらできず、最後はその存在もすっ飛んでただけだが。これくらい恰好を付けてもいいだろう。
周りを見ればわかりますよ、と大竹が少し悔しそうにつぶやく。その言葉に、古海はやっと周りに目をやる事を思い出した。
◆◆◆◆
≪ハルウララ!ハルウララ!!1着1番ハルウララ!!ハルウララ1着!!≫
静寂が観客席を満たしていた、次第に小さくなっていく雨の音だけが場を支配していたその静寂を突き破る実況席の声が枯れるような大絶叫。
それを皮切りに競馬場内が拍手喝采に満ちていく。奇跡だった、これは奇跡に他ならなかった。
不思議なほどに晴れてきた空模様の下で会場の全員がハルウララを讃えた、そしてこのレースを走ったすべての競走馬と騎手達を讃えた。
≪2着ディープインパクト、3着コスモバルク!!初夏の京都に春一番!!春の嵐が最後方からすべてを薙ぎ払いました!!!≫
「一番!!ウララちゃん一番だよパパ!!やったやったぁ!!やったねー!ウララちゃーん!!」
「まだ次があるぞー!バランスオブゲーム!」
「惜しかった、惜しかったな…ディープインパクト…次で巻き返せ!凱旋門が待ってんぞ!!」
「バルクー!次、次で頑張れ!おつかれさーん!」
「良い走りだったぞリンカーン!」
「かむかむー!かむかむー!!」
「次は頑張れよーダイワメジャー!!」
「勝っちまったか…なかなかどうして、これだからレースはやめられん」
ハルウララがすべてを変えた、ハルウララを応援する子供の声が場の空気をすべて変えたのを茂三は間近で見ていた。
最後の直線でハルウララがディープインパクトに食らい付いた瞬間に場内を覆った一瞬の静寂と、それを知らぬ存ぜぬとハルウララに向けて応援する少女の言葉が空気を変えた。
自分たちは何をしにここに来た?競馬を見るために来たんだろう?好きな競走馬を応援しに来たんだろう?ならばそうしなきゃダメじゃないか、子供ができて大人がしないなんて変じゃないか。
気が付けば最後の直線では、誰もかれもが別々の好きな馬の馬券を握り締めて声を上げていた。ディープインパクトを推す声は一番多かった、ハルウララを応援する声も多かった。
しかしそれ以外の競走馬たちを応援する人々も確かにいた、たとえそれが殿で勝てそうにない馬であっても堂々と応援の声は最後まで響いていた。
ハルウララがすべてを変えた、そう思える一戦であった。
「あ、おじさんもウララちゃんのカード持ってる!ウララちゃん凄かったよね、一番すごいよね!!」
「おっと、うんうん、そうだね。まったく今年は驚かされてばかりだよ」
「あ、こら朱美!すみません、いきなり」
「いいんですよ、ほんとに凄いレースになっちまったんだ」
「そうでしょそうでしょ!!ハルウララ一番!!一番だよおじさん!!」
ハルウララが勝てたのは運がよかった、最後は一気に大きな向かい風と雨が最後の直線に襲い掛かりハルウララ以外の馬の足並みが乱れた。
あのディープインパクトと大竹でさえその弾幕を含んだ突風に加速が鈍った。しかし、ハルウララと古海の加速は最後まで途切れなかった。
それが勝負を分けたのだ。ディープインパクトは突風に堪えるために踏ん張った、しかしハルウララはなおも加速して踏み込んだ。結果、僅かに一歩前へ進んだ。たった一歩でも、僅かなハナ差であっても、彼女は確かにディープインパクトを超えていた。
(あいつらは悪くねぇ、運が悪かっただけだ)
同時にディープインパクトと大竹を襲ったであろう恐怖はよくわかる。自分自身大雨や猛吹雪の中、峠でハチロクを駆りレースをしたときは常に死を覚悟していた。
敵は相手だけじゃない、道路も、空気も、雨粒、風、巻き上げられる土や石や小枝、雪、すべてがありとあらゆるアクシデントとなって死を呼び込む。
ハチロクの車体が土や小枝でボコボコに、擦り傷だらけになるなんてそれこそいつものことだった。自分自身がそうなることだって何度もあった、先行車のタイヤが蹴った小石がフロントガラスをぶち破り血まみれになったことだって一度や二度じゃない。
死にそうな場面に直面して、走馬灯やら最悪の未来の幻覚やらを見たことも一度や二度ではない。そういうモノは何度見ても慣れない、恐ろしさでいつも体が竦む。
シマカゼタービンでさえ同じようなことで体を傷つけたことは多々あった、恐怖に竦んでいた。それを制御し、認めた上で今も走り続けている。
だがそれは整備されたレース場ではめったに起きない事だ、あったとすればそれはカーレースの本番の時であろう。
それこそ競馬場でなんてまず起きない、そもそもスピードも状況も何もかも違いすぎる。
(あいつらはまとも過ぎる、あの状況でビビったってなにもおかしくなんかない)
今回は違った、ひどい突風が競馬場を襲った。それだけならまだしも、最後の直線で向かい風に突っ込まざるをえない競走馬と騎手たち目掛けて、自分たちが踏み荒らした土と芝が巻き上げられて一緒になって襲ってくるという最悪の物だ。
傍から見ていた観客たちには全く害はないただの突風だが、それに向かい合って突っ込むしかない彼ら彼女らは文字通り死ぬ可能性さえあった。
突風が巻き上げた中に小石でも混じっていて、それが自分や相棒の脳天をぶち抜いていた可能性も十分にあった。
事実、その小石はハルウララの鞍上にいた古海を直撃してゴーグルを破壊した。運が悪ければそのまま眼球を撃ち抜き、騎手を即死させる天然ヘッドショットの完成である。
誰だって怖いに決まっている、誰だって痛いに決まっている、誰だって嫌だし背筋も凍るような恐怖を覚えて当然だ。
そこで経験が生きたのだ、ハルウララの100戦以上からなる経験が、そして古海の耐えた地獄のような特訓の成果が。
ハルウララは恐怖に負けなかった、経験からこの程度なら突き破れると確信していた。古海は肝が据わっていた、例え小石が脳天をぶち抜こうがもうどこまでも覚悟ができていた。
突風による風圧も、雨粒による威圧も、そして土と芝が体を叩く激痛も、あのコンビはすでに経験済みだった。伊達にシマカゼタービンが峠調教で扱いていない、伊達に元軍人の徹底的な訓練を乗り切っていない。
雨の日も風の日も関係なく扱いて扱いて扱きまくり、それこそ多少の銃撃戦ならば巻き込まれても一日寝ればケロッとしている頑丈な連中になったのがあのコンビだ。
だがディープインパクトと大竹はまだそれに関しては浅い、彼らは群馬地方競馬に所属しているわけではない。群馬トレーニングセンターでの調教はあくまで仕上げだけだ。
こんな悪天候の時にわざわざ来る必要がなかった、そもそも彼は群馬地方競馬の騎手として訓練を受けた事すらない。
群馬地方競馬の特徴であり自慢の騎手訓練課程、かつて西竹一が創設し世界中から集めた元軍人訓練教官が考案して今もアップデートを続けている地獄の高難易度訓練はさすがに中央の天才と言えど無条件で受けられるものではない。
皮肉にも本物のテロまで経験して図太くなった古海とハルウララにこの程度の悪天候は恐れる理由がなかった、それだけだ。
(まったく…無茶しやがって。こりゃトンボ帰り確定だな、こんなのあいつ以外にゃ診せられんわ)
しかしそれでも余りにも無茶苦茶だった、茂三から見てもハルウララのこの一戦は無茶苦茶が過ぎた。
勝てる要素なんて微塵もなかった、それこそ奇跡がなければ勝てなかった、最後の突風がなければハルウララは前に出ることはできなかった。
歳を取った体は最盛期ではなかった、どれだけ過酷なトレーニングでもそれを補いきれるものではなかった。
彼女の素質は芝には向いていなかった、ダート専門であり、短距離中心で無理をしてマイルが限界だった。
このレース場は初めてだった、コースは芝で相性は最悪であった、GⅠと言うだけあって敵はディープインパクト以外も強豪ぞろいだった、天候も最悪中の最悪であった。
最後の無茶苦茶な加速なんてもう目も当てられない、滅茶苦茶なフォーム、でたらめな踏み込み、何もかもかなぐり捨てた捨て身の走りだった。
道中の前の馬を利用したスリップストリームを用いた走りでさえかなり無茶をしていただろうに、その後に最後の限界を超えた全力疾走と捨て身の突貫、どれだけ体を痛めつけたかわかったモノではない。
レース後の面倒事が片付いたらすぐに検査、場合によっては入院が必要だ。そうなると茂三にはいつもの仮面ドクターの所しか思い浮かばない。
彼は恰好こそ怪しいし言動もいささかすっ飛んでいるが獣医としてはとても優秀で信頼がおける。
それでも彼女たちは走り抜けたのだ、全てを賭けて。
そして1%もあれば奇跡だっただろう確率の勝利を彼女たちは掴んだ、この悪条件を味方にして、無茶も無謀もすべて押し通して、最後に奇跡をつかみ取った。
「ま、生きて終わっただけ上等か。やっぱ住む世界が全然ちげぇわ。ほんとさすがだよ、マネできんわ」
ウィニングランを終えて戻ってきたハルウララと古海が、誰かを探すように観客席を一瞥する。
それを避けるように茂三は人ごみに隠れて背を向け、まるで祝福するかのように青空を見せた空を一瞥してから小さく肩をすくめた。
少しだけ羨ましかった、本当に少しだけ。
あとがき
もし天気が晴れならハルウララは勝てなかった、馬場が少しでも良ければ勝てなかった、他の騎手に少しでもやる気があったら勝てなかった。
最後に突風が吹かなければ勝てなかった、ディープインパクトが踏み込めば勝てなかった、自分が堪えたら勝てなかった。
大雨だったから、馬場が最悪だったから、他陣営のやる気がなかったから、最後に突風が吹いたから、ディープインパクトが最後に堪えたから、ハルウララが最後まで踏み込んだから、ほんの少しだけ速かった。そんな世界です。
…こんなもんでいいのだろうか?途中から競馬なのかウマ娘なのかガンダムなのか分かんなくなった作者です。
ちなみにこの時主人公は『雨止まねーかなー?』とか考えながらバス停で雨宿りしてます。お仕事中です。
そろそろ群馬地方競馬のいろいろなことやった方がいいんだろうか。こいつら基本はただの公営競馬なんですけどね、ちょっとアウトロー入ってるけど。
おまけ・群馬地方競馬あるある『ゴーグルが無駄に分厚い』
群馬地方競馬のゴーグルは騎手の安全に配慮して高価でも頑丈で性能の良い物、主に軍用品やその同等品を多く採用する。そのため妙にごつくて分厚いゴーグルが多く見かけは少し不格好になる。
これはかつて群馬地方競馬で西竹一が乗馬装備の選定に関わっていた際に残した傾向がしっかり受け継がれているため。
故にほとんどの場合肉厚なので重ねて付けられないのが欠点で群馬地方競馬の騎手の多くはベルトにゴーグルポーチを付けて予備を携行しており、出張レースの前は必ず現地で持ち物検査を受けている。
なお小物袋として普段使いしている騎手も多いので競走馬からは『飴玉袋』扱い、大体ここから出てくるためである。
2006年代の採用品はボレー社『Ⅹ500』を使用。