いつも多くの感想、誤字報告ありがとうございます。
有馬記念、出走直前の一幕です。出走は次回までお待ちください。
中山競馬場一般観客席外周、人込みで溢れんばかりの客席を通路の脇からのぞき込んだ瀬名茂三は超満員の客席を見回して何度目かもわからぬため息をついていた。
ドレスコードに抵触しない一張羅のスーツ姿とはいえ仕事で着古したそれは年季が入っており、さらに上着を脱いでネクタイも緩めた姿とあっては中年男の茂三は競馬場によくいるただの中年の競馬好きといって相違ない姿だった。
「まいったな、こりゃ…」
客が多すぎる、今までにない超満員の観客席を前に茂三は今日の見物ベストポジションを見つけられずにいた。
何しろこんな超満員のレースは茂三の記憶にも全くないことなのだ、
しかも客層の多様性からも動きが読めないので、穴場がどこになるのか見当もつかないのだ。
普段の競馬狂いやただの競馬ファンといった人々が主体ならば動向は読みやすいのだが、今日の客層はそうではない。
普段から来る競馬の客層に加えて、海外からの競馬ファンを筆頭にした外国人が多く乗り込んできており国際色豊かだ。
そこにさらに国内のミーハーなモノ好きや興味本位の一般人などの一般層からの来客が多く来場しているのだ。
一般客などはその動きに競馬ファンゆえの方向性もないので縦横無尽にしっちゃかめっちゃかであり余計に場を荒らしている。
(客の動きが読めねぇ、こりゃどこ行っても隙間がないかもしれんな)
参ったな、茂三はかつて初心者だったころに同じような状況に陥った時のことを思い出しながら頭を掻いた。
懐かしい感覚といえば聞こえはいいが、実際のところはかなりピンチである。
まだ時間に余裕があるとはいえ、このままズルズルとあちらこちらに流れていては肝心の有馬記念出走までにベストなポイントを見つけられない。
この大賑わいな競馬場の中を泳ぐことにはそれなりの自信はあったのだが、過去の経験が今回ばかりは何も役に立たない。
何しろこれまで有馬記念そのものを見に来たことは何度もあったが、ここまで客層が狂いきっているのは初めての経験だったからだ。
「ちょっとあんた、マジでディープインパクトに10万やったの?」
「へっへっへ、当然だぜ。何しろ一番人気だし中央最強の凱旋門賞馬だ。大体今日走る馬だってほぼほぼ格付けは終わってるんだし勝確に決まってる」
「あんたの金だからいいけどさ。さすがに額デカすぎて引くんだけど、初めて買った馬券なんだからほどほどにしなって」
「なんだよ、勝ったら勝ち分でうまいもん食いに行こうと思ったんだけど?」
「さっすが!愛してるわ!!」
調子のいいカップルが捕らぬ狸の皮算用をしながら通り過ぎていく。競馬場ではまず見かけない、渋谷にたむろしていそうなファッションのカップルだ。
しかしその手にあるのは似つかわしくない馬券、歩き方もしゃべり方も昨今の流行に乗ってやってきたミーハーな客である。
この流行というものがまた曲者なのだ。
発端はハルウララの宝塚記念での初勝利、これが起爆剤となって今は空前の大競馬ブーム到来、というよりもブーム大爆発といえた。
かつて一地方競馬を救いお茶の間にまで名を広めてある種の時代をも作った名馬である負け組の星が、10年の時を超えて蘇り高知競馬場どころか得意のダートですらない中央のGⅠレースである宝塚記念に出走し、中央最強のクラシック三冠馬であるディープインパクトを下して中央GⅠにて10年越しの初勝利を飾った。
しかもそのディープインパクトは、次走の凱旋門賞にてホクリクダイオーと接戦の末に一着同着という大快挙と大珍事を成し遂げた。
さらに言えば今年の日本競馬はとにかく強く、中央も地方も世界に飛び出して名だたる名レースを制してそのタイトルを持って帰り日本に錦の御旗を打ち立てた。
日本競馬史上においても大快挙であり、日本最強時代の突発的な到来、これに沸き立たない日本国民は居なかった。
今はテレビのニュースですらその動向を大々的に放送し、有名なバラエティ番組なども食いついて、動物番組では特番を流してより一層一般に今年の競馬がアピールされている。
そして同時に、さんざん暴れられて国の名レースの冠を持っていかれた世界が放っておくわけもなかった。
何しろ真っ向から自分の土俵に乗り込んできて、本当に真っ向から叩き潰された。世界の競馬は由緒正しき道場破りを食らったのである。
これで黙っているほど海外の競馬業界は諦めが良くはない、馬主も決してただでは終わらない。
世界中の競馬業界が日本競馬に着目し、メディアが情報を流し、そして日本での流行に乗るかのように一般層に向けてアピールを行った。
日本に負けたままでいいのか?俺たちの国のGⅠを取られたままでいいのか?負けを認めてしまっていいのか?
負けたままでいい、二番のままでいい、そんな立場に甘んじる馬主はいない、騎手はいない、そして国民もいなかった。
負けは認めよう。強さも認めよう。だがそれで終わらせない、たとえ地を這い泥を啜ってでも一矢報いてみせるのだ。
結果が降ってわいた全世界競馬ブームである、非常に危うい形で成されたブームの到来は茂三に危機感を抱かせるには十分だった。
(全く、嫌な予感ってのは当たっちまうもんだな)
人込みをうまくよけながらベストポジションを探していると、観客席の端から怒鳴り声の応酬が聞こえてくる。
目をやれば見るからに競馬好きの競馬親父というべき風貌の中年男性と普段競馬場に来るとは思えない一般中年男性が睨み合いのケンカ腰になっていた。
理由は不明だが互いに何かあったのは確実だろう、普段は互いに近寄りもしない賭博好きと堅気の諍いなんて売り言葉の買い言葉で碌なことにならない。
特に一般層からしてみれば、この手の賭博好きへの意識は『良くない』のだ。このままではどうやっても穏便には終わらないだろう。
「ここもダメかねぇ…」
早速売り言葉の買い言葉で取っ組み合いになったらしい喧騒を背中に感じながら、茂三はそそくさと廊下を歩いて次の候補地に向かって歩く。
「まいったなこれ、どうしようか?魚塚さん、外で足止め食らってるみたい」
「うーん…これは予想外だね、まるでオリンピックだ」
「すごーい、ウララちゃんの時よりもいっぱい」
「うん?」
そりゃ誰も買わねぇわなと納得しながら歩いていると、茂三は廊下の向こうから見覚えのある家族連れがやってくるのを見つけた。
ちょうど進行方向からえっちらおっちらと人込みを避けて向かってくる家族連れ。
私服になぜか白衣を着こんだやや目つきがマッドな茶髪の女性と、見た目はいたって普通なはずなのになぜか印象に残る携帯電話を見ている男性。
そしてその男性に肩車されてニコニコしながら周囲を見渡し、一枚の馬券とカードを入れたクリアケースを首に掛けた赤毛をツインテールにした少女。
その特徴的な家族に茂三は覚えがあった、そしてそれは向こうも同じなようで茂三を見つけた彼らは茂三を見て目を真ん丸にした。
「こりゃ驚いた」
「おじさん!」
「ははは、いやはやまさかまさか!」
「これは驚いたねぇ…」
不思議なこともあるものだ、目の前に現れたのは前の宝塚記念を見物した時に京都競馬場で知り合った家族だった。
ボリューミーな赤毛のツインテールが特徴の朱美、今日も私服に白衣を重ね着したマッドサイエンティスト風味な母親、特徴という特徴がないのに記憶に残る父親。
突然の再会にきょとんとしてしまった茂三だったが、すぐにけらけらと笑った。
「こんなところで出会うなんてな、いったいどうしたんだい?」
「ふふん♪見て見て!」
朱美が首から下げたクリアケースを通して見せたのは、シマカゼタービンのブロマイドと千円分の単勝馬券だった。
「今日はみんなで大人の馬券買ったの、あたしもお小遣い出したんだよ!」
「強請られちゃいましてね、まぁ単勝一口で千円だけです」
「それはまぁいいとして、掛けるならディープじゃない? 1.1倍とはいえ一番固いと思うけど」
「だってシマカゼタービンちゃんっておじさんのお馬さんなんでしょ?宝塚記念の時教えてくれたじゃない」
そういえばそんなことを言っていた気がする、茂三はふとおぼろげな記憶の中でそんな記憶を思い出した。
特に何かあったわけではない他愛のない雑談で、確か自分も馬主で競走馬を走らせており、それがシマカゼタービンである事も口にしていた。
ついでにもし高崎競馬場に来た時に走っていたら応援してあげてほしいとも。
「おじさんのお馬さんが走るなら応援しなきゃ!だからパパとママに連れてきてもらったの!!」
「タービンの応援に来てくれたのか」
「そうなんですよ、テレビで偶然出走表を見てしまいましてね。おじさんのお馬さんが出るから行くって強請られて…
まさかそんな偶然あるかと新聞を見たら本当に馬主じゃないですか。なら何かの縁だし、今流行りだし行ってみようか?って」
「私は止めたんだけどねぇ…ただでさえ宝塚の時もすごかったのに、ここまでヒートアップしちゃったら私たちなんかまともに見物できないに決まってるよ。
家のテレビか大学のモニターでも借りて見物していたほうがよっぽど楽だし優雅じゃないかい、実際このありさまじゃないか」
「や!私はちゃんと応援したいの!!」
「やれやれ、困った娘だ」
朱美の母親は大仰に肩をすくめてみせる、口では小言を言っているが表情からすると本気で怒っているわけではないようだ。
「はっはっは、そりゃうれしいな。しかしそうなると参ったぞ、この分だと奥さんの言う通りどこも満杯だ。
独り身でもねじ込めないくらいだぞ?俺も競馬場には慣れているほうだが、こんなのは初めてだぜ」
「そうなんですよ、ここまでになると思ってなくてすっかりタイミングを逃してしまって…ん?」
「しょうがないから外の特別観戦スポットのほうに流れようとも考えてんだが、どうもそこも満杯らしくてね。
もう諦めてホテルのテレビで見ようかと考えていたところさ…ん?」
どうやら互いに二進も三進もいかないようだ、怪訝そうに首をかしげて茂三を見つめる朱美の父親。朱美の母親は困ったように肩をすくめる。
せっかくここまで来たのに目的を果たせずに帰るというのは頂けない、ましてやそれがシマカゼタービンの応援というならなおさらだ。
「そっちの方もダメならこりゃもうあかんわな、馬主席に行くか。そこなら確実だ」
「そういえば茂三さんは馬主だから指定席あるじゃないか」
「なんで最初からいかなかったんです?」
「え、おじさんずるいよ!」
「いやな、俺はこんな一級競馬場の馬主席なんざ初めてだし、そもそもそういうの肌に合わなくてな。あと競馬見るなら一般観覧席が一番だ」
茂三にとって競馬とは楽しむものであり、ただの趣味で遊びである。だから気楽に楽しめる場所が一番好きだ。
馬主席で見る競馬は茂三の印象としては運営側という感覚が強く、何より自分の馬に懸けている情熱などの熱量が非常に肌に合わない。
峠の走り屋としての茂三の感覚がそういうものを拒むのだ。所詮は遊びだ、最後は笑って勝った負けた儲けたスッたと楽しい思い出になるのが一番だ。
とはいえこうなってしまうと馬主席に行ってしまった方が確実だ、時には諦めも肝心である。少し居心地が悪くても見られないよりは断然マシだ。
それに知り合いと顔を合わせてしまったということもある、ここで朱美達を放っておくのも違うだろう。彼女たちも馬主席に連れて行ってしまえばいい。
このしっちゃかめっちゃかな状況だ、よほどの我儘でなければ多少の融通くらいは利かせてくれるだろう。
「さ、行こう。これ以上ぼやぼやしてると動くこともままならなくなっちまいそうだ」
「おや、連れて行ってくれるのかい?」
「ここで会ったのも何かの縁だ、俺の連れってことなら大丈夫だろ。ダメなら関係者なりなんなりで誤魔化しゃいい」
「おじさんも悪よねぇ」
「いえいえお嬢様ほどでは」
馬主席の方へ足を運びながらいかにも悪だくみをしていそうな悪役の顔を作る茂三に朱美はけらけらと笑う。
「こら、そういうこと言わないの。ところで茂三さん、確かシマカゼタービンって群馬の初代ライバルとか新聞でやってましたが本当なんですか?」
「そういえばそんなのあったね、けどどこもあんまりまともには受け取ってなかったみたいだったよ?
テレビの…なんだっけ、なんか騎手のインタビューでいろいろ言ってたけど記者の解釈は一種の受け狙いって感じだったし」
「はっはっは!そりゃそうさ、ダイオーもノルンもツバキも、ディープにハーツだって今や世界に誇る日本の名競走馬だ。
そんな怪物陣営が最初の壁になっただけのたかが地方競走馬相手にコメント残したところでリップサービス以上になるわけあるかよ」
茂三はふと会社の食堂で見た有馬記念の出走枠順を決める抽選会の生中継に合わせて行われた記者会見を思い出して笑い声をあげた。
当時、自分達は会社の仕事で都合がつかず、枠順は最後に残ったモノで文句を言わないことを条件として特別に欠席していた。
仕事の合間の短い休憩を利用した夕食時、食堂で偶然一緒になったシマカゼタービンと一緒に大盛猫まんまを掻っ込みながら見る生中継は何とも滑稽だったのを覚えている。
当時はそれよりも次の仕込みに使う酒米の配合についてシマカゼタービンが相談してきたのでそこまで集中していたわけではなかったが、そこにいることもできない自分たちに何をいわんやという話だった。
食堂の窓から首を突っ込んでどんぶりに山盛りの猫まんまを一切散らかさずに器用に食べるシマカゼタービンも不思議そうな表情をしていたのを覚えている。
「群馬の3頭が群馬を主に走ってた時のライバルがうちのあいつでね。そこそこ強い、実は群馬じゃまだあいつのほうが勝ち星は多いんだぜ。
ディープとハーツはあいつらが群馬トレセンに調教に来た時に相手してやった、まぁ練習相手だな」
「それであんなふうにいい顔しますかね?」
「思うところはあったんだろ、大竹さんにはなんで一緒に中央に出してこないのか不思議がられたしな、そんなことする暇ないって話なんだがよ。
だがまさか、ここにきてマジで来れるなんざ思わんかったわ。自分の我儘とはいえ、実現すると気を揉むよ」
「おや、暇がないと言いつつこうして中央に出せるくらいだから一流の馬主だと思っていたが違うのかい?」
「奥さん、俺が一流なら今ごろ馬主席で気を揉んでる連中は神様仏様イエス様だぜ」
あからさまに『格上』だとおどけて言う茂三に、朱美の母親は神妙な顔つきで唸る。
「俺は片田舎で酒作ってる零細企業の木っ端社長さ。あの人たちが一息すりゃ簡単にふっとんじまう木の葉なんだよ、相手にならん」
思えばどこか、そんな僻みもあったのかもしれねぇな。全く自覚していなかったことに茂三は苦笑して、それを受け入れた。
人間生きていれば大なり小なり心は動くし移ろうものだ、多少の僻み妬みなんていつもの事だ。
群馬トレセンに行けば、高崎競馬場に行けば、最近は大体自分よりも成功して金も地位も持っている人間ばかりが多くいた。
そんな彼らに自分はどこか僻んでいたし妬んでもいたのだろう。それを出しても意味がないから遠慮なくつるんで絡んでいたが。
「そうかな?おじさんが葉っぱで、その人たちが息ならおじさんのほうが強くない?」
「どういうことかな?」
「だって一杯フーフーしたってさ、葉っぱは浮かぶだけでちぎれないもん」
朱美は廊下の片隅に落ちていた木の葉を手に取る、どうやら外から紛れ込んでいたらしい。
それに向かって大きく息を吸い込んでから、思いっきり吹きかけた。木の葉は吐息に押されてふらふら動く。
息を吹きかけながらわざと朱音が手を離すと、木の葉はそのまま息で吹き飛ばされてそのまま地面に落ちた。
「ほら、息じゃ飛ぶだけ。台風の時だって葉っぱは一杯飛ぶけど、びりびりになってないのは一杯あるし!」
「なるほど、そういう解釈もあるね」
「確かにいくら風が吹いても葉っぱは飛ぶだけで傷つくのは別の理屈か」
言われてみればそうである、瀬名酒造の規模では日本中央競馬の一流馬主たちや海外の一流馬主には逆立ちしても敵わないが逆にあまりにも格が違いすぎるのだ。
仮に相手が大鉈を振るってきても体格差が有りすぎていくらやっても頭上を素通りするだけで、ということも大いにある。
というかそもそも相手にする理由がないくらいの差が有るのだから、向こうが目を向けない限り逃げるが勝ちなのが瀬名酒造だ。
「おっと、こりゃ一本取られたな。おじさんもまだまだだな」
「むっふ~ん♪そうでしょ?だからおじさんはタービンちゃんが勝てるように応援すればいいだけなんだから!」
「勝てるかねぇ…」
シマカゼタービンは勝てるのか、そう問われてふと茂三は答えに詰まった。勝つだろう、実力は負けていないはずだ。
普段からお荷物である自分を乗せていても、模擬レースではディープインパクトと大竹のコンビを相手に全戦全勝だったのだ。
それは他の競走馬相手も同じであり、ホクリクダイオー、ノルンファング、ツバキプリンセスは言わずもがな、ハーツクライやスイープトウショウだってやり込めた。
地方騎手としてもギリギリ二流な敏則ならば、茂三が鞍上を務めていた時よりも数倍はやりやすいに違いない。
(だが問題は山盛りだ、何もかもが足りてねぇな)
いつもならば勝てるだろう、いつものような模擬戦ならば勝てるだろう、だが今回はそうではない。
練習量は全く足りていない、あんなふうに言ったうえで実際登録はしたが、茂三自身も本当に出られるとは信じていなかった。
結局は自己満足の分の悪い賭けであり、やれることはやったけど駄目だったと自分に言い訳するための代償行為でしかなかったはずなのだ。
だから練習は元からおざなりであり、出走確定まではそれこそ何もしていないも同然であった。
出走確定後でさえも群馬トレセンではアルバイトの合間に、普段より少し自由な時間を増やして好きに走らせて芝に慣れさせた程度。
あとは芦名の峠で自らのAE86GT―APEXや敏則のAE101GT―Zとダウンヒルバトルを夜通し続けた程度で、これもまともな練習ではなかった。
速度やコーナーワーク、度胸に体力、咄嗟の判断力など、走れば走るだけ光るシマカゼタービンだがそれは峠であるから光るだけのことだ。
日本中央競馬が自信をもって設置する中山競馬場の平地芝コースで、その実力がどれだけ発揮できるかなどたとえ馬主の茂三であっても予想は難しかった。
さらに茂三たちは競馬だけに注力してきたわけではない、会社の仕事を全速力で始末して何とか三日間をひねり出すために敏則とシマカゼタービンも文字通り馬車馬のように働いてきたのだ。
元々出られると思っていなかった上に、本業の酒造の経営が好景気過ぎる現状をどうにか耐えるべく会社が一丸となって対処している状況で社長だからと趣味だのなんだのと言っていられるわけもない。
まずは本業を優先するのは当たり前の話であり、競馬やアルバイトは二の次といえた。
当然ながら有馬記念に出るなどというのは完全な『アクシデント』であり、本来ならばそんなものに足を延ばす必要はない。
それでも出走を選んだのは茂三の珍しい我儘と中央と地方両方の競馬に対する義理が大きな理由だった。
この2年間、茂三も敏則もシマカゼタービンも競馬には楽しませてもらった。仲のいい仲間と強いライバルにめぐり合わせてもらって、さんざん一緒に走って遊び倒した。
好きに暴れてやらかして、そのたびに中央にも地方にもさんざん迷惑をかけてきた。何をどう言われようが恩がある、それを返すなら今が一番だ。
何よりあの有馬だ、記憶に残るあの有馬記念に自分が馬を出せるというのだ。自分が思い描いた夢が、叶わないと思っていた夢が叶うというのだ。これは我儘だった、悩みに悩んだ末に土壇場で意見を覆す大人げない我儘なのだ。
だから何もかもが足りていないのだ、基礎すらもシマカゼタービンと敏則には全くない裸一貫の状態でこの大一番に挑もうとしていることになるのだ。
そしてこの満員御礼の中山競馬場という衆人観戦特盛で、文字通り全世界に向けて見世物にされているという現実。
シマカゼタービンがこれを理解していないはずがない、普段の競馬とは明らかに別物だということを理解していないはずがないのだ。
そんなぶっつけ本番に我が息子たちはこれから挑もうとしている、これでミスをするなというほうが無理な話だ。
「――――プインパクトの勝利が固いって通説は間違ってないだろうな、うちの先生方もそれは同意見だ」
「やっぱそうっすか、強いっすもんねぇ…ってか末脚の加速と速度が明らかに馬のそれじゃないですし」
「だが逆を言えばそこ以外はランク上位との実力は拮抗状態だ、加速力で言えば地方の3頭だって負けてないし速度だって明らかに一線を越えてる。
そこを含めてもディープインパクトが固いのは中山競馬場でのレース経験だな。海外勢は論外、地方も中山競馬場での経験は少ない。
ここのアドバンテージで上回ってるのはハーツクライのみだが、ハーツクライは国内GⅠ未勝利で総合成績では劣る。
それらを総合的に踏まえると必然的にディープインパクトがトップになるってわけだ、もちろん現実はそうはいかんだろうが堅いことには違いない」
すれ違った記者らしい格好をした男性二人の言葉が漏れ聞こえて、ふと茂三はつぶやいた。
「格付けかぁ…」
「気にしない方がいいよ、そんなのアテにならないってどこの世界でも一緒だからね」
「気にしてるわけじゃねぇさ、まともだもの。ましてや有馬記念だ」
「…あれ?この人ほんとに気にしてないぞ」
歩きながら競馬新聞の人気順位欄に目を落とす。堂々の一位は言わずもがなディープインパクト、僅差でホクリクダイオーが2位だ。
3位ノルンファング、4位ハーツクライ、5位にツバキプリンセスと続いていて、一番下の最下位にシマカゼタービンがいた。
倍率は単勝で621倍という頭のおかしい数字になっているが、これは馬券の発売数が今年は桁違いになっているのが原因だ。
今年は国内ののみならず、イギリス、アメリカ、ドイツ、ドバイからの出走をはじめ、群馬の3頭やディープインパクト、ハーツクライ、コスモバルクといった日本競走馬が出走した国の競馬ファンたちも有馬記念に注目しているのだ。
出走馬を出している国の競馬ファンは自国の馬の勝利を願って馬券を買い、出ていない国の競馬ファンは自分たちを負かした馬の馬券を買う。
そしてそれ以外にも馬券は続々と買われていくし、賭け金の量も桁違いなものが生まれている。
今年は明らかに分母が違いすぎる故に起きた一番人気と最低人気との落差というわけだ。それほどまでにシマカゼタービンは買われていない。
決して弱いわけではないスイープトウショウでさえ210倍、ダイワメジャーが230倍であるから相当なものなのだろう。
(うちのタービンは人気最低、まぁ当然なんだがな)
シマカゼタービンはそもそもどうしてここにでているのかわからない変な地方競走馬である。
世界を賑わせた群馬地方競馬の3頭の初代ライバルであり、高崎競馬場でしのぎを削った強敵だとしてもそこから先は3頭の功績が頭抜けている。
世界に飛び出した彼女たちに対して、彼は群馬にとどまり普通の地方競走馬として過ごして安穏としていたと世間は見ているだろう。
そして競馬の実績は基本的にダートのマイル及び短距離を主体とする逃げ馬だ、芝の長距離2500メートルの有馬記念では通用するとは思えない。
芝のレースコースそのものの経験はあるのだが、あくまでそれは群馬競走馬トレーニングセンターの練習コースでの経験のみだ。
走るとなれば余裕で走るだろうし、2500メートル程度ならば走り切るくらいは造作もない。しかしそれはあくまで練習での話だ。
競馬場で実戦を経験したことはない、今回が初の芝コース出走となる。初の実戦が有馬記念というのは奇跡の部類だろう。
(負けるだろうな。やっぱ負けるよな、ペースミスか、技術不足か、はたまた他の要因か…要因がありすぎて勝ち筋自体見つからん)
大変甘い話ではあるが、たとえ土壇場で棄権を表明しても茂三は責める気は毛頭なく、むしろ認めるつもりすらあった。
そもそも自分達はただの峠の走り屋である。夜の山道に集まった仲間内でワイワイやって楽しむお山の大将気取りが性に合うのだ。
そんな自分たちが全世界にテレビデビューする?緊張で頭がおかしくなっても誰も責めたりしないだろう。
(でもまだ終わってない、やってみないとわかんねぇ)
グダグダ考えても結局最後はこうだから、茂三はスパッと考えを打ち切った。
バカな話だ、馬鹿げた話だ、もうすでに賽は投げられた。自分は大馬鹿者で、どうしようもないクソ親父なんだろう。
だけれども、これは夢だったのだ。俺の夢だったんだ、俺の夢が叶う日なのだ。
「わからねぇな、勝つかもしれないし、負けるかもしれない」
「なんで!?そこは勝つよとか、信じてるとかじゃないの!?」
「はっはっは、そりゃ簡単だぜ。いいかい?俺みたいなのはな、これがいいんだよ」
「どういうこと?」
キョトンとする朱美に、茂三はニヤリと笑う。いつも通りの走り屋の顔で、骨の髄まで峠に魅入られた男の顔で笑ってみせた。
かつて多くの格上相手に『スプリンタートレノAE86GT―APEX』で、芦名の峠を舞台に接戦と勝利を繰り返し峠の伝説といわれるまでになった男は、この状況下が楽しかった。
追い詰められているのが面白くて、負けが込んでいるのが楽しくて、でもまだ勝負がついていないから諦めないで食い下がるのが面白かった。
自分より格上のスポーツカーを相手に愛車のボロハチロクで食い下がり、テクニックとクソ度胸で一瞬の勝利をつかみ取り、強い車に乗った連中をあっと言わせて驚かせてきた。
その面白さをあの時、あの時代に、ツインターボの走りに彼は競馬に見出したのだ。
ツインターボの走りは面白かったのだ、最初から最後まで全力で逃げるあの走りが面白かったのだ、最後まで勝負がわからない走りが面白かったのだ。
負けても負けて、破滅逃げからの逆噴射を繰り返して、それでも逃げ一辺倒で勝つときは勝ったあの走りが大好きだったのだ。
だから笑う、最後まで笑う、すべてが終わるその時も、すべてが終わったその後も、最後の最後まで楽しんで笑い飛ばす。
「最後まで勝負がわからねぇ、これが一番面白れぇんだよ」
負ける勝負をするのには理由がいる。茂三にとってそれは『最後まで分からないから面白い』というだけで十分だった。
◆◆◆◆◆◆
この日をどれだけ待ちわびたことだろうか。初めて群馬トレセンで彼に出会い、そして彼に手も足も出ずコテンパンに負けてからどれだけ焦がれてきただろうか。
ディープインパクトは何度も走ったことのある中山競馬場の芝コースの上を歩き、一緒のレースを走る見慣れた世界の強豪たちの姿を見据え、その中に待ち望んでいた栗毛の競走馬を見つけた時に心の底から歓喜に震えた。
(やっとだ、やっとお前と戦える!!)
栗毛で鬣を短く切っている以外に特徴といった特徴のない地味な牡馬、しかしその中身は今まで自分が一度も勝てていない最強のライバル。
見ただけではわからない、その目立たない馬体の中身はどれほどまでに鍛え上げられているか、今のディープインパクトでさえ予想がつかない。
居心地悪そうに芝を踏み込んで足踏みする彼は、このレースの雰囲気に乗り切れずどこか浮いている。その姿と自分の知る彼の姿がどうにもらしくてディープインパクトは安心した。
こんなところきっと彼は望まないし来たいとも思わなかったはずだ、そういうやつなのだと長い付き合いの中で分かっていた。
「ヒヒン!」『ようやくここで会えたな』
ディープインパクトは大竹がそれとなく制止する仕草をするのも構わず、芝の上で足踏みする栗毛の牡馬のすぐ近くまで歩み寄った。
「ヒンッ」『久しいな、ディープ。しばらく会わないうちにずいぶんと逞しくなったな』
「ヒヒン」『お前が言うと嫌味に聞こえるな』
『嫌味なもんかよ。見てたぜ、凱旋門』
『ナニ!?お前が!!?』
シマカゼタービンは少し不気味に微笑む、何か悪戯を考えていそうな表情だ。
『お前、ヘマしてたな?最後の最後で足の踏み込みが甘くなって推力が逃げてた、詰めが甘いぞ』
『相変わらずよく見てるな…同じヘマはしないさ』
『二度あることは三度あるというぞ』
『この野郎、気にしてたことをぬけぬけと…それでどういう風の吹き回しだ?お前らしくない』
『ただの巡り合わせだよ、本当はこんなもん出る気ねーわ』
『そうか、だが俺はうれしいぞ。やっとお前と戦える』
『俺は楽しくないね、こんな所でお前らと会いたくなかったよ』
それだけ言うとシマカゼタービンはそっぽを向く。つれない態度だ、雰囲気がどこか尖っていて表情が硬い。
場所が場所だ、柄にもなく緊張しているのだろうか?ディープインパクトはそう思った。
「ひんひん」『ちょっとちょっと、何固くなっちゃってんのさぁ?』
「ふひぃぃん?」『らしくないですね?そんな顔をして。緊張してるんですか?』
そんなシマカゼタービンの尻を軽く肘で突いて悪戯するホクリクダイオー、その横でノルンファングが不思議そうに首をかしげる。
鞍上の頼信と田島は互いに苦笑いしながら敏則に向かって軽く頭を下げていた。
いつの間にか現れた二頭であるが、彼女たちにはよくあることだ。ついでに微妙な顔をするシマカゼタービンもいつものことだ。
『リラックスしなよ!じゃないと僕が勝っちゃうよ?』
『おや、それは聞き捨てなりませんね。勝つのは私です、覚悟しておいてください』
『何を?』
『なんです?』
『その前にもうちょい周りの目ってのを考えなさいよアンタら…』
強引に顔を突き合わせる2頭から少し離れて呆れた視線を向けるツバキプリンセス。群馬トレセンにいたなら突っ込みの軽いケリでも見舞っているところだろう。
『おぅ、ツバキか。久しいな』
『久しぶりね、こうしてレースで顔を会わせるなんて高崎でしかないと思ってたわ』
『俺もできればそうしたかったがね。ちょっとそうもいかなくなった』
『そう。でもね、私もうれしいの。やっとこうして戦えるんだからね』
闘志を燃やすツバキプリンセスの視線がシマカゼタービンに注がれる。その視線をシマカゼタービンは何とも言えない表情で受け止めた。
なんだろうかこの違和感は?その様子にディープインパクトは違和感を覚えた。
「ヒヒンッ!」『決着ならレースでつけなさい!喧嘩なんてしたら追い出されるわよ!』
「ブッフ」『キョウコソボクガカツモンニ!!』
「ヒヒッ」『ミッションを確認、オペレーションを開始』
いつもの姦しい彼女たちの言葉にシマカゼタービンはどこか遠い目をして、なぜか困ったように苦笑した。
『ほんと、住む世界が変わっちまったな…仕方ねぇ話だけどよ』
『そんなことないだろ、あいつら大体あんなだったじゃないか』
『いーや、変わったね。良いか悪いかは自分で決めることだが、あいつらは変わったよ』
どこか懐かしそうに、そして少し寂しそうにやいのやいのと姦しく3頭で顔を突き合わせる姿を眺めている。
その様子はどこか場違いで、いつの間にか消えてしまっていそうな儚さがあった。
らしくない、あまりにもらしくない、ますますディープインパクトの中の疑念が募る。
『なぁタービン、俺も変わったか?』
『あぁ、前より立派な競走馬の顔だ。あの駄々捏ねてた坊主がこんな立派になっちゃって』
『ふぁ!?それは思い出さなくていい!!』
『はっはっは』
なんだ、この違和感は。ディープインパクトはシマカゼタービンの様子に違和感しか感じられなかった。
調子が悪いのか?気分が悪いのか?いやそんな風には思えない、そんなヘマをするとは思えない。
『なに?あの馬、気色悪い』
『随分と貧相な馬だ、あんなのが紛れ込むとは…いや、運良く出られたと思ったらやばいのに巻き込まれたタイプか?』
『随分と馴れ馴れしい、分相応というものを教えてやろう』
ふいにどこからか揶揄する声が聞こえてくる。それを聞いて、どこの誰が、誰に向けてそんな風に小馬鹿にしているのか分かった。
むかっ腹が立ってふざけた言葉を吐いた海外の競走馬たちに向けてにらみを送る、同じレースを走ったことのあるレイルリンクとエレクトロキューショニストは少しバツが悪そうにそっぽを向いた。
鞍上の騎手は訳知り顔のようだが、それでもどこか手をこまねいているように見える。
とりあえずふざけたことをいうやつにはわからせなければならない、そう思ったときディープインパクトと海外馬たちの間に一頭の栗毛の牝馬が割って入った。
鞍上の騎手が突然の行動に驚いて手綱を引いて抑制しているが全く意に介さず、海外馬たちのほうを向いて一声かけた。
『やめなさいよ、あんたら。そんな油断してると潰されるわよ』
『なんだ、お嬢さん?あの馬の知り合いか?』
『あたしはスイープトウショウっていうの。言っとくけど、ここにいる連中はあたしも含めて一流よ。
そんな噂してる暇があるのかしら?ここはあんたらが目の敵にしてる連中のホームなの、日本の芝はあんたらの国とは違うわ。
あたしならそんなことしてる余裕なんてないわね、何せ四方八方全部敵みたいなものだもの』
間に割り込んできた牝馬、スイープトウショウの言葉にうなりが返ってくる。それに補足するようにハーツクライが割り込んだ。
『その通りだ、君たちが大変元気いっぱいなのは良いことだがね。でなければ張り合いがない』
『言いやがったなこの野郎、勝ったつもりか?ハーツクライ』
『なに、異国の地にも関わらず随分余裕そうだったからね。お喋りなら俺が相手になろうじゃないか、顔見知りのほうが話しやすいだろう?』
いつもは穏やかなハーツクライが慇懃無礼な態度で相手を見据え、それとなくこちらに目配せして合図を出した。
こいつらは俺に任せろ、そう目くばせするハーツクライにディープインパクトは頭に上った血を鎮めるために小さく息をつく。
その時、シマカゼタービンがふと観客席のほうを見た。大人数が詰めかけた観客席、その上の特別な席、人間のボスたちが座る席の方向だ。
それにつられるように鞍上の敏則も同じ方向を見て、何ともアンニュイなため息をついていた。
「大竹さん、俺はやっぱこういうとこ好きじゃねぇですわ」『俺はな、ぶっちゃけこんなもんくそどうでもいい』
「そうだろうね」『そうだろうな』
『仕事のほうが大事だし、峠のほうが走りたいし、お前らとだってぶっちゃけ群馬でやれてりゃそれでよかった』
「俺たちはただ走れればよかった、ただ峠で走れていればそれでよかった」
おかしい、ディープインパクトはシマカゼタービンの様子が変わったことに気が付いた。
彼がこういったことに興味がないのはこの2年でよく知っていた、だから別にこう言われても特に思うところはない。
しかしおかしいのだ、興味がないという彼の背中から感じるのは『戦意』だ。だがその質がまるで違う、これまで感じた幾多の名馬や騎手たちの持つものとはまるで違う。
彼らから漂うその気配は違う。今まで感じてきたどんな名馬とも、どんな騎手とも、まるで気色が違う。
今まで感じてきた熱くたぎるようなそれではない。どこか一線を引いたような、冷たさすら感じるような鋭さが肌を刺すのだ。
「うちは今てんてこ舞いでね、俺も親父もタービンも会社に缶詰めで仕事してなきゃならないんですよ。
親父は社長で書類三昧、タービンは酒造りの陣頭指揮その他諸々、俺だって机に仕込みにとあっちこっちと飛び回りましたよ。
今だって会社は大車輪で火の車、うちの製造力じゃ足りやしねぇってのを何とか回して凌ごうとしてる。俺らは会社にいなきゃならなかった。
俺たちは先祖代々そうやって過ごしてきた、そうやって生きてきた、馬たちと一緒に必死こいてここまで来た」
自嘲気味に敏則は微笑む、その顔はどこまでも悲しそうな笑みを浮かべていてディープインパクトは困惑した。
こんな風に嗤う騎手を今まで見たことがなかった。この場に出てくる人間は見た気合と自信に満ちているか、気合と覚悟を決めているかだった。
「本当にどうしてこんなところまで来ちまったんだろうな、どうしてこんな風になっちまったんだろうな。
走り屋風情に期待してくれた連中がいるんだ、たかが走り屋にこんな場違いなもんに出てくれって頼んできたんだ。
あの親父が、本当にただの我儘を押し通して願ったんだ。理由もへったくれもねぇただの我儘に俺たちを巻き込んだんだよ。
まさに踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿保なら踊らにゃソンソンってか」
背筋が凍る、今まで感じたことのないような気配をディープインパクトは感じて思わず飛びのきそうになった。
シマカゼタービンはまだこちらを見ていない、それなのにまるで射抜かれたように心臓が早鐘のように鳴る。
この瞬間をずっと待っていた、このレースをずっと待ち望んでいた。俺は望んでいたはずだ、ずっと待ち望んでいたはずだ。
模擬レースではない、並走でもない、正真正銘の勝ち負けを決める実践で彼と戦える日を待ち望んできた。
自分のライバルと本気の勝負をできる日を待ち望んできた。そのはずだ、そのはずなのだ、なのになんだ、この強烈な悪寒は!!
「腹は括りましたよ、たまには親孝行も悪くない…タービン、仕事の時間だ」
何かが切り替わる、そんな一本筋が通った命令が敏則から飛ぶ。瞬間、シマカゼタービンの雰囲気が切り替わる。
今までどこか居心地悪そうにしていた彼の雰囲気が、浮ついていた空気が一瞬のうちに不気味なほどに凪いだ。
『育ての親の珍しい我儘だ』
酷く凪いだ声色だった、どこまでも底の見えない声色だった、今まで一度も聞いたことのない不気味で得体のしれない声色だった。
『俺は有馬を獲らなきゃならねぇ』
彼から湧き出すそれは戦意だ。だがそれは冷たく冷酷で、こちらの意思を砕かんとばかりに突き刺す感じたことのない何かが混じっていた。
それは覚悟だ、だがそれはあまりにこのレースにはそぐわない異質な覚悟だ。
『だからな、ディープ』
振り返る、シマカゼタービンの目がディープインパクトを見据え、その眼の色についにディープインパクトは自分の目が信じられなかった。
『勝たせてもらうぞ』
シマカゼタービンの目が、澄み切った底の見えない瞳が、ディープインパクトを敵として睨みつけていた。
そこに見慣れた走り屋としての彼の姿はどこにもなかった。
あとがき
時に競走馬よ、競馬の掟は忘れておらぬな。
一つ・馬主は絶対。逆らうことは許されぬ。
二つ・騎手は絶対。命を賭して守り、共に勝利を手に入れよ。
三つ・勝利は絶対。一時の敗北は良い、だがあらゆる手段を尽くして取り戻せ。
出来るかな?この有馬記念で。できるかな?覚悟を決めた友の前で。
ところであなたは仲の良い遊び仲間と命を懸けて戦えと言われて奮い立ちます?
肩を並べて、笑い合って、競い合って、喧嘩して、泥んこになって、最後は馬鹿みたいに笑って遊んだ仲間たちはそれを望んでいます。
自分と命を懸けたレースをしようというのです、戦うことを喜んでいるのです、笑って楽しんでいるのです。
そういう世界なんです、そういうもんなんです。
でもね、世界は厳しく残酷で不平等で理不尽でくそったれで救いがないもんです。競走馬の世界なんか、厳しいどころの話じゃない。
例えGⅠに出られるような馬でも、それこそGⅠ馬であろうとも時には…競馬好きならわかるんじゃないでしょうか。
おまけ・作者の戯言
少なくとも自分は嫌だね。そんなもん。