気儘に生きた転生馬物語   作:イナダ大根

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いつも多くの感想と誤字報告ありがとうございます。
時間は少し戻ってスタート前、後世において『立てば芍薬、話せば牡丹、しかし本性生デジたん』などとどこかの界隈では言われたり言われなかったりしそうなやつからスタート。
おかしい、書きたいことを書いていたらあれもこれもと増えて…全然終わらない。なんだこの長さ…






第50話

 

 

 

 

会場内に本場馬入場のアナウンスが響く、日が僅かに陰り黄色みが掛かり始めた太陽が照らすレース場は客席の喧騒など無縁とでもいうように静かな緊張感に包まれていた。

それはこの馬主席に集まった馬主達と、関係者席も一般開放したために馬主席に押し込まれた調教師などの関係者たちも同じだった。

普段は別々の場所にいる調教師や厩務員長立なども馬主席に一緒くたにされ、普段よりもだいぶ過密な馬主席に馬主側が顔をしかめてもおかしくない対応だが現状が現状なだけに『仕方ない』とあきらめるしかない。

何しろ中山競馬場は来場客が空前の超過密状態、その現状をその身で知った馬主やその知り合いの証言もありむしろこれでもかなり優遇されているのだと肌身で感じられたのだ。

普段よりも人口密度の高い馬主席の中に招待された雑誌記者の一人である稲波もまたその一人であり、緊張感で静まり切った部屋の中で胸の内にたぎる興奮を抑え込んでいた。

 

(いやぁ、眼福ですねぇ!)

 

どちらを向いても今年の一世を風靡した名立たる馬主が勢ぞろい、調教師や厩務員たちも名の知れた凄腕ばかり。

レース場に目をやればこれまた今年の世界競馬を賑わせ、波乱の渦に巻き込んだ名馬と騎手が世界から勢ぞろいと来たものだ。

これで興奮しない方がどうかしている、競馬雑誌の記者であり無類の競馬好きな稲波にとってここはもはや天国に近かった。

 

「うぇひ、うぇひひひひ♪」

 

思わず汚い笑い声が喉からこぼれるがそんなことはお構いなしに稲波は周囲に配慮しつつ手に持った一眼レフカメラで写真を撮る。

その腕前と仕草は世界を股に掛けた一流記者そのものだが、緩み切った表情と時折漏れる気色悪い笑い声がそれを帳消しにしていた。

それを何とも言えない表情で見つめる小泉と大橋、そしてなんだこいつという胡乱な目を向ける周囲、しかしそんなことは知ったことではない稲波。

写真を撮りながらそれとなく海外から来た馬主や調教師に近づき、この雰囲気からは考えられない流暢な英語などの各国語で取材を行い、その実力にインタビューされた方は見た目と雰囲気らしからぬやり手の記者そのものの質問に目を白黒させる始末。

馬主席は今まさに全世界の競馬に名が残る名勝負が生まれる直前にもかかわらず、何とも言えない残念な笑いを醸し出すコメディな雰囲気になっていた。

 

「おい、大橋、お前んとこのだろ。何とかしろ」

 

「できるわけないだろ。なぁカメラさんのところの記者だろ?なんか言ってよ」

 

「無茶言わんといてください、あんなんでも俺の上司ですよ」

 

中央の調教師達は精一杯他人のふりをしているが、関係性を知っている関係者からの視線に冷や汗を流す。

なにしろ稲波は記者としての実力はあると同時にいろいろぶっ飛んでいる『日本の恥』の塊のような女だということはこの一年の活動で知れ渡っているのだ。

顔も良ければ話もうまい、仕事は真面目で知識も豊富、書いた記事は面白く日本競馬の宣伝には欠かせない。

どんな仕事も嫌がらず、都合がつけば現地に飛んで活躍し、どこぞのヤの付くご職業と見まごうばかりの強面の人とも一歩も引かずに仕事をこなす。

話にすれば英雄のような記者である。しかし変態である、その中身は競走馬と競馬の事しか考えていないような生粋のオタクであり、生まれながらの変態である。

 

「何やってんだぃ…」

 

「親父、ケジメをつけさせますか?」

 

「お前もお前で変な空気に乗るな」

 

紋付き袴の完璧装備でよりヤクザ感がアップした新坂三郎がかぶりを振り、その後ろに控えた強面の秘書がボケてそれに突っ込む。

強面でいかつい風貌のわりに意外とコミカルな一面がある秘書の武村が、真面目腐った面持ちでヤクザを演じればそれはもうヤクザである。

その横で極道の女ファッションで身を固めた三郎の妻が意味深げに微笑み、深みとドスの利いた表情でころころと笑えばもう映画のそれだ。

そのヤクザな集団に、周囲の海外馬主は目を白黒させて興味深げにしている。

 

「中央の馬主席ってこんな感じなのか…なんだか愉快なところですね」

 

「今回だけだよこんなの、普段はもっと緊張感がある」

 

「そうなんですか?うーん、こんなことなら一度は行くべきだったな。そういえば噂のアラブの殿下、いませんね」

 

「彼も多忙なんだよ、君と同じで仕事優先にしてる。そういえば君、ツバキが大一番の時は全部欠席だったそうだね?」

 

「仕事がかぶったもので、不幸なことに全部が全部」

 

空気に乗れずどこか場違いな借りてきた猫のような雰囲気のある男性のそんな感想に、勲章を胸に付けた年季の入ったカーキ色の軍服に身を包んだ老人、西竹一がカカと笑う。

そりゃ行けるなら行きたかったですよ、と彼はコーヒーを一飲みするとため息をつく。

 

「でも後悔はしてませんよ、おかげで仕事は順調だし大口契約もうまくいきました。こうやって最後には間に合いましたしね」

 

「経営者としてやってくならそういうものだろうさ」

 

「ですよねいくら馬主とはいえ仕事優先なのは社会人として普通でしょう。都合がつかないときくらいある。

今日だって茂三を見習って爆速で仕事終わらせて休暇取れる下地作ったんですから」

 

「それでいいんだよそれで、馬たちだって変にしゃちこばられてたら緊張してしまうものだ。そういう普段の態度で十分だよ」

 

「でもね…最近、周りの目が痛いんですよ。ツバキが走るのに何であんたがここにいるんだ?って」

 

「そんなことがあったのかい」

 

「それだけじゃありません、仕事先に行くと相手さんが馬主やってると馬の話を振られていろいろ聞かれますから困るんですよね。

こっちは仕事で行ってるわけで商談とか契約とかいろいろ詰めに行ってるのにずっとツバキの話なんです。

脱線が過ぎてて迷惑なんで何社か本当に縁切りしなきゃならなくなりました、全く以って腹立たしい限りです」

 

「あ、それってもしかして日高さんのところに作るつもりだったホテルの話?ここ数年頑張ってたのにうちの連中も急に足抜けしてたよ」

 

「そうです。うち系列の牧場を絡めてのリゾート開発計画でファミリー向け観光地開発を行うはずでした、あんな入念に準備してたんですけどね。

没ですよ没、連中の化けの皮が剝がれました。目を見てわかりましたよ、ああいう連中の目は公道で嫌って程見てましたからね。

湾岸でも峠でも、ああいう目をした連中で長くやっていける連中なんて一握りだ。ましてや、経営者としてやるなんてね」

 

ツバキプリンセスの馬主である彼は神妙な表情で再びコーヒーを口にする。彼もまたかつては一人の走り屋であった。

群馬の峠を走り、首都高湾岸線にも出向き、走って走って走り続けて、そして自らの到達点を見つけて今はこうして経営者としての立場にいる。

愛車のシルビアS13で首都高に出向き、湾岸で走るスピードモンスターに食い下がって負けた話などは稲波も面白く感じたほどだ。

 

「久々に車で東京を回りましたがね、驚きましたよ。茂三から聞いてはいましたが、知ってる店や工場はほとんど閉まってた。

しかも普通に閉めてたんならまだいい方で、中には借金踏み倒して夜逃げしてたりとか…経営者として許せない終わらせ方してまして。

当時は敏腕チューナーとして腕を鳴らしていた整備工場なんて、もう数えるくらいしか残ってない。

昔は公道で時速300だの、800馬力だの、聞いてるだけでも楽しかったもんなんですが、それもおとなしくなっちゃいました」

 

「群馬にもそこそこあったな、そういう車屋。確かにほとんど閉まったか」

 

「えぇ、でもまだそれならいい方だった…」

 

彼は悔しそうに息を継ぐ、その表情はどこまでも虚しさに満ちていた。おおよそこの場の馬主がする表情ではない。

その姿に浮かれていた多くの馬主達が息を飲んだ。浮かれ切っていたところに冷や水がかけられ、次の言葉に耳を傾けた。

世界から集まった馬主達とて経営者である、そんな彼らにとっては聞き逃せない話でもあったのだ。

 

「みんないい腕でした、最高のメカニック達だった。でもみんな、あの才能を発揮できない仕事をしてる、腕を錆びつかせちまってる。

知り合いに腕のいいメカニックがいた、ギリギリのチューニングをいつも好んで引き受けてるぶっ飛んだ馬鹿なやつでした。

でもそいつは危ないチューニングにばかり傾倒した末に自分の工場を潰して、家も失って、家族にも逃げられて、今じゃ自転車屋…ままならんもんですよ」

 

「栄枯盛衰、時代とはそういうものだよ。俺たちは不死身じゃない、無敵じゃない…茂三たちとつるんでた時期が懐かしいか?」

 

「今もつるんでますよ、走りはしませんがね…西さんの言う通り、それが時代だ。わかっちゃいるんですよ、頭が理解してる。

だから分かるんです、社会で生きていく以上はそうやって変わっていかなきゃいけない、生きていくために利口にならなきゃならない。

だから見切りをつける、しなきゃならない。それでも好きで好きでたまらないからやり続けるっていうなら、それこそ茂三並みにうまくやらなきゃ生きていけない。

馬なんて牧場からしてそうでしょう?走るかどうかなんてそれこそやってみなきゃわかんないんだから、何にもかもぶち込んだ大きな博打だ。

だが日高は…あの目はいけない、経営者としてやってはいけない目だ。車とかスピードとかの熱に焼かれた走り屋やチューナーと同じ目だ」

 

彼は怒りを滲ませて吐き捨てる、その姿は一人の男としての怒りだった。馬主としての、馬を愛する人間としての怒りだった。

 

「血統だの、配合だの、訳の分からん事を抜かしやがる。あの馬鹿野郎ども、自分が今何してるのかわかっちゃいない。

ツバキがどうして走るのかわからないって?その前にやることがあるだろう、俺がなんでお前らと顔合わせしてるのか忘れてやがる。

血統がおかしい?配合がおかしい?どんな秘訣があるのか教えてほしいって?ありゃしないんだよそんなもん。

彼女はレースが大好きで、走ることが大好きで、それにすごく向いてたってだけの話だ。

何より彼女はうちのホテルの看板馬にふさわしい愛くるしさがある、だから気に入って俺は引き受けた。

そりゃ競馬は好きですよ、好きじゃなきゃ馬主なんてやってない。けどね、そいつは趣味であって仕事じゃねぇんだ」

 

茂三と同じだったんですよ、勝とうが負けようがツバキたちの気が済むまでやれるだけでよかったんだ。

俺たちはそれで楽しく遊んで、勝った負けたで自慢し合って、儲けたスッたで一喜一憂する遊びでしかなかったんだ。

 

「それがこの状況…我ながら妙なことになっちまったもんです。俺はただの社長だ、元ホテルマンの経営者でしかない。

競馬の歴史だのなんだのなんざ知りませんよ、オグリとタマモクロス知ってりゃそれで十分でしょう?」

 

「それを言うなら私もそうだろうとも、この年になってこんな大舞台に引っ張り出されるなんて思いもよらなんだ。

私なんかミホノブルボンしか知らなかったぞ?ダービーと皐月賞を勝った強い馬だった、それくらいさ。

そもそもうちのノルンエースに着けたのだって、エースがお見合いで気に入ったからだしな。

でも変だな、うちのノルンにはそういうのはトンと聞かないな。君の口ぶりだと、相応に粉かけてきそうなもんだが」

 

「ノルンは西農園行確定でしょう…そもそもあなたに喧嘩を売る馬産関係者が日本にいるわけがない」

 

下手をしたら米国すら敵に回しかねないんですよ?と茶化すように言う彼に西竹一は首を傾げる。どうやらあまりピンとこないようだ。

胸についた古びながらも綺麗に磨かれている勲章の中に『殊勲十字章』と『パープルハート勲章』が飾られているのを見ればわかる人間は目を見張るのだ。

昨今のノルンファングの大活躍によって西竹一は再び時の人となり、アメリカ国内でも多くのファンがいる英雄の一人となったのだ。

かつてのロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得し、硫黄島でアメリカから降伏を促すまで戦い、そして今また愛馬とともにアメリカのアーリントンミリオンステークスで勝利を飾る生きた伝説である。

 

(人気すごいですもんねぇ)

 

アメリカのGⅠ勝利を群馬トレセンで取材された際、軍服姿でノルンファングに自ら乗り自由に乗りこなす姿が写真に撮られテレビ放映された際の熱狂は凄まじかった。

今も中山競馬場にひしめく観客たちには、アメリカからやってきたミーハーな観光客がだいぶ混ざりこんでいる。競馬を見に来たというよりも、英雄の馬の晴れ姿を見に来たという人間だ。

そんな西竹一や新坂三郎にちょっかいを出すよりも容易いと踏まれたのであろうと稲波は考え、その安易な考えで今頃は地獄になっているだろう件の連中を思い出してかぶりを振って気分を入れ替えた。

いまはそんな関係ない事を考えている場合ではない、この世紀の一戦を前にしたこの馬主席で一つでも多くのネタを仕入れなければならないのだ。

 

(でも面白いネタができましたね…日高、確かに昔の一件以降ごたついてましたからね、そこでダメ押し…今度話をもっていってみようか)

 

これに競馬に興味がない馬主達という題をつけて書いてみるのも悪くない。競馬というものに心を焼かれた人間には効果覿面だろう。

良くも悪くも紙面を騒がせる、しかしそれくらい毒があった方が記事というものは面白いものができる。

そう考えていると稲波はふと清涼剤になるようなネタも欲しくなった。毒だけが強い記事では読み手を選ぶ、緩急が大切だ。

 

「ふっふっふ…買ってしまったねぇ3連単」

 

記事の構想を練っていた稲波の耳に聞きなれない悪だくみを思わせる声が入ってくる。

その方向に目をやると、超過密一般席から幸運にも馬主席に招待された一般家族の奥様が、マッドな雰囲気を漂わせてニマニマと手に持った馬券を掲げていた。

同じ馬券を持つ旦那はそんな奥様を見て苦笑いをしており、同じように馬券を持つ赤毛の娘はキラキラした目で馬券を掲げて見ている。

それを一緒に覗き込む黒髪の少女も、期待と夢に目をキラキラさせていた。どうやら彼女も同じように馬券を買っているようだ。

 

「珍しいね、君がそんなありえない賭け方をするなんてさ」

 

「ここまで来たんだ、楽しまなきゃむしろ非効率だよ。これは記念品だからこれでいいのさ、3000円の記念品だよ。

私たちが今後の人生、馬主席で馬券を買って優雅に有馬記念を観戦できる日が来るなんてあると思うかい?」

 

「ないね」

 

「そんな金が有ったら研究に使うからねぇ!もちろん、当たったら私の分は研究の資金にするよ!!」

 

なにしろ大学の研究室は常に金欠だからね!と気の抜けた会話で胸を張る奥様、なんとも世知辛いお仕事事情のようである。

家に入れる気はないと人でなし発言を豪語しているあたり、どう見ても思いっきり遊んで楽しんでいるのが見て取れた。

現にそれを聞いても旦那は肩を竦めて笑いかけるだけであるし、子供も楽しむ母親に笑いかけて朗らかに笑う。

 

「じゃ、僕は家のローンを払って、残りは半分貯金にして半分は投資かな」

 

「私はゲームに、お人形に、色鉛筆セットとおっきな画用紙と…お寿司!回転寿司で一杯食べる!!香ちゃんは?」

 

「俺はもちろんバイクだぜ!とーちゃんとかーちゃんみたいにかっけーバイクを買うんだ!!」

 

そこには馬主席ではめったに見られない普遍的な一家庭の平凡な家族旅行の一幕が流れていた。

一家族+αの和やかな空気、馬主席にはめったにないその空気感は普遍的でかつ異質極まりない。

稲波ですらそう感じてしまうのだから、馬主席という特異な空間ではあまりにも場違いすぎた。

それも無理はない、あの瀬名茂三がここで偶然顔を合わせた知り合いを招いただけなのだ。とんでもない巡り合わせである。

 

「すいませーん、もう一度お話良いですか?」

 

取材しないなんてありえない、稲波はその家族に気軽な態度でもう一度声をかけた。

 

「あ、稲波お姉さん。今度は何?」

 

「新しく馬券を買ったと聞こえたもので、どんなの買ったのかな?と。ところで茂三さんは?」

 

「瀬名のおじさんならとーちゃんとかーちゃんと一緒にあそこにいるぜ!」

 

どうやら茂三は黒髪の少女、香の指さす先には馬主席に座って物珍しそうに周囲を見渡す黒革のライダースジャケットに身を包んだ少しいかつい夫婦を連れて馬主席で談笑する茂三の姿。

強面で見るからに屈強なバイク乗りといった風体の旦那と右目の眼帯が特徴的な奥さんだ。

その奥さんの顔に稲波は見覚えがあった、ライトノベル作家で今まさに売り出し中の人気作家だったはずである。

相変わらず不思議な人脈をもっているものだと稲波は感心した。

 

「二人はどんなの買ったの?」

 

「えー?みたいのー?」

 

「うんうん、二人がどんなお馬さんを選んだのかお姉さんは知りたいな?」

 

「しょうがねーなー…一緒に見せようぜ」

 

「いいわよ、これ!」

 

朱美と香が見せたのは3連単馬券、指定馬名は『シマカゼタービン』『スイープトウショウ』『ダイワメジャー』と書かれていた。

ほほーぅ?と稲波の中で何かが閃いた。これはなかなかいいネタになるかもしれない。

 

「どうしてこの馬なのかな?」

 

「タービンはおじさんのお馬さんだし、スイープちゃんはかわいいし、メジャーちゃんは応援したくなっちゃったから!」

 

「俺もだぜ!」

 

こんなかわいい理由で馬券を買ってもらえたらどんな馬主でも悪い気はするまい。実際、話が聞こえたのか当の馬主は頬をほころばせていた。

これもいい記事のネタになるだろう、熟練の馬券師やド素人とはまた違う子供の突飛で素直な感情による購入、どこをどう見ても良い美談だ。

ニコニコ顔で馬券を見せる朱美と香に断りを入れて一枚写真に取り、ついでに家族で馬主席の縁側に立つ後姿も写真に取る。

 

(ふふふ、いい写真です。雑誌の扉絵にでもしてもらいましょうか)

 

これまでに撮った写真を思い出しながら、手元にメモ帳を開くとその中に記事の構成を練りつつにやける稲波。

彼女は心の底からこの現場を楽しんでいた。周囲の『また始まったよ…』という何とも言えない諦めの視線をものともせずに。

 

≪――――これより枠入りが開始されます≫

 

「おっといけない、夢中になりすぎましたね」

 

会場内のアナウンスに稲波は意識が引き戻され、即座に手元のメモ帳を閉じると一眼レフカメラをいつでも撮影できるようにしながら馬主席から見えるレース場の芝コースに目をやる。

コースの向こう正面に引き出された発走用ゲートの入り口前にはすでに競走馬たちが鞍上を乗せたまま待機しており、係員の指示に従ってゲートの中に入っている所だった。

各馬は緊張感を持ちながら順調に枠入りしており、嫌がるそぶりもなく係員の誘導に従ってゲートの中に収まり出走の準備を待つ。

今年の日本競馬界の総決算であり、世界中から注目を受けるGⅠレースの有馬記念にふさわしい順当で緊張感のある始まりだ。

 

(皆さんいいですねぇ…しかしあのスイープちゃんが一応はおとなしくできるようになったっていうのは本当でしたか)

 

遠目で見るスイープトウショウの姿は、稲波の知るおてんばで我儘な牝馬とは打って変わっており、おとなしく従っているように見える。

枠入りも静かであり、周囲を見渡しているそぶりはあるが特に怯えていたりという様子は見られない。

しかし稲波にはわかる。スイープトウショウの瞳は何も変わっていない、彼女は我儘娘のままだ。

ただ少しだけ周りを見て、時と場合を考えられるようになっただけであろう。

ここで嫌々と駄々をこねても意味が無い、嫌でも害がないなら黙っておとなしくしておけば勝手に終わる、そうどこかで学習したのだ。

なぜなら所属厩舎や調教においては相も変わらず我儘放題のおてんば娘だと同僚から聞いているのだ。

 

≪全頭枠入りが完了しました≫

 

各馬の集中が一層高まり、そして意識が集中する。観客席の歓声もいったん収まり、この一戦のスタートを待つ沈黙が支配した。

発送ゲートから係員たちが離れ、一人だけ作業で出遅れた係員が発送ゲートの下の隙間から抜け出てくる。

ほんの一瞬の沈黙、しかし稲波も馬主席の誰もが永遠のように感じた沈黙、稲波も緊張で思わず咽が鳴る。

 

≪スタートしました!!各馬好調なスタート!!先頭はやはり彼が出ました。外から14番シマカゼタービン、快調なスタートからぐんぐんと速度を上げてリードを空けていきます。

おっとこれは予想外、2番手はスイープトウショウ、後方について追走、3番手のダイワメジャーはそこから5馬身差≫

 

「行けー!!タービンちゃん頑張れー!!」

 

「おっほ!?」

 

稲波の予想通り、シマカゼタービンが先頭に躍り出る。それに呼応するかのように、場違いな幼子の声援が馬主席に響いた。

咄嗟に声がした方を見るとそこには無邪気に応援する朱美と香たちの姿、その隣には年季の入ったスーツを着崩している茂三がいる。

周囲の馬主たちも驚いて視線を向けた、数人はその視線に嫌悪感を滲ませていたが声の主がただの子供だと気づくとすぐに穏やかなものに変わる。

 

「あれ?」

 

稲波もまた同じだった、すぐに目の前のレースが自分が思い描いていたものとは違うことに気づいた。

予想では最初の攻防からすぐに変化が出るはずだった。シマカゼタービンが飛び出し、大逃げを仕掛ける。

それを追ってほかの馬が仕掛け、それを妨害に出る。そこまでは同じだった、少なくとも想定はしていた。

 

≪そこからほぼ団子状態、フリッツフローリ4番手、内に並んでホクリクダイオー、その後ろにエレクトロキューショニストとツバキプリンセスが競り合っている。

一番人気ディープインパクトはそのすぐ横、外からノルンファングとザティンマンが徐々にペースを上げてポジション争いしつつぴたりと付ける。

3、4コーナー中間に入りましてきれいにペースが分かれておりますがディープインパクトはやや苦しい位置、ノルンファングがマークしております≫

 

「あれれ?」

 

だがうまくスタートを決めて大逃げに移行したシマカゼタービンを追ったのはスイープトウショウだけだったのだ。

スイープトウショウがシマカゼタービンを追うのは稲波も理解はできる、記者としていくつもある情報筋からスイープトウショウと鞍上の池永騎手が行った群馬トレセン遠征の一件は耳に入っていた。

気性難であり我儘娘であったスイープトウショウに手を焼いていた調教師が、一つの手段として噂の多い群馬トレセンに気分転換も兼ねて行かせたのだ。

そこで出会ったのがシマカゼタービンと茂三だった、彼らも偶然その日はアルバイトとして仮想敵役をやっていたところであった。

 

「追わない?」

 

しかしそれは理由にならない、もしそうならば思いつく限り最高の展開としていつもの4頭にハーツクライが加わる形になるはずである。

どう間違ってもスイープトウショウだけが、シマカゼタービンの後を追えることにはならないはずだ。

何故追わない、いつものあの5頭ならば是が非でもシマカゼタービンに食らいついていくはずだ。

だがそれをしない、なぜ?稲波はすぐさま大逃げをするシマカゼタービンから後方集団に目をやる。

その理由はおそらくただ一つ、それはすぐに予想できた。そしてそれは的中していた。

 

(追わないんじゃない、追えなかったんだ!!)

 

ディープインパクト、ホクリクダイオー、ツバキプリンセス、ノルンファング、そしてハーツクライ。

その5頭は、馬群の中で周囲の有力馬に睨まれ牽制され、うまく身動きできずに行動を制限されていた。

普段ならばこれくらい最初の段階でいなして抜け出ることは可能だっただろう、だがしかし今回に限ってはそうはならなかった。

理由は簡単だ。ディープインパクトたちの陣営が一番危険視していたのはシマカゼタービンだ、そして何よりも戦いたい相手がシマカゼタービンだ。

各陣営はシマカゼタービンに負けっぱなしだった、だから彼に勝つためにあらゆる対策を練ってきた、厳しい訓練にも耐えてきた。

ここ一番でしくじるわけにはいかない、この一戦でヘマをするわけにはいかない、この一戦こそが彼らが待ち望んでいたものだからだ。

だから気を張っていた、精神を落ち着かせて細心の注意を払ってスタートに臨んでいた、その警戒心を全員が見抜かれた。

彼らはシマカゼタービンを見ていた。スタートする一瞬はシマカゼタービンにのみに意識を集中させたのを稲波も感じ取っていた、それが当然だと思っていた。

それが彼らのミスだった、そんな特大の隙をほかの陣営が見逃すはずがない。大竹たちは、ディープインパクト達は、自分たちがどれだけ注目されているのかをここぞというところで見誤っていた。

世界の常識と自分たちの常識の食い違いというものをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 

「まずいぞこいつは…」

 

「なんてこった、完全に絡まれたか」

 

≪さぁ後方集団が最初のコーナーに入りまして先頭に戻ります、先頭14番…うわぁ…≫

 

最初のコーナーですでに大きな差をつけているシマカゼタービンに、実況者の言葉が濁る。その光景はまさに再演というべきものだった。

 

≪後方集団はいまだにごった返しておりますが、先頭シマカゼタービンはとにかく逃げ、それに続きますはスイープトウショウ。

そこから大きなリードをどんどん広げておおよそ…えー50メートルの開きがあります≫

 

「It's the end of the world that a jockey who can't pace himself is a racehorse that just runs away(ペース配分もできない騎手に、ただ暴走する駄馬が競走馬とは世も末だな)」

 

「That's not all, the foundation is just in place. That jockey is an amateur.(それだけじゃありません、基礎は出来てるけどそれだけだ。あの騎手、まるで素人ですよ)」

 

米国から来た馬主と調教師が苦笑する、彼らの言う通り瀬名敏則の騎乗は基本こそできているがそれだけだ。

ディープインパクトに乗る大竹、ハーツクライに乗るルベル、そして群馬の3頭に乗る同僚たちにも大きく劣る。

それは後ろから追走するスイープトウショウの池永にも劣り、比べ易い位置に池永がいることであまりにも目立っていた。

ド素人の目でもわかるくらいに瀬名敏則の騎乗は下手糞だ、基本は出来ていて馬の邪魔をしていないがそれだけである。

 

「Was macht dieser Amateur? Ich kontrolliere das Rennpferd nicht.(あのど素人何してるんだ?馬を全く制御できてないじゃないか)」

 

「أمرني سموه بتوخي الحذر ... أنا فقط اهتممت كثيرا(殿下からは注意するように言われていたが…やはり錯覚か)」

 

「なんだあれ?きょろきょろ周り見やがって、騎手がそれでどうすんだ?」

 

「あいつ相変わらず助手席か…」

 

最初のコーナーに飛び込んだシマカゼタービンは、安全なんて知ったことかとばかりに内ラチぎりぎりまで身を寄せて攻め込む。

その後ろに食いつくスイープトウショウと池永だが、その姿と必死の形相に会場が沸き悲鳴と怒声、そして歓声が巻き起こる。

あの池永のミスでスイープトウショウに無茶をやらせているとみる馬券師もいるようで、かすかに池永を罵る叫びが稲波には聞こえた。

 

≪シマカゼタービン大きな逃げ、とにかく逃げ、どんどん差を空けて、えー、70メートルは開いています、

すぐ後ろにはスイープトウショウが、シマカゼタービンと同じく大きく逃げまして大逃げ同士の一騎打ち、凄まじいスピード勝負。

そこから大きく差が開いて後方集団、僅かに先頭ダイワメジャーすぐ後ろにハーツクライ、わずかに下がってフリッツフローリ、ホクリクダイオーと続きます≫

 

それはまさに独壇場、シマカゼタービンとスイープトウショウのタイマン勝負といってもいいほどに前に前にと進んでいく。

その大逃げ模様に会場は大盛り上がりだ、負けが見えた大爆死前提の大逃げに見えたのだろう。もともと人気最下位のシマカゼタービンの大逃げだ。

場を盛り上げる賑やかしとしては十分なインパクトであり、それだけ頑張っているという印象も受けてゲラゲラと笑われている。

 

「待て、なんか速すぎないか?」

 

誰かの声が馬主席に響いた、聞きなれない声だったが稲波にはわかった。それは朱美の母親の声だった。

 

≪コーナーを回り正面スタンド前に入ります。先頭はシマカゼタービン!先頭はシマカゼタービン!!すでに70…いや80!!差がどんどん広がっています!!≫

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

聞きなれない耳障りな歓声が響く最初の正面、すでに直線は中盤まで走り切った。時速85、2速のフルスロットル。

だがスイープトウショウが離れない、離せない。さすがは中央の歴戦、我儘娘であっても実力は本物か。

最初の立ち上がりで千切れなかったのはなかなか厳しいものがある、あそこで千切りに行ったのに対応されちまったのは痛かったぜ。

くそ、厄介だ。こんな先の見えない状況になるとはさすがに予想外だったぜ、一番嫌な展開が来やがった。

 

『後ろがわからん、どうなってる!?』

 

敏則に目配せして後ろを伺ってもらうように頼む、当然のように敏則はうなずいた。

スイープトウショウの足音に紛れてそれより後ろの連中の位置がつかめない。音が遠すぎてスイープの足音でかき乱されてるんだ。

それほどまでに遠いのか?それともそう装っているのか?予想がつかない、後ろを振り向いて探る余裕なんざないんだ。

普通の逃げ馬なら正面の大画面モニターを当てにできたんだがそいつも無理だ。俺自身がそれを使わせない勢いで今前を取りに行っちまってんだ。

だから敏則に代わりに見てもらう。どうだ?

 

「後ろにスイープだが、ディープ達が上がってこない。なんだこの距離…だいぶ遠いぞ」

 

『距離と様子は?』

 

「およそ70、今も差が広がってる。まごついてるように見えるぞ、海外の連中に絡まれてやがる」

 

なんてこった、差が広がってる?あいつらが追い上げてこないだと?この状態で?バカな、おかしいにもほどがあるぞ。

確かに海外の連中だってあいつらに負けず劣らずの超一流揃い、俺のような峠の走り屋みてぇなもんとは生まれも育ちもハナから違う。

連中はプロだ、生まれ持った才能を極限まで引き出されたプロ中のプロばかりだ。だがそれはあいつらだって一緒だろう?いいようにやられるなんざあり得ねぇ。

あいつらの強さは俺だってわかってる、あいつに本気で絡まれたらいっつも冷や汗掻かされてギリギリ勝ってるようなもんなんだ。なら考えられる可能性は…

 

『偽装か、何か奥の手があるのかもしれん』

 

敢えて後ろに引いてからの反撃、バックハンドブローを狙っている可能性が高い。

俺が調子に乗って逃げまくって消耗するのを待っているか、それとも敢えて抑えて体力温存を図るよう仕向けているのか。

それとも俺が自分でも気づいていない第3の隙、俺の弱点をあいつらはすでに見出しているのか。

俺のレースは大逃げだ、最後まで全力疾走するだけの話だ。それが分かってて対策を練ってこないはずがない。

ここまでリードを開かれても、それを一気に取り戻して勝負に上がってくる何かを連中は隠している。

 

「偽装か、そうだろうな。さすがだぜ、俺にはわっかんねぇよ。頼信たちが何してんだか、全然理解できねぇ」

 

『理解できなくて当然だ。カーレースならいざ知らず、競馬のプロの常識なんざ峠の走り屋にわかるかよ』

 

「はははッ…立派になっちまったなみんな…やったじゃねぇかよ、夢叶えてんじゃん」

 

嬉しそうに、心底嬉しそうに敏則は笑い、すぐに笑顔を引っ込めた。嬉しいだろうな、ダチがこうして大成してんのを感じられるってのはいいもんだよ。

こんな所じゃなきゃ本当に良かった、手放しでゲラゲラ笑ってられたんだ。お祝いに酒でも持って行ってウザ絡み出来たんだ。

 

「あぁくそッ…飛ばせ、あんなのに絡まれたら本当にどうしようもねぇ」

 

そうしたいところだがあいにく後ろに張り付いてんのがうざったい、こいつに後ろに、全く以ってうざったい。

いつも通り仕掛けてきてくれるなら話は早いってのに、ここで様子見とは読みを外してくれるじゃねぇか。

だから嫌なんだよ、こいつらはこうだから本当に嫌なんだ。真っ当にやり合うとこうだ、想定も何もかも上回ってくる、全く以って忌々しい。

前世でもこういう連中は何かしら持ってて、それを武器にこっちを苦しめてきた。そのうえで容赦がない、自分の道を信じてるから止まらずに突っ込んでくる。

こっちがギリギリ勝ちな商談で手打ちにできる寸前からウルトラCの大逆転、おかげで全部こっちが持って行って破滅させるしかなくなっちまったことだって何度もあった。

 

『そうしたいが後ろに怖いのが張り付いてきやがる、こっち見てるぞ』

 

「そういやそうだった、狙ってやがるな」

 

対応するには距離を離しすぎてる、だからよりリードを取りたいところだがギアを上げてからというもの後ろのスイープトウショウが非常に邪魔くさい。

じっと何かを探っているようにこっちを見てる。このまま俺についてくるつもりなのは解るが、どう動いてくるか…スイープとのレースは俺も未知数なところが多い、クッソ怖い。

何してくるかわからん、スイープも、後ろでこっちを狙ってるあいつらも、どいつもこいつも読めなくて対応できん。

時速90、最初の正面ストレートが終わってもう一度コーナーに入る。ここもインベタで速度をつける、加速して逃げ続けてリードを取り続けないと後が怖い。

息を吸う、4つ数える、息を吐く。直線が終わり、コーナーに入る直前で体の力を抜いて半クラッチ、息を整え、体を整え、最高のタイミングで繋ぎなおす!!

 

「ヴゥンッ!!」

 

時速91、インベタグリップでさらに内ラチギリギリまで攻め込みつつ速度と距離を稼ぐ。コーナー中盤、時速92、体力はまだ十分、息もつらくない、意識もはっきりしている、思考も鮮明だ。

だが足が辛くなってきやがった。僅かに左後ろ足に倦怠感を感じる、筋肉の温まりが足りていない。良くない状況だ、想定よりも消耗を抑えられてはいるがバランスが崩れている。

スイープに追い回されて少しばかり左後ろ足で軽く踏み込みすぎたようだ、どこかで調節したいがそれをスイープトウショウが許してくれるとは思えない。

残りはおおよそ半分、やはりここまで追い回されたら負担がでかい。こんな慣れない場所で追い回されたんだ、そりゃこういうこともある。

だがここで足を温存する理由はない、稼いだ距離、稼いだ速度、吹けば飛ぶようなもんだが重要な手札だ。

おそらく仕掛けてくるだろう、次のストレートでの加速勝負なら俺だって負ける気はない。もう体は温まっている、エンジンは最高に仕上がってきている、踏み込みについてきてくれる。

ゆえにこのコーナーで仕掛けて奴は頭を抑えにくる。スピードなら俺はどんな奴にだって負けない、それはスイープと池永も分かっている。

現状、まともに絡みに来てるやつほかにいないのは僥倖。今はまだ、スイープトウショウに集中できる。後ろの連中が加速する前に勝負を決めに行く、もうそれしか勝ち筋はない。

 

「スゥ…」

 

思いっきり踏み込み加速、フルスロットル、脳内タコメーター限界までエンジンを回して時速93、コーナー立ち上がり、二度目の向こう正面に向かう右コーナー。

息を吸う、4つ数える、息を吐く。体を弛緩させ半クラッチ、加速が一瞬緩み、体のギアが抜けて体が解けていく。

コーナーの中盤、後半に移り変わり、立ち上がりのタイミングを計り、後ろの方で重く足を踏み込む音がした。

ここで来たか、そうか。なるほど、これ以上の加速はお前たちには不利、だから足があるうちに前を取って牽制する、か。

それくらい、俺が考えてないとでも思うのか?対策がないとでも思うのか?

後ろで動く気配がするのと同時に前足を深く踏み込んで一瞬の制動、尻を外に流し、横に走る体を流しながらタップダンスのように芝を蹴って尻を横に流す。

速度を殺さないように細心の注意を払い、全力で地面を蹴っ飛ばし、歯を食いしばって足に走る鈍痛に耐えて体を飛ばす。

尻を外に流しながら胸をラチギリギリまで攻め込みながら進路を固定、全力で姿勢を維持しつつ加速を続けて後ろを寄せ付けない。

こんな真剣勝負では峠だってやらない魅せ技タイプのドリフトだが役に立つ機会は多くある。こういう風に頭を抑えに上がってきた連中の度肝を抜いてやるとかな。

 

「冗談だろッ!?」

 

『そんな、どうしてッ!!』

 

読んでないとでも思ったか、やってこないとでも思ったか、それくらいは俺だって理解してる。

ドリフトは速く走るためのドリフトしかしないとでも思ったか?レースではそこしか追求しないとでも思ったか?

ドリフトはフェイントにだって使える万能テクニックだ、峠で何回尻を削って身に覚えさせたかわかんねえぞ。

俺はギアチェンジと同時に、俺の外側ギリギリを抜いて頭を抑えに来たスイープトウショウのラインに尻を流すフリをする。

コーナーからの立ち上がりで尻が前に流れて、スイープのラインをギリギリ被せないように復帰するラインを作る。

ライン構成は甘ったるい代物だ、峠なら34のおっちゃんでも見破ってくるだろうフェイントだが、初見の池永とお前には十分通じるだろう。

あいつらには俺の尻があいつらの走行ラインに被ってくるように見えたはずだ、俺がかましたドリフトに運悪く突っ込んじまうように感じたはずだ。

当然ぶつかることにはならないようにしてある、このまま突っ込んでも問題なく俺の尻の後ろを抜けていけた。

外から見てもそう見えるだろう、写真判定だって考慮してある。ただ現場で見たら、後で見るより少し派手に見えただろうな。

それにビビれば足がすくむ、躱しきれなきゃ加速に躊躇いが生まれる。ここぞというときに迷う。進めばよかった、さらに大外に身をよじるくらいして進めばチャンスはあった。

 

『悪いな、中央で俺を捕まえられる競走馬は一頭しか知らない』

 

『シマカゼェ!!』

 

固まった思考、固まった体、スイープトウショウの見せた一瞬の隙に、俺は池永とスイープを一瞥してその前から立ち上がりと同時に逃げる。

立ち上がりからの加速と同時に、遠心力に体を任せて少しだけ横っ飛びに外へズレて前を開けてやる。

それだけでスイープと池永の速度は落ち、俺の後ろからみるみる脱落していくのを感じた。

そのまま二度目の向こう正面、これで邪魔するやつはいなくなった。4速、アクセルベタ踏みで速度と距離を稼ぐ。

このまま墜とす、ここから先は一人旅だ、だが…ここから先は本当に未知のコースだ、どこまで攻め込めるかもわからない。

スイープトウショウを墜とした後、俺たちは何もわからない暗闇の中を走ることになる、どう走ればいいのか俺たちは解らない。

 

「スイープが墜ちた、離れる。後方が開いた」

 

『あいつらは?』

 

「正面の直線からコーナーに入る、遠い、仕掛けても余裕は…いや動いた、ばらけた!!」

 

やはり来たか、さすがだディープインパクト。

 

「ダイワメジャーが飛び出した。後ろにツバキとコスモバルク、次々来るぞ!」

 

『ダイワメジャー?なぜ…いや答え合わせは後か。ここから仕掛ける、無茶するぞ』

 

「チェック開始、いつもみたいにやる。急げよ、追いつかれる」

 

踏み込む、思いっきり前に、思いっきり強く、芝を踏み込み、土を蹴り上げ、がっつりと足を踏み込んで前に加速する。

悩んだって意味はない、結局はするしかないんだから突っ込むだけだ。何かあったらその時考えりゃいいんだ。

温まりがずれていた足を見直して踏みなおし、この直線ですべてを仕上げながら加速していく。この場でどこまでもきっちり仕上がっていくのがわかる。

まだだ、まだ足りない、もっと仕上げろ。もっと速く、もっと鋭く、もっと正確に、もっと大胆に、もっと、もっともっと突き詰めろ。

まだ距離はある、まだ武器は残ってる、奴らに奥の手があるなら、使う前に終わらせちまえばいいだけの話じゃないか。

切り札とか、奥の手とか、必殺技とか、そういうもんは使えなきゃ意味がないんだから。どんなもんもそこは変わらねぇのさ。

不思議な感覚だ、前が見えているのに前が見えない。どれだけ突き詰めても終わりがない、どれだけ攻め込んでも満足いかない、終わりが見えない。

本当に惜しい。こんな状況でなければ、こんな命懸けでなければ、こんなに楽しいレースはなかっただろう。

後ろからあいつらに追い立てられて、必死で足りねぇ頭を回して、プロの連中の度肝を抜いて、勝った負けたでゲラゲラ笑って、面白おかしく楽しめるはずだろう。

俺は今最高の状態で走れるというのに、最高の仲間たちと一緒にいるというのに、こんな難しく心躍る状況だというのに、俺の心はフラットだ。

楽しむなんて余裕はない、楽しんでいる場合じゃない。これは実戦だ、勝つ、そして生き残る。それだけしか求めてられていない、求めていない。

あぁ、本当に。惜しいな。これが仕事じゃなければよかったのに、群馬トレセンであればよかったのに、いつもの併走であればよかったのに。

惜しんだところで変わらない、結局こういうものなんだから、ままならないもんなんだ。

速度が上がる、足が回る、軽い、いつも以上に軽く感じる。そりゃそうだ、周りに誰もいねぇ、後ろにも誰もいねぇ、一人旅だ。

このままいけばいい、このままいけば勝って終わりだ。それで全部お終いだ。だから仕掛ける、本気で勝ちにいくだけだ。

 

「正面、オールクリア。路面が荒れてる、踏み込みに注意。風向、風速ともに許容範囲」

 

『心拍数測定、異常なし。血液循環、異常なし。筋肉疲労、許容範囲。関節疲労、許容範囲』

 

直線に入ってすぐに二人で体の各部チェックと進路測定を行う。酒造で使う機材チェックでよくやるやつ、映画で整備士がやってるチェックの流用だ。

自分の体だ、当然手に取るようにわかるがダブルチェックはどんな時でも役に立つ。ディープ達に勝つためにこれから無茶をする、体の入念なチェックが必要だ。

 

「馬体外部、異常なし。異物の付着、無し。呼吸音、異常無し。体温、異常無し。眼球運動、異常なし。走行フォーム、異常なし」

 

『体内臓器、異常細動無し。損傷による痛覚なし。体内蓄積熱量、許容範囲。視界状況、クリア。視力、異常なし。思考能力、クリア…行ける』

 

いつもは限界ギリギリまで回してもそれ以上には回さない、命は懸けても命を捨ててるわけじゃないからな。

安全マージンは必ず取っている、いくら疲労しようが決して後遺症なんか作ったりしない。だが今回は、それでは勝てないとみている。

それだけあいつらは強敵だ、ましてや練習ではない実戦だ。あいつらだって命を懸けている、死に物狂いで勝利を獲ろうとやってくる。

だからやる。ここで仕上げて、5速まで上げて、そのうえでエンジンベタ踏み、タコメーターの限界を振り切る。

俺が確実に制御できる限界を超えて走り続ける、当然危険だ。もし転んだら最後だ、敏則をかばうことも難しい、道連れにするだろう。

俺は一度敏則を見る、敏則は何も言わずに見返す。そうだな、言葉は不要か。ならいい、行くか。

エンジンブローするその瞬間まで加速を絶対にやめない。俺がぶっ壊れるか、ゴールするのが先か、だ。

息を吸う、四つ数える、息を吐く。ただ前に進め、足を回せ、速度をあげろ、回せ、進め、回せ、進め!!敏則の前には誰もいねぇ!!

 

 

 

 







あとがき
逃げたら一つ、進めば二つ。迷えば破れる。これはすべて経験した事、目の当たりにしたこと。だから彼は迷わず進む。

いまさらですがUMAがやってることはいわば意図的な『体のリミット外し』です。しかもそこからさらに頑張ってちょっとだけ背伸びをする感じ。
人間の体は普段はフルスペックで動かしていないというアレを、意図的にフルスペックで動かせるようにしています。
さらに頑張ってそこからちょっと上を発揮する完全な自爆攻撃、普段はギリギリまでぶん回すけど絶対しないスピードの向こう側まで行く行為。
エンジンブロー覚悟でバンバンふかしてるスポーツカー状態、当然ながら入念なチェックと細心の注意を払っていますがそれでもいつブローするか解らない暴走モード。
それくらいしないと勝てないと考えるくらいにディープインパクトたちは強い、ずっと練習の相手をしていた彼はそう理解していた。
まぁそんなバカみたいな速度のせいで周りが苦労するのはいつものことですけどね、ごめんね解説の人!!



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