気儘に生きた転生馬物語   作:イナダ大根

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いつも多くの感想と誤字報告、ありがとうございます。
最後のアホレースも終わりです。バカと冗談の総動員でUMAがやらかしているので常識を捨ててごらんください。





第51話

 

 

 

 

『も゛う゛や゛た゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!』

 

その汚い嗚咽とともに響いた泣き声、それが自分自身の声だと気づいたときにはもうどうしようもなかった。

大泣きしながら、文字通り暴走して前に躍り出たダイワメジャーの心は限界だった。

訳が分からないままに見たこともない競走馬たちに変にちょっかいを出され続け、普段のレースではありえない緊張感とストレスに晒され、挙句に目の前を突っ走り大逃げを決める二頭は全く足が衰えない。

さらに前をずっと見据えたままでちょっかいを出してくる馬たちによって妨害されて動けない。

ずっとずっと周囲に圧迫され、威嚇され、殺気を飛ばされ、いじめられいじめられいじめられいじめられ。

ふとした拍子に前のほうが開いて、その瞬間にダイワメジャーの精神は崩壊した。逃げなければならない、こんな場所になんていられない。

殺されてしまう、潰されてしまう、食われてしまう、怖い怖い怖い怖い!!

 

『やだぁぁぁぁ!!カエルゥ!!帰るぅぅぅッ!!!お家に帰るんだぁぁぁぁッ!!!』

 

背中に乗っている何かが口についているものを引っ張るが構うものか、ダイワメジャーの頭の中はもはや何もかもがどうでも良かった。

この道を回り切ったら終わりなのだ、決まった道を走り切れば終わりなのだ、ゴールにさえ行けば優しい人間さんといつもの相棒がいてくれるのだ、守ってくれるのだ。

こんな場所になんかいられるか、こんな群れになんかいられるか、こんな連中なんか相手にしていられるか、自分は人間さんたちのもとに帰らせてもらう!!

勝手にやってろ怪物ども!!自分なんかにかまってんじゃねぇ!!

 

「おち、おちつ!!うひぁッ!?フギュッ!?」

 

『来るな来るな来るなぁぁぁぁぁぁッ!!』

 

「くら、鞍がッ…!?」

 

背中で何か柔らかいものを突き上げたような気がしたが構ってなんかいられない、むしろ幸運とさえダイワメジャーは感じた。

何故なら上に乗っている何かの妨害がそれで一気に消えたのだ。おかげで一気に逃げやすくなった、このままコースを走りぬいてお家に直行だ。

あとどれくらい走ればいいかくらいはもう頭に入っている、もう一度人間が多くいる方のまっすぐな道を走ってゴテゴテした棒の前を走ったら終わりだ。

幸い前にはほとんど馬はいない、走れる場所はいくらでもある。ただ全力で走り切るのみだ。

 

「ンギゥッ!?ぉ…ぉま…ぉま…」

 

ダメ押しにもう一度背中を突き上げて邪魔者を無力化してダイワメジャーは突き進む。邪魔者は背中にしがみつくようにおとなしくなった。

これはこれでいい、おかげで安定感が増すしこの邪魔者の締め付けが体の無理を抑制してくれる。もはやレースだのなんだのなんてどうでも良かった。

周りにいる化け物も同族も知ったことではなかった。ただ生き残る、その生存本能のままに彼は走っていた。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

≪へ…あ…え?≫

 

会場内に響いていた実況者の言葉が途切れ、言葉にならない戸惑いが響く。本来ならばそれに対してヤジの一つでも飛んだだろう。

しかしそれはなかった、何故なら中山競馬場に一堂に会した観客たちもまた、目の前で起きている出来事に目を奪われ、そして驚愕に支配されていたからだ。

誰も想像だにしていなかった現実だった、誰も望んでいなかった出来事だった、こんな奇跡なんてあってはならないはずだった。

 

「バカな!!ここでドリフトだと!!?」

 

「信じらんねぇ!!あの野郎、スイープの仕掛けに反撃しやがった!やりやがったぞあいつら!尻の動きだけで振り払いやがった!!」

 

「走り屋のやり口を本当にそのまんま持ってきたのか!」

 

「なんてラフプレーだ、ギリギリを攻めやがる!」

 

だが起きた。その現実に食いつくように二人の調教師が馬主席の縁から身を乗り出してそれを見据えて歯を食いしばる。

その姿は日本が誇るベテラン調教師にあるまじき大人げないものであったが、そうするほどに目の前の現実に心を奪われていたのだ。

 

「さすが茂三の息子、あんだけケツ振り回しながらさらに攻め込むか。なんつー精密制御とクソ度胸、ターミネーターかあいつら」

 

「こけおどしのすれ違い0距離、しかもターレットの隙間直狙いってところか?この時代にやる奴がいるとはな。こりゃ怖いぞ、ベテランほどハマるとビビるんだ」

 

「わかる奴ほどハマりやすいフェイントか、そりゃたまったもんじゃねぇな。巴戦は先に焦れた方が負けるもんだ、そりゃこうなるわ。

そもそもあの手の稼業持ちに根性勝負仕掛けちゃいかん。あいつらは職業柄、素で忍耐強いのに加えてこっちの忍耐を削ってくるからな」

 

シマカゼタービンと瀬名敏則、そして瀬名茂三を古くから知る3人が訳知り顔でやれやれとにやけながら肩を竦める。

彼らは瀬名酒造を、瀬名という家そのものの特性をよく知ったうえで泰然自若にどっしりと構えた。

その表情に浮かぶのはれっきとした闘志、そして場を心の底から楽しんでいるという凶暴な笑みだ。

 

「まずい、スイープトウショウが振り切られる!?」

 

「信じらんねぇ、あんだけ振り回しておいて加速するってのか!!」

 

「大逃げでロングスパートを始める気か!?この速度で!?」

 

「やる気だ、あの馬鹿マジであげてやがる!!」

 

「死にたいのかあいつら!自殺行為だ!!」

 

二度目の向こう正面にかかる直前の第2コーナーでシマカゼタービンが行ったロングドリフトでのコーナー攻略からの立ち上がりに馬主席は騒然となり、会場内は完全に静まり返った。

たった一頭の競走馬の大逃げがもたらした誰も予想しない展開、誰も期待していなかった圧倒的な力と格差、それが会場を凍り付かせていた。

今年の世界を席巻し、日本を代表し、日本を世界一にまで引き立てた競走馬たちが、まるでどこにでもいる有象無象のように馬群の中に埋もれている。

そのはるか先で日本中央競馬でも癖馬ながらに真っ当な一流競走馬であったスイープトウショウに競り勝ち、さらに加速を続けて他の競走馬を引き離す競走馬。

その競走馬は鬣を短くしている以外に何も目立ったところがない栗毛の地方競走馬。戦績はぱっとせず、所属地方競馬に限ればそこそこ優秀というだけの変わりモノ。

乗っている騎手は騎乗もド下手な2流。目立った功績もなく、目立った経歴もない、ただ惰性で騎手をやっているような兼業騎手。

どちらも中山競馬場は初めてであり、GⅠ出走も初めてであり、何より芝でのレースも実戦は初めてだ。

誰がそんなコンビが勝ち筋に乗ってくると思うのか、そんなコンビがこんな勝ち方をすると思うのか、そんな人々は至極少数であろう。

そんなことを想定するのはそれこそ高崎競馬場と群馬地方競馬をよく知る地元の人間か、あるいは峠の走り屋をよく知るベテランのみだ。

 

≪ど、ドドドドリフトです!!シマカゼタービンと瀬名騎手渾身のロングドリフトォォォッ!!?≫

 

「すげー!!映画みたいにズザーッ!!ていったぜ!」

 

「がんばれー!!タービンちゃん頑張れー!!スイープちゃんも負けるなー!!」

 

会場内にしどろもどろですっかりペースを乱された実況が途切れ途切れに流れ、馬主席から体を乗り出して応援する二人の少女の声がこだまする。

その声はざわつき始めた観客席の言葉に紛れていくが、それが聞こえたようにシマカゼタービンの足がさらに踏み込まれて加速、最終コーナーに向けて突き進む。

その時、そこからさらに後方の固まっていた馬群から一頭の競走馬が飛び出した。

 

「崩れた!?」

 

「いや、崩されたんだ!ダイワメジャーの奴、力任せに飛び出しやがった!」

 

ダイワメジャーが一歩、前に出て陣形が崩れる。そしてそのまま力任せに加速を始めてリードを取る。それを見逃す彼ら彼女らではない。

ディープインパクトがそれに追従し、ダイワメジャーが作り出した隙を縫うように進軍、牽制しようとしたレイルリンクを交わして前に躍り出る。

ホクリクダイオーが馬群全体に走った動揺に紛れて気配を消し、馬群内をすり抜けポジションを変えてフリッツフローリの牽制から逃げ出し大外から追い上げる。

ツバキプリンセスが自分に張り付いていたエレクトロキューショニストの動揺で開いた突破口に体をねじ込み、パワーとど根性で内ラチ沿いから強引に突破する。

ノルンファングは自らをけん制したザティンマンの思惑に乗ったふりをして馬群内に逃げ、動揺で隙間だらけの馬群の中を経由してザティンマンを振り切り加速して中央突破で馬群を抜ける。

この時を待っていたとばかりに6頭の日本競走馬が我先に飛び出して馬群を抜けて前に飛び出した。その鞍上に乗る騎手たちの顔にあるのは焦り、明らかに焦燥に駆られていた。

その後ろから負けじと海外競走馬たちも追いすがるが、その鞍上たちは信じられないような顔をしていた。当然だろう、彼らの理性は理解してしまっていたのだろう。

先頭を走る彼らとの距離はあまりにも遠かった、そして彼らの速度もあまりにも速かった。追いつくにはその速度を上回って距離を詰めなければならない、そのために必要な時間があまりにも少な過ぎた。

なぜなら彼らがいる場所は2度目の向こう正面に入ったばかりの地点だった。そしてそのはるか先の最終コーナー前半にスイープトウショウ、そして先頭のシマカゼタービンがいる場所は最終コーナーの中盤である。

その気持ちは稲波にも理解できた、明らかに距離がありすぎた。相手の力量を見誤り、戦法の弱点を理解しすぎていた。

瞬く間にシマカゼタービンはその快速と命知らずの攻め込みでコーナーを回り切り、最後の直線に差し掛かっていく。

その淀みのない綺麗なコーナリングと、内ラチに体を擦り付けるように詰め寄って張り付いているんじゃないかというコーナリングを見せた姿は、明らかに他の競走馬とは一線を画した安定感がある。

 

(でもそれだけが武器じゃない、シマカゼタービンの大逃げの非常識なところは圧倒的な体力とテクニックはあるけどそれよりも怖いのは根性。

例え消耗しきっても、最後まで力を使い果たしていても、本当に最後の最後まで、それこそ勝負が終わるまで一切垂れることがないところです)

 

シマカゼタービンはどれだけ体力を消耗していようとも基本的に最後まで足を緩めることはない。

場の展開で減速することはあれど、基本的には最初から最後まで徹底的に加速し続ける。

それはシマカゼタービンが峠の走り屋をしているが故の走り方、スポーツカーという圧倒的な格上を相手に走ってきたからこそ身に着けた戦い方だ。

馬ではどう足掻いても速力ではかなわないのだから、普通に走っていたら到底勝てない。テクニックや奇策などを仕掛ける云々の土俵にすら立てない。

なら勝てる速度に乗るまで徹底的に加速し続けて勝負に乗る、そのために彼は意地でも加速を維持するのだ。

峠の走り屋相手ならそれでも不足だが、相手が競走馬という同種の存在ならば話が違うものとなるのは明白だった。

 

「Stop, stop him!!(止めろ、ヤツを止めるんだ!!)」

 

「Nein, es ist zu schnell!!(駄目だ、速すぎるッ!!)」

 

海外馬主達も立ち上がって声を荒げる。表情を震わせ、驚愕を顔に張り付かせ、目の前の現実を否定したくても口が回らない姿はどこか滑稽でもあった。

既に場に飲まれ、目の前で加速を掛けるディープインパクトたちにすら置いて行かれかけている彼らの愛馬たちではシマカゼタービンには到底追いつけない。

しかしそれはこちらも同じ事だ、稲波の中の冷静な理性がつぶさに現状を見極めてそう判断した。

唯一勝負になったスイープトウショウは奮戦敵わず競り落とされ、彼女に突かれ続けたシマカゼタービンの尻には文字通り火が付いた。

エンジンを最大限まで吹かして彼は逃げ続けている彼はもう止まらない、その常識を超えた速度で疾駆するシマカゼタービンの姿に稲波の心は限界に達しそうだった。

シマカゼタービンの文字通り全力疾走する姿はあまりにも美しく、荒々しく、そしてあまりにも速すぎた。速度が違いすぎた、今までの競走馬のそれをはるかに超える速度だった。

ただ前を見てひたすらに、ただゴールに向かってシマカゼタービンは一心不乱に足を踏み込む。後ろは見ない、周りは見ない、見ているのは前だけだ。

その集中力と精神力、そして鍛え抜かれた体とその精密制御、彼だから行える緻密で計算された踏み込みと力配分による爆発的な加速、どれを取ってみても前代未聞といえた。

 

(一ハロン7.4秒、いえ、まだ加速している!!まだ上があるというんですか!!)

 

笑いが止まらないとはこのことだ、もはや笑うしかないとはこのことだ。これが彼の本領発揮だというのか?彼の平地での全力だというのか?

これが現実だと認めるなら、常識的に言えば競馬雑誌の記者なんてやめるべきだ。夢を見て幻覚を見ているなんて記者どころか健常者ですらない。

でも現実なのだ、今まさに起きているこのレースは現実なのだ。今まさに競走馬が新しい世代に踏み出し、機械に匹敵する馬力と肉体を持った新世代をここに誕生させたのだ。

これほどまでに胸が、頭が、いや全身が熱くなる感覚を稲波は経験したことがなかった。興奮で胸躍ることはあっても、体が燃え上がりそうなほどに制御不能な熱は初めてだった。

 

「一ハロン7秒、いえッ6.9!!すごい、すごすぎですよ茂三さん!!こんなに強いなんて私―――!!」

 

興奮が冷める、さっと引いていく己の中の熱狂に稲波は戸惑いを隠せなかった。

茂三は静かだった、ただ静かだった。じっとレースを見つめて、すべてを睨みつけるような視線で、まるで職人のような表情で。

その姿は、その表情は、その雰囲気は、普段の茂三を知る人間ほどにまるで別人と感じる姿だった。

何か吟味しているような表情で、歯を食いしばりながら一挙一動を見逃さないような視線でレースを見つめているのだ。

こんな顔をしている彼を稲波は見たことがなかった、彼はいつでもどこでも気軽で気安い男であり常に笑顔をこぼしていた。

それは高崎競馬場で偶然出会った時だって同じであり、ハルウララのレースを見に来ていた彼は普段と何も変わらなかった。

そもそも言っていたはずだ、最後まで笑って楽しむものだと。だが今の彼は楽しんでいるように見えない、むしろ真逆だ。

苦しんでいる、悲しんでいる、そもそも憎んでいるようにすら見える。この世全ての苦渋をすべて一緒くたにしたとでもいうようなそんな気配を感じる。

 

違う、すべてが違う、まるで別人だとでもいうようなその顔つきに稲波の心から一瞬で熱が消えた。

 

「茂三さん…?」

 

茂三が小さく何かを口にするのを聞き逃す稲波ではなかった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

こんなはずではなかった、そう彼女たちは考えた。こんな風になるなんて思ってもいなかった、だっていつもこんな風にはならなかったから。

いつも自分たちは競り合ってきた、常に対等に渡り合ってきた、たとえ負けが込んでいたとしても納得のいく勝負ができていたはずだった。

なのになんだこれは?どうしてこうなっているのだ?目の前の現実が理解しがたかった。

 

いつも自分たちを導いてくれた、時には背中を押してくれた、励ましてくれた、支えてくれた、その彼との圧倒的な実力差を理解しがたかった。

 

ノルンファングは立ち向かう、必死で芝の上を疾駆し、全身全霊を込めて速度を上げていた。

いつも考えていたじゃないか、いつも心に決めていたじゃないか。彼の隣にいるのは自分だって、絶対に隣にいなきゃならないんだって。

自分たちをここまで連れてきてくれたのは彼だった、世界を見るきっかけを作ってくれた彼だった。

競走馬としてデビューする前からいろいろと教えてくれたのは彼だった。いろいろと物知りで、牡も雌も関係なく世話焼きをしていた彼だった。

彼のおかげで自分は優秀な競走馬としてスタートラインに立てたといっても過言ではなかった、彼が所々で助言してくれていたから気楽に物事を理解できたのだから。

だからここでの勝負も本気で挑むはずだった、成長した自分を見せつけるはずだった、彼にふさわしい自分になったと見せてやるつもりだったのだ。

 

『なんで…どうして!!』

 

だが開いた距離は縮まらない、離れていくのがわかる。その現実が彼女の心を打ちのめす、追いつけるはずだった、競い合うはずだった。

自分たちの成長を見せるはずだった、自分たちの全力を発揮するはずだった。

なのに今自分はここにいる、憧れた彼に全く追いつけずにおいて行かれていく。また彼が離れていく。悔しさが心に満ちる、虚しさが心を犯す、寂しさが心を揺さぶった。

 

『ここで終わるの?私は…うちはこれで終わりなんか!!違うやろ、あんなん、もう嫌やったんやないんか!!』

 

ツバキプリンセスは憤慨して挑みかかる。悔しかったじゃないか、代わり映えのしない日々と期待に応えられない自分が嫌だったじゃないか。

前に走った笠松でもそうだ。頑張っても頑張ってもただただ変わらない日々ばかりだった、それだけでも幸運だとわかっていても虚しさを感じずにはいられなかった。

消えていったかつての同僚たちと同じように自分の進退が極まって、流れに任せて群馬にやってきて、それを彼が変えてくれたのだ。

群馬に移ってきて出会った彼の教えがすべてを変えてくれたのだ。

群馬に移ってきたからすべてが楽しかった、昔のように楽しくて面白くてやりがいのあるレースばかりだった。

それを教えてくれたのは彼だ、そこで戦えるよう力を分けてくれたのも彼だ、彼がいなければ今の自分は存在しない。

だからこそ、本気の彼と戦えるこの機会を逃したくはなかった。練習でさんざんやられた彼に、本番できっちり見返してやりたかった。

だが今はどうだ、見返せるような状態か?否だ、それどころか失笑されてもおかしくないくらいに情けない姿だった。

まるで勝負になっていない、まるで相手にされていない、眼中に入ってすらいない、まったくもって論外だ。

 

『まだ、まだだ!まだ終わってない、だから動け、動けよ!!もっと速く走ってよ!!』

 

ホクリクダイオーは絶望しながらも食らいつく、加速しない自分の体に自ら鞭を入れるように地面を踏みしめる。

けれど進めない、前には進んでいる、けれども思い描いたような加速は得られない。

それは当然だ、当たり前だ、だけどみんな信じたくないのだ。自分たちはもっと速く走れるはずだと思い込みたくて仕方ないのだ。

自分たちは強いのだ。前よりはるかに速く、前よりもはるかに技術も仕上げて、そして世界で実績を残してここまで来たのだ。

憧れだった父のように、祖父のように、偉大でかっこいい彼らの血を引く自分は、絶対に同じように偉大で強い競走馬になるのだと。

それは叶った、かつての先祖たちと同じ頂を上り詰めて、さらにその先へと足を踏み出したという確信が持てた。

だからあり得ないのだ、こんな風になるなんてあってはいけないのだ。自分たちのように彼が語られないなんてことあってはならないのだ。

この自分がこんなありさまであるなんて、もっとも今の自分を見せつけてやりたい相手にこんな様であるなんて。

だが現実は非常だ、あまりにも情けない姿だ。その不甲斐なさに泣きたくなった、そして気づいていた。彼と実戦で走ったレースはいつぶりだ?

 

『あぁ、まったくなんて様だ…何が準備不足だ、何が仕事漬けだ、簡単な話だったじゃないか』

 

ハーツクライは納得の末に諦観した、理解してしまったからだ。自分たちの立場に、実力に、現実に。

自分がどれだけ酷い勘違いをしていたのか思い至ってしまったのだ。世界で戦い抜いてきた自分たちは強い、だから頑張れば絶対に彼と互角に戦えると思い込んでいた。

酷い思い込みだ、そもそも今までまともに戦えたことがあったのか?勝負していた記憶があるか?いつも練習で走っていただろうに。

いつも模擬戦で勝負してもらっていたんだろうに、いつも並走で競り合ってもらっていたんだろうに。彼に戦ってもらっていたんだろうに。

シマカゼタービンは常日頃から本業は酒造りだと言っていたではないか。峠を毎日上り下りして酒を造るのだと言っていたじゃないか。

 

『つまりはそういうことなんだろう?タービン、お前は私たちが世界で戦っている間、ずっとあの群馬トレセンの裏山みたいな場所を、それよりもきつい場所で酒を担いで丸一日何度も乗り降りしていたんだろう?』

 

その場所はきっとここみたいなしっかり整備されたレース場じゃないのだろう、きっと予想だにしない場所なんだろう。

けれども、これが現実だ。自分たちはこれが限界だ、これ以上前に進む体力も、前に進む足もない、この速度が限界なのだ。

ハーツクライ自身ももうそれは理解していた、今の速度を維持し続けるだけで精いっぱいだった。

 

『バカな!!なんで、何故止まらない!!』

 

『こ、の、化け物、ども、ガッ!!』

 

またズルズルと落ちていく後方の外国馬たちが叫ぶ。己の限界を受け入れられず、目の前の現実を理解しきれず、そしてはるか先を走る怪物に恐怖を抱き慄く。

無理もない事だ、もし私が彼らと同じ立場ならそうなっていただろう。彼の力は明らかに一線を越えている、あまりにも隔絶しすぎている。

昔の自分ならそうだった、理屈は解る。だがもう一歩踏み出した自分からしてみれば何のこともない、彼らはまだ青いだけの話だ。

 

『これもまた運命だ。全て間違えていたんだよ、前提が違いすぎたんだ、私たちは間違えた』

 

なんで気づかなかったんだろうか、なんで気づけなかったんだろうか、気づいてさえいればこんな風に彼を苦しめる事はなかったかもしれないのに。

ずっと今までと同じ関係で居られただろうに、彼はずっと自分たちを待っていてくれて、ずっと仲のいい友達として一緒にいられただろうに。

徐々に足が鈍っていく彼女たちの姿を視界にとらえながら、ハーツクライの目ははるか前方のシマカゼタービンを追っていた。

追いつけないことはもう理解していた、もう足を使い切ってしまったことも理解していた、だからハーツクライは気づいていた。

きっと彼女たちにはまだ彼の表情が見えていない、彼には彼の気持ちが見えていない。彼女たちは彼にあまりにも近く、彼は彼に対する憧れが強すぎた。

今の彼の走りを見てハーツクライはすぐに気づいた。なぜなら今の彼の走りは見慣れた走り方ではなかった、自分が楽しんでいることを隠しもしない明るさを振りまく走りではなかった。

どんな時でも笑顔で、楽しそうで、面白そうで、それに自分たちも引っ張られる。見返したくて、一泡吹かせたくなって、挑戦するたびに面白くなって、互いに笑って楽しんでいた。

だが今は違う、彼の表情に笑顔はない、彼の目に優しさはない、彼の走りに面白さはない、彼の走りに温かみはない。

見ていて痛々しいほどに、すべてを押し殺して全力で命を懸けた馬の走りだった。普段を知るからこそ痛々しすぎると感じる走りだった。

彼は苦しんでいる、怖がっている、それでも彼はすべてを飲み込んで懸命に走っている。苦しみ、血反吐を吐くような思いで戦っている。

すべて自分たちが御膳立てしたのだ、彼なら最高の勝負をしてくれると勝手に思い込んで、彼ならきっと楽しんでくれると勝手に早合点して。

そんなわけないじゃないか、そんなに好きならこんなことしなくてもレースに出てきていた。出てこないというのは、そういうことだったろうが。

 

『畜生、なんて思い違いをしていたんだ』

 

自分たちはとんでもない思い違いをしていたことに今更気づいた、こうして戦えることに夢中になりすぎた。

 

『対等に戦える場所だって?対等に戦えるライバルだって?』

 

ばかばかしい、自信過剰にもほどがある。

 

『いつも合わせてもらっていたのは私たちじゃないか』

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

ずっとその背中に憧れていたのだ、ディープインパクトの脳裏には常に彼の背中があった。

いくら本気で走ってもいつも勝てない彼の背中がいつもあった、どれだけ走っても追いつけない親友の姿があった。

自分にはない自由な世界を生きる彼の背中に憧れた、自分たちのようにレースの世界で生きるのではない彼の自由な歩みに羨望すら覚えていた。

自分には到底歩めない生き方だった、競走馬としてではなくただの輓馬として生きる彼にディープインパクトはずっと憧れていた。

 

(もっと、もっとだ、もっと速く!!)

 

走る、ただ走る、前に、前に!!もっと自分は走れるはずだ、もっと速く走れるはずだ、すべてを吐き出せ、ここで何もかも使いきれ。

悲鳴を上げる体に自ら鞭を打ち、体の奥底に残ったモノ全てをひねり出すように、それこそ身をよじるかのようにディープインパクトは加速する。

もっともっと加速が欲しい、1歩でも速く、1センチでも速く、自分に必要なのは速度だ、それさえ手に入れられるのならばもうこの体が壊れても構わない。

そう願っているのに二度目の向こう正面はあっけなく終わりが見えた、あまりにもあっけなく、あっという間に走り抜けてしまった。

速すぎる、自分はこんなにも早く走っていたのか?いつもはもっと長く感じていたはずなのに、ほんの一瞬で終わってしまったように感じる。

皮膚が破れそうに引き攣る、異様な汗が体から噴き出し熱を奪う、筋肉が擦れて熱を帯び、いつにもまして傷んでくる、いくら息を吸っても吸っている気がしない。

喉の奥が痛くて苦しい、コースを凝視し続けた目がごろついて嫌悪感が増す、集中していた耳に耳鳴りが混ざって音が聞き取りづらく感じる。

骨が嫌な音を立てて激痛が走る、関節がぐらついて今にも外れそうにすら感じる、体中がバラバラになりそうだ。

 

だからどうした?

 

そんなものどうだっていいだろう、そんなこと気にする必要がないだろう?今気にすることはたった一つしかないはずだ。

距離が足りないならもっと加速するべきだ、もっと大きく足を広げてもっと強く踏み込んで前に加速し続けるべきだ。

ここには彼がいるんだ、自分が憧れた最高のライバルがいるんだ、やっと彼と本気のレースをしてるんだ。

全身全霊をもって、今の自分全てを絞り出して戦わなければ意味が無い。

全力で戦って負けるならいい、徹底的に出し切って、それでも届かないのならそれでいい。やっぱりあいつは強いんだ、悔しいけども俺はあいつに敵わないと認めるだけだ。

なのにこの様はなんだ?これが世界を股にかけて走りぬいてきた中央最強の3冠馬の姿か?これが彼にふさわしいライバルとしての自分の姿か?

 

(違う、違う違う違う!!俺はこんなんじゃない、お前にこんな姿を見せたいんじゃない!!)

 

自分は強くなったのだ、前よりずっと強くなって彼と対等にやり合える実力をつけてきたのだ。

今度こそ勝つのだ、この大舞台で最強のライバルを自分の本気で打ち負かすのだと、そう心に決めてきたはずだったのだ。

なのになんだこれは?まるで勝負になっていない、そもそも自分は彼と勝負すらできていない。

開始早々に足を掬われて馬群に飲まれ、目の前で自分がやりたかったことをまるで見覚えのない牝馬にいい様に見せつけられて、憧れた背中において行かれた。

ただの有象無象の一頭だ、主役でも、ライバルでも、相棒でも、三枚目でも何でもない。ただそこにいる誰かさんだ。

こんな負け方で納得できるわけがない、戦うことすらなく負けるなんて納得できるわけがない、こんな終わり方なんて認められるわけがない。

 

(なんで、どうしてだ!!)

 

届かない、まるで追いつけない、どうしてこんなことになった、わからない。

あんなに近くにあった背中がどうして今はあんなにも遠い。どうして何もかも届かない。

俺はお前のライバルのはずだろう、お前の隣には俺たちがいるはずだろう?なんでなんだ、なんで俺たちはこんなにも遅い。

ディープインパクトは競走馬になったことを後悔していない、競走馬として育ったことに疑問も抱いていない。

それどころか、それは天職だと喜んですらいた。多くの事を見聞きすることができたからこそ、見聞を広める機会があったからこそ、競走馬という生き方に納得し突き詰める面白さを知りえたのだ。

自分の先祖がどれだけ偉大であったのかを知り、中央競馬の先輩たちの伝説と足跡に憧れを持ち、いつか自分も後世に語られるような競走馬になってみせると意気込んで今までやってきた。

それは叶った、かつての先祖たちと同じ頂を上り詰めて、さらにその先へと足を踏み出したという確信が持てた。まだその先があるのだ、栄光が待っているのだ。

だからあり得ないのだ、こんな風になるなんてあってはいけないのだ。自分たちのように彼が語られないなんてことあってはならないのだ。

その栄光はディープインパクトだけでは到底得ることはできなかった、その歩みは多くの仲間たちが一緒に努力し、切磋琢磨した結果だった。

大竹がいて、小泉がいて、多くの人間たちのフォローがあった。中央競馬でデビューして、一緒に走ってきた無数のライバルたちと競い合い、実力を高め合ってここまでこれた。

地方競馬からやってきた猛者である彼女たちがいた、コスモバルクが、ツバキプリンセスが、ホクリクダイオーが、ノルンファングが、ハルウララがいた。

全てが強者だった、絶対的な勝利を確信できるレースなんて一つもなかった。常に自分より格上とすら思うこともあった、時には負けを喫して現実を思い知らされた。

今まで出会ってきた誰かがかけても今の自分は居ないだろう、今のディープインパクトは存在しなかっただろうと胸を張って言える。

その中には当然彼がいた、シマカゼタービンがいた。中央の同僚と違い、地方からの挑戦者とも違う、けれども自分のれっきとしたライバルであり、超えるべき壁であり、頼もしい背中であった。

 

(なんでだよッ…!!)

 

その背中が遠い、今までいつも隣にいてくれて、すぐ目の前にあったはずの背中があまりにも遠くにあった。

自分の実力を過信していたわけではない、決して慢心していたわけでもない、そしてほかの競走馬たちを侮っていたわけでもない。

スタートで彼の後を追えなかったのは確かに痛かった、外国馬にマークされて抜け出せなかったのも確かに響いた、足を掬われて思うようなスタートを切れなかったのも悔しいが事実だ。

だがそれほどの実力者揃いなのはわかっていたことだ、決して蔑ろにしていたわけじゃない。相手の方が一枚上手だっただけだ、それを超えて勝負すればいいだけだった。

だが見誤った、ディープインパクトは根本的なことで見誤った。どれもこれもが最初からズレていた、前提が間違っていた。

今までディープインパクトはシマカゼタービンに負け続けた、模擬戦では全戦全敗であり一度たりとも勝利を収めたことはなかった。

きっと分が悪い勝負になることは解っていた、それでも絶対に挑みたい相手だった。何度も迫っては突き放された背中であった。

 

ディープインパクトは何度も彼の背中に迫ることができていた。それが前提を狂わせる要因であった。

 

ディープインパクトは今更ながらに気づいた。自分たちが競り合っていたのは練習だったからだ、恵まれた環境で走る事ができたからだ。

練習では常に少数でのレースか、あるいは一対一のタイマンであることが多かった。そして群馬トレセンではシマカゼタービンが何たるかを知らない馬と職員は少なかった。

人間のことわざで言うならば、自分たちは常に『下駄を履かされていた』のだ。それでようやく対等であったのだ。

自分たちが存分に実力を発揮できる状況を作ってもらって、シマカゼタービンに集中できる環境を与えてもらって、そして自分以外も彼のことを理解していたからこそ対等でいられたのだ。

レースの出来栄えは最高の勝負をできたといえた、敵は強大で、ライバルは無数にいて、誰もかれもが勝利を求めた。その中で自分は最高の勝負をするために挑んだ。

計算に狂いはなく、対処に間違いもなく、戦法にブレもなく、イレギュラーにも対処して、想定通りの答えを導き出し、それは計算通りの結果だった。

 

(なんでなんだよッ…)

 

戦法は間違っていなかった、じれったい気持ちも抑え込んでこうして抜け出すチャンスを掴んだ。

ここからだと思ったんだ、ここから思いっきりまくり上げて彼の背中に追いつける計算だったんだ。

世界を相手にして戦ってきた俺はこんなにも強くなったことを見せてやるんだ、今度こそ勝ってみせるんだ、レースであいつの前を走ってやるんだ。

分が悪い勝負なのは解っていた、俺のライバルはそんな俺でさえ分が悪い、いつも通り途中で追いつけなくて逃げられるなんてことになるかもしれない。

でもそれがどうした?それだけあいつは強かったというだけの話だ。俺のライバルは決してただの噂じゃなくて、そこに存在しているんだ。

勝負を挑んだなら負けることだってある。自分は負け続けた、挑んで挑んで負け続けた、だから勝ちたかった。

だから何度も勝負を挑んだ、勝てるかもしれない自分が優位な場所に呼び出した。徹頭徹尾、たとえ卑怯だと言われようとも、自分が優位なところで勝負を挑んだ。

日本中央競馬は自分のホームだ、中山競馬場は慣れ親しんだコースだ、有馬記念は一度経験があるレースだ。

シマカゼタービンにとって日本中央競馬はアウェーだ、中山競馬場は初見のコースだ、有馬記念なんて経験したこともない大イベントだ。

何もかも自分が優位な勝負だ、自分ができる最大のセッティングをした有利な勝負だ、これで勝てなければおかしいとすら思える程にバカみたいなハンデを相手に背負わせたのだ。

ここまでしてなお、群馬トレセンで履いていた『下駄』を失ってしまえばこのありさまだ。

 

(なんで、俺は)

 

間違っていた、何もかも間違えていた。自分たちが考えていたよりもはるか上にあいつはいた、勝負にすらならなかった。レースの勝敗は勝負をしないまま決まっていた。

最後のコーナーを曲がる。使い切って鈍りきった足は回転数が落ちていく、明らかに自分の速度が伸びていないことが理解できた。

シマカゼタービンに追いつくなんて夢物語だ、それどころかスイープトウショウにも追いすがれない、ダイワメジャーにすら届かない。

息はすでに上がっていた、息を吸うたびに肺に痛みが走りうまく吸えない。

体力はすでに使い果たしていた、絞り出しきった根性でかろうじて走っているに過ぎない。

足はすでに限界を超えていた、筋肉が痛み、蹄が悲鳴を上げ、一歩踏み込むたびに痛みが走る。

ハーツクライが自分の横を上がっていく、その後ろからコスモバルクが必死になって追い上げていく、ツバキプリンセスが、ホクリクダイオーが、ノルンファングが、自分を追い抜かして前に行く。

どんどん前がふさがっていく、前に邪魔な背中が増えていく、憧れた背中が見えなくなっていく、親友の姿が消えていく。

 

(こんなに弱いんだ…)

 

最後のコーナーが終わる、もうシマカゼタービンの姿ははるか遠くにあった。ゴールを超えたその先に彼がいた。

多くのライバルたちの背中のそのはるか先に彼はいた、どこまでも遠かった、どれだけ手を伸ばしても届かないところに彼はいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







2006年12月24日『第51回・有馬記念』
芝2500メートル、右回り、天候・晴れ、馬場・良
出走時間15時30分

1着 ・シマカゼタービン
2着 ・スイープトウショウ・大差
3着 ・ダイワメジャー・大差
4着 ・コスモバルク・3馬身
5着 ・ハーツクライ・ハナ
6着 ・ツバキプリンセス・1馬身
7着 ・ホクリクダイオー・ハナ
8着 ・ノルンファング・クビ
9着 ・ディープインパクト・1馬身
10着・プリンスフローリ・大差
11着・キングアンドキング・ハナ
12着・エレクトロキューショニスト・ハナ
13着・レイルリンク・ハナ
14着・ザティンマン・ハナ

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