家族の仇は、娘でした   作:樫鳥

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 通された部屋は、随分と小さなところだった。窓はなく出入り口は自分が入ってきたところと奥の二つ。中央には折り畳みの机を二つ並べたものが置かれており、日めくりカレンダーだけが隅にポツンと置いてある。壁にかけられた時計の秒針が進む音が酷く耳障りに響いていた。

 

 テーブルの端には、医者がレントゲンとかの写真を張り付ける時に使う電気がつく板がつけられており、たかがだ板なのに妙に圧迫感があった。因みにあれは、シャウカステンという名前があるらしいと、後に知った。

 

 『どうも、今回お母様の担当となった井出と申します。息子さんの蓮人君ですね』

 

 医者になりたてくらいの印象の若い先生が奥の扉から資料を片手に入室してきた。藪とか腕が悪そうとは言わないが、少々頼りなく思えてしまう。

 

 『母は大丈夫なんですか?』

 

 『応急処置により、今は一命はとりとめていますが、非常に危険な状態です』

 

 病院のべッドに寝かされた母の頭には、包帯が巻かれていた。心労が祟り倒れ、運悪く夜勤仕事に行く際でありアパートの階段で転げて落ちたということらしい。同じ階に住む住民が帰宅時に、倒れている母を見つけ救急車に通報した。

 

 貴重品や財布の類はそのままということで、強盗などの事件性はなさそうであった。だがしかし、事故現場を直接見た者はおらず倒れてからどれくらいの時間が経ったのか定かではない。頭から出血をしていたこともあり、脳に衝撃を受けたのは確実だ。いかに早く治療できるかが生死の分かれ目であるというのに、未発見でいた時間がどれくらい長かったのかは分からない。

 

 『衝撃による裂傷が頭部にあり、お母さんの頭部をCTスキャンで撮ったところ脳の内部で出血していることが分かりました』

 

 シャウカステンに、白黒の脳を断面を撮影したような写真が張られた。レントゲン写真くらいなら見たことはあるが、脳みその断面図なんて見てもなにがどう問題なのか分からない。だが、これがおかしいということなのは医者の様子から察することができる。

 

 『両側前頭葉に暗い陰があるのが分かりますか?これが脳挫傷の影響で引き起こされたものです。更に中央部よりやや上のここ、両側大脳谷槽と呼ばれる部分を中心にくも膜下出血がおきています。脳内部で血管が破れ、出血している状態です』

 

 脳内で出血しているとなると、どんな素人でもそれがまずいことだということが分かる。そして、生半可な治療ではそれが完治できないことも。

 

 『開頭手術でこの血腫を取り除き、圧を下げる必要があります。脳血管攣縮により、脳梗塞を引き起こす可能性もあるので、これには早期の治療が必要でありご家族の方の同意を頂きたいのです。これから手術内容の説明をいたしますので、同意できるのならばこちらにサインをお願いします』

 

 先生から簡易的にどういった内容の手術をするのかを聞いていたが、そこから先の記憶はあまりない。ただ慌てるように手術による同意のサインを書類に書いた記憶がある。

 

 受験を控えて、人手不足も解消され、バイトの時間を削り勉強に回すようにした。しかしそれは、母の負担になったのではないか。前々から限界が近かったのに、自分の為にそれを見て見ぬふりをしてしまっていたのか。

 

 待合室のベンチに座りながら考える思考は堂々巡りを繰り返す。五分が長い、十分が二時間に感じる。三十分すぎた頃には正確な時間を測る体内時計はとうに壊れてしまっていた。

 

 『この先どうなる』

 

 そして嫌になることに、行き詰った思考は個人的な進退についてまで嫌な妄想を膨らませる。母の心配もあるが、これからは収入面が壊滅的になる。生活保護は受けられるだろうか?家賃補助とかはあるのだろうか?高校生活は続けられなくなるだろうか?受験は?大学は?

 

 吐き気がする。母が生死の間を彷徨っているのに何時の間にか自分のことばかりに考えがいってしまった。このままでは、待っている間に潰れてしまう。

 

 なにか暖かいものを胃に入れた方が良いと考え、立ち上がる。売店に行けば自販機でもなんでもある筈だ。

 

 一階ホールの明かりは、必要最低限を除き既に落ちていた。自販機の明かりが暗闇の中に浮かび上がっている。なにかを購入しようと思い、自販機の前で立ち尽くす。もうなんでもいいかと、ボタンを押すが品物も出てこなければ何一つ反応もなかった。

 

 当然だ、硬貨だって入れていないのにボタンを押しただけで品物が出て来る訳がない。財布を取りだそうとしたが、その時点でなにか買う気は失せていた。喉も乾いていないのに、無駄使いしてどうする。間抜けな行動を挟み、温かいものを呑みたいという欲求は消えていた。

 

 待合室のベンチに座り込みスマホを開く。時刻は既に21時を回っていた。連絡が数件、そのうちの一件は桐野からのものであり、母の様子を気にして容態を尋ねるような内容だったが今は上手く返信できそうにない。既読スルーとなるがスマホの電源を落とす。

 

 頬を軽く叩く。母が今戦っているのならば、僕もまた戦うべきだ。鞄から暗器の為の英単語カードを取り出す。一枚一枚めくりながら、暗記をする為に声に出し頭に叩き込む。気を紛らわすには、時間を無駄にしない為には今はこれしかない。

 

 どれだけ時間が過ぎただろうか、手術が終わったのか、看護師がこちらを探しに来てくれた。手術は無事に成功したという言葉を聞き、安堵し胸をなでおろす。だがしかし、母が支払った代償は重いものだった。

 

 手術は成功したものの、倒れてから発見する時間が長かったせいか。血腫の影響で下半身に影響があり、麻痺が残ってしまった。腕の可動域も厳しく顔面も硬直があり、食事も上手くとることが難しくなっている。少なくとも、今後誰かの介助が必要になることは想像に難くない。

 

 車椅子生活が今後必要になるが、現在居住している場所は賃貸。介助用の手すりを取り付けることはできず、トイレだって狭い為介助しながらは困難極まる。なによりエレベーターなんてものは存在しない。現在居住しているところでは、受け入れが難しい。

 

 要介護認定を申請しており、通れば国から補助金がもらえる。だがしかし、どうしても今よりバリアフリーが安定しているところに引越しをしなければいけなくなる。

 

 大学費用なんて考えている場合じゃない。即、まとまった金が必要だ。進学して勉強しながら、アルバイトをしてなんて悠長なことを言っている場合じゃなくなった。高校卒業、いや下手をすれば中退も視野に入れて今後を見据える必要が出て来る。

 

 術後、成功を聞いてあんなに喜んでいたのに、日が過ぎるごとに現実が重荷となって肩にのしかかっていった。今日も病院に行き、母の面会をして医者の話も聞く。特養ホーム、家から離れて施設で暮らすことを進められてしまうが長寿国の日本だ。

 

 長寿というのは素晴らしいことであるが、それは健康寿命が伴えばという条件がつく。アルツハイマー型認知症、歩行困難、虐待による引きはがし行政処置、老齢介護。家で面倒を見ることができなくなった老人がこんなにも多いということを、僕は初めて思い知った。どこの施設も空き待ちの行列だ。

 

 『……クソ!』

 

 勉強机に乗せられていた、受験の為の参考書。バイト代金を節約しながら、少しずつ購入した勉強道具が腕のひとふるいで机から崩れ、床に散乱する。拳を何度も何度も叩きつけ、やり場のない怒りと将来の不安を痛さで誤魔化すしかなかった。

 

 大学生活に、少しは憧れもあった。行きたい大学も決まっていた。さらには就職を目指すべき仕事や会社も今の時点で目星をつけており、勉強はその会社に有利になるようにと色々考えていた。

 

 『クソがぁ!ちくしょう!ちくしょう!なんで僕ばかり、僕達の家族ばかりこうなるんだ!ふざけやがって!のうのうと生きている奴等なんてそこら辺にいくらでもいるだろうに!』

 

 大学に行くことを考えずに、最初から高校卒業後就職をする前提でもっとアルバイトをして金を稼いでいれば良かったのか?それとも、中学卒業後すぐに働き始めればこんなことにはならなかった?震災がおきていなければ?母が、なにか脛に傷がある父と親戚からの反対を押し通して結婚しなければ?

 

 参考書にカッターナイフを叩きつける。暗記の為のカードが宙を舞った。踏みつけた赤ペンが折れて、プラスチックの破片が足の裏に突き刺さる。痛みは今はありがたい。

 

 隣から壁を殴られた。あまりの煩さに、抗議のものだろう。それはそうだ、十代後半が後先考えずに暴れれば、例え壁が薄くなくてもそれなりに響くだろう。

 

 壁を殴り返した後、部屋を飛び出した。フラフラと街中を歩き回り、繁華街に差し掛かる。意識が怒りで半ばフワフワしたように溶けた状態だったが。ふと気付くと雨粒が頬を濡らしていた。

 

 すぐ横を見ると、並んだ自転車が横倒しになっている。空は曇天ではあったが明るく、日が昇っているようだった。泥と雨で薄汚れた高校指定のシャツ。ここはどこだと起き上がろうとした瞬間、痛みで再度腰が落ちた。

 

 額が痛い。触ってみると血がついている。頬も、痛かった。

 

 対面にゴミ捨て場があり、捨てられた割れた鏡が袋を破り突き出している。危険物の廃棄なのに、ガサツなのか無責任なのか、新聞紙にも包まずに雑にビニール袋に入れて放棄したのだろう。鏡の破片に目を落とすと、瞼の周辺に青あざがあり額に裂傷があった。

 

 そこで思い出す。ありがちな肩がぶつかっただの、ぶつかっていないだのといった口論。路地裏に連れて行かれて、口論になった男とその取り巻き数人と喧嘩をした。まあ、喧嘩なんて言えない一方的なリンチであったがこちらからも可能な限り反撃したので喧嘩と言えるだろう。

 

 鉄パイプで殴ってくるのは反則だろう。そういえば、後頭部も痛い。母のことが頭をよぎったが、どうやら頭の固さは存外強いようだ。

 

 身体を探られ、財布すらもっていないこちらに舌打ちをして、グループはここに僕を投げ捨てていった。そのなかの一人、女子がスマホで何枚か写真を撮りながら笑っていたのを覚えている。大した醜聞を晒したものだが、望んだ痛みのお陰で頭の中は幾分クリアになった。

 

 『ここまで恥を晒したんだから、これ以上晒しても同じか』

 

 母が退院するまでまだ時間はある。役所の援助申請、高校の教師に相談、介護専門員…ケアマネージャーさんだったかに今後の相談。施設の申請や場所選び。日々の生活費。やることは、想像以上に多い、多すぎる。

 

 もう一度僕だけで母の実家に顔をだして状況説明をして頭を下げよう。事情を知る大家さんにも相談して、介護の為の準備をどこまで可能でどこまで不可能か聞く必要がある。もしかしたら、家賃の支払いを待ってもらえるかもしれないと考えるのは甘えすぎだろうか。

 

 『切り替えろ。まだ生きているんだ』

 

 あの震災で、父を始め沢山の人が亡くなった。それと比べてしまうのは失礼であるが、まだ最悪ではない筈だ。生きているからには、生きる努力をしなければならない。

 

 雨が強くなる。良いぞ、もっと触れ。身体も頭も冷えてくれた方が、冷静に対処できるというものだ。まずはシャワーでも浴びてから、荒らしてしまった家の片づけ。お隣さんの詫びを入れる必要もある。もしかしたら、これからも迷惑をかけるかもしれないのだから。

 

 降れ、もっと降れ。血も泥もこの気分も流してしまえ。立ち止まる暇はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『あ、レント君久しぶりー』

 

 『は?誰それ』

 

 あれから、高校卒業までの間の出来事は目まぐるしいものがあった。

 

 担任教師との相談を経て、説得を強く受けたが惜しまれながらも進学コースから就職コースに切り替えた。ケアマネージャーさんや大家さんを交え三者面談で相談をして一階に部屋を移してもらい、取り付け工事がいらない置くタイプの手すりを用意することができた。

 

 選り好みはしていられないと探した就職先は、鋳物加工を行う工場勤務。三週間のうち一週間は夜勤があり、残業は日常で、土曜日出勤。だがそれだけにもらえる金銭はそこら辺の会社で高卒で入るよりはよほど良い。

 

 役所に行き可能な限りの福祉を受け、親戚宅からは疎まれながらも兄嫁がこちらを憐れに感じたのか、僕にとっての叔父を説得してくれ、これで縁を切るという手切れ金代わりに高校卒業まで生活費の援助をしてくれることを約束してくれた。これでなんとか高校中退で働きに出ることはなく、介護とアルバイトを両立しながら高校卒業まで通うことができた。

 

 ありがたかったのは、富田さんだった。こんなもので悪いがと言いながら、廃棄弁当を持ち込んでくれたり、クリスマスには売れ残りのケーキを届けてくれた。久しぶりの甘味を食べたら、涙が流れてしまったのを覚えている。『こんな人生ハードモードな奴、俺は知らんからな』と気にかけてくれている。

 

 なんとか高校を通いながら家事と介助にアルバイトを両立することを犠牲にして、桐野とは疎遠になっていった。桐野は大学受験が控えている。僕が邪魔する訳にはいかないというものあったが、それ以上にこの忙しい毎日で桐野と遊んでいる暇はなかった。

 

 だからこそ、この結末には想像がついていた。むしろ、なあなあにしていた分の現実が、表面化したとさえ感じていた。

 

 『ああ、アタシの元カレー』

 

 桐野の言葉に、反論が口元から出かけたがそれが言葉になることはなかった。これだけ長い間、それこそ久しぶりだと言われる程出会っていなかったのに彼氏面もないだろう。関係は、とっくに自然消滅を迎えていたのだから。

 

 『へぇ』

 

 傍らの男はにやついた。茶髪に少し日焼けした肌は、同じように焼いている富田さんを思い出すが、悪意と優越感に浸る表情は彼とは似ても似つかない。

 

 『彼ねー今カレ。城戸大学に通ってるの。凄いでしょ』

 

 桐野の言葉に、アンタと違ってという幻聴が続いたような気がした。気のせいだと感じきれないのは、今桐野が僕を見る目は隣の男と似たようなものであったからだ。

 

 城戸大学といえば、この県で一か二を常に争っている名門大学だ。そして、僕が目指していた大学でもあった。桐野は私立の大学に進学しており、大学は違うもののどういう縁があったのか交際にこぎつけたらしい。

 

 『凄いね』

 

 それ以上なにを言えば良いのだろうか。なにか言わなければいけないだろうが、頭にはなにも浮かばなかった。

 

 『それで、なにか用事かな?』

 

 問いかけると、椅子の足を蹴られた。身体が揺れ、机にぶつかり飲み物の杯が倒れそうになる。声を荒げなかったのは、一目があったからだ。

 

 『アタシを捨てたアンタが、どれだけ落ちぶれたのか見ようかと思って』

 

 『この学歴社会で高卒とか、将来お先が知れ過ぎだろ。な?分かれて良かっただろ?町工場の給料なんざ、この先付き合ってても苦労するってさ』

 

 捨てられた感じだったが、向こうからしたら僕が捨てたことになっているのか。どちからが悪いかといえば僕の方かもしれないが、それでもなんだか腹がたってくる。

 

 『別のところ行こうぜ。油臭くて、こんなところでパフェ食ってもしょうがねーって』

 

 『そうだね。先に店から出ててよ。別のお店の確保しておいて』

 

 明確な職業差別。ヘラヘラしながら男は店から出て行き、桐野のみと向かい合う。

 

 『正直、今のレント君からは微塵も魅力を感じないんだよね。こうなるならば、高校時代にさっさと捨てておけば良かったよ。頭は良いのに、こうなると憐れだよね。ほんっと時間を無駄にしたって感じ。あんなに苦労したのに。残業ばかりの安月給で苦しむざまになるなんてね』

 

 『桐野』

 

 『貧乏でどうしようもない生活なんて、アタシはまっぴら。精々ショーガイシャと貧乏な暮らしをしていけば?じゃあね』

 

 立ち去る後頭部に、コーヒーカップを投げつけなかった自制心を僕自身が褒めてやりたかった。ここでなにかして相手に怪我を負わせたら、目撃者は多数。刑務所行きになったら、いったい誰が母の面倒をみてくれる。

 

 大きく三回深呼吸をして、怒りに高鳴る心臓を落ち着かせる。桐野が出ていくまでなにか一言でも言葉を放てば、それは止まらず暴力にまで繋がることが目に見えていたからだ。

 

 これがドラマだったら、謝罪を要求する言葉を放てただろうか。漫画だったら馬乗りになり顔面が変形するまで拳を叩きつけていただろうか。それをしてはいけない。現実は創作とは違い、物語のピークを過ぎても生活が続いていく。

 

 一時間程時間を潰してから、店を出る。万が一でも再度出くわしたくなかったからだ。言われるだけ言われて、一言も反論できず、惨めだった。ブレーキが無ければ、どうなっていたか分からない。

 

 それでも、やはりなにか反論してやれば良かったか。いや、それをやればもう歯止めがきかないのは分かっている筈だ。 

 

 家に帰り、訪問介護の職員に礼を言う。食事まですませてくれており、トイレ介助も終わらせてくれていると報告を受けた。今日は休日で天気も良い、午後からは公園で散歩をすることに決めていた。

 

 硬直した口をなんとか開きながらもごもごと母はなにか言う。なにを言いたいのか分からないが、笑顔で頷いておく。表情筋は、もう笑顔を作れるくらいには怒りを抑えている筈だ。

 

 自然公園まで足を延ばす。ここに来ると、桐野とのデートを思い出してしまい気分は最悪よりさらに下になってしまったが、自然豊かでバリアフリーもあり、公衆トイレは車椅子用まである。環境としてはこれ以上のものはない。

 

 『少し、出かけようか。外の空気を吸いに行こう』

 

 外出用の車椅子に乗り換える。正面から背中に手を回すように抱き上げ、位置をずらしてゆっくりと乗せ返せた。母は、随分と軽くなってしまった印象がある。

 

 外に出て車通りの少ない道を歩き、公園までたどり着く。バリアフリーのある坂道を昇り、丘のようになっている場所にはいくつかのベンチと、アイスクリームの屋台が来ていた。珍しいが、天気も良いし気温もそれなり、売れると判断してここまで来たのだろう。

 

 『母さん、俺さ…』

 

 言おうとすることを、言葉にする前に変える。彼女との別れ話等こんな状況でしてもどうしようもない。これは僕自身、僕の中で消化するべきことなのだから。

 

 『自動車整備工、目指そうと思う。父さんみたいな専門技師になれたらなってさ。今の仕事も悪くはないけど、どうせ勤めるなら目指す先があればなってさ。そのうち、貯金ができたら職業訓練校にでも行こうかなってね』

 

 県が運営する訓練校ならば格安で勉強することができる。だがしかし、初任給をもらったばかりなのだから、先はまだまだ長い。でも今は、未来に向けて少しでも良いビジョンを見ておかないと心が潰されてしまいそうである。想像以上に、先程の別れ話は胸を苦しめた。もっとも、彼女を放ったらかしにした僕になにか文句を言う資格はないのかもしれないが。

 

 母さんが、口を開いた。口元に耳を近づけると、小さな声で途切れながらもアイスが食べたいという言葉が聞けた。こういうことを言うのは珍しいが、要望が聞けたことが逆に今は嬉しい。

 

 『ちょっと待っていて』

 

 財布を握りながら屋台に近づく。何人か並んでおり、目の前のカップルは味に悩んでいるようで少し時間がかかっていた。

 

 シンプルにバニラ味で良いだろうか。そう考えていた平和な思考は、突然の音と悲鳴に中断された。振り向くと、ある筈の車椅子がなく母がいない。そして、階段の下から人が倒れているという悲鳴。まさか、と思ったがそのまさかであった。

 

 階段の下には、パーツの一部が衝撃で破損した車椅子と、倒れた母がいた。

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