家族の仇は、娘でした 作:樫鳥
両肩にかける鞄から溢れる紙に包まれた焼き立てのパンと香ばしいベーコンの匂い。もう夜も遅い時間だということで、ボチボチ家にでも帰ろうと考える通行人も傍らを通り過ぎた美味しそうな香りについつい首を傾けそちらの方に振り向いた。
しかし匂いの発生源は既に遥か後方に流れていた。深夜の暗闇のなか、雑踏の気配と大量の松明に照らされた明かりが増えてくる。
リスム自治州経済特別区東南。元々ハーウェンの縄張りであったが、主な収入源であった薬物の流通ルートが途絶え弱体化。そして、時折顔を見せていたハーウェンの魔女、又は蛇使いと呼ばれていたカナリア=ウェリアが失踪。跡目争いが勃発し混乱した組織は壊滅する。
元々この島は裏稼業の間で三つ巴状態になっていたが、ハーウェンが占めていた土地の大部分とカジノ等の収益と権利をレガリアが、流出した武闘派の人材や違法品の輸入ルート、闘技場の利権をデラウェアが牛耳ることにより事実上ハーウェンは消滅する。
デラウェアの組織にいた主要メンバーは元々逃亡した奴隷剣闘士達。リスム地下迷宮の入口を一つ違法に抑えている強みと闘技場の利権を手にし、虐げられた者達の復讐は部分的にではあるが遂げられた。
少数精鋭を軸にした組織の為、市場やリゾート地区、カジノに海運等多角的に経営をするレガリアの土地と利権を奪取することには興味を見せなかった。彼等は元は虐げられた者達、下の立場を作り搾取されることを嫌った。冬の到来時期に二つの組織の長が会合、相互利益と不利益を確認し天秤の針を動かす駆け引きの結果、和解が成立した。
そしてハーウェンが元々収めていた土地、特に港はとある理由により大規模かつ性急な改修工事が行われた。
坂道を駆け降りる。港に見える光景は夕暮れ前に寄港した大きな捕鯨船と鯨の解体に勤しむ職人達。冒険者ギルドから派遣された日雇い労働者達が拡張されたばかりの港で忙しく働いている。
積み上げられた丸太や木箱、樽や人混みの間を縫うように走る。レースで長年経験してきた障害物への対応がまさかこんなところで活かされるとは思わなかった。下手に荒い腹ペコの人間に捕まれば、商品を強奪されることだってあるのだからこの役目はこれ以上ない適任だと自負していた。
解体されていくクジラ肉に抽出された鯨油の放つ独特の臭いの中を進み、寄港している木造船まで近づいた。解体された鯨は降ろしているが、船の整備員や捕鯨道具のメンテナンスを副職にしている職人達が乗り込み、元からいた船員達は船の清掃に追われていた。
「どうも、フードデリバリーサービスです!」
「来たか。野郎ども、小休止だ!胃の中に詰め込めんでおけ!」
船を掃除していたり、船内で荷の整理をしていた水夫達が集まってくる。鞄を開けた瞬間、群がるように手を突っ込みパンを強奪しようとするがそこは回避。皆腹が減っているのは分かるが、乱暴にされて商売道具のカバンを破かれたり中身が汚れるのは困る。
「一人ずつお願いしまーす」
捕鯨船の船長が注文していた、鶏肉の炙り焼きとレタスにトマトが挟まれた背割りパンが配られていく。声掛け空しく争うように取られていいった為、二つの大きなカバンはあっという間に中身が空になったことで、船長が現れ手間賃とお気持ち代金を頂戴した。
「イド、お前が飯を届けてくれて助かる。早くきてくれて、商品を盗まれるような間抜けでもない。裏稼業同士が協定を結んでも基本的にこの島の治安は悪いから、手癖の悪い連中はいくらでもいるからな」
「捕まったら終わりの仕事をしていたもんで、これくらいは楽勝ですよ。むしろ、大変なのは皆さんの方ですから」
「ああ、違いねぇ。戦争を抜きにしてもリスムは、すっかりと変わり果てちまった」
イルドガルでメルキオル商会の言いなりとなってレースをしていた僕は、奇妙な道連れと共に旅に出た。
だけどそれと同時期に、各地で世界は大きく変動していた。帝都を襲った悪竜と巨大四足獣の争った帝都事変。北方で反乱軍の討伐と帝国軍の撤退。リスムで行われた住民投票で多数の死傷者がでた血の投票事件。
僕と連れがリスムに来たのはその住民投票が終わった後くらいの頃合いだった。元々仲が悪かった帝国と連合王国が急速に冷え込み、遂に戦争まで始まった。元々僕と連れは連合王国を目指していたのだけど、こうなってしまえば行先も無くなりこうして経済特別区に身を置いている。
リスムは混沌としていた。帝国派と連合王国派で住民達は殺気立っており、政権の権威が揺らいだことで次の選挙を待つ処か帝国派の前市長が帝国に亡命し、エンパス教とかいう新興宗教が政治的空白と不安の隙を縫うように信者を増やしていった。
船長の言う通り、こうして戦争まで起きて、世界は変わり果てたのだろう。旧グロルダール公国壊滅やダイヤモンド問題等、僕にとっては天変地異レベルの大事だったけど世界から見ればほんの些事であったのかもしれない。何度も耳に届いて来る、世界大戦という言葉が事の重大さを嫌でも理解させられる。
世界がこの先どうなるかなんて想像もつかないけど、考えるのは助けてくれた人達のこと。帝都に向かったランザさんやクーラさん、いつの間にか何処かに消えていたジークリンデさんは大丈夫だろうか。戦火がイルドガルまで届くのはあまり考えられないけど、レース仲間はこの先大丈夫か。
「そうだ、どうぞ」
そういえば、預かり物があった。彼が馴染みにしている自治州本土にある酒場の店主からの預かり物。瓶の内部に琥珀色の液体が揺れる高級そうな酒瓶には、船長の名前の札が紐で巻き付けてあった。瓶に蓋がされていてもアルコール臭が漂ってきそうな、強い酒精だ。
「お前、これは」
「パン屋のウルガンさんのところにいったら、酒屋のバモスさんが待っていまして、配達序に届けてもらうように頼まれました。今捕鯨船はリスム漁港に寄港できない、こちらに寄る暇もないだろうと。それに、エンパス教が酒類の全て廃棄するように動いている節があるようです。目をつけられないうちにと、頼まれました」
リスムはすっかり変わり果てちまった。船長の言葉通り、それは戦争を抜きにしてもそうであるようだ。
かつてのリスム自治州は、巨大な漁港に連日大海から戻った大型の捕鯨船が戻り脳油や鯨油、肉に骨、皮等が解体され一大産業となっていた。だが今は、まるで政治的空白期間の隙を乗っ取るようにエンパス教が幅を利かせ漁港が封鎖されてしまっていた。
表向きの理由は、戦争中の現状あくまで中立を保つ為に両軍の軍艦を寄港させない為にと言われてはいるが、実際問題は捕鯨活動にアンチなエンパス教の締め付け、追い出し政策によるところが大きい。捕鯨船や解体工場には必ず魔具が置かれているのも目を付けられる原因のようだ。
清廉潔白かつ品行方正であれ。多くを欲しがることなかれ。便利は怠惰である。欲を捨て我を捨て奉仕せよ。基本方針がそれである為、大量の富みと食料に雇用を産み出す捕鯨活動はあれこれ槍玉をあげられ潰しにかかられた。
現状リスム自治州をまとめるのは、帝国派でも連合王国派でもないがエンパス教の信者である市長代理である。リスムでおこったという巨人事件以降規模を増やすエンパス教の信者達は、多くの富みは災いを呼ぶと信じ切ってしまっている。巨人事件は、多すぎた富に引き寄せられた悪魔だと本土で喚く人間も見たことがある。世界の終わりが近いからエンパス教にすがろうとも。
僕は鼻で笑いたくなった。多すぎる富は悪魔なんて呼ばない、呼ぶのは怠惰と破滅くらいだと。悪魔のせいにしたら、本物の悪魔には迷惑だろう。だが男の周りには熱心に話を聞く聴衆が集まっていた。どうやら、巨人事件の折彼等は奇跡を見たのだとか。
まあ奇跡とか悪魔はともかく多くの富みが災いを産むという考えは、僕としては間違っているとは思わない。だって旧グロルダール公国はその過剰な富と価値の暴落で崩壊してしまったのだから。だけど、鯨油産業は地元住民が一丸となり雇用を大量に産み出していた。そんなものを締め出してしまう等、考えられない。養豚を廃したグロルダール公国を思い出してしまう。
贅沢は敵だ。嗜好品は贅沢だ。故に敵だの考えが浸透してきたのだろうか。酒屋を経営していると言っていたバモスさんの顔色は悪かった。噂では、改宗と嫌がらせが続いていると言われていた。近いうち、店を畳み経済特別区に居を移そうかとも。
ここ経済特別区は、エンパス教の強引な教えに反発する人間が流入していた。あまり詳しくないけど、どうやらこの島の成り立ちは特殊であるらしい。そして、巨人事件の被害を受けていなければ、裏組織が牛耳る為にあれもするなこれもするなのエンパス教とは致命的に相性が悪い。
レガリアとデラウェアの協定内容には、エンパス教をこの島には入れないことを基本方針として合意したというのも住民達には有名な話だ。布教にやってきた物が、この島の入口である市場で石を投げられるのも珍しい話ではない。
「想像していたが、バモスの親父も苦労していやがるんだな。クソ、儲けるのもダメ、酒もダメ、連中はなにを人生の軸にして生きていけってんだ。レガリアの首領、ガルデの旦那には感謝だな。俺達から捕鯨を奪ったら、行き場所の無いろくでなししか残らねえ」
瓶の蓋を開けて、船長は酒を煽った。同じにしてはいけないだろうが、気持ちは分かる。僕としても仮にパルークーレースが理不尽に潰されるようなことがあれば面白くはない。商会の思惑で使われていたとはいえ、あの競技を僕は本当に愛しているのだから。そして当時の僕にはそれしかなかった。それが奪われたら、僕自身の価値はなにが残るのだろうか。
こうして経済特別区で捕鯨船を受け入れているのは、島で増えた人口の食糧問題を解決する為でもあるが、船乗り達の苦境を見捨てることができなかったのだろうとある人物は予想をしていた。多分、間違ってはいないのだろうと思う。
「俺からだ、受け取れ」
金貨と銀貨を一枚ずつ親指で弾かれる。お気持ち代金としては、あまりにも高価だ。
「多すぎますよ。それに、バモスさんから代金はいただいています」
「久しぶりにこの味を飲みたかった。だから良いんだ、バモスの親父には会いにいけないしな」
捕鯨船の船員は、穢れが染みついていると自治州に入ることはできない。厳密に禁止されてはいないのだが、目が血走った熱心すぎる信者共に迫害されている。エンパス教に入信することこそ穢れを拭う方法だそうだが、そんなことをしたら船から降りることになる。
本土には家族や恋人がいる。美味い酒や馴染みの料理屋がある。そんな日常には、捕鯨船の者達は戻れない。経済特別区で彼等を受け入れても、元の日常とは既に違う。
「銀貨はもらっておいてくれ。そしてもしバモスの親父にあったら、その金貨を一枚を渡せ。これだけの高級酒を律儀に届けてくれたお前だ、信用できる」
「僕が盗んでもしょうがないだけです。酒の良し悪しなんて分からないだけですよ。ですが、お得意様の為ですし偶にはフード以外のデリバリーを承っても良いとは思ってます。銀貨一枚でその依頼を引き受ける。業務外故に代金はお高くなりましたがよろしいですか?」
こちらの返しに、船長は軽く笑いながら頷いた。パンを食べ終わった船員が作業に戻り始めた為、邪魔にならないように船を飛び降りて退散する。樽や木箱の上を飛び移り、大きく跳ねて物置小屋の屋根に着地。大量のパンがなくなったため、揺れや重さを気にせず人混みを避けられる最短ルートを行く。
美味しそうなパンの匂いを嗅ぎながら働いていたらこちらも腹が空いた。経済特別区は眠らない島だ。炭鉱の街のように二十四時間なにかしらの店が開いており、食べるのも困らない。本当は今の下宿先に帰れば頼まなくても夕食を恵んでくれるのだけどあまり借りは作りたくない。
寒くなってきたのに汗をかいた。温かくて、塩気が効いたものが良いな。モスコーという町から酪農製品が届いていた頃は牛乳を使ったシチューというものが美味しいと聞いたことがあるけれど、戦時中にそれは見込めない。取り合えず、塩漬けの鰊が浮いたスープと黒パンか平パンでも食べれれば良いかな。
経済特別区では珍しくなんの変哲もない住宅地に辿り着く。夜も遅くだが、最近は鯨油や鯨肉に関する仕事も多く起きている人間が多い。顔見知りになった人達と軽く挨拶を交わしながら食事処に向かおうとしていた時、その声が聞こえた。
「さぁ張った張った!まだの奴はスパッと決めちまえい!」
町の角から聞き馴染みのある声が聞こえた。思わず渋い顔になるのが分かる。胃が少し痛くなり、食欲も消えた。
声の方向を見ると、地面の上にゴザと呼ばれる極東のイ草と呼ばれる植物を編み込んで作られた敷物が敷かれていた。五、六人の男が集まり円陣を組むように座っており上座に胡坐をかく東邦人を眺めている。
黒髪の中年男は、三本指でサイコロを掴み陶器の器に放り込む。周囲から丁だの半だのという声が溢れ、出揃ったところで杯をあげた。
「シソウの半!」
サイコロは三と四の数字が出ていた。丁が多かった博徒達から掛け金を巻き上げていく。ホクホク顔の中年男、イシカワは巻き上げた金を数えて次の勝負と言わんばかりのタイミングで目が合った。
「ア~ン~タ~は~!」
「うおおイドォ!いやこれには深い訳が」
「良いからさっさと戻るぞ!サボりやがって!また借金増えるだろうがこの穀潰しがぁ!エレミヤにまた付け込まれるぞ!」
「いやあ、あんなべっぴんなら多少付け込まれた方がそそるものが」
「いいから立つ!色ボケ忍者!」
耳を摘ままれ中年男、イシカワが渋い顔で立ち上がった。突然の中断となったが、博徒達も渋い顔をしながらもエレミヤの名前が出てしまえば引かざるえない。
義賊と言うのは巨悪がいなければこうも役に立たないものか。経済特別区で足止めを喰らい、僕はフードデリバリーで日銭を稼ぎ始めた。イルドガルで出会ったというか、付いて来た旅の連れ合いことイシカワは俺も稼ぎぶちを探すと言い単独で行動をしたが、なにをどう間違えたのかエレミヤの高級娼館にて稼ぎ処か借金まで拵えてしまった。
エレミヤからは、借金で型にはめイシカワを従業員に引き入れたいようであり今は住み込みで働くことになっている。なんでも、男性従業員は素手で経済特別区でおこるトラブルに対応する素質が必要らしく、性格はともかくその特異な技量は娼館主のエレミヤにいたく気に入られたようであった。
取り合えず、借金を返済されるまで住み込みで働くことになり、僕も下宿先として住まわせてくれるようになった。僕が半獣だということがバレた時、灰色髪の猫の半獣を思い出すと彼女は笑った。それがクーラさんだと僕が気が付き、ランザさん達という共通の知人を持つ奇妙な縁があった為である。
部屋を無償で提供してくれるという好意は願っても無い為ありがたく受けているが、隙あらば僕ですら彼女は勧誘しようとした。殴り合いやトラブル解決等専門外も良いところなので断り続けているが、いざ戦争が終結し連合王国に行こうとしてもイシカワが借金まみれで縛られていてはどうしようもない。
「まったくイド。大きく博打で稼いで返済しようという心持ちが何故分からん。頭が固いぞお前」
「そう言って、この前大負けして泣きついてきたのはどこのどいつだよ。極東人は真面目だって聞いたことがあるけど、アンタの様子を見ると怪しいもんだね。そういえばだけど、忍者なら忍術とかいうのでも使えばサイコロの出目くらい弄れるだろ。なんで素寒貧になることがあるんだよ」
「博打とは、己の才覚と運に頼る真剣勝負。小細工を挟むなど愚行よ。まあ、相手が仕掛けて来るようであればそれを利用して打ち負かすくらいのことはするがね」
「どーでも良いよ、アンタの博打論なんて。とにかく、今は雇い主に借金返すことだけを考えてよ。謙虚に生きろ、謙虚に」
娼館の多く集まる歓楽街に辿り着く。最初のうちは誘惑されたり営業に声をかけられたものであるが、生活が長くなれば顔見知りもでき軽い挨拶程度かわされる程度に終わる。営業はともかく、誘われなくなったのはちょっと寂しいような気がするがスムーズに帰れるのは良いことか。
「なんだイド、お姉さま方に声をかけられなくなって寂しいか?ん?」
「いや、お前なに言ってんだよ」
「いやいや、男の子だもんなぁ。こう、周りが華やかで煌びやかではさぞ誘惑も多いだろうよ。そろそろ資金も溜まっただろう?手軽なところで一発やってきても良いんじゃないかぁ?ん?」
背中をバンッと叩かれた。確かにここで足止めをくらっているうちに、旅の資金以上に金銭も溜まりつつあった。経済特別区の人気観光地であるこの娼館通りであるが、エンパス教のせいで禁欲が本土で広がり客足が遠のきつつあるという。今なら相手を選び放題とも何度も声をかけられた。
「いや、でもお前それ。僕はそういう相手は」
「ちゃんと好きになった同士でやりたいと?甘い!まこと甘いぞイド!いざ寝屋で行為を及ぶ際に男の貴様がちゃんと相手をリードできなくてどうする!作法もなにも分からぬままオロオロしては、男児として情けないと幻滅されること間違いなし!いっそプロの手解きを受け一皮剥けてこそではないか!?どうだんだ!」
「ええい喧しい!一皮むける処か女で借金作って全部剥かれたアンタになんで言われなくちゃならないんだよ!」
「フハハ!上手いことを言うなイド!だがそれも人生経験よ!走ることしか知らない初心な少年では何時までもいられないぞ?男になれ男に!」
イシカワの尻を蹴っておくこの男は、飲む打つ買うの三コンボを決めた上にこういうところまでどうしようもないのだから。
本当はいざとなればイシカワを放り出しても良い。下宿を借りているとはいえ、無償でいいとは言うが家賃を僕は支払っているし、離れられるのも簡単だ。だけどまあ、一人でいる時間がやや長すぎた。こんな騒がしいおっさんでも、いなければいないで余計なことばかり考えてしまいそうだ。
僕は連合王国を目指している。あの国では半獣に対する差別意識が薄く、実力至上主義だと言われている。だけど、まったく知らない土地で生計を立てることができるのか。本当に働き口はあるのか。働き口があったとしても、グロルダール公国にいた頃のように理不尽な理由で仕事がなくならないか。再度奴隷に落ちてしまえば、今度は独力で這い上がれるか。
不安ばかりが頭に浮かんでしまう。だが、何時も陽気なこのおっさんに合わせていれば、そんな不安な毎日が少しでも軽減されることもまた確かだ。恋愛面まで口出しされるのは面倒なことこの上ないが。
「お帰り。お仕事お疲れ様、イド君。イシカワは、どこをほっつき歩いていたのかな?」
娼館通りの最奥。迎賓館のような館の前庭のベンチにエレミヤは座っていた。傍らには小さな丸テーブルを置き、紅茶が湯気を立てている。エルフ特有のドキリとするような美貌。夜会用のドレスから除く白い陶器のような脚の脚線美がなまめかしい。
傍らには護衛として、警備主任さんが執事服で控えていた。やや表情が堅い好青年に見えるが、その指先は太く歪に変異している。イシカワ曰く、あれは部位鍛錬の賜物だという話であり彼が本気であれば木材どころか鉄板まで貫けるだろうとも。
警備主任がギロリとイシカワを睨みつけた。対象は僕でないけれど、身が竦む思いだ。傍らのイシカワは軽く手をあげながらなにも気にせず挨拶しているが肝が座りすぎている。
「いやあ。今日は外回りの営業であったと記憶しておってな。なあ警備主任殿!」
「いくら予定帳改ざんしても、新人はまず雑務がやることであると決まっています。あまり舐めないでほしいものですねイシカワ」
冷たい視線とにやついた視線が交差する。もうすっかり目を付けられちゃって、見ているだけで胃が痛くなる思いだ。圧から逃れる為に、視線をエレミヤの方に向ける。
「今日は冷えますよ?何故外に」
「ああ、そうだね。少し空を見ようと思ってさ。なんとなくだけど、こんな奇麗な空も見納めのような気がしてね」
「見納め?」
「なんとなく、昔を思い出すような感覚がしてさ。世界がなにか、決定的に変わってしまうような、そんな予感がね。意外と当たるんだよ?私のこういう勘はね」
世界等もう変わり果てていると皆がいうのに、このうえなにが変わるのか。僕はそう思った。いや、そう思っていた。