家族の仇は、娘でした 作:樫鳥
木窓が開かれ、月の光が差し込んでくる。
扉を開けた先は簡素な家の中、台所に食事用のテーブルにはスープの鍋と二人分の食器が乗っており湯気をたてていた。歩を進めようとすると、なにかを蹴飛ばしてしまう。下を見ると猟銃が床を滑り、その銃口からは煙が上がっていた。
違和感。少し身体を調べ判断がつく。視線が何時もより高い。まだ成長期であろう身体は、まるで成人のそれと変らないような背の高さになっていた。胸はたいした成長を見込めていないのはどこか悲しいところであるが、とにかく今の姿は何時もの自分ではない。
奇妙だが思考は楽観していた。考えても仕方ないので改めて前を見ると、二つの部屋が見えた。右の部屋はカーテンで仕切られているが、左には作業台と工具が壁にかけられている部屋があり、覗いてみると幼子が遊ぶ為の足に歪曲した滑らかな木製の板がつけられた、乗ると揺れるタイプである馬の形をした玩具が作りかけのまま鎮座していた。
壁には図面が貼られており、走り書きしたメモや寸法の計算が書いてあるが、左の角に女性のような柔らかい文字で『こういうのは三歳くらいになってからだから!』と書かれていた。
気が早いお父さんが、産まれたばかりの子供の為に造っているのだろうか。少しだけ、優しい気持ちになる。
ゴトッという音が、隣の部屋から響く。作業部屋を覗くのをやめ、カーテンを開けて隣の部屋を見るとそこは寝室だった。三つの木製ベッドに、赤ん坊用の周囲を転落防止用木枠に囲まれたベッドが一つ。赤ん坊用ベッドの上には、これまた木を削り作ったデフォルメされたクマやドラゴン、鳥が紐に吊るされていた。
それだけなら良かった。それだけなら何の変哲もない部屋だった。だが、室内は異様の一言だった。
転落防止用の柵は乱雑に斬り裂かれ、赤ん坊用ベッドは赤黒く染まっている。木製の足を持つ大人用サイズのベッドには、茶色に染められた掛布団のうえ、人型の肉塊が転がり、腕や身体の一部が柘榴を割ったように爆ぜていた。
ベッドの縁には、二つの肉の塊を抱きかかえたままむせび泣く男。見たことある顔に、すぐに気づく。
ランザ。
駆け寄ろうとしたが、足が止まる。近づく者全てを呪わんばかりの形相で抱え込むのはサッカーボールのような大きさの球体と、小さな小さな足と手が生えたなにか。
ランザの身体も、傷がついていた。四肢から絶えず血を流しており、頭部からは流血、食いちぎられたように肩には噛み跡が残り、なにより見覚えがある傷。キラービーに刺され、泡を立てながら血を流すあの時の傷。
ゴトンと背後から音が響く。振り向くと、狼と人間の中間にいるような頭を吹き飛ばされた異形の少女が床に転がっていた。寝室の壁にクイーンビーと混ざり合う幼子の死体が張り付き、天井からは両腕をヒスイの翼に変え趾を縄で括られた歌鳥が吊り下げられており、風も無いのに揺れていた。
一歩下がると、思わず食事用のテーブルにぶつかる。後ろを振り向くと、人間と同じ大きさであるウサギの頭部がスープに浮いていた。台所近くの窓からは人面の巨大なオオサンショウウオが木窓を砕き身体の半分を引き裂かれながら部屋の中に頭部を入れている。巨大な蝙蝠が十字架に突き刺され壁に打ち付けられており、その足元には穴だらけの蝶々の翼が生えた女性が鋭い刃物に寸断されたようにバラバラになっていた。
狭い家の中は、あらゆる異形の死体が転がっていた。生唾を飲むと同時に、ランザが顔を上げる。
すぐにでも死んでしまいそうな傷だらけの身体。敵意のある視線に射抜かれ、ドクンと心臓が大き跳ね上がる。
あれ?どこかでこの光景を聞いた?見た?ような…気がする。
あ…ああ、そうか。これがそれなのか。自分が、ご褒美として約束してもらった、夢なんだ。誰に与えられたご褒美?どうでもいいか。
そう考えた瞬間、ランザの姿が変異を始める。身体から体毛が生え始め、口元が大きく裂け牙が覗き、大きな耳が髪の毛をかき分け出現する。髪色と同じ水色の尻尾。
クッ…と小さくクーラは笑う。そういう願望も、自分にはあるのか。ランザが同じ半獣だったなら、同じ種族として寄り添えたら…なーんて。だがどんなに姿が変わろうと、あの瞳だけは変わらない。
「遊んで良いよ、お父様」
何故、お父様なんて呼んでしまったのか。まあ、それもどうでも良い。暴力的な嵐の予感に胸が高まり、身体全体が火照るようだ。
腹部に手をかけ、上着をめくりあげる。腹部を露出し、挑発的な笑みが浮かべた。
言葉に反応し殺意をたぎらせ、まるで半獣ならぬ獣人と言えるまで変異をしたランザが動く。指が折りたたまれ拳の形が作られ腹部に叩きこまれた。身体が浮き上がり、床にうつぶせに倒れそうになる。胃液が逆流する感覚お覚えかけるが、嘔吐の前に乱暴に首を掴まれ持ち上げられる。
クイーンビー騒動の時、ランザはこちらを誘い出し腹部に数発の殴打をかました。内臓が衝撃で歪み細胞が苦痛を訴え、大事なところが悲鳴をあげる。この感覚はあの時以上。殺す気で放つ殴打。
「はぅっ!あ゛ぁっ!ぐゥがッ!は…ははは、あはははははは!ランザ、ねえランザ!楽しい?気が晴れる?楽しいよ凄くっ!この身体を…貧相な身をっ…ハァああああ…ランザが求めてくれる!嬉しいよ!嬉しい!楽しいよ!ああははははハハ!」
旅のお荷物、役立たず。そんな自分を初めてランザは求めてくれていた。行き場のない悲しみ、怒りありとあらゆる負の感情が拳に込められ叩きつけられる。
一打叩きつける度に、苦痛の息が漏れる度ランザの両眼、今は獣の目が苦し気に歪む。身体は止まらない、感情も止まらない、それなのに苦しんでいるのだろうか。まだ晴れないのか、そのやり場のない感情は。だからこそ、自分が存在する価値がある。
床に叩きつけられる。仰向けに衝撃が加わり口の端から唾液を噴きだした。身をよじろうとすると、背中に衝撃。右腕が掴まれ、持ち上げられる。あれ?ここって指を折る場面だった筈じゃ。
その考えは、無散する。二の腕が固定され、持ち上げられた右腕が噛みつかれる。何本もの杭が腕の中に差し込まれる激痛に視界が点滅。だがそれはメインの前に訪れる前菜。腕が稼働限界まで引き上げられるが、子供が玩具の人形を扱うように手荒にそれ以上の力が込められる。
「がぎ…あっ…いっ……ん゛っ!」
乾いた木材を割ったような音が響いた。牙が離され、ズルリと妙な方向に向いた腕が落下した。もうどんな用途にも使えない、正真正銘の役立たずの腕。使い捨ての玩具のように破壊された身体。元から役立たずなんだから、なんの違いがあることか。
いや、意味はあったか。ランザに壊してもらった。それだけで、充分。
「グギ…イッ…ツゥ…クッ…ひひ…あハハハハハハ!」
身体がゆっくりと持ち上げられる。壁に叩きつけられる。太い指が喉に当てられ、添えられる。歪んだ瞳と視線が交わる。腕を伸ばし、指を伸ばし、獣毛に覆われた頬を撫でた。あの時と同じように。
「自分は…役立たずだよ。力になりたいと…思っても……寄り添いたいと……共にいたいと願っても…力不足だよね。ランザを、困らせている。でもね」
大人になった自分は、どんな表情を浮かべているんだろうか。
「貴方の行き場のない憤怒に絶望、幼子のように泣きじゃくる貴方から、少しでも自分に背負わせてほしい。だから…ほら」
やろう?
喉に指が食い込む。大丈夫、今度は最後まで付き合える。
ギリギリと締め付けられる度に、心臓が高鳴る。心地良い苦痛は夢の中でも健在、現実と遜色なく身体の中に刻み込まれていった。それでも頬を撫で続ける。これがお礼、これしかできない自分からのお礼。
夢の中でくらい、全てを忘れてほしい。恐らくだが、この家の中はランザの凄惨な過去を現しているのだろう。この部屋にいる彼は、酷く傷つき泣きじゃくり、お互い今の外見はともかく、まるで自分と同じ小さな子供のようにも見えた。
だからこうしている間は、全てを忘れてほしい。どこを見ても悲劇と惨劇しかない景色ではなく、自分だけを見て、腹の中に溜まった黒々としたものを全て吐き出すのに利用をしてほしい。
だから泣かないで。苦しまないで。夢の中くらい、安らかにいて。
「い゛…あ゛っ…ラ…」
頬から手が、落ちる。意識はあるのに、もう身体の自由が利かない。死んだなぁ、と自分のことなのにどこか他人事のように考えていた。
それと同時に、ケダモノめいた目に理性のような色が戻り始めていた。喉から手が離れ、落ちる身体を慌てて抱え込む。こちらを覗き込む瞳からは、また涙が零れていた。
ランザも意外と、泣き虫なんだなぁ。
大きくなった身体に包まれ、獣毛の中に身体が沈む。現実でも自分が死んだら、貴方はこうして泣くのかな。そうだとしたら、嬉しいかも。
薄れる意識に身を委ねる。最後まで、大丈夫だよと思いながら。
身体を起こす。ベレーザの家、床に敷物をしき荷物を枕に夜を明かした。
頭が酷く重い。右腕をあげようとすると抵抗、モスコーでの初日に長椅子の上で寝るよう指示をだしていたクーラが、またいつの間にか布団の中に潜り込んでいた。無防備に服をはだけ腹部をだしながら、頬を緩め、スピスピと静かな寝息をたてている。取り敢えず、服を降ろし腹だけは隠しておく。
悪夢を見ていたような気がするが、よく思い出せない。普段より寝汗をかいているような気がするが、何時ものように気怠さと気持ちの悪さは感じられなかった。その代わり、目元を触ると濡れたような跡があるのを感じた。泣いていたのだろうか。
昨日、ジークリンデに好き放題身体を貪られ治癒を繰り返された後、ふらつく身体でなんとかベレーザの自宅まで戻ることができた。
ベレーザの家は、街中で高低差があるこのモスコーの中でも低地に位置しており、一度サグレの様子を見ておいた方が良いと思いつつそこまでの体力は残っていなかった。
床に倒れ伏し、意識を飛ばしたと思ったがこうして起きてみれば、枕に掛布団。クーラに世話をかけたか、それともベレーザか。そういえば、外の様子を見るにまだ太陽は昇ったばかりのようだが家主のベレーザは戻っていないようだった。サグレのところに、泊まっていたのだろうか。
そうだ、サグレ。結局昨日はあの後尾行することすらできなかった。窓の外を見る限り街はまだ平穏無事なようだが、サグレ自身はどうなっているか分からない。
起き上がり、クーラに布団をかけなおす。大きな水桶に溜めてある水を、小さな木桶に適量移し顔を洗う。水面に映る顔は、悪夢を見た後は何時も酷い顔であるのだが、今朝はまだ多少はマシな気がした。
ホルスターを掴み装着。忌々しい剣は大人しくしていた。何時にもまして持ち歩きたくない気分だが、手元においてなければそれはそれで不安しかないので我慢して装備。
クーラになにか書置きを残しておくべきかと考えたが、用意をする前に布団がめくれる音が響いた。
寝ぼけた眼をしていたが、トロンと陶酔したような緩んだ顔に、服がずれたのか肩や鎖骨を露出させており子供の身体で奇妙な色気を放っていた。馬鹿なことをと頭を振る。こんな時に妙なことを考えている場合か。
「おはよう、ランザ」
「ああ、起こしたか。それよりお前、また決まりを破って…」
「楽しかった?」
クーラの一言に、身体が止まる。ただの一言でゾクリと背筋が凍る思いをした。猫の特徴を持つ半獣の少女が、何時もと違う恐ろしいなにかに見える程蠱惑的な笑みを浮かべている。この顔はどこかで見たことがある気がする。どこだ、どこで見た。
四つん這いになりながら近づき、硬直していたこちらの腕をとる。生暖かい吐息を吹きかけたあと、指を絡めるように掴み頬にあてた。酔っぱらったように頬を赤らめ、マーキングをするように摺り寄せている。
臭い付けという、自分の所有物や縄張りをアピールする為に身体をこすりつける行為をすると、昔猫を飼いたいと考えた時調べてしったことがある。半獣であるクーラの行動は、普通の人間にはない部位もあいまりどこかそれを思い起こさせるようなものだった。
「なににたいしての、楽しかったなんだ?」
「え?あれ?なんだっけ。……夢を見ていたような気がするけど」
「寝ぼけるのも、ここまでにしておけ」
自分を落ち着かせるよう、敢えて深く呼吸をしてから大きくため息をはく。手を離し、軽く額を叩いて離しておく。寝ぼけているなら少しは目を覚ましてもらわないと、何時帰ってくるかも分からないベレーザに不必要な誤解を与えてしまいかねない。
先程の発言も、寝ぼけた故の一言。起きたばかりで頭が上手く働かず、なにか楽しい夢を見てそれと現実を混同させてしまったのだろう。
普通に考えれば、それですむ話だ。しかし頭の中では、なんだか普通ではない、おぞましいなにかがおこっているような、そんな違和感を覚えた。しかしそれを追求する手段も、必要もない。
「朝飯はまた適当に外の屋台で食べてくれ。それと、ベレーザが戻ってきたらなにか泊まったお礼がしたいって尋ねて少しだけ引き止めておいてくれ」
「また一人で行くの?」
「ガスパルのところに行ってくる。野暮用の続きだ、長くなる」
嘘をついた。恐らくガスパルは、これ以上なにか事態が進行するまでは動きはなく行く意味もないだろう。問題なのはサグレの方だ。どうなっているか分からない以上、場合によっては家に入って即散弾銃を抜くような場面に出くわすかもしれない。そんなことは願い下げであるが。
そしてなによりも、仲が良くなったサグレを目の前で殺すのを、もしくは自殺するのを見せたくはない。仲良くなった相手の悲痛な死にざまは、心に傷を残すのには充分だ。
しかしジークリンデと自分につくづく腹が立つ。体力を無駄に浪費し一日をほとんど消費したため、情報がなく不安しかない。
「んん…分かった」
以外にも、クーラは二つ返事で了承した。問答の必要がないのは、正直助かる。
出る準備を整え、ベレーザ宅から出る。扉を閉めようとした瞬間、家の中から鈴のような声が響く。
『とても情熱的で、素敵でした。お父様』
あの甘ったるい声。反射的に散弾銃を抜いて閉めかけた扉を蹴り開け家の中に向ける。家内は掛布団をだきしめ長椅子に座るクーラしかおらず、どこを見回しても声の主、テンはいない。
気のせいか、聞き違いか。何事かと表情を変えるクーラを見て、少し冷静さを取り戻す。なんでもないとジェスチャーをした後、扉を閉めた。
ランザは、気付かなかった。クーラの背中、丁度ランザが立つ扉側から死角となる位置に、狐の尻尾が揺らめき、一瞬で消えてしまったことに。
祭りの三日めとなると、最後の盛り上がりを見せるところと逆に興奮も冷めはじめ翌日からの仕事や生活に向け片づけや準備を始める者達もおり、街は二つの顔を見せ始めていた。
初日や二日目は街全体で盛り上がりを見せていたが、どこか落ち着いた雰囲気もあり昼間から酒を呑む者達も乾杯をしながらのバカ騒ぎというよりは知人友人とのんびり談笑しているような雰囲気が出ていた。
狭い階段を昇り、街の景色を歩きながら眺める。職人街の方ではもう片づけもだいぶ進んでいるように見え、店番に駆り出されていたという弟子筋の人間もこぞっていなくなりようやく祭りを楽しめているのだろう。
家具工房に新米として入った時は、それなりに大きめな組織であったため売買担当と製作担当に分かれていた。近くの大きな街で祭りがある時は、簡単な椅子やテーブルの注文が多くなった為祭りの期間まで忙しかったがそれが過ぎたら工房全体が休みなったためその街の祭りじたいは満喫できたものだった。
一年めにして思ったのは、簡単な造形とはいえ家具など使い捨てにするものでもないのになんでまた毎年大量注文が来るのかということだった。椅子や重ねて、机は畳んでしまえるようにしているのに毎年毎年似たような注文が来るのは不思議だった。
その謎は解けることがなかった、もうわざわざ解明することもないだろう。
サグレの家まで訪れる。扉を叩き、しばらく待つと中で誰かが動くような気配を感じた。
「……だれ?」
「ランザだ。入らせてもらうぞ」
家の中に入った瞬間、記憶との齟齬に一瞬混乱がおきる。
玄関先でまず目につくのは、バラバラに砕けた日傘。台所では容器や食器の類が散乱し木製の椀や皿が床に散乱していた。食堂、テーブルの上には半分に折れた杖の先端が乗っており手元の部分は床に落ちている。照明立ても床に転がり、棚の中にしまっていたのか生活用品や小物も床に散乱していた。
部屋の奥をしきるカーテンは外れており、足を折りたたみベッドに背中を預けもたれるように床に座り込むサグレが見えた。いざという時すぐ終わらせる覚悟の現れか、すぐ近くに銀のナイフが刺してあった。
寝室の床小さな小物ならば、寝る前にこの部屋で少しずつ彫刻をしていたのか、数本の彫刻刀と小さな木彫りが辺りに散乱している。小さなテーブルには封筒と、銀の指輪が置かれていた。
盲目故に元々物持ちが少ないようであるが、それでも整理と整頓がされた初日の様子に比べ手当たり次第八つ当たりをしたような様相であった。
「ああ…もう朝なのかな」
「そうだな。照明台を借りるぞ」
床に転がったマッチを拾い、照明台に火を灯す。扉を閉めて日光を遮断し中に入り腰を降ろした。
「荒れているな」
「まあそうだね、一度やってみたかった…なんてことはないけれど。少しだけ思うところがあってね、最後にひと暴れしたくなったのさ」
クックッ…と押し殺したような笑みを浮かべてから顔を伏せる。ベレーザが近くにいたら、恐らくこんな凶行をおこす前に彼女を止めただろう。ということは、昨晩はベレーザが帰らなかった可能性もあるが、ずっとサグレの近くにいた訳でもないということだ。
まさかとは思うが、もう既にベレーザは吸い殺されて、なんて考えが頭をよぎるがそれは違うと考えなおす。目の前のサグレの姿は、まだ人間のそれだ。どれだけ内側が変わっていようとも、感じる生物としての気配のようなものは人間として留まっている。
「ランザさん、私はまだ」
「人間だ、一応な」
「そうかな、そうとは思えないよ」
サグレは手探りで床を探る。見つけた一枚の木片はまだなんの彫刻もしていない円形のものであったが、サグレは指を折り曲げまるで粘土細工のようにその木片を握りつぶした。
ささくれた木屑が皮膚を突き破り血を流すが、即座に煙をあげながら再生をし肉に食い込んだ木片も追い出されるようにひとりでに落ちていく。広げた手には、圧縮され破壊された木片の屑とほんの少量の出血跡のみ残った。
「こんなざまで、そう言ってもらえるとは嬉しいね」
自嘲するようにサグレは笑う。目元を隠しながら、自身に対しての嘲笑はしばらく続いた。それを邪魔はしない、今サグレは自分の中身と向かいあっているところなのだろう。異形の変化する心情は、その本人にしか分からない。復讐者の執念が外部の者には分からないように。
「クーラちゃんは?」
一通り笑い終えた後、しばしの沈黙。顔を伏せたままサグレは尋ねてきた。
「遠ざけてある。知人となった相手を殺害するなんて、酷な話だろう。この件は、伝えていない。仮に伝えるとしても、全てが終わった後だ」
「そっか。いや、それで良いんだろうな。好き好んで、自殺とか殺すところなんて見せるところじゃないしね」
「いざという時、手を汚すのは俺一人で充分だ」
それだけに、昨日は失態だった。悪竜は大丈夫だろうと高をくくるようなことを言っており、現に今日までサグレは耐え抜いたようであるが、そのいざという時に近くにいれない可能性が高かった。我ながら、呆れ果てるしかない状況だ。舞台を破壊した件も合わせ、全てをジークリンデのせいにはできない。言い訳のしようもない。
「ランザさん」
サグレは力なく、名前を呼んだ。
「頼みごとをして良いかな。死ぬ前に気にすることでないかもしれないけど」
「できることなら」
「荒らしてしまった家の中を掃除したいんだ。あとは遺品整理ってやつもかな。遺書も、一応は用意したんだけどこの目ではちゃんと書けているのやら…代筆、出来栄えによっては代筆もお願いしたいかな」
時間は、あまり残されていないかもしれないが、とにかくキチンと整理と整頓をしていた彼女らしい頼みに思えた。そんな気持ちに出来うる限り寄り添ってやりたいのは、正直な気持ちだ。
「分かった。だが作業中はそこにいてくれ。もしなにか変化があったら、全てを中断してその場で片をつけることにしよう」
「そうだね、それと一つ注意。彫刻刀でうっかり怪我をしないでね。人の血の臭いは、極上のスープの香りと違わないからさ」
暑さを我慢しつつ着込んで来た戦闘用外套を椅子にかけ、腕をまくる。万が一暗闇で、サグレのいうように彫刻刀の刃に触っても言いようにグローブはつけたまま作業を始める。少しの間とはいえ滞在した家、手抜きはしない。
「あとはベレーザが来たら…居留守を使うつもり。鍵をかけて、ノックしても出ないようによろしく頼むよ。彼なら、勝手知ったるで裏の工房から持っていく物を選んでくれるからさ。表と裏の扉、鍵もかけておいてくれないかい」
もう、こんな姿を見せたくはないということか。分かった、と短く返事をする。
最後に知り合いに会いたい、というのはもう既に叶わぬ思いなのだろう。本当にそれで良いのかと、問いただすようなことはしない。それが俺ができる、最大の気遣いだった。