家族の仇は、娘でした 作:樫鳥
リスムの西部はモスコーもかくやという程の壊滅具合だった。ただ流石は自治州一の都市リスムだ、復興の着手とスピードは速かった。
リスムがそんな様子であるためか、経済特別区の娼館に人の通りは少なかった。エレミヤの館も街の様子が落ち着くまでは店を休業させるらしい。店を開けば客は来るが、いらぬやっかみをもらう訳にはいかないという理由があった。
初日に通された応接室。運ばれた紅茶には薄切りのレモンが浮き、心地良い香りを放っていた。口に近づけるとほのかに甘い香りが鼻孔に届く。紅茶の良し悪しは専門外だが、品の良いカップのせいか応接室の雰囲気のせいか、例え安物の茶葉であっても高級な紅茶を使っているんじゃないかと錯覚ができていしまうだろう。
クーラは紅茶の香りをかいて、今まで見たことない顔をしていた。なんだか渋そうな顔をしている、好みじゃなかったかと思ったが、一口飲んだ後目を見開いてプルプルと震えていた。目が輝いている。
その後チラチラと、テーブルの上にあるお茶請けのスコーンに視線を送っていた。食べたいが、こういうのは礼儀的に食べても良いものなのだろうかと迷っている様子だった。
「話は分かったよ。ただのエルフのゲリラ活動だと思っていたけど、巨人といいミハエルといい、想像以上に根が深い事件だったね。ボロボロながら、よく帰ってきてくれたものだよ」
「まあな、しかし…エンパス教か。新興宗教を旗頭に掲げた戦闘集団、巨人を倒したのは連中の手柄になっている訳か。エンパス…聞いたことがないな」
「興味があるなら聞きにいけば良いさ。今なら街のあちこちで、布教活動に精をだしているよ。まあちょっと聞いた限りだと、おもいきり既存の教団や特に魔具産業やそれに関する組織は反発するだろう内容だよ。一神教という考えで暗に教団の神を否定したり、人は神の寵愛で生きるべきで進み過ぎた技術は災いを呼ぶとかね。平時では相手にもされないだろうけど、今は耳を傾ける人も多いだろうさ」
宗教まわりの利権争いは面倒な話が多い。代表的なものとして、教団に所属する医療協会と、民間の医術組合の仲の悪さは折り紙付きだ。
「まあその辺りは勝手にやってくれというところだな」
「そうだね、報酬の話に入ろうか。こうして生きて、あの山でなにがおきていたのか、エルフ達はなにを考えていたのか、そしてミハエルという存在を報告してくれた君は感謝をしている。ナロクが想像以上に大それたことを考えていたのは予想外だったけど、だからこそ重ねて言うよ。よく生きて帰ってきてくれた」
肩の力を抜いたように、エレミヤは話した。ナロク、あのエルフのリーダーは俺達が見つけ滅ぼし、開拓した集落の生き残りだった。裏切者のエレミヤと、異形に取り込まれたナロクは会話まで交わしたという。結果はどうあれ、肩の荷を一つ降ろすことができたエレミヤはどこか晴れ晴れとしているようだった。
「報酬というか、できれば金品のみでなくしばらく部屋を貸してほしいと思っている」
「へえ?」
「今回の戦いは些か身体的疲労以外にも、精神的に来るものがあった。しばらく療養したいと思っていてな、迷惑だというなら諦めるが」
今回の戦いで、俺の身体には些か以上に変異を遂げていた。その中でも、特に際立つのは今は身体の中にしまっているが、出そうと思えば皮膚を突き破り動かすことができるジークリンデの連結刃だ。悪竜の話では、体内に完全に定着するまで今しばらく時間がかかるらしい。それまでは、動かすだけで身体の内部が傷がつく。
つまり逆を言えば、完全に定着してしまえば、それを動かすのに体内の負担を考えなくてもすむようになるということだ。
ジークリンデは、この結果にどこか納得がいかないというか、不服そうでありそれ以上多くのことは教えてくれなかった。だが、これで俺も普通の人間とは呼べなくなってしまったらしい。そのうえミハエルは、冷えた血が混じっているとも言っていた。少量とはいえ吸血鬼、サグレの血液。様々な要素が混じりあい、この先この身体がどんな化学反応をもたらすのか分かったものではない。
懸念事項といえば、洞窟に現れた中性的な、男とも女とも判断がつかない人物。一触即発かとも思ったが、結果的にお互いの背後から迫る危機を潰しあっただけに終わった。ただ向こうから見たら、こちらは肩と背中から異形の刃を生やした人妖と変わらないような存在に見えただろう。
エレミヤに話で聞いたエンパス教と関係が深い、監視の目を寄越した人物。クーラが元々慕い、従っていたレント=キリュウイン。話を聞く限りでは彼が送ってきた刺客という線が濃厚に思える。
レント=キリュウインは恐らく巨人とミハエルの関係性という絡繰りをどこからかつかんでいた。だかこそ、ミハエルの暗殺に人手をよこし巨人殺しという栄光と奇跡をリスムの中で達成しようとしたのだろう。
エルフ達の、ミハエルと俺達の戦闘は、レントとエンパス教の踏み台にされたということだ。エルフ達の復讐劇は、彼等の一人負けという最悪の結末を迎えた訳だ。
そういえば、山火事を鎮火しにいった一団がいた筈だ。彼等は皆逃げ延びたのだろうか。いずれにせよ、確かめる手段はもうない。
今回の件で、帝都から調査団が派遣されノックの山及び森林道はリスムと帝国の名の元入山禁止、及び通行禁止になっている。エルフの足取りを追おうともそれはできないし、それをするのは俺達の役目ではない。
もう、ノックの山に森の化身のような、あの人妖はいないのだから。
「問題ないよ、君と私の仲だからね。娼館ももうしばらく閉めるつもりだし、部屋も開く。プライベートビーチも解放しよう、羽休めだと思って、存分に休息していっても良いよ」
「助かる」
握手を求める為に手を差し出す。向こう側も、手を差し出し上下に振られた。交渉成立の合図だ、期間は定めていないが、身体の様子を見ながら街のほとぼりが冷めるまでしばらくゆっくりして良いだろう。
「あの!」
それと同時に、クーラが口を開いた。話し合いには参加してこなかったが、互いの話がひと段落するまで待っていたのだろう。
「レント=キリュウインは、エンパス教を信仰する集団はどんな様子だったの」
「ああ、まあ…なんというか、難しいね。私はこういう商売をしているから、臭いで分かる。一応命の恩人ということになるし、滅多なことは言いたくはないのだが」
エレミヤは複雑な顔をして、紅茶の杯に手を伸ばし一口飲んだ。そして、小さくため息をつき悩まし気に言葉を放つ。
「あれは宣伝部隊さ。美女ばかりを集めた…ね」
「美女ばかりだと?レント=キリュウインは女ばかりの部隊を作り今回の戦闘に送り出したのか」
「そうさ。結局のところ今回の戦闘が布教活動も兼ねたものだとしたら、宣伝としてこれ以上ない効果はあるよ。私が言うのはなんだけど、顔が良いというのはそれだけで看板として立派だからね。今回の戦いで戦死…彼等は殉教といっていたな。その者達の顔が似顔絵として慰霊の場にあったし、一応命を助けてもらった身として、花を手向けにいったけどなかなかどうして、大層な美人揃いなものだったよ。遺体は見る影もないがね」
「街を救った英雄による宣伝効果も、街を護り殉教した者達の同情心も、顔が良い者を揃え上手く賞賛や同情による悲しみの念を誘う訳か」
クーラは、押し黙った。フードで半ば隠れてはいるが、この少女も容姿は良いものだと客観的に見て判断ができる。クーラ自身呟いていたが、今回の犠牲者やレントに忠誠を誓う一団のほとんどは顔も見たことないような者達も多かったようだ。
それだけ、自分自身は多少便利だから傍に置かれていて、いてもいなくてもどうでも良かった存在だったと理解したのだろう。決別できたようで、やはりどこまでいってもレント=キリュウインは一度は奴隷身分から救い上げた恩人でもある。腹にうずまく感情は、こちらには想像もつかないものがあるのだろう。
「ま、彼の行動は善意だけではないのは私の経験からの結論さ。こういのもなんだけど、同族嫌悪かあまり好きじゃないね。でもだからといって、君達にはあまり関係のない話だろう。気にしなくても良いと思うけど」
エレミヤは、レントとクーラの関係を知らない。そして、レントがこちらを監視していることも知らない。さらには、ジークリンデと俺の身体の秘密が早くも情報として渡っている可能性が高い。新興宗教、エンパス教。警戒するにこしたことはないだろう。
グローには、もう会えないな。彼はジークリンデに対して当然ながら最大限の警戒を払っている。レントは掲げる大盾にも席をおいていた。話が伝わったとしたら、もう次出会う頃にはただの友人でという訳にはいかなくなるかもしれない。
俺は、ジークリンデを受け入れすぎたか。確かにかの悪竜は仲間の仇でもあるが、それよりもテンの存在が色濃く復讐相手として心の中で広く深く染み付いている。モスコーでの戦闘やクーラを助けてもらったこともあり、だんだん悪竜に対する警戒が薄れていくような感覚すらある。
いや、思い出せ。サグレが吸血鬼に変異しようとした時、ベレーザを傷つけ焚きつけた奴はいったい誰だ。あの惨劇の引き金を引いた要因の一人は誰だった。もっともらしいことを言おうが、悪竜は悪竜だ。それに頼るしかない情けない俺が言うのもなんだが、これ以上気を許してどうするんだ。
ジークリンデを受け入れ始めている俺と、受けいれてはいけないという俺。理性は受け入れるなといい、感情は利用をし続けろと囁き続ける。レントのこともあいまり、頭の仲がぐちゃぐちゃになりそうだ。
だからこそ、しばらく休息が必要だ。精神的に疲労したというも、強ち嘘ではない。
「失礼します。エレミヤ様、来客です」
ノックの音と、扉越しに黒服が声をかけてきた。
「今日来客の約束はない。適当に言って帰ってもらえ」
「は…ですが」
扉が開かれる。傍らでクーラが目を丸くし、意識してか無意識かコートの中で直刀に手を置いたのを感じた。
「不躾で申し訳ありません。僕の仲間達に献花をおこなってくれたということで、是非お礼をしたいと思いいてもたってもいられなくなってしまったもので」
黒服が申し訳なさそうに頭を下げる。話を聞くと、彼も巨人に襲われたリスムでエレミヤを抱えて逃げる時、レントに助けてもらった。その恩に負い目を感じ、どうしても門前払いにできなかったのだろう。
取り巻きが一人、まだ夏の最中である季節にも関わらず重装兵のいで立ちで、兜までしっかりと被っていた。常在戦場という言葉もあるが、場違いな雰囲気にすぎる。
「街を救ってくれた英雄の為だ、献花くらいならいくらでもしてあげるさ」
「それでも、経済特別区において名高い人物の一人である貴女に祈ってもらえるなんて、ありがたい限りの話ですよ。そうだ、僕達の信仰する神へ、貴女も祈りを捧げてはくれませんか?老若男女、誰に対してもエンパス教は門を開いていますよ」
「悪いが私は、教団の教えではないが精霊信仰をもっている。この年齢だ、今更祈る先を変えようとは思えないさ、申し訳ないがね」
上手い。エレミヤは実際エルフ達の間に根ずく精霊信仰を屁とも思っていないだろう。それを否定しエンパス教の教えを強要すれば、それはまぎれもない宗教弾圧だ。
英雄として祭り上げられたエンパス教は、この好機、しばらく良い顔をして教えを広げなければならない。弾圧や無理矢理改宗に誘われたなんて話があったら、現状が面白くないであろう教団や根強い教団の信者はさっそくその話をプロパガンダとして広めるだろう。
「そうですか、信仰の自由は人それぞれですからね。とにかく、僕達の仲間の為に祈ってくれて、ありがとうございます。彼等がエンパス様の導きを受けられるように」
レントはしばらく祈るように手を組み合わせた後、こちらを向いた。クーラの緊張感は高い、無意識か身体をこちらに寄せている。
後ろ手で背中を撫で、落ち着けと合図をする。まだ向こうの出方が読めない以上、警戒は必要だが行き過ぎはよろしくはない。
「しばらくぶりです。ランザさんでしたよね、リスムの掲げる大盾支部で会った」
「そうだな。大層な活躍ぶりだったそうじゃないか。レント=キリュウインだったか、今度リスム代表から感謝状も贈られるんだろう?グローも鼻が高いだろうな」
「感謝される為にやったのではありませんよ、街のみんなを護るため、ですが尊い犠牲もでてしまいました。全ては僕の至らなさからです」
「随分謙虚じゃないか、このリスムにおいて今やお前は時の人だろうが」
静かに視線が交錯する。レントは俺に対してなにを警戒、或いは観察しているのか。そしてもう、この身体とジークリンデのことは伝わっているだろうが、それを何時脅しかなにかで切り出してくるか。それが分からないだけに、何気ない会話の裏側も警戒しなければならない。
「そういえば、リスムの掲げる大盾支部はモスコーの支援で大多数が向かっていた筈だが、居残り組にいたのか?ここまでのイレギュラーがおこるとは誰にも予測がつかなかっただろうが、グローの采配にも感謝だな。礼を伝えておいてくれ」
「いえ、残念だから。掲げる大盾からは既に暇をもらっています」
「なに?」
「今の僕は、エンパス教の教えを守護する盾。教団騎士、騎士団長として正式に活動しています。掲げる大盾の理念や仕事は確かに素晴らしいものでしたが、僕には進むべき道を見つけることができたので、少々名残惜しいですが去らせていただきました」
エンパス教は新興宗教だ。宗教団体の懐具合というものは、自ずと信者の数に左右される。このリスムでの活動で信者は爆発的に増えるだろうが、教団騎士なんて大層なものを組織する金銭は新興宗教のどこから湧き出るというのか。金鉱脈でも発見した訳でもあるまいし。
「よければランザさんも、どうですか?僕達はまだできたての組織です、グロー支部長の友人である貴方のような戦闘慣れした人がいれば、頼もしいかぎりですが」
社交辞令もいいところだが、腹の中でなにを考えようと表向きは好青年にしか見えない。狸か蛇といったところか。そう考えると、やはり最初に出会った時の青臭い宣言も巧妙に思えてくる。ただの世間知らずな理想家、その印象が強かった。
そうなると、掲げる大盾経由でリスムに来たことも理由があったのだろう。エルフの暴走がなければ、地下迷宮を利用するつもりだったのか。地下迷宮侵入には行政の許可が必要であり、依頼を受けた捨て駒の冒険者や正式な調査員は許可を得て侵入できるが、掲げる大盾は諸々の特権で複雑な手続きをほぼ免除で入れる。
地下迷宮で消息不明になった調査員を、自治州や企業が捜索を掲げる大盾に依頼するのだが、その時の煩雑な手続きを少しでも省略しすぐにでも救出活動に赴くためだ。
ましてレントは、噂に聞けば地下迷宮にて、古の魔具を利用し食屍鬼を使役した者を討伐し、魔具を持ち帰る功績がある。地下迷宮にはフリーパス同然で入れていたのだろう。
「すまんが遠慮しておく、知り合いに教団の関係者が多くてな、俺自身あまり熱心ではないが、あまり良い顔はされないだろうことは想像に難くない。せっかくスカウトしてくれたのに、申し訳ないな」
「そうですか、残念です。まあ無理強いはできません」
お互い社交辞令を交わして、視線を交錯させる。向こうの考えはなにか、レントはこちらになにを企んでいるのか。
「クーラがお世話になっているようで」
「ほお」
クーラが最初、レントに俺の暗殺を提案し、それを了承した結果襲いかかってきたことを、こちらが知らないとは思わないだろう。ただそれでも、あくまで他人のふりをしようとするだろかと思ったが、予想外に向こうから言及をしてきた。
傍らのクーラが、一気に緊張度が高まるのを感じる。
「ああ、何時も助けてもらっているよ」
「それは良かった、彼女が僕達の元を離れてやっていけるかどうか、心配だったのです。彼女にはあまり人に知られたくない秘密がある。それを受け入れてくれる人がいて、僕としては一安心しているところなんですよ。……クーラ」
穏やかな声で、クーラを呼ぶ。クーラが少し肩を跳ね上げ、レントの方を半ば睨むように見つめていた。なにか少しでも怪しい動きがあれば、直刀を片手に飛び掛からん勢いだ。
「君が元気で暮らし、信頼できる人を見つけてくれたようで良かったよ。君の友人として、祝福をさせてもらおう」
「そ…う。ありがとう」
クーラは、顔面の筋肉を総動員して愛想笑いをうかべた。向こう側もにこやかな笑みを浮かべている。
「僕はしばらく、リスムに残りこの街の復旧を手伝います。なにかあれば、何時でも来てください、エンパス教とは関係なくても、友人としてなんでも相談にのりますよ」
「俺とクーラは、お前の友人か?」
「ええ、ご迷惑でしたか?クーラが信頼をおきかつて共に過ごした仲間。貴方は道が分かれたとはいえ、尊敬するグロー支部長の友人です。お近づきになりたいと思ったのですが、迷惑でしょうか」
「いや、今をときめくエンパス教の騎士団長様の友人とは、鼻が高いと思ってな」
「そんなふうに言わないでくださいよ。僕個人は、なんてことのない一人の男です」
レントが手を差し出した。その手をとり、握手を交わす。表面上はにこやかに、大人の対応として。
しばらくの握手のあと、どちらともなく手を離す。レントは、笑みを残しその場から立ち去ろうとした。
「茶くらい飲んでいかないのか?」
エレミヤがそう告げる。招かれざる客だろうが、客は客。茶の一杯も出さずに帰られては、それはそれで困るのだろう。
「少し忙しくて、時間の合間を見つけて礼をしに尋ねたものですから。ではエレミヤさん、ランザさん、クーラ。『また』お会いしましょう」
レントが立ち去り、それに重装兵も続き足音が遠ざかる。緊張が抜けたようにクーラは、大きくため息をついた。
「成程、想像以上に強かなやつだったか」
「嫌な人だよ。わざわざ自分等がいる時にくるなんて。こっちが、向こうをどう思っているのかなんて知っているくせに」
「それを理解してなお足を踏み入れてくるところが、強かなんだ。腹芸もできるタイプらしい。面倒な奴だな…エレミヤ」
「なんだか分からないけど、分かったよ。彼がここに来ても、なるべく君達に会わせないようにするさ。それでも期待はしないでくれ、うちの黒服達も命を救われた者もいる、エンパス教はともかく、それに恩義を感じている奴は少なくないからさ」
エレミヤはこちらの考えを察し、頷いた。
エレミヤの前だからだろうが、露骨な脅しをかける様子はなかったが、やはり秘密は握られていると予想をした方が良いだろう。用心にこしたことは、ない。
「酷い顔をしているよ、ランザにクーラ。まだ夕方を過ぎたばかりだけど、今日はここまでにして、もう休んだ方が良い。正式に泊まる部屋を用意させよう」
「よろしく頼む。今ならまた泥のように眠れそうだ」
エレミヤの提案により、話し合いはお開きになった。結局クーラはスコーンに手をつけることはなかったが、それどころではないだろう。まだ顔が強張っている。
クーラは、俺よりもレントという人間を理解している。レント側に俺の秘密が漏れている可能性が高いとしたら、クーラにとっても気が気ではないのだろう。それが何時、どのような形で利用されるか分からないからだ。
テンの後を追うだけでも過酷な旅に、更に面倒事が増えた訳だ。一筋縄ではいかないどころの話では、なくなってしまった。
案内された部屋は、べッドが二つある豪華な部屋だった。娼館という建物の関係上、自ずとべッドは一つの部屋は多いものだが、すぐに乱交用の部屋を割り当てられたのだなと思い出す。嫌な思い出がよみがえる、この部屋は後片付けにすこぶる苦労するのだ。
この舘に戻った時点で、エレミヤは話し合いの前にすぐに湯あみをさせてくれた。汗や血、泥ももう落ち、用意された食事を食べた後すぐに、話し合う場を設ける前に体力の限界で泥のように眠りこけてしまう。起きたと思えば翌日の夕方まで時間が進んでおり、簡単な食事のあとようやく話し合いができたしだいだ。
それでも、まだ疲労感は重く身体にのしかかっていた。クーラも同様だ、モスコーでも戦闘の疲労も抜け切れていなかったのかもしれない。身体が睡眠をほしがれと、強烈に訴えて来る。
「今日はもう寝よう。明かりを消すぞ、良いか?」
「うん。大丈夫」
燭台の火を消し、寝台の布団に潜り込む。しばらく瞼を閉じて沈黙していた後、布団の中になにかが潜り込む音。傍らに横になり、クーラが簡易な布服の記事を摘まんできた。
「自分のベッドに戻れ」
「……や」
「馬鹿野郎。また寝ぼけて首を、絞めることになるかもしれないぞ」
「それでも今は、離れたくない。ノックでは、ずっと怖かった。ランザから離れて、エルフに殺されちゃうかもしれないって思って。ジークリンデの前だから虚勢を張れたけど、本当はずっと怖かった」
クーラは震えていた。子猫のように、布団の中で、がたがたと身体を震わしている。
「結果的に助かることができた。でもその代償は大きいし、なによりあのレントに身体の秘密が握られたかもしれない。それが本当に怖い、私はレントを知っている気でいたけど、今なにを考えているか分からない。ランザがこの先無事でいられるという保証がない」
「そんなものは元からだ、クーラ。テンを追う旅じたいが、命の保証のない旅だ。どんな形であり生きているならば、儲けものだ。今更レントの問題が増えたところで、なにが変わる。だからお前は、心配しなくていいんだ、だから戻れ」
「今日は、やだ。自分の我儘。だけどこの我儘だけは聞いてもらう、絶対に」
頑なだ、だが追い出す気力もない。
意識がどんどん遠くなる、睡魔に身体が貪られていった。誰かが部屋に入ったら、問題だな。それだけを最後に考え、俺は意識を睡魔に委ね眠りに落ちた。