家族の仇は、娘でした   作:樫鳥

54 / 149


 平手で頬を張る、乾いた音が響いた。

 

 「二度と、そんなことを言うな」

 

 教育について、俺は手をあげることはこれまで一度もなかった。自分の子供とはいえ、相手はあくまで一個人の人間だ。よほどのことじゃないかぎり、教育的措置とはいえ暴力に訴えることは可能な限り避けてきた。

 

 涙ぐみながら赤くなった頬を抑えるミーナに、列火のごとく睨まれる。だがその瞳は、同時に動揺に揺れているように見えた。

 

 「父さんなんて、知らない!」

 

 「ミーナ!」

 

 扉を押し破る勢いで開き家から出ていくミーナを、アリアが慌てて追いかける。俺はというと、情けないことではあるが手をあげた形のまま固まっていた。

 

 親から受ける、暴行の記憶。少ならからずそれがフラッシュバックを脳内でおこし、家から飛び出す娘を追いかけることができなかった。

 

 「お父様」

 

 テンも、少なからず動揺した声をあげている。身にまとう衣服が、近頃帝都方面や連合王国の都市で流行りはじめているロングスカートと革製の上着の新品衣服だったが、これが騒動の原因となってしまった。

 

 衣服、というのは高級品だ。

 

 普通であれば、新品でおろしたての衣服というものはまず貴族や大商人等裕福な立場の人間が身にまとうものである。様々な流行の動きで着なくなったものや、少し古くなったものが使用人に渡される。そしてそれがしばらくして、廃棄されたり市場の古着市に流されたりし最後に庶民に渡る…というものだ。

 

 勿論庶民向けの新品の衣服というものもあるが、大抵は麻でつくられたシンプルなものである。

 

 だがしかし、俺はとある日に備えて奮起した。

 

 何時もより多くの時間を仕事に割り当て、休みの日にはもう引退した親方の知り合いである人物が経営する街の工房で仕事を受けたり、サグレとベレーザのアトリエにて簡単な手伝いや材料となる木材加工を手伝い手間賃を稼いだりしていた。

 

 テンを引き取ってから、十数年が経っていた。彼女の元の年齢が幾つかは分からないが、成年といえる年となり、立派な大人の女性になっていた。

 

 黒髪、異国情緒のあるが絶妙に幼さも残る人目を惹く顔立ち。

 

 これまでテンには、家のことから村のことまで献身的に働いてくれた。しかし、せっかく年頃になったというのにお洒落の一つできないのはいささか可哀想ではないかと思うようになった。

 

 これまで献身的に家庭を支えてくれた娘の成人祝い。テンも照れつつ、いささか恐縮しながらも仕立て屋で寸法を測り仕上げた流行りの衣服にまんざらでもない様子を見せていた。高級品に遠慮はしていたが、熱意を込めた説得にて最後には喜んで新しい衣服を身に纏った。

 

 アリアも、賛同してくれた。だがしかし、ミーナの気持ちを考えきれていなかった。

 

 『なんで姉さんだけなの!』『あたしだって新しい服がほしいし、流行りの服を着てみたい!』

 

 帝国、王国といってもあくまで富裕層の流行りというものだ。そりゃもう少ししたら、流行も移り少し高めの値段だが頑張れば庶民にも着れる代金で買えるものとして中古にて出回るだろう。

 

 成人してから、中古で出回ってから。

 

 そう何度も説得していたが、なかなかミーナの癇癪は収まらない。そんななかで、ミーナは整理できない感情を抑えきれずこんなことを口走った。

 

 『どうせ姉さんなんてみなしごじゃん!実の娘よりもそんな娘が大事なの!?』

 

 それを聞いた瞬間に、頭の中でなにかが切れる音がした。考えるより先に反射的にミーナの頬を張り、俺は自分の娘が産まれてから初めて暴力を振るってしまった。

 

 そんなざまの俺は固まり、村じゅうの人間に頼られる聡明なテンさえも、自身が原因となった騒動に対して泣きそうな顔をしながらオロオロしているのみだった。

 

 分かってくれると、思っていた。テンはミーナが赤ん坊のころからよくお世話をしていたし、仲睦まじい姉妹に見えていた。

 

 しかし、何時かアリアが話していた。テンは、かなり早熟な子供だし頭も良い。彼女がやすやすとできることにたいして、ミーナは時間をかけたり上手くできなかったりしたことが多くコンプレックスを抱えてしまうのではないかと。

 

 ミーナはあまり要領の良い娘ではない。しかし、それはテンに比べてという話で能力的には年相応なものである。だがアリアは、自分も不器用な人間だと自覚をしており近くになんでもできる存在がいるという劣等感には覚えがあるといっていた。

 

 気にしている、つもりだった。少なくともテンとミーナを比べたり、テンだけを褒めるといった言動は注意していた。

 

 「すいません、お父様。やはり私なんかがこんな高価な物を頂く訳には、いかなかったのです。私が強く遠慮をしていれば、こんなことには」

 

 「お前もそんなことを言うんじゃない。年頃の娘に、綺麗な衣装一つ送りたいと思うのは俺の考えだからだ。ミーナにだって、成人したら仕立て屋で好みの服を送るつもりだった。納得してくれると、思っていたんだけどな」

 

 何時までも固まっている訳にもいかない。立ち上がり、上着を掴む。ミーナとアリアの後を追いかけなければいけない。ここにいるのが少なくとも、最適解というのはありえない。

 

 ミーナとアリアが、どこにいったのか。家の前からどちらに向かったのだろうか。

 

 とにかく、走り出す。通りかかった村の人達や、サグレとベレーザにも協力を仰ごう。

 

 何時も遊んでいた広場、散歩をしていた海岸沿い、山の方には行っていないとは願いたいが万が一の時には山狩りも必要か?村から出ていないと思うのだがもうあの娘も十二歳になる。足はかなり速く、全力で逃げたならアリアでは追いつけない。

 

 噴水広場、海岸沿い、山側にも向かいサグレとベレーザのアトリエにも顔をだす。二つ返事でベレーザが協力してくれることとなり、サグレは動揺しているであろうテンのことを心配して様子を見に行くと共に、もしミーナが戻ってきた時出迎えられるよう一緒に待っていてくれることになった。

 

 「お?」

 

 俺が働いている工房に、灯りがついていた。今は繁忙期でもなく、こんな時間まで残って作業をする者はいない。ミーナがあまり工房に近づくことはない。可能性は低いとは思うが、一応中を覗いてみる。

 

 「誰かいるのか?」

 

 「若さん」

 

 工房の中にいたのは、三人組の若手衆だった。

 

 若さんというのは、俺のことである。親方が半分隠居のような状態であり、同年代の年配の職人たちが働けるまでは働きたいと残っているが、それを除けばいつも間にやらこの工房で一番長く働いているのは俺になっていた。

 

 年配の先輩に聞いた話によれば、親方は早くに妻を亡くし子供もいない関係で、この工房を俺に託す準備を進めているという話があった。

 

 それからしばらくしてその話が広がったのか、若手達からは若頭とか呼ばれるようになったが恥ずかしいからやめるように伝えたら、いつの間にか若さんという言葉が定着しつつあった。

 

 「お前等、なにやってんだ」

 

 「あの、今は時間もあるので端材を利用してちょっと練習をしたいと思いまして」

 

 「気持ちは分からんでもないが、こんな遅くまで作業するのはあまり感心しないな。明かりもタダではないし、目も疲れるだろう。練習は認めるが、休める時には休め」

 

 「すいません。それにしても、なにかあったんですか?顔色が悪いですよ」

 

 休める時には休めといった手前ではあるし、身内の問題という引け目もあるが若い連中が手を貸してくれるとなれば捜索範囲もグッと広がる。万が一という想像を巡らせれば、不安が尽きない為ここは頭を下げることにする。

 

 「娘とトラブルになってしまって、家出をされた。時間も時間だし、もしも村から出てしまっていたら事故や事件の原因になる。休めといった手前ではあるが、すまないが力を貸してもらえるだろうか、頼む」

 

 「テンちゃんが?それともミーナちゃん?」

 

 「ミーナだ。妻がすぐに追いかけたが全力で逃げたなら離された可能性が高い。すまん、年齢の近いお前等の方が行きそうなところとか思い当たるだろうし体力面でも頼りになると思う。力を貸してほしい」

 

 頭を深々と下げると、二人がこちらに近づいてきた。

 

 「頭上げてくださいよ若さん。あのクソおや…親方に責められている時、かばったりフォローしてくれたのは若なんですから」

 

 「任せてくださいよ。次期親方なんですからでっかく恩売るつもりで全力で頑張りますよ。山歩きなら慣れてるし俺が行く、お前はどうする?」

 

 「一応村の外をグルリと回ってみる。流石に街までは行ってないと思うが…一応の心当たりは探したのですよね」

 

 二つ返事で了承する若衆二人に頼もしさを思える。こちらもベレーザという協力者が探してくれていることや、一応思い当たるところは見て回ったことを話しておき大まかに役割分担を決めていく。

 

 「あの、僕は」

 

 一番奥にいた工房の最年少である少年がおずおずと声をかけた。ミーナよりもほんの一歳か二歳程年上であるが早くから働かなければいけない事情があり、家のリフォームを研修させてもらった縁のある街工房から紹介を受けて工房の隣にある倉庫を改装して住み込みで働いてもらっていた。

 

 「フェル。お前はもう遅いから休んでおけ」

 

 「でも」

 

 「良いから。そもそもお前は頑張りすぎだ。身体が資本なんだから、あまり夜遅くまで頑張るな。戸締りだけ頼むな。そうだ、お前ミーナと仲良かったし、こういう時どこに行くとか聞いたり心当たりとかあるか?」

 

 フェルは首を大きく左右に振る。流石にそんな話まではしていないか。

 

 それだけ伝えて外に出る。協力者も募り希望が湧いてきたが、それから時間をかけて村中を探し回ろうとなかなかミーナが見つからない。一度自宅に戻り様子を見ようとすると、同じタイミングで道の反対側からアリアが来るのが見えた。

 

 「ミーナは?」

 

 「ごめん、追いつけなかった。山の方に逃げていったけどその後見失っちゃった」

 

 想像はついていたが、やはりか。山の近くやもしかしたら中まで探していたのか、アリアの靴は土や泥で汚れており必死に探しまわっていた様子が見て取れた。

 

 「すまん、俺がカッとなって手をあげなければ」

 

 「誰が悪い、悪くないは今話しても仕方ないでしょう。まずはミーナを見つけて、ちゃんと家に連れてきてから話そうよ」

 

 そうだな、と頷き一度家の玄関の方を見る。テンはサグレに任せているが、一度様子を見て声をかけておかなければならないだろう。一番傷ついたのは、テンかもしれないのだ。

 

 「若さん!」

 

 扉に手をかけようとした瞬間、工房にいた一人から声をかけられた。山側を探すといっており、そちらの方を任せていた為に、ついに見つかったのかと期待をしながら声がした方に振り向いた。

 

 家出をしたことをしかりつけるのは、まずはやめよう。とにかく心配した、抱きしめてやりたかった。

 

 だがしかし、こちらに来た若いのは顔をまっ青にして、肩で息をしていた。とてもじゃないが、見つかるどころか普通の様子ではない。

 

 「どうした」

 

 「大変だ若さん!工房が…燃えてやがる!火事なんだ!」

 

 アリアの方を向いて、すまんと一言だけ話全力で走る。

 

 工房に近づくにつれ、赤々と燃える炎が見える。工房は木屑も多く出るし、燃えるものだらけだ。火事については常に注意をしていたが、こうなってしまえばもう後は燃えて広がるしかない。

 

 赤々とした炎が工房に燃え広がるなか、一番若い職人、フェルが沢山の水が入った木桶を用意しておりそのうちの一つを頭に被ったところだった。

 

 その顔は必死の形相を浮かべており、今にも火事の中に踏み込んでいきそうだった。

 

 「なにしている!死にに行くつもりか!」

 

 慌てて近寄り肩に手をおく。それを振り払うようにフェルが、身体を大きく震わせた。

 

 「若さん!僕行かなくちゃ!ミーナちゃんが中に…中に!」

 

 「いるのか!?ミーナが…何時から!」

 

 フェルの顔が決意から怯えたような顔に変わる。それだけ聞いて全てに得心がいく。共に走ってきた若衆が、「なんで黙っていた!」とくってかかっていた。

 

 若衆二人は気づいていなかったみたいだが、ミーナはなにを思ったのかは分からないが俺の職場である工房に逃げ込み、年が近く仲が良いフェルにこっそりとかくまってもらうようにお願いしたのだろう。

 

 あまり大きくない工房とはいえ、木材や道具が多い為隠れる場所はどこにでもある。隣の倉庫兼フェルの下宿に隠れなかったのは、動揺している今一人でいるのが怖かったのかもしれない。

 

 改めてフェルの方を見ると、近くに紙袋が落ちておりその口からはパンが頭をだしていた。時間も時間だ、夕食も食べずに飛び出したニーナの為に購入してきたのだろう。その間に、何らかの不手際で火がついたのか。

 

 「いや、何時からかなんてどうでもいいか。どこに隠れているんだ」

 

 桶を一つ掴み、頭から被る。身体にも水をかけ目の前を睨みつける。

 

 「奥の資材庫に…若さん!?」

 

 グリグリと乱暴にフェルの頭を撫でておく。黙っていたことは後で説教が必要ではあるが、火の中に飛び込んでいこうとする根性だけは認めてやる。

 

 「待ってろ。後で拳骨だからな」

 

 扉を蹴り破り、工房の中に突入する。

 

 作業の工程で出た木屑に、家具の材料にする為に加工した木材の数々。掃除は毎回作業後に行っているが、作業の練習をしていた手前新たな火種が増えたせいか想像以上に燃えて広がるのが早い。

 

 煙が喉に絡みつくように感じ気分が悪くなる。こんな環境にいたらまだ成人していない女の子等ひとたまりもない。

 

 屋根の方からギシギシという嫌な音さえ聞こえるような気がする。火事の音に紛れての気のせいなのかもしれないが、グズグズしていると火や煙より先に天井が落ちてきてしまうかもしれない。

 

 朱色の炎に包まれた作業台の横を通り過ぎ、火の線がはしる床を飛び越える。

 

 脳裏には嫌な思い出が思い浮かんだ。エルフの集落を襲撃した時の思い出だ。

 

 エレミヤの高笑いを背景に聞きながら、燃える家屋に隠れていたであろう火に巻かれたエルフ達。呼吸をする度に炎が口の中に入り、喉を焼き尽くす。悲鳴にならない悲鳴が、忘れかけていた記憶を脳髄が引きずり出した。

 

 今は考えないようにしたい。余計なことに思考を巡らせていると、火に包まれるのは俺だ。俺だけならまだしも、ミーナも焼死という最悪の結果が待ち受けているだろう。

 

 因果応報かと言われれば、そうかもしれない。だがしかしその責を負うのは俺なんだ。子供を巻き込むような形にしてしまってはならない。

 

 「ミーナ!」

 

 大声をだすと酸素を必要とする。この現状それさえも苦しいものがあるが、叫ばずにはいられなかった。

 

 「ミーナ!どこだミーナ!頼むから、出てきてくれ!」

 

 「父…さん」

 

 資材庫の手前までミーナは這ってきていた。なにかで斬ったのか、右足から血を流しており痛みで涙を流していた。

 

 だが、生きている。

 

 「ごめん父さん…ごめん」

 

 「言いたいことは後にしろ!喋るなよ、煙を吸い込みすぎたら死ぬぞ。さあ、立てるか?肩を貸すから頑張れ」

 

 ギッという嫌な音が天井から聞こえた。確認する前に咄嗟に身体を動かし、四つん這いになり覆いかぶさるようにする。過去の冒険者時代に培った反射で動く能力、埃を被っていた経験が十数年ぶりに発揮された瞬間だった。

 

 背中に、熱と重圧がかかる。だがここで崩れる訳にはいかない。俺が耐えられなくなった瞬間になにもかもが終わる。

 

 「でれるか!?ミーナ!」

 

 必死に頷くミーナが、なんとか這いながら俺の下から出ていく。あと、少しだ。

 

 「父さん!父さんも早く!」

 

 立ち上がれないまでも、なんとか膝立ちになりながら俺の上に落ちて来た、恐らくは屋根の梁をどかそうとしている。そんな熱いものを触ると、手が火傷するだろうが。

 

 「無理すんな…というか無理だろ、この重さじゃお前の細腕でなんとかなるか」

 

 「そんなこと言わないで!謝る、謝るから諦めないで父さん!あたしが悪かったから、謝るから!」

 

 「逃げろ。立てないんだから、時間がねえ。俺は大丈夫だから、諦めないから誰か助け呼んできてくれ…頼むぜおい」

 

 お涙頂戴している暇はないのだが、ミーナは瓦礫を持ち上げようとしたまま動かない。

 

 「お前を助ける為にここに来たんだ!お前が生きる為だけに行動をしろ!」

 

 一喝した瞬間、ミーナが固まった。涙と鼻水で濡れた顔でなんとか頷いた。

 

 這いながらでも、なんとか出て行こうとしている。早く行け、振り向かずに行け。分不相応な幸せを今まで受けていた自覚はある。あくまでミーナが助かることが前提ではあるのだが、これが最後なら悪くはない。

 

 四肢の力が抜けて来た。興奮作用が抜けてきたのか、焼けた木材が肌を焼き肉を焦がす痛みがひどい。

 

 ここから脱出するのは不可能だ。ミーナやアリアにはこれから苦労をかけてしまうが俺が死んだ後はそこまで心配はしていない。テン、俺よりも数倍出来の良い彼女ならば安心して後を任すことができる。

 

 向こうに逝ったら、冒険者の仲間達には良い報告ができそうだ。なんとか、底辺から這い出ることができましたよと。

 

 目をつむろうとした瞬間、鳴き声が聞こえた。あの頭がざわつく鳴き声を、久々に聞いた。

 

 目の前には、尻尾の先を焦がした灰色の毛並みを持つ猫がいた。なんでここにいるのか分からない、とっくに死んだと思っていた相手ではあり、この子がお迎えかと考えるが現実はもう少し俺に味方をしてくれたようだ。

 

 「クソが!あとちょい耐えろこの野郎!来てやったんだから無駄足踏ませんなよ!」

 

 耳に響いたのは、ベレーザの声。手には棒のようなものを持っており、瓦礫の下にある隙間に挟み込み梃子の原理を利用し瓦礫を少し浮かび上がらせる。

 

 「引っぱりだしますよ!手を伸ばして!」

 

 村の外で探していた筈のもう一人の若衆が目の前まで来ており、俺の腕を両手で掴み一息に引っぱりだしてくれた。

 

 「ミーナは…ミーナは……」

 

 礼を言おうとしても、上手く口がまわらない。なんとか話そうとしても、娘の心配の言葉をうわごとのように零すだけしかできない。

 

 「ミーナはもう、同僚が助けました!後は若だけなんだからもう少しだけ頑張ってください!アリアさんもテンちゃんも外で待ってる!二人にお前の亡骸を見せるのは勘弁ですよ!」

 

 火の手がどんどん燃え広がっている。今から逃げ出せるかどうか分からない。下手すれば全員丸焼きだぞ。

 

 「来た通路は!?」

 

 「ダメだこいつは…通れそうにねえ」

 

 二人の声が耳に聞こえた。そんな中で、鳴き声が聞こえる。

 

 首をそちらの方に向けると、灰猫が俺達を呼んでいた。そして、本来なら行き止まりの筈である資材庫の奥に走っていく。

 

 「向こ…うだ」

 

 「向こうって若さん、あっちは行き止まりじゃ」

 

 「いいから」

 

 どうせここにいても煙か炎に巻かれて死ぬだけだ。ならば、直感ではあるがあの猫の後を追いかけた方が助かるだろう。そもそもあの灰猫がここにいること自体が不思議なのだ、抜け道があると信じるしかない。猫しか通れないようなところであるならば、もう厳しいかもしれないが。

 

 二人に抱えられながら、本来なら行き止まりである筈の資材庫奥に向かう。

 

 「マジか」

 

 ベレーザが呟くように言った。壁が燃えて脆くなっていたのか、焼けて落ちたように大きな穴が開いている。なんだか焼け方が都合が良いというか、不自然な気もするが今はここに飛び込むしかない。

 

 ベレーザが棒で周囲の壁を広げるように破壊し、こちらの肩を抱えてまず俺だけ放り出すように外に逃がす。二人が連続して穴から抜け出し、火事現場から離れるように俺を引きずりなんとか逃げ出した。

 

 「た…すかったあああ」

 

 ベレーザが大きくため息をつく。安心感からか意識を飛ばしそうになってしまうが、目の前に灰猫が近づいてくるのが見えた。しかし…。

 

 「火事現場で灰色の毛並みの猫なんざ…不吉通り越して気味がわりぃんだよ!どっかいけ!」

 

 若衆が蹴り飛ばそうとすると、猫の小さな身体が吹き飛んだ。俺に近寄ってくるのに必死なように見えたため、避けそこなったのか。

 

 「馬鹿お前、そんなことしている場合か」

 

 ベレーザがそれを止めるが、俺は口を開こうとしてもなにも言葉が出てくることもなく意識を飛ばしてしまう。

 

 灰猫の心配、ミーナの足の怪我。気になることはいろいろあったが、今はもう限界だった。

 

 どうやら、俺はまだ向こうに行かなくても良いようだ。土産話を持っていくのは、もう少し先になりそうだ。

 


 

 この世界は、全てが都合の良いように動いているように見えた。

 

 苦労と幸せが天秤で釣り合っているような、絶妙なバランスで形作られているように思えた。

 

 だがしかし、このアクシデントは想像もしていなかった。

 

 いや、自分の想像を超えていただけだ。これもまたシナリオなのだろう。

 

 九死に一生を得る経験で、家族仲は深まるだろう。この世界にますます彼が定着してしまう。

 

 誘導したのは自分ではあるが、あの不自然な抜け道。頑丈な壁があんな一部分だけ火事で焼けて落ちることはない。

 

 だけど、ランザが万が一にでもこの世界で死んでしまうかもしれない。そう思うと、それすらも利用せざるをえなかった。

 

 もう、あまり時間もない。いったいどうすればいいのだろう。

 

 だれか、助けてほしい。だれか。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。