家族の仇は、娘でした   作:樫鳥

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 「では僭越ながら」

 

 年長者がこういう時率先しろと言うことらしい。酒場にて、丸いテーブルを囲むのはサグレとベレーザにテンと、俺。そしてお呼ばれしたアリアが卓についていた。

 

 村に新しい酒場ができて三年。そこに入る家具の類はほとんどが俺と時間がある時に技術を教えたベレーザが製造し、サグレが飾り彫りをつけたものである。

 

 アトリエに俺が加わったことで、新たに家具というラインナップが加わった。だが順風満帆とは程遠いスタートであった。

 

 素晴らしい品物ができたとしても、それを購入するものがいなければ在庫の持ち腐れなのは当然だ。ベレーザが新しく取引先を新規開拓しようとしても、大半の彫刻よりも大きな家具の類は輸送費があがる。

 

 普段から取引してくれている商人や商会達との付き合いも継続する為、彼の負担が目に見えて大きくなっていた。

 

 そんななかひょっこりと現れたのは、テンだった。村の相談役という役職のようであり無職であったテンであったが「そろそろ定職につきたいと思っているので」とのことで転がり込んできた。可能な限り引き継ぎはしてきたとは言っていたが、漁師と村長にしばらく生暖かい目で見つめられることとなったのはここだけの話だ。

 

 魚の卸値について相談や交渉をしていた経験もあり、取引については素人という訳ではない。だがまったくの畑違いの環境だ。

 

 最初はベレーザの補助、助手という形で同行していた。

 

 そして、そんなある日リスムでとった宿にてテンは呟いたという。

 

 『売値が安すぎます』

 

 品質に手抜きはないが、大衆向けの生産品を今までつくってきた故に価格設定に関してはあまり違和感を覚えていなかった。サグレにしたって、作るばかりに熱中するタイプで値段決めには無頓着な面があったし、家具については素人のベレーザも俺が工房時代に販売していた値段に多少の色をつけた程度で宣伝していた。

 

 そんな状況を外から見ていたテンは、市場価値を一から勉強し始めた。俺の師である工房長や街の工房にも顔をだし、商人達の間にも話に入り情報収集をし、商会に入り浸り様子を観察する様子をもあったらしい。

 

 そんな真似をしても煙たがられ上手くいく訳がない…が、ここは反則技が火を噴いた。

 

 こればかりは、逆立ちしても真似できないとベレーザは語っていた。つまりは、容姿だ。

 

 『商人として、あれ以上の武器はねぇんじゃねえの?次元が違いすぎて、敗北感すらわかねぇ』

 

 とベレーザが語っていた。なお、自身の容姿を無意識にでも活用し販路の拡大をしたこいつが言っても妙すぎて、俺は乾いた笑いを向けるしかなかった。

 

 『必要なのは適正価格とサンプルです。価格あげることに抵抗があるかもしれませんが、私の戦略としては鯨油で好景気に沸くリスムを足掛かりにするつもりです』

 

 『値段というのは、商品における顔の一つであり化粧です。高価だと自信があるものにはそれなりの値をつけるべき』

 

 『海千山千の商人を相手にするならば、いくらでも値切ってくるでしょう。しかし、例えばリスムの好景気、鯨油バブルに沸く金持ちにとっては値段は看板と同じ。高級品というブランドを彼等は求めている。品質が問題ないなら、彼等をターゲットとした高級路線を開拓するべきです。値段やブランドにしか興味がないような俗物でも、毎日使うのならばお父様の家具とサグレさんの彫刻の素晴らしさに気づきます。そこからさらに販路を広げられる』

 

 『私にお任せください。サンプルさえ用意できたなら、それを強力な武器にして持てる手札を駆使し顧客をたらしこんでみせますよ』

 

 情報を集め分析を解説したテンは、俺を含めた三人の前でそう力説した。不敵に笑う顔は、悪だくみをする狐のようにも見えた。

 

 一番持ち運びがしやすい家具ということで、ベレーザが椅子を一脚背負いリスムに向けて出発した。

 

 半月程経ち、在庫がはけない為彫刻を教わりながらもすっかり掃除とアトリエや住処の家事手伝いやベレーザが育てていたハーブ畑の手入れが板についていた俺と、新たな作品を作ることができず練習彫りを繰り返していたサグレのアトリエ前に荷馬車が三台現れた。

 

 驚愕している間に、商人達は手伝いの人足を使いあっという間に在庫を馬車に積み上げていく。新手の盗賊団かとも思っていた俺にはテンからの手紙が、サグレにはテンが強気と思える値段よりもさらに色をつけた販売価格の金銭が渡された。

 

 『これから忙しくなるはずなので。家事手伝いはほどほどにして、素材の支度をお願いします』

 

 同封されていたのは注文票。特注になるであろうリクエストや要望などが書かれた別紙などもあった。

 

 ……ただ。

 

 『まずいぞこれ』

 

 テンは交渉や商売の才能があった。情報を分析し、市場を短時間で見極め、鯨油で儲けた者達の心を掴んだセールストークを見せた。交渉に際しては、村娘と侮られないように俺がプレゼントしたあの衣服を着用していったという。身なりはアドバンテージになる。あの服がなければ交渉の席に座ることすら難しかったと後にテンは語った。

 

 だがここで問題があった。テンは効果が抜群な薬であると同時に劇毒だったのだ。主な原因は、彼女が彫刻や家具造りに対しては素人同然であったということ。

 

 『工期が短すぎる』

 

 『あー…凄いねこれ。酷いともいう』

 

 ということで、急いで一筆書いてベレーザにすぐ戻ってくるように手紙を託す。彼が帰ってくるまでに、やることは山ほどあるし間に合うかどうかが分からない。

 

 善かれと思ってのことだろうが、嫌な汗が額から零れ落ちてきた。ベレーザがストップをかけないのかとも思ったが、どちらかと言うと彼も営業担当で交渉畑の人間だ。ここまで上手くいかない交渉が流れるように進み楽しくて仕方ないのだろう。

 

 『修羅場だねぇ。でも手抜きはできないよランザ』

 

 『こんなの何時いらいぶりだ。まあ、娘がとってきた仕事に文句をつけるようじゃな』

 

 素材の準備から始めた。ある程度の材料の在庫はあったのだがこれだけだと到底足りない。

 

 一晩経った頃、親方が何故かアトリエに顔をだした。

 

 親方と年代が近い引退していた先輩職人達。紹介してやった本職はどうしたと突っ込みたくなったフェルや若衆達。海の男でもノコギリくらいなら使えるとテンが助けていた漁師の連中や懇意にしていた村の者達。

 

 高級路線の肝となる、彫刻をサグレが集中できるように噂を聞きつけた沢山の人達が手助けにきてくれた。

 

 村の者達がノコギリである程度の大きさに材木を切って運び、若衆やフェルが家具の素材にできるように加工し、親方や年配職人が家具を作る。俺が教わった彫刻である程度の形まで完成形に近づけ、繊細な部分をサグレが担当し実用性と芸術性が揃う商品へと仕上げる。

 

 ミーナとテンが主婦達の力を借りて炊き出しを行い、数日間は続いた修羅場を乗り越える為の手助けをしてくれた。

 

 この修羅場をなんとか乗り切ったことで、リスムの消費者達にも満足してもらうことができた。今後の商売もやりやすくなる。俺はテンに怒ればいいのやら、褒めれば良いのやら分からなかった。

 

 と思ったら、サグレがドヤ顔で戻ってきたベレーザとテンを並べてひたすら説教をかましていた。流石は工房長、いやアトリエ長である。

 

 そんなことがあってから数年。商売は順調だし今年の繁忙期と呼べるような時期をこなし、村にできた酒場にて打ち上げの飲み会を行っていた。

 

 「家族みんな呑んでいるのに、あたしだけ仕事ってどーよ」

 

 人数分の果実酒が入った杯が置かれる。持ってきたのは、酒場でウェイターとして働き始めたミーナだった。

 

 容姿はアリアに似てきたかもしれないが、運動能力は俺譲りかもしれない。酔客のセクハラをかわしながら戦場の酒場内を泳ぐように行き来する姿は流石の一言だ。

 

 「どーせあたしはアトリエとは無関係ですよー」

 

 「言うな言うな。今度埋め合わせしてやるから」

 

 言質はとったとばかりに、泣き真似までしてからあからさまな笑顔を見てミーナは別のテーブルに向かっていった。

 

 「それじゃ飲み物も来たところで、改めて」

 

 挨拶を再開する。こういうのはアトリエ長である主のサグレがするべき役目だろうと言いたいが、無意味に終わる為やるだけ時間の無駄だ。

 

 「事故もなく怪我もなく、クレームもなく全商品の納入が完了した。順風満帆な滑り出しとは言えずとも、ここまでこれたことを仲間のみんな。そしてあの時助けてくれた村の人達に感謝を改めてこめて…乾杯!」

 

 杯が打ち付けられる音が響く。

 

 今は交渉以外にも経理や商売にするまで広がったハーブ園管理を引き受けるテン。素材の加工や家具造りの補助に村内や昔から懇意にしてくれる商人を担当するベレーザ。家具造りや彫刻補助を担当する俺に、肝心要の彫刻による創作で客を魅了するサグレ。

 

 得意になった料理を作り俺やテンだけではなくサグレとベレーザの昼食や弁当を作り、ハーブ園管理の手伝いをするアリアも立派なアトリエの一員だ。ミーナだって、休みの日には美味しいハーブティーの研究をしに顔をだし村民に向けた販売所の手伝いをしてくれる。

 

 最高の仲間と家族達、理想の生活だ。そしてその生活にも、喜ばしい変化が訪れることが決まっていた。

 

 「ミーナの式まで、あと一週間もないな。可愛い娘をよそにとられる気持ちはどーよ、お父さん」

 

 宴会も進み、酒で酔ったベレーザが絡んできた。

 

 そう、ミーナは祝言を控えていた。相手はフェル、あの火事の一件より前から仲は良かったようだが、いつの間にか男女の仲に発展していたらしい。

 

 彼も職人として、まだ一人前とは言い難いが一皮剥けてきているようであり、結婚前の挨拶をしにきた時の顔はかつてより精悍なものとなっていた。努力家という評判も聞いており、口にはださないがあちらの親方に一目置かれているようである。

 

 俺からは、仕事に関してはなにをいうこともない。しかし、炎が渦巻き燃え盛る工房にミーナを助けにいこうと頭から水を被るフェルをこの目で見ていた。彼ならば、娘を任せることができる。悩むことなく、俺は二人の仲を祝福した。

 

 だがまあ、面倒くさい話であるが理屈では頷いてみせても、感情では寂しい気持ちがある。産まれた瞬間から今日まで娘として可愛がってきたんだ、離れることに一抹の寂しさがあるのは誤魔化せない。

 

 「お前も娘ができれば分かる」

 

 肩をすくめそう返答する。全国の親父が共通する寂しさだからだ、これ以上の言葉では飾れない。

 

 「そうかいそうかい。まあ飲めやお父さんよ」

 

 「結婚の際には僕の料理をだしてくれるとのことで、ありがとうございます」

 

 追加の酒と料理を運んできたのは、忙しくあちこち回るミーナの代わりにこの酒場の若き店主である男だった。ミーナを雇ってくれた縁や家具を卸した時からの付き合いもあり、なによりまだアトリエに就職する前のテンが村の代表として酒場を建てるにあたりいろいろアドバイスをしていたらしい。

 

 その繋がりから、披露宴にだす料理を全面的に依頼している。

 

 「僕の友人が猟師をしていまして、彼女も気合を入れていますよ。最良の披露宴にする為に、最高のジビエを用意すると」

 

 彼と共に越して来た、世にも珍しい女猟師。猟銃の扱いや解体作業も手馴れており、今は遠ざかっているが猟の経験もある俺とは山読みも獣の解体も射撃の技術も、なにもかもが優れていた。

 

 どこで教わったのか聞いてみたら、『父の教えで』と一言のみ返してくれた。寡黙な娘だった。

 

 「期待しているよ店長。猟師さんにもよろしくな」

 

 少し人見知りするということで、猟師をする彼女の名前すら実は教わっていない。彼はよろこんでとはにかみ厨房に戻っていった。

 

 「テンちゃんはどうなんだい。引く手あまたは相変わらずだろうに」

 

 「私はお父様とけっこ……ンッ!お父様とお母様の近くにいられることが最大の喜びですので」

 

 ほろ酔いのテンが珍しく失言をもらした瞬間、アリアに脇腹を小突かれた。隙を見せるのも珍しい彼女だが、相当に機嫌が良いのかもしれない。冗談の一つかましたところだが、慣れないジョークはアリアからの軽いパンチにより遮られた。

 

 しかしまあ、冗談でも何時までもファザコンがすぎるのは嬉しい反面少し心配になってくる。

 

 「でも、サグレもベレーザも何時になったらくっつくの?もう夫婦みたいなものなのに」

 

 サグレの表情は変わらないが、ベレーザが頬を赤らめている。

 

 そう、仕事も順調。サグレの技術も向上しなにもかもが上手くいくなか、ついにベレーザが正式な夫婦になる為水面下で動き始めていた。

 

 プロポーズは、ミーナの披露宴が終わった直後。幸せな光景を見たあとで、俺達もああなろうと銀の指輪を送るつもりである。

 

 ここまで引っぱったのは、サグレが良くも悪くも職人肌すぎるからだ。結婚。婚約、彼女はまったく意識をしていない。木と槌とノミと彫刻刀、それさえあれば彼女の世界は素晴らしく回転していた。色恋沙汰関係の話が、でてきた試がないのだ。

 

 ということで、ベレーザの奇襲攻撃はできうる限りの隙をついた、サプライズが良いということでそれを知るのは相談を受けた俺のみ。何も知らないアリアが爆弾を投下しやがった。

 

 この話題は避けたかったと言いたげに、ベレーザが目線で助け船を求める。今からどういうふうに話題をそらせというのか。だが、それを考えて口にだす前にサグレがあっけからんに言い放つ。

 

 「私は何時でも構わないのだけどね。ただこういうことは、男から言うものだと相場は決まっている。待っているのだがなかなかね」

 

 テンが肩をすくめた。通りすがりに話を聞いたミーナがふきだす。俺は、この一言は詰み手だなと盛大な奇襲攻撃の計画が今崩壊したことを悟った。

 

 もうこれは、遠回しではあるがサグレからの愛の告白だ。何時でも構わない、待っている。あとはもうベレーザが勇気を振り絞ればすむだけの話となっているのだ。

 

 目を白黒させるベレーザの背中を思いきり叩く。この場で言わなければ、もう奇襲だのなんだの言っている場合ではない。ここはもう、男を魅せる時なのだ。飛び込めば成功する、あとはこの場で飛び込む勇気だけだ。

 

 「サグレェ!」

 

 状況を理解したベレーザが立ち上がる。大声でテーブルを叩きながら立ち上がったため、周囲の注目を集めた。

 

 「俺と…結婚して…夫婦になって…くれやがりませんかぁ!?」

 

 酔いの勢いもあるだろうが、もう言葉もおかしい。完璧な奇襲攻撃とは真逆の不格好な出たとこ勝負だ。酒場の酔客達も、言葉を止めて固唾をのんで見守った。

 

 「何年待ったと思っているのかな?」

 

 サグレが、立ち上がる。ベレーザを抱きしめて、頬にキスをした。

 

 「勿論OKだよ、ベレーザ。でもできれば、もっと早く言ってほしかったかな」

 

 歓声と拍手があがった。男泣きをするベレーザを周囲が祝福し、サグレが涼しい顔で受けている。

 

 「良いことっていうのは、続くものだな」

 

 果実酒を傾ける。今まで呑んだどんな酒よりも、美味く感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宴会も盛り上がり、酔いが周り眠くなったアリアとテンが連れて帰った。まだまだ呑むぞと興奮するベレーザとそれに付き合うサグレ。俺はしばらく付き合ったあと、後は二人で楽しんでほしいと席を立った。

 

 家に帰ろうかとも思ったが、ふと俺は気分を変えて少しだけ寄り道することにした。

 

 海岸で、子供を拾った。俺自身の人生に価値ができる、始まりの出来事である場所だ。

 

 人気もなく、さざ波の音だけが耳に届く。心地の良い潮風を浴びながら、俺は一人物思いに耽った。

 

 結婚するミーナが、当日に着る花嫁衣裳。街の式場から代金を払い借りて来ることになる衣装であるが、旦那であるフェルと父である俺は当日までその姿を見ることができない。これはしきたりのようなものだ。

 

 衣装と一言で言っても、様々なドレスがあるものだ。花嫁の晴れ姿を見るのは、当日のみ。それまでは徹底した男子禁制である。

 

 それを見るまで、もう指折り数える程になったか。感慨深くなるのは当然だ。

 

 この浜辺で、テンを見つけた。彼女の半生は苦難に満ちたものだが、それでも俺はここに来てくれたことにいくら感謝をしてもしきれないものがあった。

 

 ある意味で、ここは俺の人生における始まりの場所ともいえるのだ。

 

 砂浜に横になり、空を見上げる。星々が輝いており、夜でも明るい月明かりが優し気に周囲を包んでいた。

 

 波の音のみが耳に響く。心地よさに、油断をしていると酔いに任せてこのまま寝てしまいそうになった。

 

 そしてそんな安らかな感覚が、近づいてくる軽い足音を聞き逃していた。

 

 腹部と胸元に、軽い重み。視点を身体に向けると、まず目に入ったのはサグレの作品である小さな馬の木彫りだ。ただしそれは、十数年の風雨にさらされ色あせ、傷だらけであった。千切れかけた首紐も、年月を語り掛けているようだ。

 

 馬の木彫りを首にかけた、灰色の猫。

 

 昔から時折姿を見せては、手ひどく追い返されていたボロボロの猫。

 

 最後に見た記憶は、火事の時。近づいてくるこの子を若衆の一人が脇腹を蹴り上げた瞬間だった。普通なら死んでもおかしくはないが、この子はまだ生きていた。

 

 そういえば、あのあといろいろあり過ぎてその後のこの猫のことを誰に聞けるでもなく記憶の隅に忘却していた。今、目の前に現れはっきりと存在を思い出した。

 

 手ひどく痛めつけられても、人に近寄る灰猫。古い傷、欠けた耳、目も片方潰れており、よく見ると尻尾短くなり千切れているように見えた。俺が見ていない間にも、色々なことがあったのだろうと想像できる。

 

 しかし何故かこの子は、俺をじっと見つめていた。甘えるように首筋に頭をこすりつけ、小さなか細く、弱弱しい鳴き声をあげた。今にも命が途切れてしまいそうな、そんな切ない声に感じた。

 

 「飼ってほしいのか?」

 

 そういえば、本当に昔、アリアとそんな話をした覚えがあった。何時か生活が安定して、子育てが終わったら猫を飼ってみたいと。

 

 この子はもう、ほんの老猫だろう。しかし、最後を穏やかに家で過ごしてもらっても良いかもしれない。

 

 「来るか?うちに」

 

 そう言いながら頭を撫でようとした瞬間、猫はまるで覚醒したように俊敏さを取り戻す。

 

 半ば死にかけていた猫が、最後の力を振り絞りとった行動。大口を開け、俺の首筋に牙を突き立てる。

 

 その痛みは、もうすっかり忘れていた首筋の痛み。傷もないのに定期的に針で刺されたかのような、そんな痛みを思い返すものだった。

 

 急になにをするのか分からずに、反射的に猫を放り出そうとした瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の知る世界が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 記憶が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 感情が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音を立てて、崩壊し、そして溢れかえった。

 


 

 もう身体が思うように動かない。

 

 傷の治りも遅くなった。

 

 片目は潰された、尻尾は千切られた、身体を動かして痛まないところなどどこもない。

 

 最後の最後、自分はもう諦めていた。

 

 熱心に仕事に打ち込む貴方を見たから。穏やかな笑みを浮かべ家族と談笑する貴方を見たから。仲間達と祝いの席を囲み幸せを感じる貴方を見たから。

 

 貴方と仕事をするのは自分がしたかった。貴女と談笑するのは自分だけにしてほしかった。貴方と祝いの席を囲み、家族として語らいたかった。

 

 欲望がこもらない、純粋な祈り。そして今となっては無粋な願い。

 

 ここには貴方が望む全てがある。仮初とはいえ幸福な人生を歩む姿が見られた。

 

 なら、自分はこの世界において異物もいいところだ。あんな苦難と血に、復讐に殺意、悲しみと慟哭ばかりの世界に引き戻ることが本当に正しいことなのだろうか。

 

 この世界は、ランザが本心から望んだもの。こうなれば良かったのにと、それを実現した理想の世界。

 

 苦しみぬいたランザを、このまどろみから救い出すことは本当に正解なのか。

 

 ランザだけじゃない、サグレとベレーザの姿もずっと見てきた。本当に、本当にお似合いの夫婦になる。良かった、幸せそうで良かった。

 

 みんなの幸せを見て、邪魔者はひっそりと消える。身体だけではなく心も擦り切れた自分はそれを受け入れることに異存はなかった。

 

 だが、運命は、最後の最後で自分になにかを投げかけたようだ。

 

 ただの一人で、ランザがこの浜辺に訪れた。潮風に混じる懐かしい香り。それだけで、自分の身体にほんの少し活力が戻る。

 

 せめて息絶える時は、貴方の腕の中で。よろよろと近づき、空を見上げるランザの胸元に辿り着く。

 

 あとは……あとは………

 

 いや

 

 ダメだ

 

 自分はやはりどこまでも卑怯で

 

 勝手で

 

 悪い猫だ

 

 ランザの幸せを壊してでも、貴方の人生を崩して絶望に染め上げてでも

 

 自分は、生きて貴方に寄り添いたいのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのために自分は、この世界を壊した。

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