家族の仇は、娘でした 作:樫鳥
寒村の産まれだった。
食い扶持に困り、春を無事に迎える為に売られる。決して裕福ではない農村であるならば、あの国のみならず世界中どこにでもある光景だろう。
人買いの手に引かれて村を離れる際、小さな弟と妹が泣いていた。あの頃のことはほとんど覚えていないが、残していく小さな家族達を不安にさせないように笑顔で手を振ってやったのを覚えている。深々と雪が降り注ぐ、小さく、小さく、そして貧しい農村だった。あの子達が元気に暮らしているかは、今はもう分からない。
『私は従います』
一言一句、間違えれば殴られる。跡が残らないように、効率的に痛みを与えられる殴りかたというものがあるらしいと、私の担当者は得意気に語っていた。
『私のこの身も、心も、主様に捧げます。貧相な身体つきで恐縮ですが、満足させてみせます。どうか私を使用してください。決して後悔をさせません』
宣言は幾つかあり、そのうちの半分近くが卑猥な言動を織り交ぜるものだった。初潮を迎える前からの仕込み、どういう客層に売られていくのかがよく分かるというものだ。上手く立ち回れば、今までの生活よりも美味しい思いができると言われていたがどうでも良かった。
ただ、痛いのは嫌だった。覚えが良いと言われていたので、殴られることは他の子よりは少なかったがそれでも時折ミスを犯した時には殴打の拳が飛んできた。無感情に生きようと考えていたものだが、流石にそれだけは恐ろしかったのを覚えている。
私の売却先は、先んじて決まっていたようであった。だがしかし、どんな事情があったのかは分からないが急遽船に乗せられ異国へと送られることとなった。
決して少なくはない額で売り払われたらしく、不安しかない異国への旅立ちはとんとん拍子で進んでいった。船には同い年くらいの男女もいたのだが、彼等彼女等がどうなったのかは今となっては分からない。まああの事件のせいで生きている可能性は限りなく低いだろう。
泣いていた子らもいたが、そんなことに意味なんてない。気にしてあげる余裕は私にはなかったし、ここで多少不安が取り除けたとしてもその末路なんて大して変わらない。船室に仮設された狭い牢屋の中、ずっと同じ体制でいた為動くのすら億劫だった。
国を出てから三日後か、四日後だったか。突然船が大きく横に揺れたのを覚えている。狭い牢屋の中で他の子供達とぶつかりあいながら転倒し、その次の瞬間船の側面が大きく裂け船室の壁が鋭利で巨大ななにかに引っかかれたように粉砕した。
壁の亀裂から見えたのは、翡翠色の背びれと美しい蒼色の鱗。大砲の弾が撃ち込まれていたが、その巨大な身体を左右に振りながら直撃を避けその巨体で船に体当たりをかましていた。頭部までは見えないが、甲板の方にその顔を向けているのだというのが分かる。
直後、水圧を凝縮したような水流が船室を斜めに切断するように通り過ぎていく。二つに割れた船は、そのまま重量に引きずられるように左右に分断されたまま海上に倒れ込む。
船の亀裂になんとか身体をねじ込み、切断された船のマストにしがみつく。巨大な生物、全船乗りの悪夢と言われた海竜リヴァイアサンはこちらに視線一つくれず海中に潜り消えていった。
後に残るのは船の残骸と、浮かぶ死体。生存した者が近くにいたようであり、必死に声をだし緊急用のボートを探して冷たい海面を泳いでいるようだった。そして、どこからともなく血の臭いを嗅ぎつけたフカが集まり、死体に食らいついていた。
海面を泳ぐ背びれでさえ恐ろしかったのに、さらに怖かったのはどこかで悲鳴があがり誰かが溺れるような音が響いたことだ。怖くてそちらの方を見ることができなかったが、なにがおこっているのかは必死に考えないようにしても想像ができてしまう。
海面についていた足首になにかが当たった。そちらの方を見たことを、私は今でも後悔している。それは、断面からまだ新鮮な血が流れ続けている手首だった。慌てて蹴り上げたその腕は、しばらく浮いていたあと小さめのフカが食らいついて沈んでいった。
日が落ちて、また日が昇る。疲労が身体に蓄積していたが、とにかく眠らないように意識だけは保つことに専念する。意識が途切れた時、海面に落ちてしまうことだけがなにより恐ろしかった。このマストのすぐ下は、あの世と繋がっていた。
また日が落ちる。飢えはなんとかなるが、渇きはどうしようもない。海水を飲む訳にもいかない為、ただひたすら耐え偲ぶことしかできない。
暗い海面を見ていたら恐怖に押しつぶされそうになる。私は目をつむり、意識を保つ為になにが原因でこうなったかを何度も反芻していた。何度も、何度も、何度も、何度も。
朝から畑仕事に向かう父についていき、昼は弟と妹の面倒を見ながら食事の準備に勤しみ、夜には病にふせりがちだった母親に教わった内職で食い扶持を稼ぐ手段に勤しんだ。
少しでも父の手助けになるよう働き、少ないと泣きじゃくる弟や妹の皿に私の分を分け、母の面倒を見ながら誰よりも遅くまで起きていたのに、その結果がこれなのか。
農作物が不作となると、噂を聞き付けどこからともなく人買いが現れる。家を継ぐ長男は売れない、分別もつかない幼い妹はそもそも値がつかない。ならば白羽の矢がたつのは私の元だ。
『育ててくれた恩を今こそ返します』「ウソだ」
『■■と●●●はまだ小さいです。父様に言われずとも、私が名乗りでるべきだったでしょう』「ウソだ」
『姉さんは行くけれど、二人とも元気でね。ちゃんと父様と母様の言うことを聞くんですよ。私も奉公先で頑張りますからね』「ウソだ!ウソだ!ウソだ!」
後悔するふりをして人買いにもらった金銭に目を輝かせていた父の顔を見て見ぬふりをした。病に苦しむ母が、これで薬を買えるとどこか安堵した顔を浮かべていたのも気づかないふりをした。まだ分別つかない年とはいえ、なにも知らない無邪気な笑顔は引き裂きたくてしかたなかった。
「なんで私ばかり!お前が大事等という戯言を漏らす父も、どこか肩の荷が降りたような顔をする母も、なにも知らず無邪気に笑うお前等も嫌いだ!私は頑張ったんだ!頑張って頑張って、少しでもみんなを楽にしてやりたかったのに!跡継ぎが産まれたから、代わりの娘が産まれたから、私なんていらないとでもいうの!?金なんかと引き換えにしやがって、その方がお前の為だなんて、戯言をぬかすな!ねえ代わってよ■■!一度くらい私を助けてよ●●●!ヘラヘラした顔で見やがって!誰か、私を助けてよ!」
喉の渇きも気にならない程に、気づいていたら吠えていた。極限状態に陥っていたせいか、すぐ近くに父が、母が、弟に妹達がいるように、正面には見えないがまるで視界の端にちらつくように映り込んでいた。みんなは決して助けてくれない、私を売ったお金を元に冬を乗り切り家族一丸となり頑張っていくのだろう。
みんな笑顔だ。私を売った金で購入した食材で鍋を作り、みんなで囲炉裏を囲んでいる。くたばれ、くたばれ!くたばれ!!くたばれ!!!
なんでもしますから、誰か助けてください。愛してくれるふりはいりません。申し訳なさそうな顔をしながら、都合よく利用し、捨てようとしないでください。どんな苦難でも、共に乗り越えていくと言ってください。手を差し伸べてください、一度くらいは誰か私を助けてください。誰か……誰か。
いつの間にか日が昇っていた。呪いのような慟哭を吐き続けていたうちに、いつの間にか時間が経っていたようだ。だがしかし、もう指一本動かない。
『おいおい』
誰かの声が聞こえた。聞き覚えがない、というかなんと言っているかすらも分からない。幻聴かとも思えたが、私の肩に手を置かれ軽く揺さぶられた。口元に指を置かれたり、腕や首筋を触りまだ生きているかどうか確認しているようである。
『生きちゃあ、いるのか。面倒だなおい、釣りなんて来るんじゃなかったか』
大きな手が、私の身体を抱え腕に抱え込む。腰まで海水に浸かりながら、岩の上にあがりしっかりとした足取りで私を助けてくれた。
少しだけ目を開けると、険しい顔をしながら歩く男が目に映った。苦労が刻まれたかのように眉間には大きく皺を作っており、口ではなにやらぶつくさ言ってはいるもののその足は急ぐようにどこかを目指していた。
時折こちらを見て、様子を確認したあとなにかを話しかけてからまた前を向く。言葉は分からないが、私に対する害をなそうとしている様子はないと感じた。
海水にさらされていた身体に、この人の腕は熱い程だった。自分の本心と向き合ってから、ほしくてたまらなかった誰かの温もりを感じられた。
ああ、私にもまだ救いはあったのですね。
石造りの建物で、異国の女性達に介抱される。身体をふかれ、少しずつ少しずつ水を飲まされ、小さくちぎり水でふやかした食べ物を与えられた。女性の一人がボロボロの服を持ち込むが、今の私が着ているものより上等な品物だ。思うように動かない身体を介助し、手伝ってもらいながら着替える。
二人の男性が、なにやら言い争うような声が聞こえる。奥の部屋から出て来た彼に、私はなんとか近づいて抱き着いた。世話をしてくれたのはありがたかったが、それでも言葉も分からない大人の女性数人に囲まれるのは少しだけ怖かったのは確かだ。
彼の元に辿り着くのに、動かないかなと思っていた身体が動いた。私に手を差し伸べてくれた人と、離れていたのが不安だった。しかし彼はそれをよしとはしなかった。怖い顔をしてなにかを言いながら、私を引きはがそうとする。
それでも離れられなかった。この手を離してしまったら、私はなにを支えに立てばいいのか分からない。彼が善人か悪人か、どうでも良かった。崖際に捕まるように、私は彼にしがみつく。
それでも、大人と子供の膂力。弱った身体では彼を掴んでいることができず、引き離されてしまった。
ショックと、疲労からか、私はそのまま意識を失うように眠りについてしまった。目が覚めた頃は、だいぶ時間が経っており私は寝台に寝かされていた。
眠りにつく前のことを思い出す。この国の言葉は分からないが、それでもここに私の居場所がないことは分かっていた。近くに誰もいないことを確認し、木窓を開けて建物から外を出る。あの人を探そう、私の頭には後先考えずそれしかなかった。
もう一度、会いたかった。私が求めてやまない助けに、応じてくれた人。この細い身体でなにができるか分からないが、望むならば差し出してもいい。元よりどこかの誰かに売り払われていく身であったのだ。
数時間は、村を彷徨った。日も暮れて、心細くなってくる。
抜け出した以上あそこに戻る訳にもいかない、かといってあの人の元以外に行きたい場所も行く場所もない。山にあるか海が近いかの差しかないような、私の村と同じ小さな集落だ。きっと見つかると自分で自分を鼓舞しなければ、うずくまってしまいそうだった。時折すれ違う村の人間からも奇異な目で見られる。声をかけられたこともあるが、なにを言っているのか分からず怖くなって逃げてしまった。
そんなことを繰り返しすっかり心が折れそうになっていた。だが運命は、ここにきて私の味方をしてくれた。道の正面から歩く彼と目が合う。
私ははちきれんばかりの笑顔だっただろうが、彼は気まずそうな顔をして家の中に飛び込んだ。その家の扉にしがみつき、私は声をかける。
「お願いします!ここを開けてください!ただお礼を言いたいだけです、顔を見るだけでいいのです!助けてもらった身で要求するのは、筋違いであることは理解していますが、話を聞いてください!お願いします!」
相手は異国人。いやこの場合は私の方が異国人か。言語の壁があることを、忘れていた。ただ、もう一度私を助けてくれた人の顔を見たいというのは本心だった。せめて、それだけは。恩返しもしたいし彼のことを知りたいが、それが不可能でもせめてもう一度目を見てお礼を言いたかった。
迷惑極まりない行為だろうが、それでも私はそうせざるをえなかった。あの冷たい海中から、拾いあげてくれた人。いくら感謝してもし足りない。
ハイになっていたのだろう。限界に気づかず、いつの間にかまた私はその場に倒れ伏していたようだ。
次に目が覚めた時、私はまた寝台の上にいた。ただし今度は、幾分かは男の匂いがついたシーツで寝かされていた。物が乱雑に散らかった家の中を確認していたら、あの人が戻ってきた。
昨晩取り乱していた分、少し据わりが悪い。お礼を伝えようにも、言語の壁を今更意識してしまい縮こまってしまう。
だが空気を読まない腹が音をたてた。ふとテーブルを見ると、焼いた魚となにやら黒い塊が置かれている。それに気づいたのか、彼は舌打ちをしながら黒い塊を差し出した。食べるジェスチャーを見せている為食用ではあるようだが、硬すぎるそれは体力が落ちて弱った顎では噛み千切ることすら難儀である。
彼は塊を取りあげ幾つかの大きさに千切ると、水の中にいれて湿らせた。幾分かは柔らかくなったそれをようやく食べ始めた私に、異国の言葉でなにかを伝え外に出ていく。
どうやら、今すぐ追い出されることはなさそうではあった。
木造建築の建物であるとはいえ、囲炉裏がない内装は大きく違和感があり、改めて私は異国に来たのだなと実感した。家の中は大きな机と寝台があるくらいであり、床には酒精の臭いがする入れ物が無造作に置かれており、窓際に積もっている埃から普段はそれほど掃除などはしていないことがうかがえた。
食事をそこそこにすませ後片付けをしようと台所にと赴くと、こちらもこちらで異質な雰囲気がある。道具類や食器は整理整頓されてはいる。あるべき所に、あるべき物があると言うべきか。それなのに料理の痕というか、魚の油や野菜くず等が清掃されていない。キチンとしているのかズボラなのか分からない。
「……うん」
少し家の中を探索し、掃除用具を見つけた。土地は違っても、この手の道具は変わらないと感心したものだ。
恩返しという訳ではない、ここに置いてもらえるように点数稼ぎをする訳でもない。ただ、掃除という日常行為を私は行いたかった。
故郷にいた頃も、忙しいなか隙間を見つけて行っていた日常の動作。今私はその動きをしたくてしたくてたまらなかったのだ。
生ごみは集めて庭に穴を掘りその中に廃棄する。ボロボロの布巾を使い、油や魚を捌いた痕の血を拭い綺麗に拭いた。酒精の強い入物は一ケ所にまとめ、床の掃き掃除をした。酒の入物以外散らかるようなゴミや荷物もないのがどことなく奇妙な気がした。
目につく汚れを全て綺麗に落とし、掃除という行為に夢中になって行った。満足し、寝台に背を預け座り込んだ瞬間強い眠気に襲われた。やりきった気持ちよさと同時に、気が抜けてしまったか。
物音で目が覚めた。いつの間にか彼が家に帰り、新しい入物の封を開けて酒を注ごうとしている。
顔は疲れ果てており、身体からは土と汗の臭いがした。畑仕事をして家に戻る父と同じ臭いだった。
売られてからの教育の一つに、お酌の練習があった。とにかくそれを思い出して、教育を繰り返された身体と頭は半ば自動的にその行為を行おうとした。しかし、徳利等馴染みの物と違いこの入物は重い。いつも通りの動作をしようとし、床に落としてしまう。
粗相を行った時、行われるのは指導と呼ばれる暴力だ。立ち上がる音。傷物は売り物にならない、だがしかし傷物にならないように痛みを与える方法を人買いは理解していたのを思い出す。
衝撃に備えて思わず腕を掲げて目を瞑ってしまう。だがしかし、感じたのは温もりだった。彼はなにかを優しく語りかけた後、頬に涙を流しながら私を抱きしめていた。
人の温もりに、私も後からあふれ出す涙を止めることができなかった。背中に手をまわし、延々と泣き続ける。
助けてくれて、ありがとう。手を差し伸べてくれて、ありがとう。言葉が通じないのがもどかしかった。この気持ちを伝えたかった。私はこの場にいても良いのですかと、尋ねたい。もう一度家族のような温かい関係を誰かと築きたい。
もう二度と、この温もりを手放したくはなかった。
理想の崩壊は早かった。
言語を理解して、交流をし、何時か役に立つ筈だと様々な知識を本から吸収しながら、義理の父となったお父様と生活をしていた。
職を変え、新しい生活をスタートしたが仕事は最初はあまり上手くいっていないようだ。それでもと歯を食いしばりながら、最近ようやく少しずつ認められ始めたと話していた。
それと同時に、彼はある女性との交際をスタートした。一抹の不安を感じながらも、まだ私は耐えることができた。口惜しくはあるがあくまで私は娘という立場で、お父様の庇護下に置かれている身だ。年齢差を考えるのは愚かしいことであるが、もしもそういう関係となった時世間から白眼視されるのは想像に難くない。
私の我儘は、彼の破滅に繋がる。呑み込み、我慢するしかないだろう。ただ一つ、確実にくる未来から目をそらしながら。
表面上は祝福をしたし、私自身波風を立てることを嫌った。なんだかんだで性格上では悪い人ではないが、とにかく不器用すぎるし要領が悪すぎる。これがお父様の選んだ人なのかと辟易しながらも穏やかな生活を演出していた。
我慢ができた理由は、それでもお父様が選んだ人だから。悔しくも私だけでは届かない、癒やしを与えていたのは認めざるをえない事実なのだ。私を邪険にしてくる訳でもなく、表面を取り繕うのに意外と苦労はなかった。
私も、この人なら別にいいかな……とある種の認めと諦めを抱いていたほどだ。
しかしその先に待つのは、当然の結末だ。結婚をして、肉体関係を持ち、そして子供が産まれた。
心構えをしていたつもりだが、女の子を見た瞬間私の顔はさぞかし青ざめていたであろう。
初めての子供を育てる母と、仕事と両立させながらそれを最大限サポートするお父様。必然的に私に割かれる時間は少なくなり、少しずつ内心が蝕まれていくのを感じた。
それでも私も、と何度も考えなおした。だが家事を手伝っていても、子守を手伝っていても、思い返すのは生家での出来事。どんなに家族に尽くしても、結局は売り払われて捨てられる。お父様がそんなことをしないと信じていても、所詮私は義理の家族で偽りの娘だ。
実の父にさえ捨てられたというのに、本当の家族を手に入れた今代用品の私にいかほどの価値がある。いやそんなことはない、私は大丈夫、捨てられない。本当に信じられるのか?お父様はともかく、家計が苦しくなった時母になにかを言われたら?売られたらどこかの成金の性欲処理に付き合わされる?最悪またあの大海原を、怨嗟の声をあげながら丸太に掴んで漂うのか?
眠れない夜を幾番過ごしたか。そんな日々に耐え切れなくなり、私はお父様に不安の一部を打ち明けた。最近構ってもらえずに、寂しいと。無視されている訳ではないが、もっと見てほしいと。
ちょうどお父様は、商人について街に行くタイミングであった。寝台や棚等重くなる品を家具工房で部品を作り、遠方にてそれを組み合わせてから販売をするためだ。
お父様は、少し困り顔をしてからこう言った。
『お姉さんなんだから、我慢してくれな』
初めての赤ん坊の育児。気を遣う職人仕事。そのどれもが大変で余裕はなかったのだろうとは思う。でもそれでも、我慢してくれという言葉に私は目の前が真っ暗になった。今まで我慢をして、して、して、して、して、して、してきたというのに!
本当はあのアリアを家族に迎えたくなかった!事故にみせかけて流産させてやろうと企んだことが何度あったか!あの巨大な妊婦の腹を踏みつけてやれば、後に罪悪感にさいなまれようとさぞ気持ちが良かっただろう!それでも私は我慢してきたというのに、これ以上なにを我慢しろというのか!
所詮は、よその子供だ、拾った子供だ。愛情を注げる優先度等低いに決まっている。このままじゃ私は何時かまた売り払われる。信じていた実親ですら、いくら苦渋があったかもしれないが売り払う時はあっという間であったじゃないか!
数日間は、理性と本能の戦いだったと思う。でも私は、気づいたら斧を握っていた。
ニーナ、ごめんとは言わない。でも貴女がいたらお父様と家族にはなれないの。斧を引きずりながら歩き、お父様の手作りである赤ん坊用の寝台で眠る子供を見る。その寝顔が、これからお父様の愛情を注がれ育っていくこの子が酷く憎たらしい。
ふと、この子が男の子だったらどうなだったんだろうなと考える。お父様によく似た男の子なら、私は可愛がることができただろうか?いや、栓無き事だ、考えても仕方ない。
さて、その後のことはあまり覚えていない。ただ赤ん坊と、無駄な治療をしようとした女を惨殺しただけだ。
こんな汚れたままじゃ、お父様が疲れた顔で戻ってきた時喜べないし安らげないだろう。二つのごみは、片方は大型だ。細かく分断してからじゃないと、捨てるのも苦労しそうだな。まあお父様が戻るまで、あと一日ある。重労働だが充分に間に合うだろう。
これからまた二人きりの生活が始まる。そう考えて私の頬は緩んだ。
しばらくはお父様も悲しみに打ちひしがれるかもしれない。こんな思いをするくらいならと、もう新しい家族を作らないでくれるなら嬉しい。いや、今度は私が嫁になれるかな?白眼視されるならどこかに引っ越そう。お父様の稼ぎが無くなるが、金銭は私がどうにでもできる。そのプランはもう考えてはいる。
ひとまずは成長してからかな、ああ……早く大人になりたいなぁ。
玄関が開く音が響く。思わず振り返ると、そこには予定よりも一日早く戻ったお父様がいた。しばし呆然としているお父様に、私は声をかけようとする。見つかったなぁ……と考えていたかもしれないが直後の衝撃でこの後のことはよく覚えていない。
しかし、お父様大きく目を見開き棚にかけてあった猟銃を握りしめた。弾を装填しこちらに向け、激しい憎悪に満ちた瞳で引き金を絞る。
その瞳を見た瞬間、私は硬直した。
ハッキリと感じることができた、私という存在を強く、強く、これ以上にない程お父様の中に刻み込めたことに。
それを感じ取り、心の底から喜んだ瞬間軽い身体が吹き飛び心臓に風穴が開いた。凄まじい衝撃は、精神的にも肉体的にも大きなショックを与える。まるで雷にでも打たれたかのようだ。
私は、今お父様の、代用が効かない、他者には真似できない立場を手に入れた。今まで以上に激しく心が繋がっている。憎悪、殺意、敵意。風穴があいている筈の心臓がキュンとし、脳髄が、背筋が、下腹部が喜びの声をあげた。
特別に、なれたのだ。
お父様の特別!手に入れたくても、手に入れることだできなかった強固かつ崩れることができない繋がり!怒りと復讐心。なるほど、これは盲点だった。激しい感情はこれ以上ないほど私に向け注がれる。お父様に見てもらっている、内心の感情を私のことだけで染め上げている。なんと素晴らしいことか!
ああ、でも終わり?死ぬ?もう?
そんな訳、ないじゃないか。
せっかく強固に繋がるこのができたのだ。今まで我慢してきた分、これからは遠慮をしないですむ。せっかく紡いだ魂の繋がり、無駄にしてなるものか。
思い描くのは理想の身体。目的を果たす為の力。ああ、まだ終わりにさせませんよお父様。このテンを、もっとその怒りに濁る瞳で、憎悪で曇る眼球で見てください。私は、それでこれ以上ない程幸せなのですから。
そしてたどり着いた終局。
悪竜の、吸血鬼の、夢魔の、魔法使いの力を取り込んだ巨狼。ついに私と渡り合うのに相応しい力を手に入れたお父様。
ここからはどちらでも良い。お父様の牙にかかり、この身を貪られ血肉になれるならば本望であるし、或いは夢魔の力で私をお父様の都合の良い存在に作り替えて魂が癒着されるのも興奮する。どちらにしても私とお父様は一つとして交わりあい永遠に離れることはないだろう。例え死んだとしても。
逆にお父様に勝ってしまうようならば、その力を全て取り込んでお父様の魂を支配して隷属させる。そうしたら誰にも邪魔されない場所で、二人で永遠に過ごそう。この身体なら、今ならお父様の子供だって作れる。永遠に閉じた世界で交わりあうことだって可能だ。
どちらに転んでも、私の目的は達することができる。
最高だ、最高に興奮する。
「さあお父様、お待たせしました。今こそ殺しあいましょう?さあその瞳を、よく私に向け見せてください。怨恨、憎悪、殺意。これまで丹念に丹念に培った全てを、私に……」
違和感。
なにかが、望みの状況と違う。いやなにかじゃない、気づいていたけど、認めたくなかった。
「……何故ですか」
何故、こうなっているのか。なにがあったのか。信じられない、どうしてという気持ちが心中をしめる。だっておかしいじゃないか、お父様の瞳はこれまで何度も何度も育み慈しんだ憎悪が込められていなければならないというのに。
「何故、その目は憐れみを宿しているのですか?」
殺意でも憎悪でもない、瞳に浮かぶ色。なんでそんな色を浮かべているのか、私は理解ができなかった。