ある女が男と出会い、幸せを噛みしめて、最後は泣くお話。

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あなたの望んだこと?

 気が付いたときにはもう、ピーという、間抜けな電子音が部屋に響いていた。

 私はただ、立ちすくんでいた。手には黒々とした電源ケーブルが握られている。いったい私は何をしているのだろう?

 

「違う……」

 

 自分は何を否定しているのだろう?

 分からない。分からないままケーブルを放り出す。何かにぶつかったのか、ガシャンという音を立てて床に落ちた。

 目線を上げればそこにはだらりと垂れ下がった腕がある。あまり健康的とは言えないけど、最低限の肉はついた細い腕。私はその腕を、よく知っているはずで──

 

「違う違う違う……」

 

 いやいやと頭を振りながら一歩後ずさる。

 二歩、三歩とさらに身体が下がって部屋の扉にぶつかった。背中に軽い痛みが走るが、何も気にならない。

 

「私は、こんなことがしたかった訳じゃないのに……!」

 

 そして気が付いたときには私──芦野(あしの)飛鳥(あすか)はその場から逃げ出していた。

 ただ闇雲に走りながら、これまでの思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていく……

 

 ◇

 

 ()と初めて会話したときの切っ掛けはどこにでもあるような、ありふれたものだった。

 

 あのときは確か、大学一年の夏頃だったか。

 私は大学デビューというものにてんで興味のない女の子だった。顔もスタイルもそこそこあるとは自負してるけど、それを磨いて陽キャになろうなんて考えたことがない。適度に友達作って、勉強して、趣味を楽しめればそれでいい。ちょっと冷めたタイプの人間なのだろう、たぶん。

 だから講義を受けるときも親しい友達と一緒に、なんてのはあまり多くなく、一人の時間も多かった。そういうときは決まって本を読んで時間を潰すものだから、余計に友達が増えないのかもしれない。

 

 でも、それで全然構わなかった。色恋沙汰も友情を育むも、機会があればやればいい。私は私のやりたいように生きていられれば、人生楽しめるタイプなのだから。

 

「それ、もしかしてあの作家の新作? 珍しいの読むんだね」

 

 なので、同じ学部の男子に唐突に話しかけられた時も、最初は大した感慨を持っていなかった。

 金髪に少しチャラめの服装、耳にはピアスなんて付けている彼はいかにも大学デビューしましたといった風貌だ。でも、周囲とは積極的に打ち解けて交友関係を広げているコミュ力の化身みたいな人。まさか私みたいな陰の方の人間にまで話しかけてくるとは思わなかったけど。

 名前は……なんだっけ? 相手にあまり興味がないと顔と名前も一致させられない。

 

「知ってるの?」

「そりゃ知ってるよ。結構前から出てるシリーズだからさ、かなり読み込んだ」

「へぇ」

 

 意外だった。私の読んでる本は時代小説というにもちょっと古い、平安くらいを題材とした作品だ。なのであんまり同年代で読んでいる人間はいないのだが、こんなところで出会うとは。

 ちょっと嬉しくなって、つい本から目を離してそのまま会話を続けてしまう。

 

「どの巻が好きなの?」

「短編集だからなー、巻ごとに好きな話がバラけてて難しいけど……しいて言うなら三巻かな? 後のメインキャラがそこで初登場だから思い出深いというか」

「いいじゃん、私もその話好きだよ。当時はもっと敵みたいなキャラだと思ったのに段々愛嬌出てきたもんね」

「それそれ、そういうところが好きでさ。今じゃすっかり酒を渡せば力を貸してくれるおじさんって感じ」

「あはは、分かるー」

 

 名前も思い出せない彼は思った以上にちゃんと読み込んでいるようだ。失礼ながら、彼の外見的にこういう小説には興味がないと思っていたので驚いている。

 それに、好きな本の話を好きなように語れるというのもいい。比較的孤高を貫いてきた私には貴重な体験だった。

 

「懐かしいなーホント。でも随分前に親が本を売っちまったからなぁ、もう手元に無いんだわ」

 

 などと本当に口惜しそうに言うものだから、するりと私の口は動いていた。

 

「なら何冊か貸してあげようか? 数日貸すくらいなら全然いいよ」

「マジ!? そりゃラッキーだけど、ホントにいいの?」

「あんまり汚さないでくれればね。あとちゃんと期日までに返すこと」

「分かってる分かってる、俺、約束はちゃんと守る男だからさ」

 

 ニカッと笑う彼にはなるほど、人を惹きつけるような愛嬌がある。

 きっとそれもあって、知り合ったばかりの他人に本を貸すなんて柄にもないことを言ってしまったのだろう。

 

「なら明日持ってくるよ。えーと……黒岩さん?」

 

 確か最初に学部内で自己紹介は聞いたはずなのに、本当に思い出せない。

 そんな私に対して、黒岩さん(仮称)は困ったように笑った。

 

「もしかして名前忘れちゃった? 俺は黒谷(くろたに)優紀(ゆうき)、よろしくね飛鳥さん」

「あ、うん、よろしくね黒谷君」

 

 ──悪い人ではないのだろうが、いきなり下の名前で呼んでくるなんてグイグイ来るなー。

 そんな印象を抱きながら、最初の会話は終わったんだっけか。

 

 ◇

 

 結局黒谷君は本当に本を借りていき、そして約束通りの日時に返してくれた。

 本にも汚れ一つついてないし、ちゃんと丁寧に扱ってくれたのだろう。自分の中で少しばかり彼への好感度が上がった瞬間だった。

 

「あれ、これは?」

 

 ただ、本を入れた袋を渡されたときに見覚えのない小包も一緒に交じっているのが気になった。なんだろうと手に取ってみれば、黒谷君はニヤニヤと笑っている。

 

「本貸してもらったからそのお礼。本のお供にでもしてよ」

「え、ありがとう……」

 

 家に帰ってから中身を確認してみたら、中身はなんとお手製のクッキーだった。『本ありがとうね!』なんてメッセージカードも添えられている。随分と律儀なことだ。

 それでクッキーを一つ食べてみたら中々に美味しい。甘すぎずサクッとして、コーヒーや紅茶が欲しくなる。

 

「私だってお菓子作りとかあんまりやらないのになー」

 

 女子力で彼に負けたような気がして、複雑な気持ちになりながらクッキーの二つ目を頬張った。

 

 ◇

 

 それ以来、黒谷君は何かと私に話しかけてくるようになった。

 私も別に嫌じゃなかったので普通に応じる。共通の趣味を持った異性の友人、なんてのに密かな憧れもあったのだ。

 

「へー、それじゃ飛鳥さんはレトロなのとか好きなんだ」

「そうなのよね。現代から見れば古臭くて機能的にも微妙って扱いされるけど、あれはあれで趣があるというか。当時の最先端だったって事実を甘く見ちゃだめだよね」

「あー、そういうの分かるわ。古いものに価値がないとは限らないもんな。むしろそっから新しい発想が出る、なんて言葉もあるし。温故知新だっけ?」

「よく知ってるね」

 

 最近はすっかり話題は多方面に飛ぶようになっていた。趣味といっても貸した本のことだけでなく、他にもいろんな好きなことについて語り合っている。

 

「でもレトロ好きが高じてモールス信号覚える、なんてのはどうなのよ? めっちゃ意外というか、なんかレトロとはまた違うジャンルじゃないそれ?」

「それこそ趣があるってやつだよ。今は手軽に通信とかできちゃうけど、昔はこうやって遠方に互いの意思を伝えてたんだなーって面白くなってきちゃって」

 

 名は体を表すというか、芦野飛鳥(わたし)は自分でも意外なことに古いものや時代が好きだ。歴史を感じるとか、当時の流行がわかるとか、理由は色々あるけど何故だか好き。自分自身の髪型だって黒髪のまま長く伸ばすという、俗にいう"お姫様カット"に近い感じだし。これが似合う顔で良かったよ本当。

 ともあれ、この手の趣味を語ったところで大抵は理解されない。意外だと思われて、でも相手はその話題に興味がないから会話が続かない。なんなら女の子らしくないと言われたこともある。そういう手合いはそろって今後の付き合いお断りでやってきた。

 

 さて、黒谷君はどう出るか……期待二割の諦め八割くらいで次の言葉を待ってみる。

 

「そういう考えたもありだわな、うん、カッコいいじゃん! あの訳分からない機械音みたいなのから意味を読解するとかできるの?」

 

 ……予想と全然違った。というかカッコいいなんて言われたのは初めてだ。

 頬が少し熱く感じる。柄にもなく照れてしまったのかな、私。

 

「ま、まあ少しくらいはできるけど……なんだか意外。らしくないとか言われると思った」

 

 素直に内心を伝えると黒谷君はそれこそ心外そうな顔をした。

 

「何が自分らしくて、何がおまえらしいか、なんてレッテルは下らないものだからさ。俺は俺で、飛鳥さんは飛鳥さんだ。互いに違うのが当然なんだし、自分らしいことなんて本人しか知らないものだろ? だから俺は相手が何を言い出しても驚かないって決めてるんだ」

「驚いた、黒谷君って思った以上に立派な人なのね」

「照れるからよせって、でももっと褒めてくれてもいいんだぜ?

「調子いいんだから」

 

 彼なりの照れ隠し──というか不明だが──に笑いあいながらも、確かにこのとき黒谷君を立派な人だなと感じたのだ。そこに嘘は無いし、ゆっくり縮まっていた心理的な距離が一気に短くなったようにも思えてならなかった。

 我ながらちょろいな、なんて思う。趣味を否定されなかった程度で気になり始めてしまうなんて。でもまあ、そういう始まりも悪くないかなと考えて笑顔になったことをよく覚えている。

 

 ◇

 

 それからも黒谷君との関係は続いた。

 不思議だったのは顔の広い彼が想像以上に私との会話を大切にしてくれていることだ。もっといろんな友人がいて、楽しく会話している場面を何度も見ている。なのに毎日必ず私一人に声をかけに来て、楽し気に話していくのだ。最初は自意識過剰かとも思ったが、それが半年近く続けばさすがに勘違いじゃないと分かる。

 私自身、彼のことを悪しからず感じていたので余計にモヤモヤしてしょうがない。

 

「いやー、この前はマジで助かった! 飛鳥に教えてもらわなかったら赤点確実だったわ!」

「はいはい、それは良かったね……まさか趣味が高じてカンニングに手を貸す羽目になるなんて」

 

 冬空の下、私と黒谷君は並んでベンチに腰かけていた。

 吐く息も白くなる寒さの中で、周囲に人影がないことを確認してからため息を吐く。

 カンニング、といっても大がかりなものではない。モールス信号──正確にはモールス符号か──を机を叩いて鳴らすことで、さりげなく答えを教えるといった手段だ。数週間前、なぜ彼が大真面目にモールス信号なんて覚えてきたのかその謎が解けて私は脱力してしまった。

 

「私に話を合わせてくれるにしても、あんな覚えるの大変なの習得するなんて……って感動してた私の気持ちを返してよ」

「いやぁ、モールス信号の話を聞いた瞬間に『これしかない!』って思えてね。飛鳥って頭良いし、あとは俺が覚えちゃえば全部教えてもらえる完璧な作戦だと思ったってわけ」

「先生が知ってたら全部水の泡だけどね」

「そこはそれ。結果的にうまくいったんだから万事良しさ」

「よく言うわ……まったくもう」

 

 呆れながらも嫌な感じがしないのが黒谷君の人徳なのだろう。人の心の隣に座るのが上手というか。いつからか私も飛鳥と呼び捨てになっているけど気にならなくなっている。

 それから、本当は黒谷君はカンニングなんてしなくとも十分に点数を取れると私は聞いていた。なのでなおさら手間とリスクをかけてまで実行した意味が分からない。

 

「どうあれ、私も加担しちゃったから同罪だけどね……でも、不思議」

「何が?」

「ちょっとスリルを味わってみたい、とかなら別に私じゃなくても良いでしょうに。他の人がモールス符号なんて使えるかは知らないけど、もっと仲間内でやる方がいいんじゃないかしら?」

 

 顔の広さを思えばそれが当然な気もするのだが、今だって黒谷君は私と二人きりで寒空の下にいる。私はといえば、自慢じゃないが今も友達が結構少ないのだ。

 他とは違う趣味を持っていて、すごく明るい性格でもなく、あまり積極的に会話するタイプでもない。有り体に言って面白味も共感も薄い女だと思う。

 

「んー、俺はもう十分に飛鳥とは"仲間内"ってやつだと思ってたけど、もしかして違ったかな……?」

「別にそういうつもりじゃないけど……私なんかにずっと付き合ってくれてるから、意外に思っただけ」

「そっか、ならいいじゃんか。俺は飛鳥のこと、友達だと思ってるぜ」

 

 屈託のない言葉に「ありがとう」とそっと返した。恥ずかしくて顔をまともに見られない。そっぽを向いてもう一度息を吐いた。今度はため息じゃない。

 そうだ、と黒谷君は手を叩いた。

 

「せっかく協力してもらったんだし何かお礼しないとな。今度の土曜日空いてる?」

「空いてるけど……どういうこと」

「一緒にバイク乗ってどこかドライブでも行ってみないか? 風切って走るの気持ちいいから気に入ると思うんだ」

 

 黒谷君の趣味の一つにバイクでのツーリングがあることは知っている。休日に遠出しては撮ってきたという景色はどれも綺麗で感心してばかりだった。なので憧れがなかったかといえば嘘になる。嘘になるのだけど……

 

「まるでデートの誘いみたいじゃん。黒川君そういうつもりだったの?」

 

 冗談めかしてヘラヘラと笑いながら揶揄う。さっきの仕返し、そうすれば彼が顔を赤くして否定すると思ったからだ。

 でも、今日の黒谷君は少し違った。私の言葉に否定するでもなく、こちらの顔を真っすぐと見つめてくる。思わず気圧されて目を逸らそうとしても何故だか視線を離すことができなかった。

 

「……そのつもりで、誘った」

「え──」

「だから、デートのつもりで誘ったって言ってるんだ」

 

 そう言って恥ずかしそうに頭をかいた姿は見慣れたいつもの黒谷君だった。

 でも私は頭をガツンと殴られたような衝撃だった。骨身に染みるような寒さだって今だけは気にならない。

 驚きすぎて二の句を告げないはずの私だったのに、なぜだか口だけはスルリと別の生き物ように、心の奥底にある本音をぎこちなく紡いでいた。

 

「その、嬉しいわ」

「良かった……断れたらどうしようって、今日一日不安だったんだ」

 

 黒谷君はホッとしたように肩をなで下ろして笑ってみせた。

 

「なんで飛鳥とばかり話してるか、ってさっき聞いたよな。仲間だと思ってるからというのも当然ある。だけど本当は、その……好きな人と話したかったっていう、それだけのことなんだ」

「好きな人……私、が?」

「うん」

 

 黒谷君の好きな人。どうやらそれが私のようで。

 たった二言程度の言葉を咀嚼するのにたっぷり十秒は経ってから、ようやく頭が状況を理解してきた。つまりこれ、私が彼に告白されているってこと?

 待って、そう考えると一気に恥ずかしくなってきた。既に黒谷君の方が顔から火を噴くんじゃないかってくらい赤いのに、たぶん私も負けず劣らずの色になってる。だって告白ってそんな、これまでの人生で一度だってされたこともないのに。

 

「どうだろう、俺じゃダメかな?」

 

 ああまったく、どうしてそんな自信なさそうに聞いてくるんだろう。金髪にチャラついたいかにも女と遊んでますって感じの外見なのに、そんな初心みたいな反応されたら可愛く思えて仕方ない。私にそういう趣味はなかったはずなのに、いろんな意味で胸がドキドキしてしまう。

 驚きと羞恥を乗り越えてしまえば口はちゃんと動かせた。だからちゃんと伝えよう。私の気持ちを、私の言葉で。

 

「ダメじゃないよ、私で良ければ喜んで」

 

 ある冬の日のことだった。

 私は初めて、恋人というものを知ったのだ。

 

 ◇

 

 それからの日々はめまぐるしく、とても充実した毎日だった。

 晴れて恋人となった私たちはそれはもうイチャついた。バイクに乗せてもらったり、一緒に買い物したり、ご飯を食べに行ったり。大学生という時間のある身分なので好きなだけ好きなように出かけることができた。

 

「あはは、すごいスピード! うっかり事故とかしないでよねー!」

「当たり前だろ! 飛鳥乗せてて事故れるかってんだ!」

 

 例えばそれは、黒川君の駆るバイクに二人乗りさせてもらって風を切ったり。あのとき見た海の景色は綺麗だったし、海鮮丼は美味しかったな。

 それから、新しく買い物した品を見せびらかしたこともある。あの時は黒谷君を初めて家に招いたんだっけな。

 

「練炭使った七輪焼きセット……家に呼ばれてドキドキしてたのに色気の欠片もなくてビックリだわ」

「良いじゃん、まだ寒いんだし干物でも焼きながら温まろ?」

「一酸化炭素中毒には気を付けてくれよなー頼むよー」

「お庭でやるから平気ですー」

 

 まったく色気のないお家デートだったけど、庭先で二人並んで団扇で干物を煽ったのは良い思い出。私としてもコンロじゃなくて敢えて七輪というところに趣味を満たせて大満足だった。

 あとは何があったかな……講義中にも近くの席に座ってこっそり会話しあったりした。もちろんモールス信号っぽく机を叩いてだ。周囲が知らない二人だけの符号でやり取りをしあうのは、創造以上に特別感をくすぐられて仕方なかったよ。

 

『ひまだね』

『わかる』

『でもたのしそうだね』

『あすかがいるから』

 

 ……そのときは気恥ずかしさで茹ったタコみたいになってしまい、周囲の人に風邪かと心配されたのも今では笑い種だろう。

 どうにしても、私は、私たちは幸せだった。このまま永遠にこんな時間が続けばいいのになんてロマンチックに考えてしまったほど。これまでの人生が何だったのかと思えるくらい、充実した毎日だった。

 このまま付き合いを続けていけばいつかは結婚とか、そういう事まで視野に入ってくるのかなー……などと漠然ながら考えていた。些細な切っ掛けから始まったこの関係が心地よすぎてそれ以外の将来像を想像すらできなかったのは、きっと彼も同じだったろう。

 

「黒谷君──いいえ、これからは優紀君って呼んでもいいかな?」

「もちろん、喜んで。むしろやっとそう呼んでくれて嬉しいよ」

 

 やっと勇気を出して下の名前で呼べたことも、大事な青春の一ページ。

 あまり他人に興味がないタイプの私が、ここまで善い相手と巡り合える幸運ってどれくらいなのかな? まったく違う自分というのは分からないけど、その時の自分が想像もできない。

 

 ──でも、だからこそ。幸福ばかり塗れた生涯などありえない。否応なしに中庸になるよう世界はできているから。

 

「じゃあね、優紀君。事故には気を付けてよね」

「いっつもそれ言うよな飛鳥は。大丈夫だよ、死んでも戻ってくらいはしてみせるから」

「はいはい、そういうのは良いから。じゃあね、気を付けて」

 

 いつものようにバイクで送ってもらって、自宅の前で優紀君を見送って。

 別れのキスとか憧れるなー、なんてぼんやり考えながら去り行くバイクに跨る彼に手を振って。

 あ、そういえばもう少しで付き合い始めてから一年だ! と思い至ってスキップまでした。

 

 その次の日のことだった──彼が交通事故に遭い、意識不明の重体になったと知ったのは。

 

 ◇

 

 私が優紀君の病室に行けたのは、彼が事故に遭ったと聞いてから一週間も経過してからのことだった。

 

「優紀君!」

 

 面会の許可をもらって駆け足で部屋へと飛び込んだ。きっと彼は大丈夫、もう目を覚まして私を見てくれるはず。そう期待して、「あれだけ気をつけろって言ったのに、なに事故ってるのよ!」と笑いながら泣いてやろうと決めていた私の想いは、

 

「そん、な……」

 

 ベッドに横たわる黒谷優紀君()()()()()を見て、木端微塵に砕かれた。

 

 包帯で巻かれた両足。天井へ向けて釣られたそれはとても動かせるようには見えない。

 むき出しになった両手には管がこれでもかとついている。あの腕が、彼の意思で自由にできるとは思えない。

 横にある心電図はちゃんと動いているのに、胸のあたりはまったく上下していない。肺の辺りにひときわ大きな管があることの意味をそこで悟った。

 そして何より、顔にもまた包帯がいくつもいくつも巻かれていて──ここが彼の病室だということを知ってなければ、きっと「部屋を間違えたんだな」とそそくさと後にしていたことだろう。

 

「なんで、そんな姿に……」

 

 思わず零れた疑問に答えてくれる者は誰もいない。優紀君もまた今は目覚めていない。

 いや、この状況を鑑みれば否応なしに理解できるだろう。私が期待したほど現実は甘くない。まだ彼は意識不明の重体のままで、もし目が覚めたところでこれまでのような生活は不可能だということを。

 認めたくない。あまりにも無慈悲な眼前の光景を前にして足が一歩後ろに下がりかけた。

 でも、私をことを愛してくれて、私が好きなあの人がそこにいるのも事実だから。今度は二歩前に出て彼へと手を伸ばそうとする。

 

「冷たい……」

 

 触った腕の体温は同じ人間とは思えないくらい冷たくて、もう既に死んでしまったかのようにも感じられる。なのに、なのに、生きていると分かってしまうから希望を捨てることもまた、できない。

 優紀君の手を握ったままどれだけ途方に暮れていたろうか。気が付けば面会時間は終わり、部屋にやってきた看護師の人に追い出されてしまった。病院の入口に呆けたように立ちつくした私は何も考えられず、そこからどうやって家に帰れたのかも定かではない。

 

 幸せというのは歩いてこない、などというのは有名な歌の一節だったっけ。

 でも、走って逃げてしまわないとは、誰も言っていないんだ。

 

 ◇

 

 現実が色褪せるなんて比喩は小説の中だけのものと思っていた。

 本当はそれが現実にも起こりうるということを、私は生涯知らないままでいたかったと切に願う。

 だけど、どれだけ願い祈ったところで現実は変わらない。優紀君は一か月経っても、三か月経っても、まだ目が覚める気配はない。いつまでも眠ったまま病院のベッドに横たわっている。

 

「今日も来たよ、優紀君。早く目を覚ましてくれないと、起きた時の説教がドンドン長くなっちゃうよ」

 

 花瓶に生けられた花を変えながら笑いかける。当然、答えなんてまったくない。もし意識があったとしてもきっと聞こえてはいなかっただろう。

 その後、暇を見つければ可能な限りお見舞いへ行った。その間に優紀君のご両親とも挨拶したし、医師の人から簡単に彼の身体の状態を教えてもらったりもした。

 どうも事故の原因そのものは対向からやってきた車の居眠り運転らしく、それを避けられずに事故に遭ってしまったこと。その結果負った障害は意識不明に留まらず、運動能力どころか視覚も聴覚も回復は絶望的ということ。かろうじて話すことはできるかもしれないが、それもたどたどしくなるだろうということ。

 

 一つだけでも想像を絶するようなハンデなのに、それが三つも四つも重なって……もう普通の生活を送ることは難しいのだと、無理やりにでも突き付けられた。

 

「今日は昨日よりもちょっと元気そうかな? 良かった良かった、その調子で次は目を覚ましてね」

 

 語りかけながらすっかり黒くなってしまった優紀君の髪を撫でた。あの金髪、実は気に入ってたんだけどな。でも仕方ないよね、生え変わった後で染め直すなんて病院じゃできないし。別に身だしなみを整えたところで見舞客もほとんど来ないから彼も気にしないだろう。

 大学ではその性格で人気者だったから、入院した当初はかなりの人が代わる代わるお見舞いに来た。早く良くなれ、待ってるぞ、なんて声を掛けては去っていく。でも二回以上お見舞いに来た人はその半分以下にまで減ったろうし、三回ともなればもっと少ないはず。四回以上はたぶん皆無だ。

 

 だからこそ、私は優紀君を放っておけなかった。ここで恋人である私までこの人を放り出してしまえば、本当の意味で彼は孤独(ひとり)となってしまう。ご両親と、医者以外に誰もいない孤独な闘病。そんな目に遭わせること自体が私には耐えられなかったから。

 何度もお見舞いに来ては語り掛ける。届かないと分かっていても一縷の望みを持たずにはいられない。明日こそは、次こそは、きっと私に言葉を返してくれるだろう──叶わないと半ば確信しながら、愚直に願い続けるのだ。

 

「そういえば、君がいないせいですっかりモールス符号とか使わなくなっちゃったよ。もうカンニングに使うこともないし、恥ずかしいような言葉を送りあうことも無いと思うと寂しくなってきちゃう」

 

 「二人だけの秘密の符丁なんて、ロマンチックな響きじゃないか」、そう笑ったときの優紀君の顔をよく覚えている。後から聞いたことだけど、モールス符号を覚えた本当の理由は私だけと会話できる切っ掛けになると考えたからみたい。顔に似合わず乙女だねと揶揄ったっけか。

 懐かしい思い出を口にしながら、なんとなしに優紀君の腕を指で叩く。『あいしてる』なんて打つのは恥ずかしいけど、どうせ一人善がりの行いだし構いはしない。

 

「これで反応が返ってきてくれたら素敵なのにな──」

 

 思わず呟きながら指を離した、その時だった。

 

 ピクリと、優紀君の指が動いた、ように見えた。気のせいにも見えたけど、微かにシーツにできた皺が動いているようにも見える。もしかして、まさか、逸る心を抑えながら次を見守る。

 ほんの少しだけ、指が持ち上がった。それからベッドに落ちて、また持ち上がる。よく見てなければわからない程度の、一ミリも無いような上がり幅。ピクピクと動いてるだけに思えるその動作に私は即座に思い当たった。

 

「待って、ちょっと待って……! 君が伝えようとしていること、きっと分かるはずだから──!」

 

 微かな動きを目で追って、頭の中でよく知った符号と照らし合わせる。そうだ、優紀君はきっとモールス符号を使ってこちらに意思を伝えようとしている。私が偶然それを使ったから、彼もこれで返そうと頑張っているのだろう。

 果たして、優紀君の伝えたかったことは──『おれも』という僅かな言葉だった。けどそれが、この三か月ずっと寝たきりで会話もできなかった彼からの、明確な意思表示だったから。愛の告白を聞かれた恥ずかしさも忘れて舞い上がった。

 

「良かった、意識が戻ってるんだ! それなら早くそう──」

 

 言ってよ、と笑おうとして気が付いた。つまり優紀君は、実は喋ることもできなかったのでは? だからひたすら無反応を続けるしかなかった。もしかしたら今みたいにアピールしたのかもしれないけど、普段は毛布の下に隠されている指がちょっと動いても誰も気が付けない。

 その事実に気が付いたとき、私は恐ろしくなった。もちろん彼がではない。彼の置かれた状況そのものが、改めて恐ろしいと感じてしまった。誰とも話せず、外界の情報を受け取れず、でも触覚と意識だけはまだ生きている。いったいそれはどれだけの不安と恐怖に苛まれるのだろう、想像すらできないことだった。

 

「私はここにいるからね。見捨てることもないから、心配しないで」

 

 可能な限り優紀君を元気づけてあげたいから、今度こそ素直な気持ちを符号で伝えた。ゆっくりと、分かりやすいように指で叩いて、触って、意思がしっかり伝わるように。

 

『ありがとう』

 

 答えはそれだけだったけど。確かな繋がりを感じることができて、私は少しだけ嬉しくなったんだ。

 

 ◇

 

 それからまた三か月が経過しても、一向に優紀君の目が覚めることはなかった。

 変わったことと言えば、私だけとはモールス符号を使って意思疎通ができるようになったということか。

 日常の取り留めのない話から彼自信の体調まで、好きなことを話せる。この当たり前の動作が可能になっただけでも大きな進展だった。

 

『きょうもきたよ』

『ありがとう』

『こうすいつけてみたんだ。どうかな?』

『いいかおりだとおもう』

 

 指の動きから伝わってくる優紀君の言葉は悲しいくらい嬉しいほど、これまで通りのものだった。悲観するような言葉もなく、ありのままを真摯にこちらへ伝えてくれる。なんだか私の方が逆に気を遣われているようで申し訳なかったけど、彼がその方がいいと言うなら無理強いはしない。 

 ただ一つ疑問だったのは、どうも私以外と意思疎通をする気が無さそうなことだった。最初、モールス符号を遣えば彼の意思が分かると判明したとき、すぐにご両親や医者にその旨を伝えた。もちろん全員が色めき立ったのだけど……なぜかその時に指で意思を伝えても彼は何も答えてくれなかったのだ。

 

 その後も何度かほかの人がいるタイミングでやってみたものの、まったくの無反応。脳波とか何とかにも変化はないらしく、結局三回ほど試した後で私の見間違いということで落ち着いた。釈然としないが証明できなかったのは事実なので反論のしようがない。

 ご両親となら積もる会話もあるだろうに……とは思うものの。不謹慎な自覚はあるが、私だけが彼の気持ちを知ることができることの優越感も確かにあったので、それ以上追及することもなかった。

 

 そういえば優紀君のご両親といえば、二日前のお見舞いの後でこんなことを言われたんだっけ。

 

「無理して息子に関わらなくてもいい、芦野飛鳥(あなた)にはあなたの人生があるんだから──ですって。私が嫌々あなたのお見舞いしてるとでも思われちゃったのかな」

 

 そんなことを要約しながら優紀君へと指で伝える。すると彼は『かんしゃしてるよ』と返事してくれた。それだけで報われる想いだ。

 ……もちろん、あの人たちも悪気はないのだろう。むしろ親切心だというのは理解してる。客観的に見て今の優紀君が治る見込みは限りなく低い、そんな人間(こいびと)のためにいつまでも自分の時間を浪費しなくても良いと伝えたかったのか。不器用だけど、それもまた正論で一つの良心だったのは認めよう。

 

「でも大丈夫、私は君を見捨てないよ。だって私が居なくなっちゃったら、今度こそ君は一人になっちゃうから。そんなことは決してしないから」

 

 昔の私はここまで誰かのために尽くせるような人間だったかな?

 きっとそうじゃなかったと思う。きっと変わったのだ、彼と出会い、彼と時間を過ごして、愛とか友情とか、カッコよく言えば信念や決意なんてものを学んだのかもしれない。だからここで見捨てる選択肢だけはありえない。 

 

「だけどね、たまに思うんだ。いくら私が傍にいると息巻いたところで君本人は現状をどう感じているんだろう、って」

 

 私以外の誰とも話せず、また何かをすることすら不可能。趣味だったバイクで乗り回すのはもちろんのこと、本を読んだり七輪で焼いた干物をつつき合ったり、そんなささやかな幸福すら許されない。まるで生き地獄のようではないか──たまにそういう考えが、頭を過る。

 

「いったい君はどう考えているのか。聞いてみたいけど、聞くのが怖い気がするよ」

 

 一人ごちながら自分の考えを端的に伝えてみる。

 半ば冗談のつもりだったし、別にどう答えられようと私が優紀君を見捨てないことに変わりはない。だからこの問答に意味はないと知っていて、それでも好奇心から知らずにはいられなかった。

 

『わかれよう、あすか』

「え……」

 

 だから予想に反して明確に"拒絶"を返されたとき、余裕ぶっていた私の心は揺れに揺れた。

 

『どういういみ、かな?』

『おやのいうとおりだ。これいじょう、おれにしばられるひつようはない』

『しばられてるつもりなんてない!』

「勝手なことを言わないで!」

 

 指は冷静に符号を返しているのに、口は激情に駆られたまま叫んでいた。縛られている? 私が? 何を勝手なことを、私は私がしたいようにしているだけ。気を遣われる必要も、変に憐れまれる必要も欠片もない。だってこれだけ可哀そうな人が、目の前にいるというのに──

 

『おれはたぶんもうだめだ。のこりのじんせい、たいせつにしてくれ』

『わたしにそんなつもりはないよ。あなたがめをさますまでずっといる』

『ありがとう、そのきもちだけでなきたいくらいうれしい』

 

 だけど、と指が符号を刻んだ。

 

『もしとつぜんあすかがいなくなれば、おれはたえられない』

『え……?』

『あすかがいなくなれば、ほんとうにこどくだ。だれともはなせない、しんじつのこどく』

『わたしがいなくなることなんてないよ』

『でも、おれみたいになるかもしれない。そのときおれは、いきながらしぬことになる』

 

 俺みたいに。その意味は不慮の事故とかで私まで動けなくなることだろうか。普段なら一笑に付す可能性だとしても、今このときだけは何一つとして否定できなかった。

 

『だから、いっそかくごをきめてつきはなそうと?』

『そうだよ』

 

 ……私は何も言えなかった。言える訳がない。だって本当の意味で優紀君の気持ちを推し量れる訳がないんだから。どれだけの孤独と恐怖にいつも苛まれているのか、想像できるなんて口が裂けても言えない。

 でも生きていてほしいと願う心は本当で、そのための支えになりたいとも思うのに。どうしてこんなにも残酷なことを言ってくるのか。

 

「ダメだよ、私は君に生きていてほしい。もう一度笑ってほしい。こんな私を好きだといってくれた君に向きたいんだ」

『なら、ひとつだけねがいをきいてくれ』

「何かな?」

 

 怖い、聞くのがすごく怖い。だけど聞かないと、私はこの人の恋人なんだから。

 

『おれを、おわらせて、ほしい』

『ほんきで、いってるの?』

『そうだ』

 

 ガタンと派手な音が鳴った。それが急に立ち上がったせいで後ろに倒れた椅子だと気づくのに数秒かかったくらい、私の頭の中は真っ白になっていた。

 おわらせてほしい? 終わらせてほしい? 誰が、私が? 俺を、優紀君を? 意味が分からない、分からないのに言葉だけは痛いほど正確に伝わってくる。

 動揺する私をおいて彼の指は次の言葉を紡いでいく。

 

『こわいんだ、このままいきるのが。いつあすかがいなくなるかもわからない。ならいっそ、あすかのてでおわりたい』

『わたしに……とどめをさせと』

『ごめん』

「謝るくらいなら、最初からそんなこと言わないでよ!」

 

 叫んだって優紀君に言葉が届くわけないのに。

 それでも叫ばずにはいられなかった。もう絶叫みたいなものだった。どうして私にそんな惨たらしいお願いをしてくるんだろう。

 

『もうそろそろ、きっと耐えられなくなる。こわいんだ、ひとりでとりのこされるのが』

『わたしがいるっていったじゃない!』

『わかれようと、さっきはいった。あれはうそだ、わかれるのはこわい。だけどこのままいきつづけるのは、もっとこわい』

 

 だから頼む……そう告げられて、あろうことか私の心は千々に乱れた。

 散々考えたように、私の優紀君の心情は分からない。味わっている恐怖も辛さも、推し量れこそすれ共感するなんて不可能だ。なのにそんな私が、『彼に生きてほしい』という()()()()()で延命を望むというのは、実は途轍もなく残酷なことじゃないだろうか?

 だけど、違う、それでも、いいや、違う、私は──私は、自分が正しいことを言っているのか、それすらも分からない。どうすればこの人のためになれるのかな?

 

『ほんとうに、それをのぞむの?』

『うん』

『そっか』

『ほんとうに、ごめん』

『ばかだね、きみは』

 

 精一杯に笑いながら溢れそうな涙を堪えた。ダメだ、泣いてしまうな。泣けばきっと自分を制御できなくなる。()()()()()()()()()なんて、矛盾したことをやってしまう。

 やめろ、やめてよ。それだけはしてはならない。だから私の身体、止まってよ。どうして酸素供給の機械の電源ケーブルに視線が行ってるの? あれを抜けば優紀君は酸素を取り込めなくなって死ぬだけなのに。そんなこと、望んでいるはずがないのに。

 

『すきだよ、ゆうきくん』

『おれもだ。あすかにあえてよかった』

『おなじこと、かんがえてたよ』

『ならたのむ、おれをらくにしてくれ』

 

 ピッ、ピッ、心電図の音だけが嫌に大きく響いた。

 私は優紀君の口元に顔を寄せた。ちょっとチャラい雰囲気があって、けれど笑うと愛嬌のあった顔は包帯で隠れている。かろうじて見える口元にそっと唇を寄せて──キスをした。

 

「えへへ、初めてのキスだよ。光栄に思ってよね、優紀君」

 

 おどけたように呟くけど、もちろんこれは聞こえていない。だから私の完全な独り善がりなんだけど……それでもきっと、彼も恥ずかしがってくれただろう。なら私は、それでいい。

 

「じゃあね、優紀君。また明日」

 

 それだけ告げて部屋を後にすればいい、簡単なことだろう。恋人だからと相手に尽くすだけが正解じゃない。時には従わない選択肢をすることだって当然のこと。

 なのにどうして、私はさっき確認した電源ケーブルを握っているんだろう。

 

 これ以上、彼を無残な姿で生かし続けることが幸福なのか?

 違う、違わない。

 手を放せ、放さない。

 彼を苦しめるのか、苦しめたくない。

 

 葛藤、苦しみ、矛盾、残酷。

 いくつもの想い出が、感情が、泡のように弾けては消えていく。幸せだったころ、絶望のどん底におちたころ、また心を通い合えると喜んだころ、いろんなことがフラッシュバックして、消えていって。

 

「あ……」

 

 気が付いたときにはもう、ピーという、間抜けな電子音が部屋に響いていた。

 私はただ、立ちすくんでいた。手には黒々とした電源ケーブルが握られている。いったい私は何をしているのだろう?

 

「違う……」

 

 自分は何を否定しているのだろう?

 分からない。分からないままケーブルを放り出す。何かにぶつかったのか、ガシャンという音を立てて床に落ちた。

 目線を上げればそこにはだらりと垂れ下がった腕がある。あまり健康的とは言えないけど、最低限の肉はついた細い腕。私はその腕を、よく知っているはずで──

 

「違う違う違う……」

 

 いやいやと頭を振りながら一歩後ずさる。

 二歩、三歩とさらに身体が下がって部屋の扉にぶつかった。背中に軽い痛みが走るが、何も気にならない。

 

「私は、こんなことがしたかった訳じゃないのに……!」

 

 そして気が付いたときには私──芦野(あしの)飛鳥(あすか)はその場から逃げ出していた。

 ただ闇雲に走りながら、これまでの思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていく……

 

 ◇

 

 泣きながら走った。

 私の心なんて知ったことじゃないくらい、底抜けによく晴れた青空だった。

 でも、心の中は土砂降りのように荒れて、荒れ狂って、一度たりとも落ち着かない。

 やっと足が止まった時にはもう、自宅にまでたどり着いていた。

 

「私は、なんてことを……したんだろう」

 

 この手で、この世で一番好きな人を殺した。事実が重くのし掛かる。

 

 今から戻っても間に合う訳がない。彼は、優紀君は、確実に死んでしまった。延命装置がなければ生きられない身体なのに、私がそれを止めてしまった。心電図だってあの有様だった。彼はもう、この世から居なくなった。

 そして、今になって恐ろしい可能性すら頭に浮かぶ。本当に彼は、モールス符号を使って私に意思を伝えてくれたのだろうか? 他の人は誰もそれをわからなかったのに、私だけ理解できるし確認してるなんて都合が良すぎる。もしかしたらあれは、私の思うように見えてるものを捻じ曲げた結果なのかもしれないと気が付いて──

 

「うぐっ」

 

 胃の中身をすべて戻した。据えた臭いが鼻につく。けどそれ以上に恐ろしい考えに体の震えが止まらない。

 もしそうだとしたら、あの人は自分の意思で終わりを選んだわけですらない。ただ身勝手な私の心が、もしかすれば回復する未来もあったかもしれない恋人を、終わらせたんだ。

 罪悪感に耐えられない。優紀君が望んでいたのせよ、そうでなかったにせよ、最後に殺したのは私だ。選んだのも、私。これ以上辛いまま生きているのを見ていられないと、考えてケーブルを抜いたのも、全部私。

 

「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」

 

 幸せな未来が待っていると信じて疑わなかった。なのに現実はどこまでも非情で、些細な幸せすら許してはくれなかった。現実は思うようにいかず、正しいことは痛いことばかり。でも、こんな正しさがあるなんて認めることはできない。彼のためを思って彼を殺すことが正しかったなんて、思えるはずもないから。

 答えなんて分からない。死者は黙して語らない。彼にとって救いだったかどうかを確かめる術は、私自身の手で未来永劫失われた。

 

「もう一度君に会えたら、どんなに嬉しいだろうね」

 

 呟いた私の視線の先には、いつか購入した七輪セットが埃を被っていた。

 どうせ私は、想い人を殺した罪人だから。()()()()使()()()をしても今更バチは当たらないよね──


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