マリア・トラレスは、主君エリザベート・ブラウンの嫁ぎ先に大層不満だった。エリザベート・B・シュラウドは輝石の国北部の宝石商の娘で、マリアの自慢の主だ。旦那様がエリザベートより十三も年上なのはままあることとしても、シュラウドには既にまだ言葉も話さない幼子がいて、しかも旦那様本人はまだしもその弟君などはエリザベートの胎が目当てであることを隠そうともしない。
トラレスは三世紀半も
そもそも輝石の国ではなく天界山の麓、それも海を隔てた孤島であることも、その中でもよりによって「人喰い」「炎の怪物」「半死人」と囁かれる「
おまけにマリアたちシュラウドの使用人は、毎日誰かしら順繰りに採血された。不気味な行いの理由が知れたのは、エリザベートが嫁いでから優に一年も過ぎた後のことだった。夜半に目の覚めたエリザベートのためにココアを入れに行く途中で、マリアは初めて、燃える髪の幼子──イデア・シュラウドが何かを口にするのを見た。
とろみのある橙白色の果肉飲料に、鮮やかとは言い難い
マリアの直接の主人はエリザベートであるので、その夫や義息が吸血鬼だったからといって何か勤務内容が変わるわけではない。ただ、輝石の国の娘の常として、マリアも吸血鬼によい印象がないというだけの話だ。まあ、それが大問題なのだが。
「あの、旦那様やイデア様は、
エリザベートのドレスを洗濯場へ持って行くと、丁度ファスマという名の奴隷の娘がいたのでマリアは恐る恐るそう聞いた。
エリザベートの連れてきた使用人とシュラウドの奴隷たちは、互いに互いを扱い損ねているようなところがあった。
法律上の身分の上では、輝石の国の
一方でマリアたちの方も、
「ええと、」
ファスマはマリアの恐れが本物であるのを見て取ると、困ったように言葉を紡いだ。
「氏族、種族という意味なら、ヴァンパイアでは、ないです」
天界山の麓の一族は、ヴリコラカスと呼ばれています、と彼女は言った。
彼らがほとんど御伽話になりつつある輝石の国ではともかくとして、ファスマが言うには「吸血鬼」というのは「猫科の獣人」くらいの広い言葉らしい。一番身も蓋もない表現では
感染対象になる種族(多くはヒト属ヒト)との混血である
青炎の髪持つシュラウド一族は、
「中でもイデア様は、あの長い御髪は」
ここで、ファスマは畏れるように声を潜めた。それはまるきり、この島の住人がこの地と、そして地下を統べたる王に言及するときと同じ調子だった。
「あれは
万年を生きる夜影の王。竜と同等の陰翳の支配者。子供の寝物語に語るにすら大仰な、不死者たちの王。踝までの長さで放蕩う焔を持て余すあの幼子が
シュラウド家当主の後添い、エリザベート・シュラウドは一度の流産を経て、自身によく似た髪と、夫と同じ地下に由来する金眼の男児を産み落とした。
通りがかりの部屋から子供の声が二種するものだから、マリアはひっそり溜息を吐いてドアを叩いて、扉を開けた。確かに吸血鬼は夜陰に紛れるものかもしれないが、半分人間の、それも三歳の幼児が遊ぶにはかなり遅い時間だ。
七つになる天災児(家庭教師に言わせると誤字ではない、らしい)と彼によく懐いた三歳の弟とが揃うと往々にしてとんでもない事態に発展するが、今日のところは二人してゲーム機(「がおがおドラコーンくん」だ。マリアも甥にねだられて誕生日プレゼントに贈った)を覗き込んでいるだけで、周辺も荒れていないことにマリアは安心する。
「イデア様、そろそろオルト様の御就寝の時間でございます」
こういうことは乳母の仕事だとは思うが、如何せんシュラウドの乳母はゴーストがその任を務めており、彼女はどうにも昼夜の違いに鈍感だった。
イデア・シュラウドはこれ見よがしに頬を膨らまし、仕方が無いとばかりに大きく息を吐いた。それから弟の頭を撫でつつ青の唇を開く。
「……うん。わかった。オルト、部屋戻る時間だって」
こうして見れば炎の髪の怪物も、ただ異母弟を可愛がる幼子でしかない。新参の者、あるいはシュラウドのものでない住民には口がさないものもいるけれど、マリアがイデア・シュラウドを恐れる道理はなかった。寝物語に語られた恐ろしげな
「うん。おやすみ、にいちゃん」
にぱ、と笑ったオルト・シュラウドのその笑顔に、ああこの方もヒトではないのだ、とマリアは思った。通う血の少ないためか興奮しきっているのに頬は蒼白のままで、桃色の唇がむしろ不釣り合いにさえ見えた。強いて人間に例えるのならそれは病床に伏す少年の肌だったが、それでも彼の母親よりも余程、オルト・シュラウドは健康体だ。
それはおそらく恐怖ではなくて寂寥だったが、マリアは時折この島には生命が馴染まないことを痛感する。ヒトが百年をかけて死に近付くよりもずっと速く、自分は亡者の群れに近寄っているような気がしてならない。
当代当主の弟夫婦が「地下に呼ばれ」たのは、オルト・シュラウドがもうすぐ五つになろうかという七月のことだった。寿命の長さに反比例するように(あるいはそれよりもなお)根付く子の少ない冥府の一族のこと、三世紀は続く吸血鬼排斥の風潮も相まって、今や「嘆きの島のシュラウド」は現当主夫妻とその子ら二人だけになっていた。
嘆きの島を出た親族を呼び戻す相談が決着するよりも早くに、その日はやってきた。嘆きの島にしては珍しいことによく晴れた、夏の一番暑い盛りのことだった。
初等教育を受け始めたエリザベートの息子は丁度十日前、島に一つきりの港から出る船に乗って、彼の祖父母に会うために輝石の国へ向かった。船には父母を懐かしんだエリザベートは勿論のこと、その夫の方と(主には商いの相談のためだが)、また彼らを世話するための使用人も三人ばかり同乗していた(奴隷持ちと言うと輝石の国では風聞が悪く、また妖精族もゴーストも馴染む土地を離れることは心身に良くないために、この時に同行したうち二人はエリザベートが連れてきた者で、残りの一人は島の生まれでも既に解放された者だった)。
父が商談に連れ回すには十一の少年はいかにも幼く、またエリザベートと血が繋がらないのを知っている身で弟と行動を同じくすることはできなかった。イデア・シュラウドは、残りの使用人と共に嘆きの島の屋敷に残っていたのを、この上もなく後悔することになる。
「イデア様!皆様、旦那様と奥様が……オルト様、も」
そう言って駆け寄るマリア・トラレスでさえも、左の腕に添え木をしていた。見覚えのない、おそらく緊急脱出用だろうスクリュー付きの小型ボート。言われてみれば蒼穹の高さとは裏腹に海原は妙に荒れていたような気がする。「呼ばれた」のだろう父は即死、我が子を庇ったエリザベート・シュラウドも既に冷たく、オルト・シュラウドの呼気は辛うじてまだ続いているものの、常よりもずっと微かだった。それでも遍く人が最後には地下に降りるように、彼らはこの島に帰り着いた。
「
イデアは、状況がさっぱり分からなかった。彼は確かに天才だったが同時に、心が理解を拒むことについてすっかり見ない振りをする能力も非常に高かった。それでもなんとか血中の魔力を燃やしながら呪文を唱えれば屋敷に詰めている使用人頭と、島の北側の森に住む
この時ほど医学の道に進まなかったのを後悔したことはない。その時海岸にいた魔法の使い手はイデアただ一人だったのに、苦しむ弟に対して何もできなかった。
イデア・シュラウドは、ただの子どもではないにせよ工学者だった。身体強化術でさえ、生来備わった再生力に飽かせて運用している。魔力の性質からして内向的で攻撃的で他者を癒やすにはこれっぽっちも向いていなかったし、それができるような相手を喚んで助力を乞うこともできない。
既に半千年紀を生きる冥府の
使用人頭はこの冥府の島に生まれ、そしてここの墓地に身を埋めるはずの男だ。この島の
月桂樹をルーツとするその
「どうしても?」
その双眸、地下に眠る富の色を皓々と光らせてイデアが言った。年経るごとにいや増すという
「……貴方の血を流して眷属にすれば、あるいは」
酷い流感にかかって胸骨の奥が軋むときのような、逆流する汽水の大河を目にしたような。生木が斧で切り倒される映像から逃げたくなるような、そんな情動に追われて、医師はそう言った。マリアは何も分からないまま、望みは濃くないのだろうと直感した。そればかりかきっと、失敗すれば余程酷いことになるのだろう、とも。それが分からないはずもないだろうに、幼い不死者は頷いた。
「や、やる。やります」
悪魔の誘いに乗る人間のようだと思った。
万に一つの祈りが実るほど、
「ねえ」
マリア・トラレスはきっと、配置換えになったあの日からずっとこの日を恐れていた。何かを振り切るようにして書庫に潜る黄金の瞳の主人が、誰の呼び声もすっかり無視して工学に打ち込む炎髪の少年が、樹脂に封入された一握りの灰をもう一度その手にする夜が来ることを、マリアは二年前からずっと、恐れていた。
「用意してほしいものがあるんだ」
この島の中央に聳える憤怒の山の岩肌に露出する硫黄。遙か北の氷原の、そのまた向こうでだけ採掘される透明度の高い水晶。よほど大がかりで特殊な手術でもなければ使わないような沢山の医療器具。新品の超高清浄度錬成用の
マリアは主人が何を望んでいるのか分からないなりに止めようと思って──思い直した。結局のところこの年若い主人は諦めるつもりなど始めから無いのだから、マリアでなければ誰かがやるのだ。
この決断が正しかったのかどうか、マリアには終ぞ分からないままだった。この日のことを忘れることも、死ぬ間際になってさえ敵わなかった。それでも、正しくなくても、イデア・シュラウドがもう一度、笑うようになったことだけは確かだった。
マリア・トラレスは魔法士ではない。錬金術師でもなければ魔女でもない。だから方々駆け回って集めたその機材でイデア・シュラウドが実際何をしたのか知っているわけではない。
ただ。マリアはただ、まことしやかに囁かれる伝承を知っているだけだ。輝石の国で囁かれる、錬金術の秘奥の噂。それに目が眩んだ術士たちの起こした事件。今もなお狩られる吸血鬼の命。
力を封じるための純粋な水晶、地下の王の膝元で採れる硫黄、複数本の骨髄生検針。鬼気迫る表情の主人に叩き出された奴隷の見たという、いかにも大切そうに扱われる爪先大の深緋の石。それでも、マリアは何も知らない。魔法士ではないから何も気がついていないのだと、そう言うこと以外にマリアには、ここに留まる方法が浮かばなかった。
だけれど当然のことながら、誰も彼もがイデアの行いを肯定したわけではなかった。密やかと言うには露骨な囁き声は最早屋敷の外だけの話ではなくなり、あるいはそれがイデアのためだと面と向かって苦言を呈するものもいた。
「イデア様、誠に申し上げにくいのですがオルト様は、」
その壁一枚向こうので発せられた言葉を聞いたとき、マリアは心底からその場を離れたくなった。イデア・シュラウドが「オルト」と呼んで連れ回す
イデア・シュラウドがオルト・シュラウドの死を認識していない、などとどうして言うことができるのか、マリアには分からない。彼はその
「だ、黙って、」
悲鳴だ、とマリアは思った。壁越しに聞こえてくるのは、動揺で声量の制御ができなくなっているからだろうか。それとも古い魔道の呪文のように、その言葉が
「黙、黙れよ!」
叫びと同時に爆発した魔力の波動に、マリアは思わず磨いていた燭台を放り出して身を伏せた。魔力に鈍感なマリアが体勢を崩したのだから、人によっては津波か爆撃のようにすら感じるだろう。立ち上がって燭台を拾い上げる。壁の向こうの
「……イデア様」
扉が開いても、そこの者の回収に参りました、と言ったマリア・トラレスを見上げても、まだイデアは落ち着かないようだった。自身とそう変わらぬ大きさの機械人形にぎゅっと抱きついたまま、異端なるもの、
「この子は、
正しくヒトでなかったとしてもこの
「僕が造ったものになんて付けようが僕の勝手、それでいいでしょ」
イデア・シュラウドは自身が長命種なのをいいことに全く妻帯しようとしなかったし、当主として全権を振るえるのをいいことに紙の書類はその一切を受け付けようとしなかった。農業から家事まで便利な機械をこれでもかと島に導入(正確にはイデア自身が開発)し、それで浮いた労働力は残らず市民籍を与えて島の外の学校に出した。神殿の管理こそ続けていたものの、
嘆きの島はこの十年で、島中を覆う神秘のくらがりを急速に消し去っていた。ゴーストや妖精にはイデアの行いを公然と非難する住民もいたものの、「嫌なら出てけば?」と言いながら茨の谷の知己*8にメールを送られ、島を離れる気のない大半は黙らざるを得なかった。
「……マリア」
実体モニタを二つ、ホロモニタを三つ並べた*9イデア・シュラウドが、顔を上げないままに呼びかけた。相手は、温室の散水機に不調が出たと対象に向かった今日のようにオルト・シュラウドが不在の時には殆ど個人付きのように連れ回されている
「はい、イデア様」
マリア・トラレスは主人の保温マグカップ*10の中身がそろそろ空になるところなので折を見て次の一杯を用意するかなどと考えていたところだった。
「辞めたくなったらいつでも言ってね。
イデアは似たようなことを大半の使用人に言っていて、特に奴隷は市民籍を与えられた上シュラウド家の負担で学校教育を受けられるとあって半数近くがその提案を受け入れていた。マリアは、最後ではないにせよ殆どそれに近い順序で回ってきた理由がおおよそ予想が付いている。
マリアが、イデアをさして恐れないからだ。イデアの魔力を恐れないものはこの島が魔導工学に染められることを恐れ、発展を歓迎するものは年々強まる不死者の魔法力を恐れる。そして島の民でないものは頭上の青炎を不気味だと囁き、オルト・シュラウドの製作を冒涜だと詰った。
辞めるつもりがあるのなら、エリザベートの死後すぐにでも伝えていただろう。そもそもマリアは遠回しにとはいえ少なくとも三回はその気がないと伝えていた。なにせ、そうでないと要らぬ気を回して馘首しかねないところがこの主人にはある。
「今更ですよ。それで、本音はなんでしょうか?」
そう聞かれたイデアは、元々からして不死者らしく不健康な顔色を更に蒼白にして言葉に詰まった。一通り言っているだけだと即答できなかったのが、それ自体ほとんど答えのようなものだとマリアは思う。
イデアからすれば、この島は螺旋を描いてすらいない。
「できれば、出ていってほしい」
「お断りします」
大切なものになってしまう前に、僕の前からいなくなってほしい。そう続けようとしたイデアは、話を遮って一刀両断されたことに戸惑って、うっかりそのまま承認してしまった。
「そ、そっか」
「はい」
愛や恋ではないのだ。部下への情でも、まだない。
マリアだって、そうだ。