異常気象なのだろうか。最近、雨がずっと降り続けている。豪雨でも何でもないただの雨なのだが、それが学園に意外な影響を及ぼしていた。
トレーニング器具不足。それが理事長の頭を悩ます問題の一つだった。
雨の中わざわざ外でトレーニングをする者は、よほどの物好きでも無い限りいないだろう。故に、本来外でトレーニングする者達が押し寄せたのはトレーニングルームや体育館であった。
トレセン学園の生徒数は膨大。押し寄せた先が混雑するのは必然であった。
そこで、各トレーナー室に一部のトレーニング器具を設置しても良いのでは無いかと理事長は考え、希望者を募ったのだ。
結果は、大成功。使わないスペースの有効活用という事で、殆どのトレーナーが賛成したのだ。そうなると、配備する器具が必要になるのだが、倉庫内の在庫を出し尽くしてもその需要は尽きなかった。
困った理事長は多少無茶の効く男に連絡し、無事に在庫の確保に成功したのだった。
ハイゼンベルクは雨の中、帽子とコートを濡らしながら倉庫とトラックの間を往復していた。ちゃんと、校舎内を通っていた為にびしょ濡れという訳では無い。彼が濡れたのは倉庫と校舎間の5mほどの区間だけだった。
最後の一個を倉庫に納品し、帰りに自動販売機で飲み物でも買おうと歩いていると、誰かに唐突に声を掛けられる。
その声の方向に振り向くと、そこには白衣を着て、虚ろな目を浮かべたウマ娘が立っていた。
「一つ尋ねたいんだが……ハイゼンベルクとは君かい?」
「そうだ、なんか用か?」
「実に面白いっ!!」
「……あ?」
どこか狂っているかのような瞳に、思わず彼は後ずさる。どこか昔、目的のために手段を選ばない奴が似たような瞳をしていたのを思い出した。
「その腕だ! ウララ君から聞いたよ! 一般的な成人男性よりも数センチ太いだけにも関わらず、ウマ娘と同じ……いや、それ以上の力を出せるそうじゃないか!!」
彼女は彼の鉄槌を持つ方の腕を見て、気分高々にそう言った。どうやら、不味い相手に絡まれてしまったようだ。
「アイツらもこれぐらいは持ってた。気のせいだろ」
彼はハルウララの友人の姿を思い浮かべてそう言ったが、それを食い気味に否定するのは目の前の狂人。彼の引き攣りかけた表情からは、このウマ娘に対して危機感を持ち始めているのが伺える。
「ふむ、その鉄の塊は体積から見ておよそ150kg程だろうか。確かに、ウマ娘の力であれば150どころでは無く200……いやそれ以上の重さを持ち上げる事が可能だろう」
彼女は数歩後退した彼に詰め寄ると、間髪入れずに話し続けた。
「しかし、それは瞬間的な最高出力の話! いくら人の数倍の筋肉密度があるウマ娘といえど、100kg越えの物を平然と持ち続けるのは難しい!」
「テメエ、何者だ?」
「ああ、すまない。言い忘れていたよ。アグネスタキオンだ。それよりも! 異常な力を出せるその肉体、是非ともサンプルが欲しい!」
そう言って彼女は懐から注射器を取り出した。中には何も詰まっていない。どうやら採血用の物のようだ。彼はそれを見て僅かに焦った表情を浮かべた。
「悪いが、生憎俺は暇じゃねえ。ご遠慮願うぜ」
しかし、図々しさでは彼も負けてはいない。向けられた注射器を横から掴むと、親指で根本からその針を見事に折った。
アグネスタキオンはその折れた跡を感心した様子で観察すると、大声で笑い出す。
「はっはっはっはっ!! 予想以上だ! 行動パターンが一般的では無いと聞いてはいたが、まさか注射器への対処として針を折られたのは初めてだ!」
「俺も初対面でいきなり注射器向けられたのは初めてだよ!」
面倒そうに台詞を吐き捨てると、彼は彼女に背を向けて足早にその場を立ち去る。
「おっと、待ちたまえ。まだ、じっけ……話は終わっていないのだよ」
しかし、彼女は不愉快な事にピッタリと彼について来た。彼の周囲を回るように彷徨くおまけ付きで。
「君がサンプル採取に積極的で無いのは分かった。では投薬実験はどうだい? 安心したまえ! 私のモルモ……トレーナー君で安全性は確認済みだ!」
彼女は今度は明らかに危険な色をした注射器を取り出すと、流れるように彼の腕に中身を注入しようと試みる。
だが、懐からナイフを取り出した彼は針の刺さる場所に刃先を先回りさせてそれを防いだ。そして、そのままナイフを振るい、注射器を床へと叩き落とした。
「俺が言うのもアレなんだが、テメエは倫理って言葉知ってるか?」
彼は実に面倒臭そうな表情を浮かべながら、足で注射器を踏みにじる。
「意味なら勿論知っているさ。だが、君が言いたいのは私の行動が一般的な倫理観に沿っているのか、という事だろうがね。 それよりも、君は医療関係者だったりするのかい? だいぶ注射器の持ち方が様になっているじゃないか」
「そんな訳あるか、オイル差すときに使ってただけだ」
「ふむ、ならそういう事にしておこう」
彼の適当な言い訳は、どうやら彼女には見透かれているようだ。だが、彼が医療とは無縁の場所でそれを使っていた事までは知る由もないだろう。
「君は頑なに投薬も採血も拒むようだね。なら、観察するだけなら良いのかい?」
「……テメエが本当に何もしねえならな」
「本当さ! どちらにせよ、君のお陰で手持ちの注射器は全て使えなくなってしまったからね」
「ヘッ、好きにしろ」
彼女はその言葉に礼を言うと、興味深そうに彼の腕や足を観察している。確かに見ているだけなのだが、まるでモルモットを見ているかの様な目のせいか嫌でも気が散ってしまう。
「視認可能な部分は観察し終わった。すまないが君、反対側の腕の袖も捲ってくれないか?」
性懲りも無く何度もそう要求する彼女に嫌気が差す。何をしてもビビらず、興奮した様子で事細かに観察される。そんなケージの中の扱いに、彼はもう限界だった。
「もう止めだ、じゃあな」
結局、彼は彼女を押し退けて逃げるように去って行ったのだった。
「ふむ、まあ良い。データは取れた」
アグネスタキオンは白衣に隠されていた謎の装置を腰から取り外すと、壁に体を預けてデータを確認し始めた。
彼女の持っている装置は筋肉の電位を測る物。しかし、筋肉に発生する電気は弱く、かなり接近していないとまともに測定出来ない代物だった。
「下半身の電位に関しては問題ない。だが、上半身が異常値……か」
彼女が上半身のデータを見ると、胸部を中心に大きな電気反応が検出されていた。しかし、その値は人間はおろか、ウマ娘ですら出せる値では無い。
「ふむ……胸ポケットに携帯のような電子機械の類が入っていた可能性が高いね。まさか、こんな形で実験を妨害されるとは……実に型破りで面白いじゃないか!」
一人高笑いをする彼女の右手には、もう用の無くなった装置が握られていた。彼女の目は装置など見ていないにも関わらず、それは健気にも次のデータを画面に表示していたのだった。
「ついて来て……ねえな。頭がいい分、あの半魚人よりやべえ奴じゃねえか……」
イカれた科学者から逃げるように歩き出した彼は、さっさと帰りたいが為に生徒達の多い廊下をズカズカと突き進んでいた。
モーセが海を割るが如く、ハイゼンベルクは人混みを割る。ただ、少し違った部分はそれを止めるものが居るかどうかだった。
「おい、貴様。何をしている?」
「今度は誰だよ……?」
肩を掴まれ強引にその歩みを止めさせたのは、見るからに優等生なウマ娘。同じウマ娘の某お嬢様が脳裏に浮かび上がる。
「貴様に名乗る名前など無い。それより質問に答えろ! ここで何をしている?」
前言撤回、お嬢様というよりも貴族様の方が近かったようだ。
「仕事終えてさっさと帰ろうとしてんだ。じゃあな」
肩を掴む手を払い、そのまま進んで行こうとするが、再度肩を掴まれる。さっきと違うのは掴む力が万力に近かった所だろうか。
「……痛えんだが?」
「悪いが校内に侵入した不審者にかける情けなど無い。生徒会室まで来て貰おうか」
「あーはいはい。そんじゃ案内してくれ」
面倒になって生返事を返した彼は、肩を挟む万力を強引に振り解いた。
「反抗する気か!?」
「しねえよ。ほら、案内するんだろ? 手早く頼むぜ?」
「その前に、それを預からせて貰おう」
そう言って彼女が指したのは、彼の持つ鉄槌。確かにとんでもない不審物だ。生徒会に携わる者ならば放っておかないのは確かだ。
彼は先程のマッドサイエンティストの言っていた事を思い出し、黒い笑みを浮かべる。どっからどう見てもその姿は悪役だ。
「あー……分かったよ。落とすんじゃねえぞ?」
彼はまるで傘でも渡すかの様に、彼女に鉄槌を差し出した。しかし、予想と重さが違ったのだろうか。受け取った筈の鉄槌は重力に引かれて床へと真っ直ぐ落ちていった。
凄まじい音と共に、鉄槌は床へと着地した。
勿論床にはヒビが入った。
「そんじゃ後は頼むぜ? 俺は先に生徒会室とやらに行っとくからよ?」
「何? おい、貴様! 待て!」
彼女は両手で何とか鉄槌を持ち上げると、重い足取りでハイゼンベルクを追う。しかし、重りのなくなった彼の足取りはウサギの様に軽かったのか、彼女は置いていかれる亀の気分を味わったのだった。
意外にも彼は逃げずに生徒会室までやって来ると、ノックもせずにドアを開ける。
一瞬だけ驚きの表情を見せた、見覚えのある顔が彼を出迎えた。
「よう、生徒会長。どうやら、世話になる時が来ちまったみてえだ」
「ああ、君か。久々にその顔を見た気がするよ。それで、世話になるとはどういう事だい?」
「遅れてやって来る真面目な奴に聞いてくれ。俺は連行されて来ただけなんでな」
そう言うと彼は手頃な椅子へ深く座り込んだ。彼のそんな様子に連行の意味が分からなくなりそうになった彼女だったが、重たい足音と共に部屋に入って来た副会長を見て、賢い彼女は全てを察した。
「エアグルーヴか、なるほど。納得したよ」
「よう、お疲れさん。そいつとの散歩は楽しかったか?」
「貴様……次は預からん……!」
手をひらひらと動かすと、ニヒルな笑みと共に彼は労いの言葉ではなく、皮肉を吐いた。
ここまでが彼の仕掛けた罠だと気付いたエアグルーヴは、火照らせた顔をそのままに歯を食いしばった。
「すまない、エアグルーヴ。どうやら、手間を掛けてしまったようだ」
「いえ、私の力不足が何よりの原因です。お気になさらないで下さい」
尊敬する人の前とそうではない者の前では多少態度が変わるのも当然なのだが、そんな事を知る由もない彼は、この態度の変わり身具合に一人の女性を思い浮かべていた。ただ、向こうの敬意はうわべだけだ。
「随分と真面目なこった」
「彼女はエアグルーヴ。優秀なこの生徒会における副会長さ。私の誇れる存在だよ」
「だったら覚えとく方がいいな。次見かけたらさっさと逃げる為にもな? そんで、俺はこれからどうなるんだ? テメエら二人から小言のサンドイッチにでもされんのか?」
「君がもし三度同じ事をしたらそうなるな」
海外式の言い回しは彼女のお気に召したようだ。お返しと言わんばかり彼女も洒落をぶつけると、二人は軽く笑い出す。
そんな談笑をする二人を、副会長は困惑した様子で眺めていた。
「会長、その男とは知り合いなんでしょうか?」
「ああ。彼はハイゼンベルク。トレセン学園で主にトレーニング器具などを取り扱っている。怪しい風貌だが許してやってくれ」
エアグルーヴははっきりとした返事をするが、その表情は複雑そうであった。
今の会話を聞き、彼は少し思うところがあったのか、椅子から立って話し始める。
「なあ、一つ聞きてえ。テメエらは俺がここに来た理由を知ってるか?」
彼の問いに二人は首を横に振った。不審者扱いされるのは慣れてはいる。だが、生徒会の者が業者の人間を間違えて不審者扱いなどするだろうか。
良くも悪くも真面目な者達だからこそ、もし知っていたら業者かどうか尋ねるだろう。
「あー……そう言うことか、やっと分かった。副会長とやらがご立腹になる訳だ」
「どう言うことだ? 説明しろ」
「文句ならテメエらに話通してない理事長に言えって事だ。俺はそもそもアイツに頼まれて倉庫に器具の搬入に来ただけ。まあ、知らねえんだろうがな」
「……と言う事は貴様、本当に仕事終わりだと言うのか!?」
「そう言うこった。悪いな? 副会長さんよ」
どうやら、エアグルーヴは彼の一言をその場凌ぎの言い訳だと思っていたようだ。彼女の表情はどこか悪い事をしてしまったかの様に歪む。
「謝罪の一言なんて要らねえ、それよりもさっさと帰らせてくれ。見つかりたくねえ奴が二人ほど居るんでな?」
彼はエアグルーヴから鉄槌を引ったくると、ドアに手を掛けそう言った。
「見つかりたくない……か。一人は分かるがもう一人は誰だい?」
「科学者って言えば分かるか? 注射器を二本もブッ刺されそうになった」
「アグネスタキオンか……次会ったら厳重注意しておく」
副会長の言葉に"頼んだぜ"と真面目な声で返答すると、彼はドアから去って行った。これでやっと静かになったと思いきや、ドア越しに元気な声が響き渡る。
『あっ! やっぱりトレーナーだ!』
『……何で出待ちしてんだ?』
『あのね! ふくかいちょーがトレーナーのおっきなハンマーを持ってるのを見たんだ! あんなに重たいの持てるなんて、さすがふくかいちょーだよね!』
『じゃあな、俺は帰る』
『あっ! そうだトレーナー! これから、スペちゃん達と一緒にダンスの練習するんだっ!! トレーナーも見にきてよ!』
『あ、おい! テメエ、人の話聞いてんのか! 俺は帰るって言ってんだよ!』
『ええっ!! じゃあさ、じゃんけんで決めようよ! 最近、みんなとやってるんだ! よーし、勝つぞー!』
『……拒否権無えのかよ』
扉越しに聞こえるやり取りを面白く感じたのか、思わず笑みを浮かべた会長と副会長の姿があったそうな。
なお、その数分後。問答無用で校内を連れ回される哀れな一人の男の姿が確認された。
ハイゼンベルクの鉄槌
とんでもなく重い。
ウマ娘の力であれば持ち上がらないことも無いのだが、重心の関係で柄を持って持ち上げる事はかなり難しい。
最近、彼にバレないようにこれを勇者の剣のように持ち上げる事が流行っている。なお、今まで出来た者はメジロ家の力自慢だけである。