その知らせは唐突にハイゼンベルクの元へ届けられた。
「メイクデビュー前の模擬レース?」
手紙に書かれていたのは、彼の呟き通りの内容だった。ウマ娘の精神上だとか、緊張がどうのこうのと色々と御託が並べられているが、その辺りの言葉は全て流し読みだ。
そして、大問題だったのが最後の一文。
「全トレーナーは参加を義務付けられている……か、ふざけやがって」
彼にとって、これっぽっちも興味の無いレースを見るのは面倒な事この上ない。だが、もしこれを無視したら、いつもの客からの有り難いお小言が大量に頂けるだろう。
一応、名義上は彼もトレーナーである。まあ、活動履歴も専用の部屋も無いのだが。
「……どうせ最下位だろうがな」
彼女と出会う直前に見たレースを脳裏に浮かべる。圧倒的最下位。あれが覆るなど、奇跡でも起きなければ無いだろう。
だが、そんな簡単に起きる物では無い。彼はそれを嫌と言うほど知っていた。
ふと、昔の事を思い出す。愚かで哀れな己自身が、その狂気もろとも打ち砕かれた瞬間を。
そういえば、一人だけ……一人だけ居た。
奇跡など無くとも、手を千切られようとも、腹を突き刺されようとも、絶対に諦めず、ただの執念で全てを覆した男が……
「そういや、聞いた話だとアイツはあのイカれ女をしっかりとぶっ殺したみてえだな」
とある商人から聞いた、自身が知り得なかったはずの話を思い出す。
今更になって思うと、良くやったと褒めてやりたいが、それも叶わぬ幻想だ。
そこで、一つだけ思ったことがあった。
いるではないか、最下位を取り続けようとも、何を言われようとも、持ち前のポジティブさで全てを覆すべく、諦めずに頑張るウマ娘が。
本人はそんな事一切考えてはいないのだろう。それは、彼自身も分かっている事だ。
「……一日ぐらい真面目にやってやるか」
彼は葉巻を消して口の中に残った紫煙を吐くと、一足のウマ娘用の靴と共にエレベーターで地下へと消えて行った。
数時間後、地下に行きっぱなしだったエレベーターが地上に帰ってくる。それと一緒に戻ってきた彼の手には、彼の作品とは思えない程に綺麗な靴があった。蹄鉄は黒く輝き、ピンク色の靴本体がより明るく見える。
そんな靴とは対照的に、彼の手は煤やら油やらで酷く汚れていたのだった。
今日は模擬レースの日。話によるとメイクデビューの練習のような物らしい。
トレセン学園のレース専用会場を使用し、観客もいる。模擬にも関わらず、実戦に近い大規模な事を行えるのも理事長の敏腕故だろう。
デビュー前のウマ娘達が次々と控室に案内される。その中には輝く笑顔を浮かべた一人の姿があった。
「ウララさん! 頑張るのよ!」
「ウララちゃん! けっぱってね!」
「ウララー! 一位取るんでしょ? 応援してるよー!」
「うんっ! ありがとー! わたし、絶対一番取ってくるねっ!!」
ハルウララは友人の声援で元々満タンだった元気をオーバーフローさせる。そのまま、両手を振りつつ、控室の方に案内されて行った。
控室に入ると、いつもの体操服へと着替える。陽気に鼻歌を歌いながら準備を進めていくその様子は緊張などかけらも感じられない。
「レース楽しみだなー! うっらら〜!」
むしろ、この先のレースを待ち望んでいる様子だ。しかし、まだ前のレースは終わっていない。出番はもう少しだけ後だろう。
待ち切れなくなった彼女は気分だけでも味わうためか、さっさとレース用の靴を履こうとする。しかし、その靴の隣に見た事のないピンク色の靴が置かれていた。
「あれれ? 誰かの忘れ物かな?」
彼女がそれをよく見ると、一枚の汚れた紙が添えてあることに気付く。興味を惹かれた彼女は迷わずそれを読む。
『靴の差し入れです 貴女の一人のファンより』
「わーいっ! ファンの人からの差し入れだー! 嬉しいなー!」
どうやらその靴はファンからの差し入れらしい。本来なら気持ちだけ受け取って、得体の知れないそれを使う者は殆どいないだろう。
しかし、彼女は躊躇う事なく差し入れの方の靴を履いた。
「うわわっ! ピッタリだっ!? しかも、すっごく軽い! 鳥さんみたい!」
その靴は何事もなく彼女の足を迎え入れた。ジャストフィットしたその靴は、今までの靴と比べると、羽根のように軽かった。本当に蹄鉄が入っているのか疑問に思ってしまうほどだ。
彼女はジャンプしたり、足を上げたりしてその軽さを楽しんでいた。
「わーっ! わたしのと違って蹄鉄が真っ黒だー! カッコいい!」
興味深そうにその靴を見ていた彼女は蹄鉄の色が今までのものと違うことに気付く。今までの鉛色ではなく、黒曜石のような輝く黒色は、どことなくカッコ良さを覚える。
自身の番が来るまでの間、彼女は飽きずに履いた靴を眺めていたのだった。
係員に呼ばれ、ようやくレース場に入る。通路を抜けた先は、彼女も知らない光景だった。
埋め尽くされた客席に、沢山の歓声。デビュー戦でないのにも関わらず、これだけの観客がいるのは、競バが人々に愛されている故だろう。
今回のレースはダートの1200m。ハルウララの得意分野だが、それは他の出場バ達も同じだ。出場人数は十人。今年はウマ娘の数が多いせいだろうか、いつも定期的に行われる練習のレースより人数が多かった。
「よーしっ! 出走だー!」
周りのウマ娘と同じようにゲートに入る。身に付けたゼッケンと同じ八番へと。そして、ワクワクしながらその時を待つ。
実況の声が会場に響き始め、観客達は声を抑え、会場はスッと静かになる。
破裂音と共にゲートが開く。
全員、一位を目指して飛び出した。
誰も出遅れる事なくスムーズなスタートを切る。先頭が速いのか、全体がかなりハイスピードな展開だ。そのせいか、彼女はどんどんと抜かされていく。
しかし、自分を抜かしていく彼女達の後ろ姿はあのお化けほどでは無い。最下位にはなったものの、目の前の背中には簡単に追いついた。
実況の声も何を言ってるか聞こえない程の集中状態。そんな中、彼女達はカーブへと差し掛かる。
ここにはカーブを無視して突き進む者なんて居ない。全員が綺麗な曲線を描いて曲がっていく。
前の六番を無意識に風除けにしながら、彼女は前を伺っていた。しかし、前方は団子状態。そのまま突っ込めばブロックされるのが明白だ。
レースの展開を実況席が語る。
『かなりハイスピードな展開です』
『少し掛かり気味ですね、一息入れられると良いのですが』
彼女の息は段々と上がる。もうすぐ最後の直線にも関わらず、その体力は底をつきかけていた。
そして訪れた最後の直線。全員がラストスパートを掛ける中、前の背中に阻まれて思うように進めない彼女。しかし、ここで思い出したのはお化けとの模擬レース。
『おい、テメエはこっちだ』
あの時の言葉を思い出し、前の背中から離れて外側へと躍り出る。その前には誰もいない。強烈な風をかき分けるように彼女はラストスパートをかけた。
地面を全力で蹴ると、いつもよりそのスピードはグングン上がる。
整備されたダートと荒れ放題の大地では確かに走り易さは違うだろう。だが、それを加味しても彼女の加速はいつもと一味違ったのだ。
それを味わった彼女の表情は少し苦しそうな物から、最高の楽しさを見出したかのような笑顔へと変わった。
地面を蹴る度に彼女の体は風へと近づいていく。その様子は彼女だけでなく、他の者達にも伝わっていた。
「行けるよ! 頑張れウララ!!」
「けっぱれ! ウララちゃん!」
「頑張って! ウララさん!」
友人達の声援を力に変えて突き進む。もう既に最下位では無い。だが、目指すは一位なのだ。ここで満足してはいられない。
歯を食いしばり、既に空っぽなスタミナを振り絞って無理矢理前へと進んでいく。段々と目の前が酸欠で霞んでくる。
焦点の合わない瞳で前を見た時、観客席の上の方。一般の者なら立ち入らないであろう整備用の足場。そこに、彼女のよく知る一人の影を見出した。
恐らく、気のせいなのだろう。彼はこの様な場所に来たがらない性格である事は彼女もよく知っている。
だが、そんな幻想でも彼女に更なる力を与えるのには十分だった。
「負け……ない……ぞっ!!」
そのまま彼女は速度を更に上げ、酷使に抗議の声を上げる心臓を押さえ付けながら、そのままゴールへと突っ込んでいった。
ゴールラインを越える。
大きな歓声が上がる。
そして、息も絶え絶えの状態で見たモニターには三番目に彼女の番号である八の文字が表示されていた。
「やったやったー!!!」
嬉しさが込み上げて思わずはしゃぎ出すハルウララ。その様子を見た友人達も思わず微笑んだ事だろう。
彼女はハッと思い出したかの様に、観客席の方向へ振り向く。しかし、どこの足場を見ても彼女のトレーナーの姿など無かった。やっぱり、酸欠状態が見せた幻影だったのだ。
この後はウイニングライブだ。いつもはバックダンサーしかやった事のない彼女だが、今回ばかりは前の方に立てるのだ。
嬉しさ半分、楽しさ半分で跳ねる様にライブ会場へ向かっていくハルウララ。その足についた黒い蹄鉄は既にその輝きを失っていた。
ライブも終わり、ウキウキ気分で彼女は放課後を迎える。友人達に褒めちぎられたお陰か、今日一日を最高の気分のまま終えられそうだ。
そんな中、彼女は学園の入り口で見覚えのある人物を発見した。
「あっ! トレーナー!」
「何だ、テメエか」
ハイゼンベルクは火の付いていない葉巻を咥え、入り口に止めた例の大型バイクを弄り倒している。
「そうだっ! あのねあのね!」
「三位だったんだろ? 模擬レース」
「そうなのっ!! それでね! とっても楽しかったんだ!」
「やっとドンケツから脱出か……」
飛び跳ねながら喜ぶ彼女。真上に伸ばされたその手のひらに、彼は一方的にハイタッチをかました。
「まあ、テメエにしては上出来だな」
「えっ? えっ? ねえねえ! 今のもう一回やってよ!」
「さあ、何のことだか?」
彼女は再度ハイタッチを要求するが、彼はニヒルな笑みと共に知らないの一言でそれを突き返す。
「よし、こんなもんだろ」
ハイゼンベルクはスパナを懐へ仕舞うと、バイクのエンジンをかける。あのお化けと比べると随分静かなエンジン音があたりに響き渡った。
「あれ? そういえば、トレーナーは何でここにいるの?」
「まあ、いつも通りお仕事だ」
「そっか! また変な機械とか運んでたんだね!」
「あー……まあそういう事だ」
彼女は彼が跨るよりも先にバイクにちょこんと飛び乗った。その様子を見た彼は溜息混じりにその頭にヘルメットを被せる。
「おい! テメエ、腹減ってるか? これからたまには外食でもしようと思ってたんだが、間違えて予約人数を二人にしちまってな。俺だけじゃ食い切れねえ」
「ええっ!? ほんと! わたしも行くっ!!」
「ありがとよ」
彼はエンジン全開で学園前から走り去る。その後ろ姿を一部のウマ娘が目を輝かせて見ていたが、それを彼らが知ることは無いだろう。
「あっ! そうだ! 実は今日ね、レース前にファンの人からプレゼント貰ったんだ!」
「ほう、良かったな」
「すっごいカッコいい靴なんだよ! 今度見せてあげるね!」
彼女は両手を広げ、その格好良さの大きさを表現する。きっと、その脳裏にはあの輝いた靴が思い浮かんでいる事だろう。
その後、彼女は彼に連れられてやってきたレストランで案の定食べ物に記憶をすっ飛ばされた。
だが、舌鼓を打つ彼女にとってはどうでもいい事だろう。
黒い蹄鉄
蹄鉄の何に反し、磁力に対して無反応な異様な代物。
圧倒的軽さとグリップ力を持つが、それと引き換えにたった2レースで壊れてしまう程、耐久性は極端に低い。劣化速度も凄まじく速く、1ヶ月もすればボロボロになってしまう。
正しくそれは、誰かの技術が生んだひと時の魔法なのだろう。