「さて、今日で終わりだ。そうだよな?」
「肯定……! 君の言っていた期間というのは確かに今日までだ!」
理事長室にて工場長と理事長、二つの長が向かい合っている。方や台の上に立ち、方や椅子に深く座り込んでいる。
彼がハルウララの面倒を見る期間は彼女のデビューまで。そして、今日がその日だった。
「数ヶ月間! 君は彼女と共に歩んだ! 何か思った事や言いたい事は無いか?」
「厄介者が消えるんだ。清々するぜ」
「うむ……そうか」
期待していた物とは真逆の答え。理事長はどこか残念そうな表情を浮かべると、彼に契約満了を示す書類を渡した。
「そこにサインすれば、君は名義上もトレーナーでは無くなる……本当に良いのか?」
一瞬の沈黙を挟み、彼は答えた。
「元々トレーナーでも何でもねえ。ただ、全て元に戻るだけだ」
彼の目には迷いなど無い。しかし、随分と険しい表情を浮かべ、手元の紙と睨めっこをしている。
その状態のまま、握られたペンがゆっくりとサインを書き始めた。
「なあ」
「どうした?」
「……紙、もう一枚あるか?」
そう言った彼の手元では、紙の上のサインが悲惨な事になっていた。
先程のやり取りを数回繰り返し、彼は何とか綺麗なサインを書き終えた。大きく息を吐き、座り心地の良いその椅子からその腰を上げた。
「そんじゃ、また今度な」
「制止!!」
理事長が扇子を彼に向ける。どうやら何か言いたい事があるようだ。大人しく彼は足を止め、背を出口の方へ向けた。
「もし、またトレーナーを希望するならいつでも言ってくれ! 歓迎するぞ!」
いつも通りの笑みを浮かべた彼女は、手に持ったそれをバッと広げた。歓迎と書かれた面は確実に彼に見えているはずだ。
「歓迎……ねえ、まあ確かに以前よりかはマシか」
毎回、ウマ娘達から不審者を見るような目を向けられている事には変わり無い。しかし、視線の鋭さは確かに以前より優しくなっているだろう。
「だが、俺はここには似合わねえ」
しかし、彼はポツリとそう答えた。
「否定! 何故そう言うのだ? 君が彼女と接する姿を度々見たが、正しくトレーナーそのもの! そこに似合うかどうかなど関係無いであろう!」
「テメエには分からねえだろうな? この根本的な違いはよ!」
「疑問! 君の言う根本的な違いとは何だ?」
荒々しい彼の発言に引っ掛かりを覚えた理事長は、間を置かずに質問を投げかける。
話を適当に切り上げて帰ろうとする彼への対策のような行動だ。
「文字通りの意味だ。常識ってモンが違えんだよ!」
この言葉を理事長は理解出来なかった。
生まれる環境によっては確かに常識の差異はある。だが、それは容易に補正ができる物なのでは無いのか。ウマ娘の中にも海外から来た者もいるが、この常識云々で問題になった事など一度も無かった。
「悪かった。少しカッとなった」
彼は悪びれた様子で謝ると、理事長へ背を向けた。もう帰るという意思表示だろう。
「さっきの言葉は訂正しとく。テメエが理解出来ねえ訳じゃねえ、俺が理解されようとしてねえだけだ」
彼はそう言ってドアノブに手をかけた。
だが、ドアは彼が開けるよりも早く他の者に開けられた。
「あっ! トレーナー! ここに居たんだね! たづなさんに教えて貰わなかったら分からなかったよ!」
出て行こうとしていた彼を部屋に押しやるかのように、彼女は理事長室へ入ってきた。どうやら、その笑顔からして伝えたい事があるようだ。
「あのねあのね! わたしついにデビューしたんだよ! デビュー戦は後ろから二番目だったけど……でもね! これからいっぱいレースに出て沢山一位を取るんだ! だから、これからよろしくね! トレーナー!」
ハイゼンベルクは笑顔と身振り手振りで伝えられた言葉に対し、手を固く握りしめていた。
「悪いが……俺はもうトレーナーじゃねえ」
「えっ? なんで……!」
その言葉の意味を理解した彼女の表情は花のような笑顔から悲しげな顔へ変わっていった。
「わたし! なんかしちゃったかな……! トレーナーに怒られるような事しちゃったかな……!?」
初めて見せた表情から、ポロポロと雫が溢れ出す。桜のような目から涙の花びらが地面を濡らす度、彼の表情はより険しい物へと変わっていく。
「テメエは……何もしてねえよ」
彼の詰まった言葉に彼女は頬を濡らしながら疑問の声を上げた。
「じゃあなんで……! 教えてよトレーナー……!」
自身の頬を軽く叩き、普段の表情を無理矢理取り戻した彼は、膝をついて彼女に目線の高さを合わせる。しかし、彼の目は彼女の濡れた瞳を見る事はなく、下や左右に泳いでいた。
「……テメエのトレーナーでいられる期間ってのがある。俺はそれが短かった。それだけだ」
彼の言葉に嗚咽を漏らしながら、自身の手で涙を拭い続けているハルウララ。しかし、いくら拭ってもその頬が乾く事は無く、むしろ涙が雨のように溢れた。
「……俺みてえな鉄屑よりもっとマシな奴がいるはずだ。次からそいつらにちゃんと教われ。そうした方がテメエの為になる」
「やだ……! やだよ……! 他の人じゃつまらないもん……! トレーナーだから……楽しいんだもん……!」
普段の彼女なら彼に対し、感情的になってわがままなど言わなかっただろう。恐らく、彼に対する信頼の裏返しなのだ。そんな大きな信頼は、たった数ヶ月間で得られる筈が無い物だった。
険しい顔を浮かべる彼は確かにその存在に気付いているはずだ。
「だが……」
"こっちにも事情がある"、そう口から出ようとしていた彼の言葉は、彼女の桜舞う瞳を見て止まってしまう。
「……期間はもう終わったんだ」
結局、彼の口から出たのは意図とは違う言葉だった。
頑なに理事長やハルウララと壁を作り続ける彼。誰かさんの明るさで溶けかかった鉄の壁を何故、今もなお守り続けているのだろうか。
恐らく、壁の内側にある黒々しい何かを外へ出さないためだろう。どう足掻いても誤魔化せない何かが、心の痛みで血塗れの彼を未だ壁の守護神として顕現させている。
そして、度重なる皮肉や嘘の化粧でその血を隠し続けているのだろうか。
だが、そんな彼の纏った誤魔化しを彼女は涙で剥がしに掛かる。
「じゃ、じゃあ……! またトレーナーになってよ……!!」
彼はその言葉に狼狽えた。
その声に応え、再度トレーナーになる事は可能。だが、彼は葛藤している。いつの間にか固く握り込んだ左手は血の涙を流していた。
彼は鉄槌を静かに地面に置くと、右手を懐へ入れ何かを取り出す。少しの間、それを手のひらに置いて、これで良いのかと問い掛けるかのようにじっと見ていた。
一旦息を大きく吐くと、彼は彼女とちゃんと目を合わせた。そして、それを人差し指と親指で挟み、目の前まで持ってくる。
「……ゲームだ」
「え……? ゲーム……?」
「このコインを今から投げる。今テメエが見てるオモテ面が出たら、俺はまたトレーナーになってやる。それ以外なら……後は分かるよな?」
彼女の濡れて歪んだ瞳に映ったのは、彼の工場のロゴ。彼はそれを親指で弾く。
落下してきたそれを右手で掴み取り、左手の甲へ叩き付けた。
右手をそっと離すと、そこには蹄鉄と今でも何なのか分からない動物の姿が刻まれた、オモテ面がその顔を光らせていた。
「……運が良いな」
彼は立ち上がり、大きくため息を吐く。そして、背後にいるであろう彼女に呼びかける。
「おい! 全部聞いてんだろ?」
「無論! また名義を貸してくれるのだろう?」
「ヘッ、そういうこった」
理事長はまるでこうなる事が分かっていたのか。登録用紙は既に机の上に置かれていた。
「感謝! 期間はどうする?」
「テメエの勝手にしろ!」
流れるように彼の情報を記入する理事長。期限の欄には他のトレーナーと同じ横一本線。それは、"希望する限り"を表すマークであった。
「完了! 君は今からトレーナーだ!」
彼は言葉の代わりにニヒルな笑みを返す。変わり身の早い彼に呆然としているハルウララに対し、彼はふざけるようにこう言った。
「さて、これでまた書類上はトレーナーだ。テメエは今、トレーナー不在だろ? 俺がスカウトしてやるよ! ハルウララ!」
「え……! ほんと…!? ありがとー!!! トレーナー!!!」
感極まった彼女はまだ頬が濡れているにもお構いなしに彼へと抱きついた。
「あ、おい! テメエ、コートが……ったく、次はねえぞ」
コートは彼女の涙を受け止めて濡れている。しかし、今回に限り彼は大目に見るようで、ため息と共に葉巻を咥えた。
が、途中で思い出したかのように胸ポケットに仕舞い込んだ。
手持ち無沙汰になってしまった彼は掛けているサングラスを不満そうな表情で弄っていた。
「えへへ……ありがとトレーナー!!」
彼の腰あたりに頬を擦り付ける彼女は、未だにその瞳からは涙を流していた。しかし、嬉しそうな笑みを浮かべている事から、その意味は先程とは真逆なのだろう。
これから、心に踏み入ってくる誰かに壊されないよう、彼の作る壁は今までの鉄製から、より補強された鋼鉄製に変わるだろう。その壁をハルウララが溶かせるのかは分からない。
しかし、纏っていた嘘と血の鎧は確かに彼女によって確かに洗い流された。
今回の選択において、
コイン
ハイゼンベルク持っていた鉄製のコイン。
工場のロゴが両面に描かれている。
そこに表裏など無く、あるのは裏を見せられない一人の不器用な男だけだろう。