全ての事のきっかけはハルウララの一言から始まった。
「ねえねえ、トレーナー! わたしね、レースに出たいんだ!」
「レース? いつも学校でやってるあれだろ? 出たけりゃ出れば良いじゃねえか」
「違うよ! 何か、色んなところでレースってやってるみたいなんだ! だから出てみたい!」
その言葉にハイゼンベルクは頭を抱えた。なぜなら、彼はレースのレの字も知らない。彼女がどこのレース場に出れるのかなど、知る由も無いだろう。
まあ、そもそも彼がそんな面倒な事をやりたがらないというのが一番大きいのだが。
そんな時、一通のメールが彼の携帯を揺らした。
「……もう根回し済みかよ」
メールの相手は理事長。彼曰く、文面でもその煩さは健在のようだ。そんな彼女からのメールの内容は単純明快だった。
ハルウララの適正、どこにレース場が存在するか。などなど、この機を狙ったかのように必要な情報が書かれていた。だが、彼が何より嫌な顔をしたのは最後の文面。
『明日の新潟のレースにエントリーしておいた! 健闘を祈る!』
恐らく、彼は絶対にエントリーすらしない事を分かっているのだろう。名義を好きに使えと言質を取ったからこそ出来る、強引な方法だ。
そして、彼は諦めたかのように大きな溜息を吐いたのだった。
なお、この文面のせいで本日の喫煙時間が倍になったのは言うまでもない。
「ったく……おい、レース用の靴あるか?」
「うんっ! あるよー! たづなさんに持って行きなさいって言われたんだ!」
彼女は靴の入った袋から、黒い蹄鉄の付いた靴を取り出した。その蹄鉄はひび割れ、輝きは失われてくすみ切っている。
「蹄鉄の交換してやるよ。前にタダでやってやるって言ってただろ?」
「ほんとっ!? ありがとートレーナー! あっ! でもこの靴まだ全然使ってないよ!」
彼が静かにその蹄鉄部分を指差して、その靴の現状を伝える。壊れかけのそれをみた彼女は、尻尾を逆立てて驚愕の表情を見せていた。
「がーん! せっかくファンの人から貰ったやつなのに……」
初めての差し入れだった故に、かなり気に入っていたんだろう。彼女はガクンと肩を下ろし、落ち込んでしまった。
「何ふざけた事言ってんだ? ファンの奴はそれが原因で怪我したら悲しむんじゃねえのか? そもそも、靴自体処分するわけじゃねえ、蹄鉄部分だけしか変わんねえよ」
「そっか! じゃあお願いするね! トレーナー!」
「まあ、約束通りそこそこのモンを付けてやるよ」
彼は彼女から靴を受け取ると、工場内の地下行きのエレベーターに乗り込んだ。作業風景見たさに彼女も同様に乗り込む。まるで当然のようについて来る彼女の様子を鼻で笑うと、エレベーターのスイッチを押した。
地下に着き、迷路のような道を迷わず進んでいく彼。お化けへの道しか覚えていない彼女は、カルガモの雛のようにその背中にピッタリとついて行った。
着いた先は金属の机が溢れ、至る所に歯車やら鉄パイプやらのスクラップが集う空間だった。その奥の中心に何やら台座のような機械が置かれていた。地上で彼が使う機械よりも手入れが行き届いている事から、使用頻度が高い事が伺える。
そんな、凄そうな機械を前に彼女は目を輝かせた。
「わあーっ! 何か凄そうな機械だ!」
彼は四角い金属の何かを機械にセットする。すると、自動的に機械は動き出す。目を丸くしている彼女を横目に、その機械は四角い何かに付いている穴にドロドロに溶けた金属を流し込む。
そう、この機械は自動鋳造機。規格にあった型さえあれば、大体なんでも作れる優れ物だ。かなり前にハルウララにあげた工場のエンブレムや、鉄のコインなども全てここから生まれていた。
そして、冷却フェーズを終えた機械が綺麗な鉛色をした蹄鉄を吐き出した。
「ええっ!? すごいすごい! わたしこんなの初めて見た! ねえ、もう一回やってよ!」
そんな製造工程を見た彼女は大喜び。尻尾をブンブンと振って、期待の眼差しで彼を見つめていた。
「どうせ二つ必要だ。言われなくてもやる」
代わり映えもしない工程を再び見せられてなお、彼女の目の輝きはそのままだった。そして、次に彼が触れたのは何の変哲もない金床だった。
複数の工具を使ってあっという間に既存の蹄鉄を剥がすと、いつもの鉄槌を使って新しい方の蹄鉄を一撃で打ち込んだ。
あまりに早すぎたせいか、作業が終わった事の実感が湧かず、片付けをしている彼の姿をただ呆然と見つめるハルウララ。そんな彼女が正気に戻ったのは、彼が全てを終えて出て行く間際であった。
「わーい! ありがとー!」
地上に戻った後、彼からレース用のシューズを受け取り、彼女は嬉しそうに笑った。お礼を言われた彼はぶっきらぼうに返事をすると、葉巻を咥えて火を付けた。
勿論、換気扇の下でだ。
「じゃあ明日は朝一番に車で迎えに行ってやる。寝坊すんじゃねえぞ」
「分かったっ! そしたら今日はにんじんさんを数えて早く寝るね!」
「羊じゃねえのかよ……」
どうやら、彼女の睡眠導入法では羊はリストラされたようだ。その代役として採用されたのはまさかの人参。動けもしないそれを数えて何故寝られるのかは永遠の謎である。
微妙な表情を浮かべるハイゼンベルクを横目に、彼女は両手を振って元気よく別れを告げると、傾いた夕日へと走り去っていった。彼はその背中を見送ると、月の明かりへ誘われる様に工場へと戻ったのだった。
「今日中に整備しとくか」
作業用のポーチを腰にぶら下げ、スパナを器用に回しながら、彼は古い過去の遺物を引っ張り出した。かつて戦時中に足として使われたその車を彼はせっせと弄り始める。
ただ、この平和な世界においてこの見た目は色々と言われる事だろう。まあ、理事長からの小言だけなら問題ないと彼は勝手に思い込み、作業を進めるのだった。
そして、当日の朝。ハルウララは同室の一流お嬢様の助けもあり、無事に遅刻せずに起床した。なお、一度寝ぼけてパジャマ姿のまま外へ出ようとしたが、これまたキングヘイローの世話焼きのお陰で阻止された。
そして、やっとの事で全ての準備を終えた彼女は忘れ物がないかしっかりと確認しつつ、助けてくれたキングヘイローへ最高の笑顔で礼をすると、寮の入り口まで駆けて行ったのだった。
しかし、入り口には人だかりならぬウマだかりが出来ていた。僅かな隙間を潰されながら通り抜けると、そこには良く知る二人の姿があった。
「……ハイゼンさん? これは一体何ですか?」
「見りゃわかんだろ? 車だ」
明らかに怒気を孕んだ声で彼女のトレーナーに話し掛けているのは、緑色の服装が特徴的なたづなであった。しかし、彼はそんな言葉を何処吹く風と適当な返事した。
「ただの車じゃない、の間違いでは?」
「そう言いてえ所だが、これに関してはマジでただの車だぞ? ちゃんと車検も無理矢……普通に通った。ちょっと見た目が厳ついだけだ」
そんなニヒルな笑みを浮かべる彼の横には、全体的に灰色っぽい厳つい車があった。
俗に言うジープと呼ばれる軍用車なのだが、彼はこれを色々と弄って公道でも走れる様にしたらしい。ちなみに、ドイツ軍の落とし物だそうだ。入手経路は不明である。
「収納式の屋根もある。ちょいと弄って空調も窓も……おっと、悪いな。もう出る時間だ」
彼は良く知るピンク色を目にすると、そう言ってたづなに手をひらひらと動かして適当な別れを告げる。そして、左ハンドルのその車に乗り込んだ。
そして、彼は窓のないドアの上に肘を乗っけて目的の人物に向かって呼びかけた。
「おい、行くんだろ? さっさと乗れ」
「うんっ! 分かったっ!」
彼女は色々と詰め込んだリュックを体の前に持ってくると、その助手席にちょこんと乗り込んだ。ほぼそれと同時に一般的な車と殆ど同じエンジン音を響かせながら、車は発進した。
その後ろ姿を見ていた一人の秘書は大きな溜息を吐いたのだった。
収納式の屋根を持つその車は、かなり厳ついが実質オープンカーの様なものだ。そして、そんな車に初めて乗った彼女のテンションは吹き抜ける風の強さに比例してどんどん上がっていった。
「わあー! 涼しー! すごいねこの車! 屋根も窓も無いから風がすっごく気持ち良いよ! 前の窓も取ったらもっと良くなるかな?」
「おい、ソイツは取ったら警察のお世話になっちまう。レースに出たくねえなら取っちまっても構わねえがな」
「ええっ! レースに出れなくなっちゃうの!?」
「それが嫌なら大人しくしとけ」
その後、彼女がフロントガラスを勝手に取っ払う事などなく、無事に会場まで到着した。だが、肝心の彼女は早起きした事もあり、座り心地の悪いその席でスヤスヤと寝息を立てていた。
調子に乗って飛ばし過ぎたせいか、時間にはまだ余裕がある。彼はため息混じりに屋根を展開し、その鋭くなってきた日射を遮った。そして、冷房を付けたまま飲み物でも買いに出かけるのであった。
それから暫く後、彼の呆れた声で彼女は起こされた。
「おい、寝過ぎだ! さっさと起きろ!」
「あれ……? お空のにんじんケーキは……?」
「テメエは脳みその代わりに人参でも詰まってんのか? さっさとレースしに行ってこい!」
「ああっ! そうだった!」
彼女が急いで車から降りる。そして、会場までとんでもない勢いで走って行った。一応、人だかりをしっかりと避けるようなルートを通っているので、事故は起こらないだろう。
「ったく、世話が焼ける奴だ」
彼はそう呟きながら、いつの間にか火を付けていた葉巻の紫煙をゆっくりと吐いた。会場は完全禁煙だからか、普段より長くその煙を味わっているハイゼンベルク。
結局、彼が会場に入って行ったのはゲートが開く寸前であった。
受付を終えて急いで控室へ入るハルウララ。しかし、備え付けの時計はまだまだ急ぐ時間では無い事を告げていた。どうやら、彼女は勝手に遅刻寸前だと思い込んでいたようだ。
そんな事実にホッと胸を撫で下ろす。
安心した彼女はゆっくりと出走の準備を進めていく。上下とも体操服を着た後、彼に整備してもらった靴を取り出した。
「わあーっ! キラキラしてる!」
昨日は暗くなり始めたせいでよく分からなかったが、良く見てみると蹄鉄は少しだけ金属光沢を放っていた。そして、靴自体もまだまだ綺麗な部類に入る。
そんな、色々と詰まったお気に入りのそれを履き終えた後、彼女はパドックへと向かって行った。
パドックでは出走するウマ娘達が、観客の熱い声援を貰っていた。そして、それはハルウララも例外では無い。
「おーい! ウララちゃん! 頑張ってくれよ!」
「あれっ!? 八百屋のおじさん!? 何でここにいるの!?」
「そりゃあ普段から元気を貰ってるからね。応援ぐらいはしに来なくちゃ!」
八百屋の店主だけではない。肉屋、魚屋などあの商店街に店を構えるそれぞれの店主が彼女を応援するためにやって来ていた。なお、骨董品屋の店主は巨体ゆえに来れなかった様だ。
「よし! アレ出せ!」
そして、彼らが広げたのは一枚の大きな布。そこには達筆な文字で『頑張れ!ハルウララ!』と応援の一言が書かれていた。
そんな彼らの応援は、彼女にこれまでに無い程の力を与えた。胸の中が暖かくなる感覚と共に、彼女は元気良くその声援に応えた。
「みんな、ありがとー!! よーしっ! 今日は絶対一着を取るぞー!!」
花咲くような笑顔と共に、彼女は他のウマ娘達も居る中で大きくそう宣言した。そんな彼女の放った言葉に、商店街の人達は更なる応援の声を送る。
パドック内が彼女の登場で、今まで以上の賑わいを見せる。その様子は、このレースがジュニア級の未勝利戦だと思わせない程のものだった。
だが、肝心の彼女のトレーナーの姿はそこには無かった。
「よーしっ! 頑張るぞー!」
しかし、彼女は目の前の彼らから投げ掛けられる激励の言葉に喜んでいたからか、その事実に気付くことは無かった。
沢山の声援に背中を押され、彼女は意気揚々とレース場へと向かって行った。
まだ、敷居の高いレースでは無いためか、周りの空気はどちらかと言えば緩いものであった。しかし、出場するウマ娘に闘志がないわけでは無い。全員が輝かしい勝利をもぎ取りに来ている。
そんな中、彼女も他の者達と同様にその目にやる気を満ち溢れさせる。そして、前回よりはちょっぴり重くなった靴の紐をしっかりと結ぶと、元気にゲートへと入った。今回のゲート数は8。そして、彼女の番号はゼッケンと同じ3番だ。
実況と共に訪れた沈黙の後、乾いた破裂音と同時にゲートが開く。以前の彼が撃ったものより一回り小さいその音は、彼女の足を勢い良く前へと踏み出させた。
ところが、普段のペースの筈にも関わらず、彼女はどんどん抜かされていく。それもそのはず、このレースにおいて差しウマはハルウララのみ。他のウマ達の作戦が先行と逃げに偏っていたのだ。
彼女を置き去りにして先頭集団は段々と速度を上げる。
置いていかれないように先行組が速度を上げると、それに追い付かれないよう逃げ組がまた速度を上げる。そんないたちごっこが原因で、いつの間にか彼女と先頭集団との差は5バ身以上のものとなっていた。
しかし、彼女は一切掛からなかった。
置いていかれても焦らずに自分のペースを守り続けた。
彼女がこんなに冷静なのは、きっとただの偶然だろう。普段であれば間違いなく先頭集団に追いつこうとして、スタミナを削られている。
最後尾から全員の背中を眺めながら、コーナーへ入る。
体が外側へ引っ張られる感覚を味わいながら、彼女は少しづつ前と距離を詰めていく。序盤で飛ばしすぎた故に、既にバテ始めている者もいるのだろう。形成されていた集団はバラバラに崩れ始めた。
しかし、それでも彼女は1バ身離れて最後尾。そのまま次々とコーナを抜けてラストスパートを掛ける。
もう、最後尾で燻っている訳にもいかない。外側へ大きく飛び出して仕掛けの準備をすると、全身全霊をその脚に込めて加速し始めた。
『ここで三番ハルウララ、仕掛けてきた!』
誰の目にも明らかな凄まじい加速。そのイメージは、不思議と暴走列車に近しいものがあった。
勢いそのままに五つの影をごぼう抜き。残るは先頭争いをしている二人だけだ。鉛色の軌道を輝かせながら、前との距離はどんどん縮んでいく。そして、彼女含めた三人が横並びになった時、暴走のツケがスタミナへと響き始める。
歯を食いしばり、痛む肺に鞭を打ち、何とか前に出ようと試みる。しかし、速度はもう上がらない。だが、それは横二人も同じのようだ。
結局、誰が前かも分からないままゴールへと突っ込んでいく。
息を整えて目の霞が取れた後、彼女が掲示板を見上げると、そこには二番目に彼女の番号が書かれていた。惜しくも一着とはハナ差だったようだ。
「やったやったー! 二着だー!」
しかし、彼女にとって二着でも十分嬉しかったようで。観客席の者達へその喜びを分かち合うかのように、花咲く笑顔で手を振った。結果など関係なくいつでも元気な彼女の姿は、観客に大きな影響を与える事だろう。
そんな中、観客席の出口へ向かう一人の背中を見つけた。薄汚れたコートに鉄槌を持つ観客など彼女の知る中で一人しかいない。そんな、見覚えのある後ろ姿に彼女は大きく手を振った。
当然、コースに背を向けている彼がそれに気付く事は無いだろう。だが、彼がこのレースを見ていたという事実は彼女にとっては大きかったようで、上機嫌に鼻歌を歌いながらライブへと向かって行ったのだった。
「やっと帰ってきやがったか」
車の運転席でのんびりと携帯を弄っていた彼からの第一声はそれだった。だが、ルンルン気分の彼女にはそんな些細な事はどうでも良い事だ。
「ただいまトレーナー! わたしね、今日のレース、二着だったんだ!」
「ほう、テメエにしてはやるじゃねえか」
「だからね、ライブでも前の方で踊れたんだよ! トレーナーも見てたよね?」
「ライブ……? 何だそれ?」
言葉の意味が理解出来ずに困惑するハイゼンベルク。その様子を見たハルウララは驚きの表情を浮かべ、一つの問いを投げかけた。
「ええっ!? もしかしてトレーナー、ウイニングライブ知らないの!」
「ウイニング……ライブだって? 何だ、テメエら勝ったら歌って踊ったりでもすんのか?」
この男、トレーナー業への興味が無さすぎる故に、トレーナーとしての常識すらどっかに置いてきたようだ。
理事長曰く、説明はしたそうだ。きっと、彼の耳に入って脳へ情報が届けられる間に、ぶっ飛んだフィルタリングでもされたのだろう。今頃、情報は螺旋を描いた状態でどっかに保管されている筈だ。
この後、ハルウララの機嫌を直すため帰りのサービスエリアで色々と買わされる事になったハイゼンベルクであった。
???のヒミツ
実はハルウララの事はちゃんと友達だと認識している