太陽がその顔を地平線から完全に出した朝方。トレセン学園は理事長が消えてしまった愛猫を血眼になって探していたり、どこぞのドジ娘が窓ガラスを粉砕したり、少し慌ただしい様子であった。
当然、それを解決するべく駆り出された生徒会のメンバーも同様だ。
少しして、窓ガラス事案の後始末を終えたエアグルーヴはすっかり遅くなってしまった花への水やりをする為に、花壇へと赴いていた。
ジョウロに水を入れて花壇へと持っていく最中、こんな場所に似つかわしく無い存在と出会う。
「珍しいな、貴様がこんな場所に来るなんて」
「何も用が無ければ来ねえ」
「……? 私に用があるのか?」
体と鉄槌がセットになっている男、ハイゼンベルク。彼の発した言葉の意味を素直に受け取った彼女は、用とは何なのかと思案する。
「テメエじゃねえ、そこの奴らだ」
そう言って彼が指差したのは、彼女が世話をしている花壇だった。
「なっ!? き、貴様! 勝手にこの花達を機械化するつもりか!?」
「する訳無えだろ! テメエは俺を何だと思ってんだ! 今やってんのは下見だ!」
大きな溜息を吐き、彼は花壇周辺を見渡す。その黒いフィルター越しの目には、カラフルな花々が映ることは無く、彼のコートの色と似た地面が映っていた。
「まあ、問題無えか」
「待て、一体何の下見だ?」
「あの真面目野郎からの依頼の下見だ。花壇の近くに水道があった方がテメエが便利だろうってな」
「ま、まさか……会長!」
「まあ、そういうこった」
どうやら、シンボリルドルフの厚意が彼への依頼として現れたようだ。エアグルーヴはその労いの気持ちに感極まり、より強い尊敬の念を心に抱いた。
「会長のご厚意、無下にする訳にはいかない……! おい貴様、場所や諸々は私が決めさせて貰う! 特にデザインはいつもの様にはさせんからな! 覚悟しておけ」
「そうかい、じゃあついでに水道管のラインまで決めてくれ」
「それは貴様の仕事だ。言っとくが、手抜きは許さんからな!」
棘のある態度とは裏腹に、その心情は嬉しさに溢れていた。それが影響しているのか、その足取りも軽く、普段なら踏む事もないホースの管も踏んでしまう程。
このままでは、ホースの先で作業中の者が困るだろう。
そう思い、その足をずらした時だった。
彼女の足元のホースの管から、突然大量の水が噴き出したのだ。
幸い、彼女にその流体状の悲劇が降りかかる事は無く、服が数滴の雫に濡らされた程度に留まった。
しかし、何故こうなったのか不思議に思い、自身の靴の裏を確認してみると、蹄鉄の割れ目にスッポリと嵌ったガラスの破片が。
「む、ガラスか……次から気を付けねばな」
この失態を繰り返さないよう、心に刻み込んでいる最中、ホースに空いた線状の穴にどこかの誰かさんの鉄塊がドンッと置かれる。
応急的であるが、水を止めてくれたのだろう。あんな物でも意外な使い道はあるようだ。
「よう、水遊びは済んだか?」
どこか不機嫌そうな声が響く。彼女がふとその視線を上へ持っていくと、そこには全身から雫を滴らせた哀れな男が立っていた。
「なっ……!? す、すまない……大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えるなら眼科にでも行け」
一応、心配の言葉を投げかける彼女だが、返ってきたのはコートから滴り落ちる水音と、彼特有の悪態のみ。
そして、彼は"着替えなんて持って来て無えな……"と小さく呟くと、鉄槌をホースの上に置いたまま何処かへと行ってしまった。
残されたエアグルーヴは暫く呆気に取られ固まっていたが、すぐにホースの元栓を閉めてこれ以上問題が起きるのを防ぐ。
不可抗力な事に加え、相手が相手。多少の無礼など問題は無い筈だが、根が真面目で優しい彼女はちょっとした罪悪感を抱いてしまうのであった。
自身のトレーナー室からタオルを取って来て、濡れた体を拭いていたハイゼンベルク。勿論、そのタオル達の本来の使用用途とは違う事は言うまでも無い。
廊下を汚さない程度に服に付いた雫を拭うと、置いてきてしまった鉄槌を回収するべく歩き出した。
だが、廊下に出た瞬間に彼を歓迎したのは、天井から剥がれ落ちたコンクリートだった。
50センチ四方の塊はゴンッという鈍い音と共に彼の脳天にぶち当たる。彼が石頭なのか、コンクリートが脆くなっていたのか分からないが、コンクリート片は彼の頭の上で見事に半分に割れ、床へと落ちた。
周囲のウマ娘達が想像もしていなかった事態に目を丸くしている中、彼は少しだけ痛そうに頭を抑えながら、眉間に皺を寄せた視線を天井へと向ける。
見事に出来たひび割れからでは、上の様子は分からない。ただ、どこかのお嬢様の様な声が微かに聞こえてきた。
「これで虫は大丈夫ですわ!」
「え、ええ……ありがとう……でも、床にパンチは流石にやり過ぎじゃ無いかしら……?」
どうやら、彼の知らない誰かさんからの意図せぬ攻撃だったらしい。
帽子に付いた灰色の欠片を落とし、彼はどこかうんざりした表情を浮かべながら、何も無かったかの様に平然とこの場から去って行った。
それにしても、幸運である。
きっと、彼の手に例の鉄槌が握られていたならば、当然の様に下から上に報復が飛んでいたに違いない。おまけに、危険な落下物の矛先が頑丈な者だった事は同様に言えるだろう。
だが、忘れてはならない。
この幸運は相対的である事を。
運のパラメータが地に落ちた奴が居ないと成り立たない事を。
鉄槌を回収して、エアグルーヴからの二度目の謝罪を"別に良い"と突っ返し、彼は普段通りに自身の提供した機器類を整備していく。
だが、道中はトラブルの連続だった。
曲がり角で別の者を狙っていた黄金船のドロップキックに巻き込まれたり。
何故か、階段から転がってきた机や椅子に下敷きになったり。
野球ボールが窓ガラスを貫通して側頭部にぶち当たったり。
自身の担当している能天気ウマ娘に後ろから思い切り突っ込まれたり。
まさに踏んだり蹴ったりである。
だが、ある意味鋼鉄レベルに頑丈な彼に怪我など一つも無く。毎回平然と歩いていく様には、プロレス大好きウマ娘も"頑丈にも程がありマース……"と若干引き気味に言葉を漏らしたそうだ。
もはや、偶然と言う敵からの攻撃にも慣れてしまったハイゼンベルク。しかし、そんなとんでも不運野郎の前に現れたのは、神頼みの専門家であった。
「ハッピーカムカム福よこーい!! 話は聞きましたよ! ウララさんのトレーナーさん!」
「話……? 何言ってんだ?」
「え、知らないんですか? 学園内でもう噂になってますよ。運に見放された人が居るって! そんな人、一人しかいないじゃないですか!」
マチカネフクキタルのキラキラとした眩しい瞳が彼へと向けられる。
彼女の話によると、至る所で不運に見舞われている奴の噂が立っているらしい。まだ半日程しか経っていないにも関わらず、この情報伝達の速さは何なのだろう。不思議である。
「そうか、クソッタレな噂話のご提供ありがとよ。じゃあな」
「いえいえ、礼には及びませんよ! それじゃ、お気をつけてー!」
「って違いますよ! 何勝手に帰ろうとしてるんですか!」
手をひらひらと動かして立ち去ろうとする男の背に、一際大きな声が突き刺さる。
「どうせ水晶遊びしてるだけだろ? そんな時間なんてこれっぽっちも……」
前を見ず、自身の背後にいる彼女に気を取られていたのだろう。
彼のずっと前を歩いていた誰かさんが意図せず落とした試験管を見事に踏み付ける。硬い靴底と全体重を乗せられたそのガラスの容器は真っ二つに割れ、中身を大気中へばら撒いた。
そして、いつもの光るだけのお遊び薬かと思いきや、今回のブツは刺激的な物だったようだ。
そう、爆発したのだ。
幸運?にもその爆発の危険域に居たのは彼だけだったようで、周囲を歩いていたウマ娘達はただ単に大きな音に驚かされるだけに終わる。
室内に似つかわしくない爆煙が晴れ、軽い咳と共に彼が姿を現す。
例のブツを踏んでしまった右足のブーツは靴底の鉄板が見える程に溶けて歪み、元々ボロいコートは更にボロくなっていた。
「ああ……クソッ! 誰だ! 地雷なんて仕掛けやがったバカ野郎は!」
下方向に限界突破した機嫌と盛大な勘違いを伴って、彼は悪態をつく。あんなものに巻き込まれたにも関わらず、ノーダメージだったようでピンピンしている。
この一連の流れを見ていたマチカネフクキタルは、以前と変わらぬ悪運が発揮されている事に苦笑いを浮かべつつ、彼の運勢をその水晶玉で勝手に占い始める。
「正直、占った所で結果は分かってるようなものですが……一応見ておきましょう!」
両手を怪しく玉の上で動かして、大凶の二文字であろう彼の運勢を占うが、その結果は彼女の想定より悲惨なものであった。
「なっ……!? なあああああああ!? す、水晶玉があああああ!?」
恐ろしい物を見るような目の先にあるのは、綺麗に真ん中を通る特大のヒビ。
どうやら、悪運を覗く者は悪運に覗かれているらしい。
きっと、透き通った石英の塊では溢れ出る負のオーラを表示するにあたって、些か耐久力が足りなかったのだろう。
そして、この結果から彼女が導き出した答えは一つだった。
「待って下さい!!」
「煩えな、今度はなんだ?」
「今すぐ! お祓いに行きましょう!!」
そう、これは呪いか祟りの類だ。
そうに違いない。
勝手にそんな答えを出した彼女は、眼前の存在から注がれる痛々しい視線をものともせず、このままではどうなるのかを続けて言い放った。
「私の予想が正しければ、あなた呪われてるか祟られてるかしてますよ! きっと、このまま放っておいたら……」
ここは脅しも兼ねて少し大袈裟に言うべきだと判断したのか、彼女の想像できる中でかなり酷いバッドイベントを例として挙げる。
「お気に入りのペンが折れたり、空からガラスが降ってきたり、家に車が突っ込んでくるかも知れません! あと、雷に打たれるかも……! あ、これはちょっと大袈裟ですが……」
「おい!」
「は、はい!?」
溜息と共にドスの効いた声が彼女の耳に突き刺さる。流石に宗教勧誘もどきのような行動に彼もご立腹なのだろうか。
だが、そんな彼女の想定とは裏腹に、彼の表情は理解出来ない物へ向けるそれへと変わった。
「さっきから早口で何言ってるかよく分からねえが、これだけは言っておく! "まだ"雷には打たれてねえ!」
呆気に取られる彼女を横目に、彼は"じゃあな"と一言だけ言い放つと、逃げるようにその場から立ち去った。
正気に戻った後、彼女はゆっくりと彼の言葉を頭で咀嚼して飲み込むと、その表情を真っ青に変える。
「まさか、雷以外は既に……! やっぱり野放しにしておくのは不味いんじゃ……!」
しかし、大いに目立つ彼の後ろ姿はとっくのとうに消えていた。
急いで探そうとした所、何も無い場所で盛大に転けてしまう。
「いてて、転けるなんて縁起が……なあああああああ!?」
立ち上がった彼女の目に映ったのは、地面に転がる透明な欠片達。とてもとても見覚えのあるそれらは、全て合わさればさぞかし見事で綺麗な球体となるであろう。
その正体を理解してしまった故に、悲惨な声を上げる彼女。
なお、この日を境に一週間程おみくじで凶しか出なくなったのは言うまでも無い。
定期点検も終わり、もうすぐ帰ろうとした時、いつもなら眩しい夕日がその鳴りを潜めていた。廊下の窓から外へ視線を向けると、分厚く黒い雨雲が空を覆っている事に今更ながら気が付く。
もうすぐひと雨降りそうだと彼がぼんやりと思っていると、その思考を天が読み取ったかのようにポツポツと大粒の雫が地面を叩き始めた。
そして、瞬く間に小雨はバケツをぶちまけたかの様な豪雨と化す。
「……クソッタレ」
非常に不満げな溜息を漏らすと、彼の足は半分物置と化しているトレーナー室へと向かう。
生憎、今日は歩きの様だ。
ガチャガチャと何を弄っているのか分からない音の後、彼は手に黒い傘を持って部屋から出てくる。どうやら、以前置いていった物がまだあったらしい。
今日の彼には珍しいちょっとした幸運だった。
迷わず真っ直ぐ外に出て、実は穴が空いていないか、傘の骨が折れてたりしないか、念入りに確認した後、彼は傘をさして歩き始める。
急な雨に雨具を持っていない者が多い中、彼はちょっとした優越感に浸りながら、防水性能の無くなった靴で学園の出口へ歩んで行く。
もうすぐ出口と言った所で、彼の視界に映ったのはどこか見覚えのある真っ黒な猫であった。
「不幸の象徴が見送りか……笑えるな」
一部ではそう呼ばれるであろうその存在は草木の下で雨宿り中の様だ。だが、頼りないその雨具は絶賛雨漏り中のようで、葉を伝い落ちる雫がその背中を濡らしていた。
寒さ故に震えているその小さな存在を見て、彼の顔に同情の色は無い。むしろ、どこかほくそ笑んでいる様だ。
「じゃあな」
猫の発した小さな声は、彼の湿った靴音にかき消される。きっと、聞こえてないのだろう。
だが、彼の歩みはたった一歩で静かに止まった。
その視線は、防水性能の無くなった靴から湿りっぱなしのコートへと移っていく。そして、未だに乾いていない上着に触れた後、彼は小さく呟いた。
「今更……変わんねえか」
雨が降り始めてから約一時間後、一筋の雷光と共に天から流れ落ちる雫はピタリと止んだ。
雲は未だ空を覆ってはいるが、その後ろから茜色の光が透けて見える事から、分厚くは無いのだろう。
そんな中、少し疲れた様子の理事長の元に吉報が入る。
「理事長! ついに見つかったそうですよ!」
「何ッ!? それは本当か!」
朝から探していた自身の愛猫が見つかったと知り、理事長はホッと安堵の息を吐く。その様子に、たづなもどこか安心そうである。
「懸念ッ!! 先程の大雨! 風邪でも引いていないか心配だな……」
「あの、それがですね……」
たづなは何かを彼女の目の前に持ってくる。不思議そうな表情と共に差し出されたそれは、一本の黒い傘だった。
「どうやら、これが開いたままで置かれていたそうで、余り濡れてはいなかったそうですよ」
理事長は彼女の手からその傘を受け取る。ハッキリ言って、どこでも売られているであろう物。少し使い込まれている事以外は対して特徴も無い。
「うむ……この者にお礼ぐらいは言いたいが……」
「誰の物かは……分かりませんね」
互いに首を傾げる二人が最終的に出した判断は、せめて傘だけでも返すべきだろうとの事だった。
結局、暫く元の位置に傘を置いてみる事になり、もしずっとそのままであれば処分という流れになった。
次の日の朝、置かれたはずの傘はその姿を消し、代わりにあったのは歪な足跡。
それはまるで、抉れたブーツの様であったそうだ。
黒い傘
親切な誰かが猫の為に置いていった物。
不幸の象徴に傘を差し出すその行為からして、その者には幸運など必要無いのだろう。