悪くねえ 大したもんだ ハルウララ   作:黒チョコボ

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大嵐

 

今日の天気はお日様が隠れる曇り空。だが、いつもと違うのはその雲が凄まじい速度で彼方の方向へ飛んでいく事と、天気予報がいつもより慌ただしく感じる事だろう。テレビの中の者が言うには、今晩は嵐のようだ。

 

気圧も気温も何もかもが大きく変動するせいか、今日は体調が優れないものが多いようだ。そしてそれは、いつも元気な彼女でさえ例外では無い。

 

「ううっ……なんか頭がガンガンする〜」

 

「だったら、俺のこと追っかけ回してんじゃねえ。寮に戻って寝てろ」

 

「うーん……わかった〜」

 

どこかフラフラな様子のハルウララ。今の彼女の姿には、覇気などこれっぽっちも感じない。そんな違和感にハイゼンベルクも気付いたのか、少しだけやんわりとした言い回しで帰れと言い放つ。

 

普段であれば、そんな事を言われても帰るはずないのだが、今日の彼女は大人しく寮へと戻って行った。

 

その背中を見送った後、彼はいつも通り学園での作業をさっさと終わらせると、正門まで足を運ぶ。そして、おもむろに懐から葉巻を取り出して、流れるように吸い口を切る。

 

「いや待て……まだ早え」

 

何故か最近、至福のそれを吸う前に没収される事が多いと感じた彼は、学園の敷地内から完全に抜け出すまでシャツの胸ポケットの中に入れておこうと考えたようだ。

 

仕舞い終えると同時に、誰かが凄まじい勢いで此方へとやってくる。予想通りとほくそ笑む彼だが、その人物は生徒会の者では無かった。

 

「居ましたわ! 貴方を探していましたの!」

 

「誰だテメエ?」

 

突然やって来たとあるウマ娘。見覚えのある毛色を携えたその者は口調はしっかりしている反面、見た目は少し幼く感じる。

 

「申し遅れましたわ! わたくし、メジロマックイーンと申します! ハイゼンベルクさん、貴方に折り入って頼みたい事があって声を掛けさせて頂きましたわ!」

 

「……あの黄金虫の差金か?」

 

凄いテンションで畳み掛けるような会話。何故か知っているこちらの情報。思わず彼の脳裏に浮かんだその姿はあの問題児であった。

 

「ここに居やがったか!」

 

噂をすればなんとやら、頭の中で思い描いた姿そのままに問題だらけの黄金船は猛ダッシュをしながら現れた。だが、その表情にいつもの余裕は無い。

 

「くっ! またしても貴方ですか!」

 

「工場長! アタシが取り押さえとくからさっさと逃げろ! レース終わったせいで闘牛みてえに暴走してんだ!」

 

「何言ってんだ?」

 

ゴールドシップは勢い良くメジロマックイーンへと飛び付くと、彼女を何とか拘束しようとしている。何も分かっていない彼は、ただただ怪訝な顔を浮かべて見学するしかなかった。

 

そうして取っ組み合ってる内に、黄金船の脇腹に彼女の肘が直撃してしまう。何とも言えない呻き声と共に沈没するその船を確認すると、彼女は彼に向かって真剣な眼差しを向けて話し始めた。

 

「貴方……作れるんですの? あの機械を!」

 

「……どの機械だよ?」

 

「アレに決まってますわ! 走るだけでスイーツが作られるという素晴らしい機械ですわ!」

 

「おい待て、何だそれ?」

 

彼は数々の機械を作ってきたが、そんな物作った覚えも、聞いたことも無かった。今、彼の被る帽子の中はクエスチョンマークで一杯だろう。

 

「あー、アレだオッサン。前ウララに作ったやつ」

 

そんな疑問の回答は地面から返ってきた。

 

「おい、アレはただ凍らせるしか能のねえ箱だ。悪いが、テメエの言ってるようなモンは一度も作って無え。分かったらさっさと帰りやがれ」

 

「では、どうしたら作って頂けますの?」

 

「……」

 

その目も耳も、何もかもが真剣そのもの。何が彼女をそんなに突き動かすのだろう。それよりも、このしぶとさを垣間見るに、彼がそれを作れないという結論にどう足掻いても至らなそうである。

 

とうとう面倒になった彼は、とある場所を指差してこう言った。

 

「あのゲームを攻略出来たら考えてやるよ」

 

個人的に気に入っているのか、未だに解体していない凶悪お化け屋敷。彼の指先は確かにそこへ向いていた。

 

越えるべき目標を指定され、その目に炎を宿す彼女とは対照的に、地面に這いつくばる黄金虫はその顔をこれでもかと蒼白させていた。

 

「分かりましたわ! こんな子供騙し、メジロ家の者に通じない事をお教えして差し上げますわ!」

 

「待て!! 早まるなマックイーン!!」

 

今にもそこへ向かおうとする彼女の足を、ゴールドシップは必死の形相で捕まえる。

 

「ゴールドシップさん! 何故貴方はこうも邪魔ばかりするのですか!?」

 

「いいか、良く聞け。この取引は釣り合ってねえんだ!! 仮にオマエがアレをクリアしてあのぶっ飛んだオッサンに作って貰えたとしても、あそこに飛び込むのは"割りに合わねえ"んだよ!!」

 

「釣り合って無い……? つまり、二つ作ってもらえる可能性もあるという事ですの!? なら、誰かにこの権利を取られないよう急がねばなりません! さあ、行きますわよ! ゴールドシップさん!」

 

「えっ……? 待て待て待て! アタシは行くなんて一言も言ってないぞ!!」

 

首根っこを掴まれ、あの怪物の家へと引き摺られて行くゴールドシップ。まるで、何処かのホラー映画のワンシーンのようだ。

 

「工場長! いや、ハイゼンベルク! 頼む、一生のお願いだ! アタシを助……」

 

精一杯の命乞いは閉じるドアの音に掻き消された。悲しきかな、仮にそうで無かったとしても、彼が行った行為は彼女へ手を差し伸べる訳でも無く、スイーツに目が眩んだ哀れな者を説得する訳でもない。ただただ、目の前の光景を鼻で笑う事だけなのだから。

 

面倒な奴らが二人まとめて片付き、ようやく学園の敷地外へと向かう事が出来る。そんな事実にホッと一息付くと、後ろへと雑に手を振りながら歩みを進める。

 

「じゃあな、俺は先に帰るぜ能天気……」

 

何も考えず口に出した言葉。言い終えるよりも先に彼はハッとして自身の後方へ目を向けた。その視界に映るのはピンク色の影では無く、無機質で凛々しい校舎だけ。

 

そして、返事などある訳もなく、ただただ不思議と虚しさの残る沈黙が立ち込めていた。

 

「……調子狂うぜ」

 

何故だか、吸いたい気分じゃなくなった。

 

そんな、理由も分からぬ気持ちの変化に流されるまま、何もする事なく彼は工場へと帰って行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吹き荒ぶ風、滝のような豪雨。時刻はまだ夕方にも関わらず、窓に映る世界は夜のように暗い。空を覆い尽くす黒々しい雲は傾いた日が僅かに光を見せることすら許容しないようだ。

 

ガタガタと窓とドアを震わせるその様子を見た理事長は、今日中に限り全校生徒へ室内での待機命令を発令した。まだ定められた危険域では無いが、これから更に強くなるとの予報がある故に、そのような判断を下したのだろう。

 

そんな事もあり、学園の校舎は手早く閉められ、それぞれが寮か自宅へと戻る事となった。

 

「ウララさん、体調はもう大丈夫なの?」

 

「うんっ! たぶん大丈夫だよ!」

 

「うーん……なら良いのだけれど」

 

理事長命令で寮へと戻ってきたキングヘイローは、寮の共有スペースにあるフカフカのソファで休むハルウララに心配そうな表情で話しかけた。

 

返ってきた答えは一応の安心を得られるものだった。だが、その笑顔はいつもとは何か違うように感じたのか、彼女の脳裏にかすかな不安がよぎる。

 

「ねえねえキングちゃん! なんか今日の風すっごいよね! もしかしたら、空飛べちゃうかも!」

 

「冗談だと分かってはいるけど一応言っとくわ……ウララさん、絶対外に出ちゃダメよ。"飛ぶ"じゃなくて、"飛ばされる"わ」

 

「うんっ! わかった!」

 

彼女は流れるままにハルウララの隣へと腰掛ける。柔らかな感触が背中や腰を覆い、気が抜けたようにホッと息を吐いた。

 

これから、この天候はどうなるのだろうかと気になった彼女は、卓上に置かれているリモコンを手に取るとテレビのチャンネルをニュースへと変える。

 

「嘘……まだ強くなるみたいね」

 

番組のスタッフがレインコートに身を包んだまま、必死の形相でマイクへと語る。そんな語り口調の後ろでは、見知らぬ店の看板が強風に剥がされて飛ばされていた。

 

テレビはそのまま悲惨な現状を次々と映し出す。根本から折れた木や曲がった標識。そして、ボロい小屋の屋根がなす術なく剥がされる瞬間。

 

思わず、苦い顔を浮かべるキングヘイロー。見ていてあまり気持ちの良いものではない。気分の上がるチャンネルへと変えようとした時、隣から聞いた事もない不安そうな声が彼女の耳に入ってきた。

 

「トレーナーの家……飛ばされちゃう! 助けないと!!」

 

「ウララさんっ!?」

 

唐突にハルウララは立ち上がり、寮のドアから外に飛び出した。彼女は先程交わした約束を破ってまで、行くつもりなのだ。あの場所に。

 

このまま行かせれば、彼女の身に何があるか分からない。室内に入ってきた強風に一瞬怯むが、それを強引に押しのけてキングヘイローはその後を追う。

 

「そんな……! ウララさん! ダメよ! 戻って来なさい!」

 

全力で走った。

 

一流の己が持つ力を全て出し、彼女を捕まえるつもりだった。

 

だが、その背中は異常な程に速かった。グチャグチャになった地面に付けられる足跡は、先程の彼女からは考えられない程に力強かった。

 

桃色の軌跡を追って向かった曲がり角。何も考えずに飛び出し、痕跡を見逃さんとその目を見開く。

 

不安に満ちたその瞳に映ったのは、春の過ぎ去ったいつもの道だけだった。

 

 

 

 

 

 

誰もいない道を猛スピードで駆けていく一人のウマ娘。髪も服も尻尾も豪雨によってずぶ濡れだ。飛んできた物に当たったのか、それとも転けたのか、その足と腕を伝って赤いものが滴り落ちる。

 

靴の全体が浸る水溜りを思い切り踏み抜いて、彼女はようやく辿り着く、工場へ至るその道へ。

 

何度も転けそうになりながら砂利道を走り、倒木で壊されたフェンスゲートを何とか潜り抜け、ハルウララはその視界に工場を収める。

 

外に立ち、飛び回る機械に指示を出す工場長。どうやら嵐はスクラップの山々が消えた腹いせに、工場の屋根を剥がそうと躍起になっている。何度か雑に修繕した箇所がその被害をもろに受けていた。

 

「ぜえっ、ぜえっ、ぜえっ……トレーナー!! 大丈夫!?」

 

「……!? お前、何でここにいやがる!?」

 

今まで見た事もない、ハイゼンベルクのその表情。驚愕の色に染まり切ったその顔を前に、ハルウララは己の目的を言い放つ。

 

「わたし、トレーナーが危ないって思って助けに来たんだ!」

 

「冗談だろ……? ったく、色々言うのは後だ! とりあえず、俺の所は何も問題ねえ! 分かったか!」

 

「トレーナー大丈夫なんだね! ふぅ……よかった……」

 

崩れた体調に怪我、疲労。濡れて冷え切った体に鞭を打ち、ここまで殆ど休憩無しで走って来た彼女の心に、安堵という安らぎがもたらされた。

 

そして、その安らぎは極限状態の彼女の意識を容赦なく奪い去る。

 

「お、おい!?」

 

前に倒れ込むハルウララ。異変を感じ取った彼が咄嗟に受け止めた、その小さな体は厳ついその表情を歪めさせる程に冷え切っていた。

 

「ああ、クソ! 手間が掛かる野郎だ!」

 

焦りを含んだ悪態を吐き捨てて、彼は彼女を担ぎ上げる。半ば走るようにして室内へと運び込むと、適当な椅子に彼女を座らせた。

 

そして、大きなタオルで大雑把に体を拭いた後、ドライヤーか何かで全身を乾かしてやろうと考えていた最中、轟音と共に全ての光が消え去った。

 

「……雷が降るなんて聞いてねえぞ」

 

苦虫を噛み潰したような顔で悪態を吐くハイゼンベルク。そのままじっと何かを待つ素振りを見せるが、世界は一向に暗いままだ。

 

「非常用電源がイカれやがった! この前点検したばかりじゃねえか……! クソッ!」

 

彼の運の悪さは未だ健在。追い打ちとばかりに、天井の補修した部分が嫌な音を立てて飛んで行く。そして、バケツをひっくり返したような水が、空いた箇所から降り注いだ。

 

「……向こうに行くしかねえ」

 

節々に焦りが見えるが、その思考は冷静さを欠いてはいない。穴から暗い空を見上げながら、彼は今の半分壊れかけの工場に居るよりかは、学園の寮か校舎に居た方が全然マシだと判断した。

 

顔色の悪いハルウララへ色々と被せた後に、彼は彼女を背負ってその足を学園へと向ける。車は倒木と冠水で使えない。かと言って、ただでさえ濡れて冷えてしまった彼女を再び雨の中に晒しながら行く気は無い。

 

名案が思い付けば良いのだが。

 

その最中、彼の鋭い目にとある物が映りこむ。傘立てに置かれたただのビニール傘。だが、この嵐の中で傘などさしてみろ。一瞬にしてお天道様の供物となる。

 

しかし、それを見た彼の脳裏に浮かんだのはそんなちっぽけな考えでは無かった。

 

「そうだ……雨の日は傘をさす。だったら、俺もそうすりゃ良い……クソほどでけえ傘をさせば良いだけの話じゃねえか!!」

 

嵐への慟哭と共に、彼の左手が天を仰ぐ。

 

鋼の号令に応じた鉄屑共が次々と渦を巻き、左手の向く空へと浮かび上がる。だが、これではまだ足りない。

 

「いや、傘なんて小せえスケールじゃダメだ! そう……ドームだ!! ドームをさせば風も雨も関係無えよなぁ!!!」

 

歯を食いしばり、充血した目を携えてなお、鉄屑達の踊りは終わらない。工場はおろか、周辺の土地、そして町全体まで、波紋の如く伝搬したそれは文字通り天を覆い尽くす。

 

 

 

 

 

 

そして今日この瞬間だけ、この町と世界が分たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学園の寮のとある一部屋。濡れた髪を乾かすキングヘイロー。ドライヤー片手に浮かべるその表情は一流に相応しいものでは無い。

 

彼女は結局、自身に危険が及ぶギリギリの時間帯までハルウララを探していた。追う相手の行き先は決まっていた筈だが、うろ覚えの道を行くにはこの嵐は危険過ぎたのだ。

 

表情は確かに一流では無いかもしれないが、友人を想う彼女の行動は間違いなく人として一流と言える。

 

「ウララさん……無事で居てくれれば良いのだけれど」

 

ずぶ濡れになった服から着替えた彼女は、そんな心配を胸に抱えながら湿った髪を乾かしていた。

 

そんな、ぼんやりとしていた彼女を叩き起こしたのは、耳をつんざく雷の音と一瞬にして消えた部屋の電気だった。

 

「嘘、停電!?」

 

ライトのスイッチを幾ら押しても、その明かりが灯る事は無い。彼女は仕方なく携帯のライトをオンにした。そのついでに、友人からの慌てた連絡に返信していると、彼女の耳は大きな違和感を感じ取った。

 

さっきまで煩く自己主張していた雨と風がやたらと静かになっている。この部屋に響くのは彼女の呼吸の音のみだ。

 

「どう言う事? 雨も風も止んだのかしら? それにしては……不自然ね」

 

予報を完全に裏切るかのような天候を不自然に感じた彼女は、窓を開けて外へと顔を出す。

 

「完全に停電してるわね……見渡す限り真っ暗だわ」

 

雨も風も無い外。しかし、そこにあるのは地平線まで広がる闇。当然ながら上を見ても星など見えない。まあ、今は大人しくとも嵐は嵐なのだ、きっと星々は雲に隠れているのだろう。

 

そんな事を思いながら上を見ていたら、頬に大粒の雫が当たる。嫌な予感に頭を引っ込めて窓を閉めたところ、強烈な風と雨が窓を叩いた。

 

どうやら、嵐は息を吹き返したようだ。

 

未だ付かぬ照明とまた煩く騒ぎ始めた嵐に、溜息を吐くキングヘイロー。そしてまた、戻って来ない彼女を思い浮かべていると、窓を風でも雨でも無い何かに叩かれた。

 

「っ……!? き、気のせいよね?」

 

精神的にも肉体的にも疲れているのだろうと思い込もうとしたが、再びコンコンと叩かれる窓にその目論見は阻止されてしまう。

 

気味が悪く、無意識に窓から離れる彼女。やたらと煩く感じる心臓を抑えようとするが、手も触れていないのに勝手に開く窓の鍵の音がその緊張を最大限まで高めた。

 

だが、窓が開いて入ってきた影は想像していたものより些かマシな者であった。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……! 邪魔するぜ……!」

 

聞き覚えのある威圧的で低い声。本来ならここでは無く工場に居るはずのその人物。ハイゼンベルクが息を切らして窓の縁に腰掛けていた。帽子もコートも着ていないびしょ濡れの状態故に、一瞬誰なのか判別が付かなかった。

 

「う、ウララのトレーナーさん!? どうしてここに……というか、ここは男性の方は入れない筈よ!」

 

この暗闇の中で不気味に映える真っ赤に充血したその瞳。知っている人物の筈なのに、まるで得体の知れない何かと出会った時と同じ感覚を胸に覚える。

 

「だから忍び込んできたんだろうが……! ったく……ほらよ、ポンコツ野郎のお届けだ」

 

だが、当の本人はそんな彼女の感情など露知らず、背負った何かをこちらに差し出した。

 

「ウララさん!?」

 

背負われていたのは彼女がこれでもかと探していたハルウララ。大きなタオルと彼のくたびれたコートに巻かれ、頭には雨避けの為であろう帽子が被せられている。

 

「にんじん……いっぱいだあ〜……」

 

心地良い温もりを放つ彼女を抱き抱えると、思わず気の抜けるような言葉がその口から放たれる。どうやら、ぐっすり寝ているようだ。そんな彼女の温もりとは裏腹に、彼のコートと帽子は濡れて冷たくなっていた。

 

「その能天気野郎が起きたら言っとけ、コートと帽子は乾かして返せってな」

 

「ええ、分かったわ」

 

ベッドに彼女を寝かせ、上から毛布をかける。幸せそうな夢でも見ているのだろう。その口端から涎が垂れている。

 

そして、適当にティッシュでそれを拭き取ってあげたキングヘイローが再び窓の方へと目を向けた時、そこに彼の姿は無くご丁寧に鍵まで閉められた窓があるだけだった。

 

 

 

「……待って、鍵が閉まってるのもおかしいけれど……あの人、どうやって来たのかしら? だって、ここは一階じゃないわよ!?」

 

 

 

大きすぎる違和感に彼女は窓まで駆け寄ると、風も雨もお構い無しにそれを開け放つ。停電を乗り越えた世界が夜を再び明るく染める中、眼下に広がる遠い大地。

 

しかし、そこに見えたのは、豪雨と暴風で荒れ果てた地面を歩く男の姿と、欠けた歯車などの鉄屑が不自然に転がっている様子だけ。

 

彼女の問いの答えなど、どこを見ても在りはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「流石に……やりすぎたか……」

 

その表情を不快に歪めたハイゼンベルクは雫に肩を乱暴に叩かれながらそう呟いた。

 

身体中に走る倦怠感。まだ学園の敷地から出ていないのにも関わらず、己の足はその仕事を放棄したがっている。しかし、不思議な事に今の気分は最悪では無い。完全にずぶ濡れになって吹っ切れたからだろうか。

 

「葉巻でもありゃ良かったがな」

 

何故だか葉巻を吸いたい気分になったのか、彼は残念そうに溜息を吐く。今頃、葉巻のケースは工場で良い香りを放っているだろう。

 

無いと分かっていながらも、懐を探ってしまうのは人の性。だが、今回ばかりはその性が功を成す。

 

「……っ! そうだよな? わざわざずぶ濡れになったんだ。少しぐらいツイてなきゃ計算合わねえよな?」

 

胸ポケットから出て来たのは、既に吸い口の切られた葉巻だった。しかし、ずぶ濡れのシャツに入っていたからか、それも同様に濡れている。

 

「まあ、付かなくてもいいか」

 

咥えているだけでも吸っている気分にはなれる。そんな妥協案を思い浮かべながら、彼はオイルライターの灯火を葉巻へと近づけた。

 

「っ!? なるほどな、"葉巻が付いたが運の尽き"って所か? どっかの真面目野郎が喜びそうだ」

 

なんと、一部分はまだ完全に濡れてはいなかったようだ。弱い燻りではあるが、それの先端には確かに愉悦の火が灯っている。今日の運勢はツイているだけでは無く、ツケてもくれるらしい。

 

幸運の女神でも背負ったのだろうか?

 

彼は学園の敷地から一歩外へ出ると葉巻を咥え、その煙を燻らせる。口端の上がったその表情のまま、彼の視線は天を仰ぐ。

 

 

 

何となく、過去を思い起こさせる天候。瞬間的に浮かぶ光景。そして彼は、自身を皮肉るかのように呟いた。

 

 

 

「今の俺だったら、テメエを言いくるめられたかもな……そう思わねえか? イーサン・ウィンターズ」

 

 

 

そんな小さな呟きは誰の耳に入ることも無く、ただただ雨と風に流されて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日、ハルウララからコートと帽子はしっかりと返ってきた。乾かすだけで良いと言ったのにちゃんと洗ってきたようで、彼に似合わない花の良い香りがコートと帽子から漂う事となった。

 

なお、ハイゼンベルクはクリーニングの概念を彼女に教えなかった事に後悔したという。

 




濡れた葉巻
先端に火の灯った跡のある葉巻。大雨で大部分が濡れている。

この葉巻と同じように、かつて彼に注がれた愛情の殆どは湿気って使い物にならない偽物だ。
偽物しか知らぬ者が本物のそれを理解するなど出来ようものか。ましてや、親が子に向けるものなど尚更そうであろう。
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