なんの変哲も無いある日、ハイゼンベルクは一本のうるさい桜と一緒にとある競バ場へ訪れていた。
それもそのはず、今日はG3レースの開催日。出走者は勿論ハルウララ。トレーナーとウマ娘の二人三脚という関係上、基本的にレース時は彼も同行するのが当然である。
だが、戻って趣味やら何やらに取り組みたい彼としては、それは完全に呪いのようなものである。まあ、今までの経験全てを含めればそんなものの拘束力など大した事は無いのだが、同行しなかったらしなかったで色々とお小言を理事長や秘書、そして彼女のご友人からも頂く事となる為、最終的に見れば大人しく行くのが一番時間が取られない最善の方法だった。
そして何より、設計図の前で唸っている自身の周りをあーだこーだ言いながらグルグル回るのはもう勘弁願いたいと言うのが本音である。
なお、その回数は十回を優に超えている。
「やったー! レースだ! トレーナー連れて来てくれてありがとね!」
「礼なんてそこら辺に捨てて、テメエはさっさと行って来やがれ」
少々暑く感じる気温の中、ハイゼンベルクはハルウララの顔面にキンキンに冷えたスポーツドリンクを押し当てる。そんな物理的にも心理的にも冷たい渡し方をされた彼女は、"うひゃあっ!"と変な声を上げながら水滴塗れのそれを受け取った。
「じゃあ行ってくるね!」
「ああ」
愛想の無い送り迎えを済ませた彼は適当な木陰にその身を滑り込ませると、懐から例の嗜好品を取り出した。
上品な葉っぱの香りが鼻腔に届く。
たったそれだけで彼はその仏頂面に笑みを浮かべ、流れるように吸い口を切り火を付けた。
彼の立つ場所の真後ろに、タバコマークに斜め斜線が入った看板があるように見えるがきっと気のせいだ。もしそうで無くとも、彼の周囲には誰もいないので害は無いだろう。
それに、何か言われたとしても、彼は葉巻だからセーフ理論をかましながら何処か離れた場所へ移動するだけである。
そうして、何に向けられたか分からないその笑みを浮かべて彼はいかにも興味無さそうに呟いた。
「まあ、期待しないで待つとするか」
彼のそんな戯言は良い意味で裏切られる事となる。
Gの文字が付くだけあって、レベルも観客の数も中々にある今回のレース。席を埋め尽くし熱狂する人々の背後で静かに立つ一人の男は、眼下に広がるレース場と電光掲示板に映る表示を見て、ただただ唖然としていた。
「……冗談だろ?」
掲示板に映り込む一位の番号。そして、二位との間に表示される七という数字。いくら彼がレースに興味が無かったとしても、何となく理解出来るその意味。
「「「うおおおおおおっ!!」」」
熱の篭った人々の叫び声と、ひたすらに冷静なハイゼンベルクの視線の先には、一番先頭で周りに手を振るピンク色の影。
嬉しさの余りにピョンピョンと可愛らしく飛び跳ねるその姿は、観客席の者達の心の炎をより一層激しく、熱くさせ、この一つの箱庭を盛大に盛り上げたのだった。
人々の熱が冷めぬ内に始まるのは、ウイニングライブ。レースの勝利を際立たせるそれは、一部のウマ娘にとっての憧れでもある。もはや、競バと言えばこのライブもセットである事は一般常識なのだが、そんな常識にずっと意を唱え続けている捻くれ者がライブ会場の入り口近くに現れる。
「毎回思うが……何でライブなんて面倒なもんやるんだ? 理解出来ねえな」
ウマ娘達の晴れ姿が見えるステージから最も遠いその場所で、ハイゼンベルクはこの世界の誰にも伝わらぬ呟きを吐く。
重低音溢れる音楽に合わせて踊り始める桜色の姿より、その周囲に広がる演出用の仕掛けがどうなっているのか見てみたい彼だが、見てないと後から彼女にうるさく付き纏われること間違いなしである為、仕方なく興味とは真逆に染まったその瞳をステージへと向けた。
完璧とは言えない粗が目立つそのダンス。それでも、彼女の健気な元気さと可愛さがそんなダンスを一流のファンサービスへと変身させる。ファンの数が成果に対して多いのも、そんな裏側があるのだろう。
だが、そんな元気さがあっても流石にダンスの技量まではカバー出来なかったようだ。
『うわわっ!』
スピーカー越しに聞こえるそんな声。普段のポンコツぶりが鳴りを潜めていると思ったら、こんな肝心な場所でその姿を現したらしい。
きっと、下に落ちても死にはしない。ファンの人達も警備員も居るのだ。間違いなく受け止めて貰えるだろう。だが、演出者としては大きなミスである事は間違いない。
そして、毛色は違えど彼も演出を知る者だ。この後、この空間の雰囲気がどうなってしまうのか分からない訳ではないだろう。
「……手間掛けさせやがって」
この場の空気が居た堪れない状態になるのを嫌ったからか、それともあの桜の花びらが地に落ちるのが気に食わなかったのか。その真意は不明。
ただ確かなのは、誰にも読ませる気の無い心に押されるようにして、彼はまるで照準を合わせるように己の人差し指を軽くハルウララへと向けた事だけだった。
会場は盛り上がりを孕んだ響めきに包まれた。
本来なら、歓声や音楽で騒がしいウイニングライブ中では特に珍しい事ではない。だが、そんな観客達の熱狂を一瞬だけピタリと止めたその光景は、これまで続いてきた競バの歴史書に一度も載っていないであろう泡沫の夢であった。
彼らの瞳が見据えた先にあるそれは、今回一着を取ってこのライブのセンターポジションを獲得した桜色のウマ娘、ハルウララ。
健気に躍るその者が、疲れた足を動かしすぎたのか見事にふらつき、床の無いステージ外の暗闇へと無謀にも足を踏み出してしまった。
ステージと観客席にある高低差は怪我をするには十分すぎる。だが、彼らがその可憐な花びらを受け止めるには仕切りのフェンスが邪魔であった。それ故に、彼女を止められる者は誰一人として居なかった。
だが、彼女の身が無様に地面に落ちる事は無かった。
その身は、その足は、既に宙へと踏み出されている。
しかし、彼女の体が落ちる事は無く、黒一色のその空間を確かに"踏んでいた"。
「お、おい……! 見ろよ、浮いてるぜ!?」
「うん? 良く見えねえ、見間違いじゃねえのか?」
誰もが気付くその現象。近くの観客達だけならまだしも、当の本人でさえその表情を驚きに染めている。
『何これ!? わたし浮いてる!』
マイク越しの一言で観客全員の視線を奪った彼女。そして、彼らの目の前にも関わらず、彼女はそのまま常軌を逸する行動を始めた。
「見間違いじゃねえ……! あの子、空中を……空中を走ってるぜ!?」
本来なら、偶然にも落ちずに済んだ片足をステージ上へ引っ込めるのが本能的行動であろう。この魔法が暫く解けない保証などどこにも無いのだから、正常な判断である。
だが、先を見ず、恐れを知らず、何よりこの現象に何故か少しばかりの慣れを見せた彼女は、正常なそれをワクワクという名の楽しむ心で捩じ伏せたのか、その足を一歩前へと踏み出したのだ。
「ヤベエ! 俺こんなの初めて見た!」
「見た事ない演出だ……」
「空駆けるウマ娘……? 良い記事が書けそうです!」
観客席の上までも、ライブのステージと言わんばかりに駆け巡り、踊り、舞う。童心を忘れぬその行動を見た彼らは己の心の中に浮かび上がった景色を、現実と重ね合わせるかのように幻視した。
春風に飛ばされた大量の桜が空を埋め尽くし、青色のキャンパスを彩る。
そして、広場の真ん中で華やかな空を背景に、渦を巻く花びらと遊ぶ彼女。
儚さと美しさの裏側で何もかもを楽しむ子供の心が蘇る。
そんな、幻想と現実を混ぜ合わせた光景は、目の前に現れた非現実を楽しみとして受け入れる、大きな心を彼らに与える事となった。
もはや、これがただの演出か、それとも魔法か。そんな二択の疑問さえ頭に浮かべるのが億劫となった彼らはハルウララと同じようなワクワクの心を以て、大きな歓声を上げたのだった。
ライブが終わり、各々が帰路に着くであろうその時間。レースで疲れた体を風に吹かれる木の葉のように伸び伸びとさせたいと思うタイミング。だが、そんな願望虚しくハルウララは記者やファンに囲まれて、身動き取れなくなっていた。
Gを冠するレースでの勝利と、ライブでの非現実的な一件が、これまで以上に彼らを強く惹きつけたのだろう。
「おめでとうございますハルウララさん! お聞きしたいのですが、先程のウイニングライブでの動きは演出なのですか?」
「えーっとね、わかんない! 何かね、前みたいにわーってやったらできたんだ!」
「……あ、ありがとうございます」
案の定、先程の演出が予め予定されていたものなのか聞く者が現れる。だが悲しきかな、空飛ぶウマ娘本人でさえアレが起こった理由は分からない。
それ故に、返された答えはハルウララの可愛さが前面に押し出された擬音だらけの何かであった。
しかし、記者達はその中からある一つの情報を読み取ったようだ。
「"前みたいに"と言う事は、以前も同じ様な事があったのですか?」
何かこのタネが掴めるかと期待するその表情。だが、そんな感情を裏切るかのように彼らの耳に入ったのは先程よりも理解の及ばない不思議な文言だった。
「うんっ! あのねあのね、トレーナーがいつも居る場所にね、すっごくおっきいお化けさんが居たんだ! それで、お化けさんに遊んで貰った時にさっきみたいに空飛んだんだよ!」
「お、お化け……? あ、ありがとうございます」
脳内の思考回路を掻き回された記者達。ショートを起こして頭から火花が散っている者達を押し退け、まだ正常な者達が彼女へと質問を投げ掛ける。
「このレースで勝つ為のトレーニングはどんなメニューでしたか?」
至って平々凡々な普通の質問。少し説明が下手くそな者でも、何事も無く平然と答えられるであろうその問いは、間違いなくハルウララの耳へ届いた事だろう。
「トレーニング……? えーっと、シューちゃんとデュアルちゃんと……あと一人誰だっけ? あっ、思い出した! おっきい用務員さんだ! それで、みんなでボール転がして遊んでた!」
これまた残念な事に、その回答はうららん翻訳に五回程掛けられてしまったようで、普段の友人達でさえ解読に時間要する代物となっていた。
きっと、即翻訳出来るのは全てを知るトレーナーぐらいだろう。
「と、とりあえず……ボールでトレーニングしてたという事ですね! ありがとうございます」
中々取材班泣かせなそれをなんとか要約したその者は、その後静かに頭から湯気を立ち上らせる集団の仲間入りを果たしたのだった。
その後も、取材やファンサービスが続く中、遥か遠くの木陰で湯気ではない煙をふわふわと登らせる者がポツンと一人。きっと、その正体を知る者はここに殆ど居ないのだろう。
何せ、彼の名は基本的に問題のある記者の間で有名なのだから。
だが、たった一人だけ居たようだ。木陰の暗闇でひっそりと佇む彼が、今まさにスポットライトに照られているウマ娘のトレーナーである事を知る者が。
「行ってあげなくて良いんですか?」
カメラを持ちながらメモ帳へ色々と器用に書き込む一人の記者が、葉巻の煙が漂うその場所へ躊躇いなく足を踏み入れる。
「……どっかで会ったか?」
「あっ! すみません、申し遅れました。乙名史です!」
「乙名史……? ああ、思い出した。思考回路ぶっ飛んでるあの記者か」
「……お褒めの言葉として受け取っておきます」
乙名史記者は一度ハルウララのトレーナー、もといハイゼンベルクと会ってはいる。彼女の影は薄いどころか濃い部類に入るはずだが、彼の他者への関心の無さは相当の自己主張が無い限り例外なく発揮されるようだ。
一応、名前を言っただけで思い出してくれたのだが、同時に出てきた彼女に対しての正直すぎる発言にメモの手が止まり、思わず苦笑いが浮かぶ。
「それで、ハルウララさんの所へは行かなくて良いのですか?」
工場長が紫煙を旨そうに吐き出す様子を見ながら、乙名史記者は再度そう問いかけた。
「ヘッ、どうせ行っても邪魔なだけだ。特にカメラ持った奴らにはな。そうだろ?」
「私はそうは思いませんけど……」
帰ってきた答えは、気遣いなのか、ただ面倒なだけなのか、判断の付かない微妙なものであった。
まあ、恐らく後者であろう。
そんな、反応に困る言葉を受け止めた後、彼女は己の仕事の承諾を得る為に朗らかな笑みを浮かべながら話しかける。
「もしお時間があれば、取材させて頂いてもよろしいですか?」
「……いつもなら断ってる所だが、アイツが帰ってくるまでの暇つぶしとしてなら構わねえ」
「ありがとうございます!」
ハイゼンベルクの気怠げな視線は記者やファンの大群に囲まれたハルウララへと向けられる。質問一つ一つに対して表情豊かに言葉を返しているその様子は、彼の言葉通りそこそこの暇を与えてくれそうだ。
それ故に、彼は鬱陶しい筈の取材に珍しく肯定の意を返した。
きっとそこには、乙名史記者が礼儀正しくあまり不快な印象が無い事も多少はあるだろう。
「では、トレーナーさんはこのレースで勝つにあたって何をしたんでしょうか?」
そうして、彼女が一発目に聞いたのは彼の指導の内訳であった。そこらの一般トレーナーは勿論の事、新米トレーナーでさえ答えやすい部類の質問だ。特に回答に困る様なものではない。
しかし、面白い事に彼の返した言葉は、彼女の経験には一度も出てきていないものだった。
「何もしてねえ」
「え? それは本当ですか!?」
「ああ、あの能天気に何も言ってねえし、何も指示してねえ。アイツが勝手に強くなっただけだ」
"何もしていない"
トレーナー業を営む者であれば、耳を疑うであろうその言葉。普通の記者なら彼が本当にトレーナーなのか疑いを掛ける所だが、彼女は疑いの目などこれっぽっちも浮かべずにただただ真剣な眼差しでペンを動かしていた。
「"何もしていない"……その言葉に偽りは無いんですよね?」
「ああ、嘘じゃねえ。どうした? 呆れて帰りたくなったか?」
「そ、そんな……これは……」
「素晴らしいっ!!!」
「は?」
乙名史記者の放った熱の籠った一言は、彼の予想を大きく越えたらしい。まるで、何を言っているのか理解出来ないと言わんばかりの唖然とした視線が、それを確かに物語る。
「これはつまり、ハルウララさんが甘える事なくご自身で成長できる様に周囲環境を完璧に整えたと言う事!! トレーナーはウマ娘と二人三脚すると言う表現がメジャーとなる中、あえて真逆の突き放す指導をしているとは……いやはや、恐れ入りました!」
「お、おい。勝手にふざけた想像してんじゃ……」
何故かは知らぬが彼女の記者魂の導火線に火をつけてしまったハイゼンベルク。有無を言わさぬその圧を前にして文句を並べようとするが、虚しくもそれは言葉の機関銃によって彼の口の中へ押し戻された。
「ですが、彼女自身がトレーニングを考えて行うと言う事は、トレーナーの本分の一つを失ってしまうという事……! 己の仕事を失ってまで彼女の成長を促すその姿勢は、正しく自己犠牲! こんなにウマ娘への愛に溢れたトレーナーを見たのは本当の久々です!!」
「……どう答えりゃこのマシンガン撃たせずに済むんだ? クソッ……分からねえ」
彼がどれだけ適当に答えても、どういう訳か彼女の中で凄まじい感動ストーリーに曲解される。恐らく、曲解されない様な言い方をすれば良いのだろうが、残念な事に彼の口はそこまで上手くは回らない。
結局、全てを諦めた彼は半分ぐらいになった葉巻を味わう事に専念し、横で鳴り響く機関銃が大人しくなるのをため息の様な紫煙を吐きながら待つ事となった。
「素晴らしい回答の方ありがとうございます! それで、次の質問なんですが……」
暫くして語る事を思う存分に語った乙名史記者は、先程の暴れっぷりが嘘かの様に落ち着いた声調で次の質問を投げ掛ける。
なお、取材を受ける側は既に疲れた様子を浮かべていた。
「トレーナーさんが重要視する要素は何ですか?」
「何だそれ?」
「少し表現を変えますと、貴方にとって強い者にはどんな特徴があるか? 例えば、筋力がある、末脚が切れる、スタミナがある、そんな感じにトレーナーさん自身が考える強さの秘訣を教えて頂きたいのです!」
先程と同じく非常に答えやすい質問だが、それ故に新人とベテランの差が出る中々厄介なものである。
素直に答えるもよし、少し粋がって難しい事を語るもよし。己の考えを発信できるそんな問いに、悩まされる者も多いだろう。新人の方々など特に。
だが、見た目と反して中身がど素人の強面トレーナーは、一切悩む事なく、迷う事なく、往年の余裕を以ってその答えを返した。
「決まってる、"諦めが悪い"。ただそれだけだ」
吐いた煙を眺める様に空へ目を向ける彼が放ったのは、なんと理論では無くただの精神論だった。
精神論を語る者がいない訳では無い。ただ、それを語る際は必ず地盤の理論を語ってからだ。そんな、信憑性が定かでは無いその論のみを語る者など、これまでの記者人生で殆ど無いに等しい。
故にその表情は、この稀な考えを持つ者の真意を理解するべく、真剣であった。
「諦めない事ですか……」
「いや、"諦めが悪い"だ。諦めねえだけなら誰でも出来る」
"諦めない"では無く"諦めが悪い"。彼女の中では殆ど同じ意味合いを持つその言葉だが、彼にとってそれは似て非なるらしい。
しかし、"諦めが悪い"という言い方はなんだかウマ娘へと向けるものでは無い様な気がする。
「今まで色々あったが……強え奴らは決まって諦めが悪すぎる。アリが恐竜に勝てる筈が無えってのに、それを理解してなお挑む馬鹿がこの世には居る」
彼女は必死にメモを取る。言葉を並べていけば、彼の言いたい事が見えてくる筈だ。
「そして、元々強え奴らは"諦めの悪さ"の意味が分からねえ。何せ、そいつらの前に壁があっても、ちょいと足掻けば越えられるからな。分かる筈が無え」
「……つまり、壁に対して抗える力がある者には理解が難しいという事ですか」
彼の語るその内容は、酷く難しいものだ。しかし、何となく分かった事は強者には無く弱者にしか味わえない何かがある事だ。
まるで、己自身が体験したかの様に深みのある言葉は続く。
「元々弱い奴らしか分からねえのさ。圧倒的……いや、絶望的なもんを前にして抗う恐ろしさがな。知ってるか? 元々強え奴らがそういうモンと出会うとな、情けねえ事にビビっちまう。嘘じゃねえ、本当の話だ」
一体どういう事なのだろう。この語り口調から察するに彼がそう考えるようになった事件を目の前で見ているかのようである。
しかし、調べた限り彼は新人トレーナー。以前に他のウマ娘を担当していた訳でも無い。ましてや、彼の言う強いウマ娘を担当していた事などこれっぽっちもない筈だ。
「まあ、俺が言いてえのは"諦めの悪い"奴が一番強え。そんだけだ」
一番肝心の"諦めの悪さ"についての詳細をすっ飛ばして、彼は雑に己の言葉を締めた。
もっと色々と聞きたい所がある筈だが、乙名史記者はそこをグッと堪えた。それもそのはず、葉巻を完全に灰にした彼の視線を辿るとその先にはこちらに向かってくるピンクの影。
取材の時間はもう終わりだ。
「ああっ!? トレーナーが取材受けてる! いつもやりたくないって言ってどっか行っちゃうのに!」
「どっかの間抜けが遅いから暇つぶししてただけだ。終わったならさっさと帰るぞ」
「はーいっ!」
ハイゼンベルクは去り際に乙名史記者へと"じゃあな"と適当に手を上げる。そんな、大きく愛想の無い背中に出遅れたハルウララが慌ててついて行く。
「ねえねえトレーナー! 今日のライブ見てた? わたし、空飛んだんだよ!!」
「ヘッ、どうせたんまりと金掛けたライブの演出だ。その証拠に、今飛べねえだろ?」
「ええっ!? そうなの!? ふーんっ! ほ、ほんとだ、全然飛べないや……で、でも、今まであんなのなった事ないよ!?」
「さあな、俺の知ったこっちゃ無え」
和気藹々とやり取りを交わす両者。夕陽に照らされて影絵のように見えるその光景を、遠くから観客のように見つめる乙名史記者。黒い像があっちこっちに動き回る様に、僅かに驚きの混じった微笑みを浮かべる。
そして、小さくなり消えていく影にひっそりとカメラを向けた後、満足そうな表情と共に小さく呟いた。
「ふふっ……"何もしていない"、ですか。もしかすると、その部分だけ記事に修正が必要かもしれませんね」
カメラの中へと切り取ったその光景。赤い夕陽による逆光で表情はおろか、服の凹凸さえ分からない。きっと、普段の記事に載せるには0点の代物だろう。
だが、その写真は黒い影しか写っていないにも関わらず、トレーナーとウマ娘の仲睦まじい様子が不思議と感じられる、興味深い一枚であった。
その後、彼女の書く雑誌の記事と、今回の摩訶不思議なライブ。その二つが相まった結果、ハルウララのファン数は爆発的に増加したそうだ。
そして今回の一件により、普段良く会話する友人達やクラスメイト達からハルウララが質問攻めに遭うのだが、それはまた別の話である。
「かいちょー! 今月のこれ見た?」
「ああ、中々面白い事が書かれてたな」
「だよね! エアグルーヴも読んだ? 読んでないなら読んだ方がいいよ! 特にこの部分」
エアグルーヴに手渡される一冊の雑誌。
「これは……取材記事か。あまり珍しくも無いと思うが……っ!?」
「ふふっ! 気付いたかい? なんと、今月のそれはハルウララとそのトレーナーに関しての記事なんだ。流石と言うべきだろうか……普通の者には出せない回答ばかりでつい読み耽ってしまったよ」
微笑むシンボリルドルフ。
「確かに一般的な答えでは無いですが……それよりも、ここに書かれた事は本当の事ですか? 私には……誰かが戯れで書いたものにしか見えないのですが……」
「やっぱそう思うよね! ボクも今回のは色々盛ってると思っちゃうよ! だって、こんなの魔法みたいなものじゃん!」
エアグルーヴの意見に、トウカイテイオーは同意する。
「いや、きっと本当さ」
二人の目が彼女に向けられる。
「よく言うだろう? "発達した科学は魔法と見分けがつかない"と。きっと、それに似たようなものさ」